次のステージ

人は自分の意識次第で世界観が異なります。この世界が一体どのように観えているか、それはその人の意識次第です。しかしこの意識というものが、すべての世界を見ていますからこの世を生きていくのに大きな影響を与えてしまうのです。

この大きな影響は例えてみるとすぐにわかります。ある人は、この世界を自分にとってよくないものばかりと思ってみていればこの世界への不平不満は募るばかりです。しかし逆に、この世界は自分のとって善いことばかりと思っている人はこの世界は十分足りていて満足しています。

そしてまたある人は、この世界は最初からすべてにおいて完全であるとし宇宙のように存在そのものがあり活かされていると思っている人であればこの世は自分次第ですべて叶うものであると特別な世界を創造していくことができるのです。

つまりは、ある・ないで意識する世界の人。そもそもが存在があると意識する世界の人。この差は、同じ場所にいても世界が全く異なって観える境地にあるということです。

人間は、何をもって先達というのか。そして道の達人というのか。それはもちろん技能もありますが、その意識が完全に一般的な人たちと次元が異なっているのです。この異なりは、観えている世界観が異なるということです。

雨を見てもただの雨ではなくその人は、自然を観ます。智慧を見てもただのそれは智慧ではなく、宇宙そのものを観ます。このように意識が達した人は、居ながらにして無、無にして在、そういう境地の体得があるのです。

私も直観的に機縁や機智を獲得していくタイプですから、観えている世界の異なりはよく感じます。ある時、リンゴが木から落ちて万有引力を悟るように意識は私たち人類の世界を丸ごと変革してしまうのです。

子どもたちの意識を、身勝手な大人が刷り込んで可能性をつぶさないように、子どもの無限の可能性を引き出せるような生き方や会社にしていきたいと思います。次のステージを楽しみたいと思います。

天のメッセージ

人生の羅針盤の言葉の一つに、老子があります。孔孟の教えも己に克つことに満ちていますが、自分で自分を正しく理解し、己を制し律し克つことができて人間力は磨かれています。

しかし、どうしても己に負けて無意識にうちに現実から乖離し、真実から遠ざかってしまうと本当のことや真理がねじ曲がってしまうものです。そういう時こそ、先人の智慧に触れ反省をして素直に謙虚に学び直す必要があります。

老子は特に、人間力について精通しているように思います。

「賢者は人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置く。かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことがない。」

「優しくなりなさい。そうすれば勇敢になれる。つつましくなりなさい。そうすれば広い心を持てる。人の前を行かないようにしなさい。そうすれば人を導く者になれる。」

謙虚でいなさいと諭します。まさに謙虚は魔除けなのです。

そしてこうも言います。

「他人を知るものは賢いが、自分自身を知るものは目ざめた人である。他人に打ち勝つものは強いが、自分自身に打ち勝つものは偉大である。」

「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富む。」

自分自身に打ち克つことが本当の「力」であると。力とは、決して能力や権力ことではなくまさに自分に克つことこそが「力」の本質だといいます。

そしてこうもいいます。

「優しい言葉をかければ、信頼が生まれる。相手の身になって考えれば、結びつきが生まれる。相手の身になって与えれば、愛が芽生える。」

本物の信頼とは、優しい言葉の中にあるもので相手の身になっているからこそ結ばれると。そして思いやりをもって接すればそれが愛になると。どの時代もどのような人も、信頼はやさしさと思いやり、まごころを通してしか結ばれないということです。

無為自然を説く老子はこう言います。

「現実を現実として、あるがままに受け入れなさい。物事をそれが進みたいように、自然に前に流れさせてやりなさい。」

すべては天にお任せしていけば、なるようになると。だからこそ素直に謙虚に任せて信じて自然であれといいます。

最後に、老子の格言です。

「足るを知れば辱められず、止まるを知ればあやうからず。」

私自身、日々のご縁をすべて天のメッセージと受け止めながら自分自身を見つめ反省して生き方を老子に学び直したいと思います。

祈年祭4

昨日は、千葉県神崎にあるむかしの田んぼで無事に祈年祭を行うことができました。前回同様に、むかしの田んぼの中に祭壇を設けお祀りして宮司様に祝詞を奏上していただきました。

祝詞も仕来たりも古代からの祈りが甦生されたもので、祈年祭の意味を深く味わう善いご縁になりました。美しい空と田んぼ、澄んだ空気、そして春風に純白の和紙がたなびく様子にこれからはじまる稲との四季の暮らしを想い、荘厳で清浄な心持になりました。

お祀りが終了し、宮司様と一緒にみんなでお神酒をいただきましたがその際に「おめでとうございます」という声を合わせました。

通常ならば何もまだ収穫をしたわけでもなく、結果が出たわけでもないのになぜおめでとうございますなのかと思うかもしれません。しかしこれは古代から連綿と続いている日本人の精神文化を象徴するものなのです。

「前祝」という考え方があります。これはあることが善い結果になるように確信して祈り、結果が出る前に先に祝ってしまうという考え方のことです。よく前祝として、祝宴を開いたり、桜の花の下で宴会をして新しい年度の未来を祝うものもその一つです。

これを別の言い方では予祝とも言いますが、予めそうなると信じて先に祝ってしまうというのはどのようなことがあったとしてもそれは丸ごと「福」であると信じる気持ちがあるということです。この「福を待つ」という生き方は、どんなことがあっても希望を失わず与えられたすべてのご縁を神様からの恩恵としてみんなで受け取り味わっていこうとする素直で謙虚な生き様です。

宇宙自然の道理として、福は追いかけるものではないということ。すでに福は身近に訪れており、それを信じて待つことこそが福を知り福になるという真理をいうのでしょう。

幸福に気づかない人は、希望や夢までつまらないものに変えてしまいます。なんでも面白がるところに発酵があり、どんなことでも天与の徳であると楽しむところに希望や夢が存在しています。

私たちのご先祖様たちが、かつてどのような環境下や状況下であっても希望を見失わず福を待ち、夢を実現してきたから今の私たちが生き残っています。その中で特に大切に重んじてきたものこそ、いのり福で居続けることだったのでしょう。

子どもたちにも、そのような先人たちの智慧や遺徳、また伝承されてきた前祝の意味や価値をむかしの田んぼを通して継承していきたいと思います。

祈年祭3

いよいよ今日は、「春祭り」として祈年祭をむかしの田んぼで行います。春が到来し、あらゆる生きものたちが田んぼから甦生してお米と共にいのちの廻りがはじまります。このいのちの廻りのこの時季にあるお祀りは自分自身の初心を確かめるためにもとても善いご縁になります。

ここ数年の異常気象で、災害や干ばつ、様々なことが世界中で報道されます。当たり前にできるお米はなく、自然の猛威を感じ、自然を畏れながら自らを慎み、自然と共に歩んでいくのが私たちの先祖が生きてきた生き方でした。

現在では、お金を中心にした経済が優先されていますから民家稲作一体の暮らしではなくなりより自然が遠ざかっているから余計に感じにくくなっていますが本来は自然に対して謙虚に素直に自分たちを省みて正していくことで様々な災害に対して未然に対処し、さらには復興の活力を養ってきたとも言えます。

世界でもっとも自然災害の脅威にさらされる国土だからこそ、私たちは自然から様々なことを学び智慧を獲得してきました。その証拠に、自然豊かで水の多い田んぼが私たちの生活を潤しています。

稲は古代より稲霊と呼ばれ、私たちの親祖と共に暮らしてきた祖霊として祀られてきました。祖霊とは家族の魂のことです。つまり家族の一員として大切に祀ってきたということです。この家族は、他にも五穀があり、一緒にこの世で生きながらえるパートナーとして大切に守り続けてきたのです。

稲作をすればすぐにわかりますが、他にも稲作の仲間に蜘蛛やツバメ、田螺やトンボなどもいます。これらのことを同じいのちとしてみて家族として祀るところに、日本人の精神文化が息づいているのがわかります。

少しでも調和が崩れれば、すぐに稲が育たなくなる。そうならないように、数々の祈りを捧げながら謙虚さを保ち自分たちの生活に怠慢はないか、傲慢はないかと欲を戒めつつ慎ましく暮らしてきました。

祈りと共にはじまる暮らしは、自然の循環に逆らわず自然と共に生きていくという生き方の伝承なのです。一時的に大収穫を得て、大量生産できたとしてもそのツケは必ず数年後に訪れます。自分たちだけよくなるようなものや、自分さえよいと思うような生き方はその時はよくてものちになれば後悔がきます。

何度もそれを繰り返してきた歴史を持つからこそ、稲作に祈りを籠めて先祖たちは私たちに暮らしを伝承してきたのではないかと私は思います。だからこそタネを蒔くとき、どのような初心で種を蒔くか、それが大事なのです。

祈年祭によって自分の初心を振り返る素晴らしいご縁に感謝しています。

 

祈年祭2

祈年祭について昨日から深めていますが、「とし」は稲のことで「祭」は政を行うことでですが、祈りとは何かということです。

神道の「神祗令義解」には、「謂ふ、祈は猶ほ祷の如し、歳災作らず、時令を順度ならしめむと欲して、即ち神祗官に於て祭る、故に祈年と曰ふ、」と書かれています。ここで祈るのことを「祷」のことだと定義されています。この祷は「禱」のことで、示す辺に寿ですが、寿は「言を祝う」が由来です。祝うは福ですから、福が到来することを意味します。そして古語日本語の「いのる」は「」(斎) + 「のる」(宣る)が語源です。

ここから私が直観するのは、いのちのままでいること。いのちのままに言うことに従うこと、信じるままに生きること、安心して自分の役目を天意に従い全うすることという意味であろうと思います。

なぜ先に祈りからはじまるのかは、自分自身の中にすでに備わっているものを大切にして取り組んでいけば、その結果として顕れたものが幸福になるという智慧を示しているからではないかと私は思います。

そして祝詞も、祝福と言葉の詩からできた語です。先人たちや先祖たちが、同じように取り組んできたことで素晴らしいご縁に導かれた祝福に出会ったこと。同じように福が訪れますよという安心の声を伝承しています。

道に迷いそうなときは、その物事を福に感じられなくなるときです。なんでも福に転じる人は、自分のいのちの声に従うことを自覚し、天命に従い使命を全うすることが祝福そのものになることを体現し続けます。

私たちにとっての祈りは、宇宙自然の道理のままに暮らしていこうとした親祖からの「生き方の伝承」です。四季や四時の循環において、田の神さまが稲を見守り一緒に育てて暮らしを助けてくださっている。私たちはこの日本の風土に守られながら、稲を育てて寿命を永らえていこうとした民族。その民族の生き方が祈りの中に宿っているのです。

祈年祭はその確かな初心を風化しないように、ずっと稲と田と人々によって大切に受け継がれてきました。戦後に、それまでの日本人の精神文化や暮らしの大元が解体されて急速に意識が西洋化していきましたがそれでも親祖の初心が消えることは決してありません。永遠の祈りは、いつも私たちのいのちと一体になって受け継がれています。

引き続き祈年祭を甦生しながら、子どもたちにその意味を伝承していきたいと思います。

祈年祭1

来週の月曜日は、千葉県神崎にある「むかしの田んぼ」で祈年祭(きねんさい)というものを行います。これは秋の新嘗祭(にいなめさい)と対になっているお祀りです。別名で春祭「としごいのまつり」ともいいます。

このとしごいの「とし」とは稲のことを言いますが、五穀が無事に成熟を祈る祭りです。私たちの先祖は、稲作による農の暮らしを政にして国家を健やかに治めてきました。四季の中で春には年穀の豊穣を祈り、秋に豊作を感謝する祭りを行い人々が安心して協力し助け合い仕合せに暮らしていけるようにとみんなで祈り取り組んでいきました。

祭りごとは、政りごとでもあります。むかしの暮らしは常に祭政一致であり、人々が道理に従って物事を整えるために理念を司る人が祭祀をし謙虚に人々のあるべき姿に導き、それをみんなが協力して実現していくという形態をとって暮らしてきました。それがもっとも争いが少なく、平和が続く仕組みとして私たちの先祖は親祖の代より「稲作」というものを選択し、この稲つくりを通して人々に生き方を稲から学ぶようにと諭したのです。だからこそ稲を主食にし、稲作がすべての基本に据えて暮らしを成り立たせていたのです。

つまり私たち日本人にとっての政治の先生は「稲」であるということです。

現代では、お金が増えて物が世界中から入ってきますし養殖をはじめ様々な生産効率をあげてお米を食べる人たちも減ってきています。さらには稲作は政治ではなく、農家の収入源として生産されますから一般の人たちは稲作に触れることもありません。

稲作を通して大切にしてきたことまで失くしてしまうことは私たちがどのように暮らしてきたかを失くすことになります。また稲の先生から学んでいたことが失われれば、先人たちが永い年月をかけて伝承してきた自然の智慧や伝統の叡智も失われてしまいます。

だからこそ、本来はどうであったのかを省みて甦生していくことが温故知新でありその時代を生きる人が次世代へとつないでいく役割と使命だと思うのです。

むかしの田んぼの、「むかし」とは「はじまり」のことをいいます。はじまりを大切にすることが初心を守ることであり、それをつないでいくことです。伝承というものは、先人の智慧を尊び、今の自分がそれを伝えていくことで実現します。

子どもたちがこの先に生き方に悩んだとき、そして道に迷ったとき、正しく遺してあるものがあることで救われる未来があるように思います。だからこそカグヤがこのむかしの田んぼに取り組んでいく意義があるのです。

そして私たちの先祖にとって「祈る」ということは一体何だったのか、ここをこれから書いていきたいと思います。

 

玄人の道楽

人は実力の差があまりにもありすぎるとその人の言動を理解できないものです。頭で理解が追い付かないという言い方もしますが、喋っている内容が理解できず聞けば聞くほどに混乱していくものです。頭でいくら知ったからといっても、頭でわかったことは実行することはできません。実践者は場数の質量が日々に圧倒するほどにありますから、実力の差は開く一方です。それなのに早くわかりたいからと相手のせいにするのはまったくのお門違いであり、もしも早くわかりたいのならその分の努力と精進、それ相応の実践場を積んで自分の実感と実力を兼ね備えるために苦労をすることです。楽をして手に入ったものはすぐに失いますが、苦労をして手に入ったものは一生涯自分を助けてくれます。まさに玄人の由縁です。

世間一般的な学校教育では、過保護過干渉に先生が生徒に教えなければならない構造になっています。もしも自分が勉強ができないのなら、それは教えない先生の指導が悪いという言い方をします。常に教員は評価され、指導力の可否を判断されるところに晒されています。

しかしよく考えてみると、本来の「先生」とは知識が多い人を言うのではなくその道の先達、達人、プロのことですから実力者のことをいいます。

私は人生の中で、相手の言っている言葉が理解できないと自分で自覚するとすぐにそこに実力の差があることを実感します。最近であれば、芸事に達している先生にお会いした時、徳のある大経営者にお会いした時、その道の一流と接したとき、明らかに自分の頭は喋っている言葉もやっていることもまったく理解が追い付きません。圧倒的に実力の差を感じるのです。

いくら質問して回答をもらっても、それは頭では何を言っているのかさっぱりわかりません。だからといって何回も説明を求めてもそんなものは役に立たないどころか、相手が先に諦めて「この人は自分で近づこうと努力しない人だな」とそれ以上の説明をするのをやめてしまうだけです。だからといって頭でわからないからと理解できないことを避けていたら近づくことはまったくありません。だからこそ「ご指導ください」と謙虚に素直に弟子入りするのです。この指導という字は、分解すればすぐに理解できますが「指し示しお導きください」と書きます。つまり前提として全てをやるのは自分、先生は方向性を示し何か本人が迷ったときに自分ならばこうやると導いてくださるのです。しかしこの指導こそ、その人の生き方に触れるところです。そして日々の仕事もまた仕事道ですからリーダーを中心にみんなが実力を兼ね備えてその道のプロとして達していく必要があります。

私のメンターたちは、勝手に私がメンターとして尊敬されて迷惑もあるかもしれませんが徹底して実践をして、近づいていこうとするからいつも有難く導いてくださいます。もしも相手にあなたの説明が足りないなどと迫り責める姿勢であったり、あの人の教え方や言い方の問題などということに不満を思うのなら論外なことであり決して導かれることはありません。まさに理屈でだけ理解する学問はまさに道の外(外道)でやっている話です。

こうやって文章を書いていてこれを読んだしても、これは単なる説明であって導きではありません。導きは常に実践現場の中にあります、自分からやってみて同じようになるか近づいていくこと、その人の判断基準や生き方に触れてその体験からの智慧を自分のものにしていくこと、それが近づいていくということです。つまり「自分から取り組んでいく質量」の分だけ近づいたということです。それが導かれた分量にもなります。

そのように主体的に自発的に自分から導かれることではじめて成長し、師弟共に学び合い道を究めていく楽しさや仕合せのプロセスと結果を得ることができるのです。

道は楽しむことによって道中のご縁に導かれていきます。

子どもたちに道の楽しみが伝道できるように、日々の仕事を愉しみさらなる精進を重ねていきたいと思います。

使命と役割

世界にはそれぞれに伝統というものがあります。その伝統は1年や2年で練り上げてきやものではなく、何千年、もしくは何百年も前から代々に受け継がれて今に至るものです。

目には決して観えなくても、それを継いできた人たちによってその伝統は守られ今につながっています。その伝統の継ぎ方は、伝統技術という形で伝統精神を守っていたりもします。伝統の精神を守るということは、精神文化を持っているということでもあります。

つまりその人の生き方の中に、伝統と文化、そして精神(霊性)のようなものが宿っているという考え方です。

その精神や霊性を磨いていくうちに、自分の中にある伝統や文化が磨かれその時代の人たちに受け継がれまた次世代へと譲り渡していくように思うのです。

人間は、最初の動機や初心をいつまでもどこまでも守り続けて自らの霊性を高め磨いていくことが使命として存在しているということだと私は思います。

その精神や霊性は、自らの意識の中にあるものです。

これは誰かに教わったわけではなく、誰かに与えてもらったわけでもありません。つまり最初から備わっているものです。最初から備わっているというのは、生まれながらに持っているということです。

この自然の中に存在しているように、最初から太陽や月やその他の自然は存在しています。同様に、私たちの存在もまた最初から存在しています。そして繰り返し循環していく中で、私たちはほかのいのちたちと同様に自らの使命を全うしていきます。

そしてそれは最初からあったものです。最初からあったものをどのように磨き直すか、もって生まれたものに気づきそれをどう高めていくか。ここに伝統や文化の価値がつながっているように思うのです。

世界には多様な文化や伝統がありますが、それが混ざり合って新しいものが生み出されています。お互いにもって生まれた精神や霊性を高めるために、それを学び合い、磨き合い、高め合う中で人類は本来生まれながらにあった使命に気づきそれを全うすることで自然の役割を果たしていきます。

自然は外側にあるものではなく、自らの内側に存在し、そしてそれは最初から存在しているものという意識になることでその役割にも出会えるように思います。

子どもたちがそれぞれに使命をもって生まれているように、自分にもまた使命があり役割があります。使命と役割と全うできるように、天命に従いすべておまかせしながら歩みを進めていきたいと思います。

ゆがみを正す

心理学の一つに「認知のゆがみ」というものがあります。これはアメリカの精神科医アーロン・ベック氏によって構築された概念です。

同じ物事があったとしても、それを客観的に分析し楽観的に処理していける人と、なんでも悲観的になり主観的になって大げさにしていく人がいます。これは認知していることが歪んでいるのであり、本来の正しい状態、現実あるがままを受け止められず感情に呑まれている状態に陥ってしまっていることをいいます。

特にうつ傾向が強くなると、これらの認知のゆがみは顕著に現れてきます。アーロン・ベック氏はこのような特徴があるといいます。

①二分割思考、両極端な思考=うまくいったか全然ダメかどちらかしか認めない
②過度の一般化=少しでも不幸なことがあると、すべて不幸だと感じる
③破局形成=いつも最悪の事態を考えていて、自分に起きやすいと感じる
④マイナス化思考=良いことがあってもまぐれにすぎない、という否定的思考
⑤否定的予測=ささいなことからいつも否定的な予測が浮かぶ
⑥自己関連づけ=自分はいつも誰かから注目されている(特に悪い行い)
⑦過度の責任性=周囲の悪いことは、全部自分に責任がある
⑧すべき思考=理由もなく、人は絶対に〇〇すべきだと確信している
⑨選択的抽出=あることにだけ強くとらわれる
⑩低い自己評価=自分は何をやってもまともにできない、ほかの人より劣っている
⑪拡大視・縮小視=あることを極端に大きく考えたり、逆にささいなことだと感じたりする

以上のような状況になっていると自己分析できれば、自分に認知のゆがみが発生していることがわかります。

簡単に言えばこれは「思い込み」のことですが、話を聴きたくないとき、人の助言も耳に入らないときはこの思い込みが強くなっているということです。思い込みが強くなる原因は、様々にありますが本来の自分自身を見失っている状態になっているということです。

本来の自分自身とは何かといえば、自分が本来どうしたかったのかという動機のままで過ごせていたり、すべての起きていることは必然であって自分に必要なことしか起きていないという自覚があるということです。

自己否定から入り現実を受け入れられないとき、自分にとって都合が悪いことを認識したくないとき、固定概念や執着、また間違った常識などが自らの脳の認知をゆがめてしまうということです。子どもの自己肯定が大切だというのは、自分のことを自分で信じられなくならないようにするためでもあります。

この認知のゆがみを修正するには、様々な方法論があるといいます。その一つは、感情で裁かないということです。感情で裁かずに客観的な事実を分析するということです。感情が共通言語になってしまうと、感情のぶつけ合いや裁き合いでコミュニケーションを取ろうとします。わかってもらいたい、なぜわかってもらえないんだという感情のぶつけ合いが起きれば起きるほど、より固定概念や思い込みが邪魔をしはじめ素直に相手の話を聴ける状態ではなくなります。

人の話を素直に聴くには、自分自身が相手の言うことも一理あるとし、客観的に事実や全体を理解していくことで現実がどうなっているのかということから自分の認知のゆがみに早めに気づき修正していくことができるからです。聴く練習というものは、自分自身のことを客観的に見つめるための大切な訓練になります。

客観的にというのは、起きた事象そのものに目を向けて冷静に対応していくということです。

人間、生きていれば感情が揺さぶられるようなことがあるのは当然です。それが人生の醍醐味でもあるからです。しかし勝手な妄想ばかりを走らせていて、本来の自分を見失っているではそれは自分の人生を味わっているわけではありません。内省を素直にできるかどうかは、日々の心の鍛錬でもあります。

引き続き、聴福人の道をきわめつつ、この時代の自立に向けて新たな対話の仕組みを創造していきたいと思います。

 

 

 

大切なことを忘れないDAY 8年目

東日本大震災から今日で8年目を迎えました。あの時の東京で被災した私もあの揺れの大きさや自然の畏怖は忘れることはできません。あの時を思い返すと、まるで昨日のようにその怖さが思い出されます。

新宿の高層ビルの中、周りの高いビルが左右に揺れて今にも折れそうな具合です。これが折れたら間違いなく死ぬだろうとほぼ諦めの状態でテーブルの下に隠れていました。

その後は、電車などすべてが止まっており帰宅するとキッチン周りがぐちゃぐちゃになっていました。この揺れの恐怖でも大変なのに、その後に津波が来たと思うと想像を絶するものです。そしてあの原発のメルトダウンが発生し、空から放射能が降ってくるという人災がやってきました。あの人災が立ち直れないほどの災害で、自然は回復しても人災はなかなか回復することができません。

私たちはすぐにサテライトオフィスを福岡に設け、そこに社員と家族を連れて移動しましたが移動できない人もいました。遠方からできることとしたら物資の調達やお手紙などで励ましくらいでした。

あの体験がなければ、私たちは今のようにむかしの田んぼでお米を作ったりすることもなく、自然農法や発酵技術を学ぶこともなく、むかしの暮らしとして古民家の甦生や、伝統の継承なども学ぶこともなかったと思うと私たちは今でもあのことを忘れてはないと感じるのです。

毎年この日は、会社で「大切なことを忘れないDAY」として、日本人の生き方や道徳、そして何を優先するべきか、日本人とは何かということを学び合います。これは子どもたちが将来、同じような体験をするとき先人をはじめ私たちがどのようにそれを受け止めて乗り越えてきたか、そしてその禍いを転じてどう福にしてきたかというモデルを示すための実践の一つです。

いつの日も、いつの時代も、最期まで遺り、子孫の徳になっていくのは先人たちの譲り遺した想いと生き方、生き様です。

子どもの志事とは何か、私たちの本業は何か、忘れない日にしたいと思います。