田圃の暮らし

昨日は、千葉県神崎町にある「むかしの田んぼ」で草取りを行いました。今年は日照時間が少なく、成長が例年よりも芳しくないのですが田んぼに入るとそれでもすくすくと元氣に生きている田んぼや稲から多くの力を貰って気がします。

この田んぼの「んぼ」は、「田圃」はもともとは当て字であるといわれます。田面(たのも)や(たおも)が音が変化したともいわれています。例えば、田圃道と書けば(たんぼみち)となります。

田畑という言い方もしますが、これはむかしに田んぼと畑の両方で暮らしを営んでいたことが関係しています。田を畦で囲った田圃に対して、その田(た)の端(は)で作物(け)をつくるという意味で「畑」となったという説もあるようです。私は、てきりアメンボは、雨の坊であり田んぼは田の坊というように生き物に見立てていたのではないかと思っていました。

日本には、むかしから妖怪といった人間でも神様でもない不思議な存在が様々なものに宿っていたと信じられてきました。道具が妖怪になっていたり、天気が妖怪になっていたり、様々なものの不思議を身近に感じて暮らしてきたとも言います。

田圃と共に生きている様々な存在もまた、私たちの暮らしの一部です。

そして昨日の草取りでは、ヒエ、ホタルイ、オモダカ、クサネムなど稲の生育の阻害するものをできる限り手作業で取り除いていきました。今では、除草剤という便利なものを使って田んぼに人が入ることがありませんがそれは稲にも必ず悪い影響を与え、田圃の生態系も崩れていきます。

私たちのむかしの田んぼは、収量を優先せず生きものたちの豊かな場づくりを優先してお米作りをしています。そしてその場で暮らす私たちもその一部として一緒に田んぼの中で生きていきます。

こうやって田んぼと共に暮らすことはとても豊かなことで、それは金銭では得られない喜びや仕合せがあるのです。これを徳という言い方をします。二宮尊徳がかつて「報徳」という言い方をしていましたがこれはこのむかしからの恩恵の中心であった田んぼから学んだものかもしれません。

現代に必要な大切な教えは、すべてこの田んぼが持っています。

田圃の暮らしを通して、子どもたちに大切な真心を伝承していきたいと思います。

直観オタク~無を信じる~

学とは何か、それは今の時代では勉強することだと一般的に思われています。しかし実際には勉強のために勉強などはなく、本来は自己を磨くために学はあります。そして学は己に問うことですから、学問とは自己を研鑽することが本来の道理であろうと思います。

そして学を磨いていくと直観というものに出会います。私はむかしから直観タイプですから、余計に自己内省と直観オタクのように日々を生きています。この直観とは、単なる当てずっぽをしているのではなく、自己との対話によって意味を深め続けているということでもあります。

西田幾多郎氏は、直観についてこのように記されているところがあります。

「私は昔、プロチノスが自然が物を創造することは直観することであり、万物は一者の直観を求めると云つた。直観の意義を、最能く明にし得るものは、我々の自覚であると思ふ。自覚に於ては、我が我を対象として知るのであり、知ることは働くことであり、創造することである、而して此の知るといふことの外に我の存在はない。」

知行合一するとき、そのすべての行為は直観となるように私は思います。本物の直観とは、知識と実践が分かれないのです。同時に考え行動し反省しまた実践する。つまり実践の中に智慧があり、智慧の中に反省があり、まるで自然一体のように本能と理性が融和し統合している状態になっているように思います。

「併し作用が作用の立場に於て反省せられた時、時は更に高次的な立場に於て包容せられて意志発展の過程となる。而して乍用の乍用自身が自覚し、創造的となる時、意志は意志自身の実在性を失つて一つの直観となる。而してかゝる直観を無限に統一するものが一者である、一者は直観の直観でなければならぬ。」

そして直観は意志そのものとなり、自己実現をします。自己実現とは直観そのものの姿のときであり、そこは「分かれていない」という状態になるのです。

「史的唯物論者は対象、現実、感性という如きものが、従来客観または直観の形式のもとに捉えられて、感性的・人間的活動、実践として捉えられなかった、主体的に捉えられなかったという。対象とか現実とかいうものを、実践的に、主体的に捉えるということは、行為的直観的に物を見ることでなければならない・・・どこまでも理論は実践の地盤から生まれるこということでなければならない」

まさに直観とは、実践が先であり真理をあとに知ることで意味を深め意志を確立していくのです。つまり直観は意志の姿であり、意志は直観になります。この状態は無我ともいい、無限ともいい、融通無碍ともいい、無為自然であるとも言えます。

偉大な存在と一体になって行動している状態、まさに自然の一部として自分の天命を全うする状態、まさにここに直観の醍醐味があるのです。私に言わせるとつまり直観とは無の姿なのです。

私は直観を何よりも信じるものですが、そのためには自己を徹底して研鑽し続けなければなりません。信念や理念、意志に従って自己を律し、高め、実践を積み重ねていく必要があります。

しかしこれが活きることの本質であり、いのちや魂を全うするということの仕合せと直結しているのです。直観で生きるためには、妄念や雑念を取り払い、如何に今に集中し今をやり切るかという命懸けの豊かさと共にあります。

引き続き、直観を磨いていきたいと思います。

新しい場

むかしから私たちの先祖たちは、暮らしの中で仕事をしていました。今では仕事の中に暮らしを入れようとしていますが実際には暮らしがあって仕事があるので仕事しかしていない現状が多いようです。暮らすように働くという言葉が出回っていますが、本来は働くこともまた暮らしの一部であったのです。

そもそも職住一体というのは、暮らしを通して働いていることをいいます。日々の人生の暮らしを豊かにするために職業もありました。それぞれに天職をみんなが持ち合い、それぞれの持ち場、持ち味を活かし合って社會を形成してきました。

社會というものは、「和」することで豊かになります。その和は、暮らしを実践していくなかで顕現してきたものです。社會が豊かになっていくというのは、みんなが暮らしを豊かに楽しみ人生を充実させていくことと同じなのです。

例えば、むかしから大事に譲られたものの中で暮らしを味わっていくこと。他にも、懐かしい思い出と一緒に暮らしを彩ること。些細な日常生活の変化に目を向けて自然と調和しながら成長を味わうこと。

暮らしは、特別なことではなく本来の当たり前に回帰することで得られます。職住一体もまた、家というものの存在を改めて見直し、その家を手入れしながら共に暮らすことで得られます。

私が目指している、民家甦生は暮らしの甦生のことでもあります。

暮らしが甦生していくと、懐かしく調和したなかで働くことができていきます。安心する環境があるというだけで人は天職や天命に出会えるようにも思います。

引き続き、子どもたちのためにも新しい「場」を創造してみたいと思います。

論語と算盤

日本資本主義の父と呼ばれる人物に渋沢栄一がいます。その思想を「論語と算盤」をもって表現していたといいますが、まさに日本本来の経済の在り方を伝えているものです。

その渋沢栄一にとっての「富」は、こう定義されています。

「富を成す根源は、仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することはできない。」

私の解釈では、富の根源は徳を積むことであると。その徳の富でなければ永続はしないのであるということです。これを表現するのに他の言葉も遺っています。

「富貴に驕ってはならない。貧賤を憂えてはならない。ただ知識を磨き、徳を高めて、真の幸福を求めようとすること。」

「一個人のみ大富豪になっても社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならばどんなものであろうか。いかにその人が富みを積んでもその幸福は継続されないではないか。故に国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである。」

「自分が手にする富が増えれば増えるほど、社会の助力を受けているのだから、その恩恵に報いるため、できるかぎり社会のために助力しなければならない。」

「人生の行路は様々で、時に善人が悪人に負けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。」

「常に愛国忠君の気持ちを厚く持ち、公に奉ずることを忘れてはならない。」

このように、富というものの存在を理解し、富が増えていくことは国の福であるともし道楽をするかのように富と徳の社會になるように日本的な資本主義を構築しようとされてきました。

今の時代、渋沢栄一が言うような富とは逆の富が増えてきているようにも感じます。経済の原点や根源に回帰する時期もまたまもなく訪れるであろうと私は感じます。

最後に、自戒を籠めてこの言葉で締めくくります。

「有望な仕事があるが資本がなくて困るという人がいる。だが、これは愚痴でしかない。その仕事が真に有望で、かつその人が真に信用ある人なら資金ができぬはずがない。」

今度、その渋沢栄一の血筋の方が聴福庵に来庵する予定になっています。ご縁を楽しみに、今は私のやるべきことに専念していきたいと思います。

手入れの生き方

全ての道具には「手入れ」という方法があります。その道具に合わせて、様々な手入れ方法がありその通りに手入れをしなければかえって傷んでしまうことがあります。しかし現代は、大量生産大量消費の時代の流れの中ですぐに新しいものが出ては古いものは捨てますから手入れすることがなくなってきました。

そのうち手入れする手間をかけるよりも新しく買った方が早いし安いという風潮が広がり、今ではほとんど手入れ道具も手入れ方法も知らない人たちばかりになってきました。

どんな道具も、物も手入れしなければ長持ちすることはありません。それは道具は使えば使うほどにすり減っていき、摩耗摩滅していくからです。末永く大切に使うものは、摩滅する瞬間までそのいのちを使い切ります。

以前、民藝品を見学したことがありましたがその民藝の道具たちはみんな手入れによって美しく輝ていました。私が今、古民家で活用している和包丁も明治のものや江戸のものがあります。

今でも研いで手入れすれば、大変な切れ味で料理をおいしくしてくれます。他にも、革製品、紙製品、木製品、土製品、すべての自然物を加工したものは手入れさえしてあげていればいつまでも美しく輝き続けるのです。

この道具や物たちの摩滅するまでの期間に私たちが取り組むべき実践は「磨く」ということです。磨くからこそ摩滅しますが、磨くからこそ美しく光ります。この光らせていくという実践は、それぞれが丁寧に心を籠めて努力していくことです。

これは自分自身にしてもそう、所属する会社や仕事でもそう、そしてまちづくりや国造り、地球への貢献や自然との共生においてもそうです。

どれだけ真摯に自ら磨こうとしたか、その努力を惜しまなかったかが全体を調和させ、平和を永続させていくのです。そしてこれは「生き方」であるとも言えます。

現代の問題は、この手入れする生き方が失われてきたことです。

もう一度、子どもたちに大切な生き方が伝承されすべてのいのちが大切に扱われそれが未来の平和を持続させていけるように手入れの生き方を伝承していく必要があると私は思います。

引き続き、実践を楽しんで続けていきたいと思います。

強いチーム、真の優者

昨日、致知出版のメールマガジンの記事で日本代表で主将、監督を務めた平尾誠治さんの文章を読んで強いチームの本質を改めて実感する機会になりました。

そこにはこう書かれています。

「強いチームというのは、指示された通りに動くだけではなく、 イマジネーションというのを膨らませて、 それぞれの状況に応じて何をすればいいかを考え出すチームです。 これからは特にそういうことが求められてくると思いますね。 ルールづくりも大事ですが、 本当は一人ひとりのモラールが少し上がればチームは ものすごくよくなるんです。 決め事をたくさんつくるチームは、 本当はあまりレベルの高いチームではないですね。 僕はチームワークを高めるために、 よく逆説的に「自分のためにやれ」と言うんです。 結局それが1番チームのためになりますから。 みんなに、「公私混同は大いにしなさい」とも言うんです。 これは、一般的な意味での公私混同ではなく、 公のことを自分のことのように真剣に考えるという意味です。 個人がチームのことを自分のことのように考えていなければ、 チームはよくならない。これからのチーム論としては そういうことが大事になってくると思うんです。 ラグビーでも、いいチームは一軍の選手から 控えの人間まで非常に意識が高いですよ。 試合に出ていない人間までが 「俺はチームに何ができるか」ということを いつも一所懸命考えている。 その原点は何かとというと、やはり自発性にあるんですね。 これをいかに高めるかということが重要です。 これは自分の中から持ち上がってくる力ですから、 命令形では高められない。 これをうまく引き出すことが、 これからチームの指導者には必要になってきます。 また、そういう組織がどんどん出てこない限り、 新しい社会は生まれないと僕は思いますね。」

強いチームの定義とは何か、それは主体性や自発性とそして道徳心(モラル)があるということです。信頼し合ったチームというのは、それぞれに自分を律し、チーム全体のために自分を盡そうとします。

それぞれが大義や理念のために、出し惜しみせずに自分の力を発揮していく。そしてその熱意や情熱や行動力が周囲の勇気になり、その勇気がみんなの力になっていく。まさに一つの立派な人格を持った組織ができているということです。

本来、会社は法人といいます。人格を持った一つの塊です。その塊の人々が、如何に自らで共創し協働するか、そこには確かに個々人のモラルを磨く必要があるのです。

そのためにリーダーは、目的を明確にし、何のために行うのかという理念や理由を明確に示す必要があります。その目的に思いやりがあるか、感謝があるか、優しさがあるか、その目的さえはっきりしているのならば、比較や競争、そして目先の損得や評価などが気にならなくなっていきます。それがモラル醸成の本質なのです。

そしてリーダーはみんなが気持ちよく自分の天職に全うできるように、明確なビジョンを示し、みんなを導いていく必要があります。そのためには、日々にリーダー自身が「何のために」ということを自問自答し、その目的のためにモラルを磨いて自分を活かしていくことが肝要だと私は思います。

目的に生きる人はいのちに活気があります。

それは自分自身のいのちを丸ごと使う必要があるからです。それが自発性であり、それが主体性であり、自分の人生を自分で生ききり、自分の足で人生を切り拓いていく実感を味わっているからです。そしてそういういのちの強さを持つ人こそ、自らの中に道徳心を兼ね備えた真の優者になっていくように思います。

今の時代は、すぐに他人の人生をなぞる方が無難な生き方だという人が増えているといいます。敷かれたレールの上を歩くことは、無責任な人生を呼び込み、次第に自分を大切にできなくなるかもしれません。

子どもたちが自分らしく自分の人生を豊かに味わってみんなと一緒に仕合せに生きられる日々を今の私たちの実践を通して未来を切り拓いていきたいと思います。

遺志を継ぐ

日本は戦後に急激な発展を遂げた国だといわれます。これは戦後の生き残った人たちが、志半ばで斃れた戦友たちのためにと奮い立って努力してきた結果だとも言えます。

志半ばのことを遺志とも言います。この遺志とは、故人が、果たすことができないで残した志のことです。

人間はある意味で、志を最期まで見届けて死ぬ人の方が少ないように思います。一代では叶えることができないからこそ、継ぐ人が出ることでその志はつながっていきます。

そう考えてみると、この「継ぐ人」というものがどれだけ大切であるのかがわかります。誰でもいい、誰かが継いでくれればいいという安心感。そしてその遺志は、誰かが必ず継いでくれるという安心感。

私たちが子どもたちの未来を見守り、子どもたちに託していくように志も同様に託していくのです。

そして戦友や仲間というものは、身近でもっとも遺志を継いでくれる存在であるようにも思います。自分がやり遂げたかったもの、自分が実現したかったものを受け継ぐ人の志の養分にして叶えてくれるのです。

人は決して一人ではありません。

その連綿とつながっていく喜びこそ、共に生きる豊かさなのかもしれません。

子どもたちのために、人類の未来のために協力していきたいと思います。

見立て文化

日本には「見立て」の文化があります。あるものを活かして、新しい価値を見出しそのものの出番を設けるのです。この「見立て」とは、「ある物を、他のものになぞらえて表現する技法」と定義されています。

古来から日本の伝統文化の中にはこの「見立て」を活かしたものがたくさん見られます。例えば、日常の暮らしの中で様々なものを見立てて遊びます。花瓶であったり、茶碗であったり、それは室礼の中にも観られます。

私はこの見立てこそ、時代の変遷の中でもっとも必要な力であろうと思っています。なぜなら、ある時まで価値があったものがあるときから途端に価値がなくなってしまうことがあるからです。

時代は、価値観と共に進化していきますからかつての価値は新しいものの発見によって淘汰されていくものです。これは自然の仕組みですからどうしようもありません。

それまでつけてきた力があるときに不必要になってしまう。残酷のように聞こえますがこれは誰にでも起きることです。しかしそれを転じて発想すれば、違う見立てが必要になったとも言えます。

今までの力をもっとこう使ってみたらいいのではないかと、時代に合わせてその力を別物に活かすのです。これが変化であり、新しい価値に見立てるのです。

自分の持ち味を自分でわかることはなかなかできません。しかし持ち味を見出す人がいることでその人の新しい価値を発見できます。まさかこんな使い方がと思うかもしれませんが、それがその時代に適合するときそのものは新しい価値に目覚め甦るのです。

普遍的な価値を持って居ればもっているほどに、その本物の価値は時代の篩にかけられても新しい価値を持たせ続けていくのです。歴史がそれが証明し、それを見出す人、見立てる人によって甦り続けるのです。

まさにこの「見立て」の教育がしっかりと日本人に根付いていけば、日本も必ず甦生していきます。そういう学問をこの時代に確立することこそが、物が増えて消費だけを優先する社會に大きな影響をあたえると思います。

子どもたちが安心して未来を創造していけるように見立て文化をひろげていきたいと思います。

現場監督

最近、建築の現場に関わることになり現場監督の大切さに気付く機会がありました。この現場監督とは辞書によれば、「建築や土木工事などの現場で、作業を指揮・監督すること。」をいいます。具体的には、工程管理や安全管理、品質管理になりますがそれ以外にも仕入れ管理、見積もり管理、クレーム対応、障害発生時の判断、そしてオーナーさんから設計士、業者の皆様とのコミュニケーションなど多種多様です。

この現場監督というのは、全体を把握して調整していく力が必要です。まさに、この現場がわかるということはすべての工程を掌握しているということです。

そもそも監督というのは、語源は保護者のことを言うといいます。つまり全体を見守っている人物であるということです。ただ指揮を出すのではなく、如何に細部まで見守っているかが問われます。

働く人たちは建築現場ではたくさんの人たちが訪れます。その一人一人によく目を配り、心を寄せながら、目的がブレないように、そして危険はないか、体調はどうかなども確認します。

それぞれ職員さんたちはプロですから、危険なことはしないようにし、体調管理もしっかりしていますが、それでも集中しすぎて入り込むことがあったりします。その際に安全を確認したり、無理をしないようにフォローしたり、現場では監督の役割が大きな影響を与えているのです。むかしはこれを大工棟梁が行いました。最後の宮大工で有名な西岡常一さんはこうも言います。

「棟梁というものは何かいいましたら、「棟梁は木の癖を見抜いて、それを適材適所に使う」ことやね。建築は大勢の人間が寄らんとできんわな。そのためにも「木を組むには人の心を組め」というのが、まず棟梁の役割ですな。職人が50人おったら50人が私と同じ気持ちになってもらわんと建物はできません。」

これは会社の経営でもスポーツの監督でも同じです。

それぞれが主体的に働いていく上で、大切なのは全体を見守ることです。その全体を見守るためには、よく現場を観ている必要があります。そのうえで、適切な対応をしていく必要があります。

まさにこれは私たちが本業で取り組んでいる保育と同じです。それぞれのはたらきを観つつ、本人たちが安心して仕合せに自分の働きが全体の役に立てるように、社會を見守っていきます。

どの仕事も、現場には人々の働く全体の意思が顕れます。

その現場を監督できることは仕合せなことです。そして現場が楽しくなるように取り組んでいくこともまた現場監督の喜びです。現場監督を学ぶことは、その現場の場数を経ることです。そして現場監督こそ保育の質です。

引き続き、分けずに子ども第一義を学び直しを味わいたいと思います。

本物の経済とは

私たちは、商売を通して生計を立てていますから経済に関係しているとも言えます。しかし現在の経済は、本来の経世済民の意味から遠ざかり世の中が偏ってきているようにも思います。

この経世済民は、本来は二つの熟語から構成されていて「世の中をうまく治めることを意味する”経世”」と、「人々を救うことを意味する”済民”」から成り立っています。ここから経世済民は「世を治め、人々を苦しみから救うこと」になっていたのです。

本来の経済の本質が時代の変遷と共に変わってきています。特に明治を過ぎたくらいから、経済の意味は変わってきました。19世紀前半の思想家である正司考祺の「経済問答秘録」に「今 世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」と記されています。このころより「経済」=「貨殖興利」となったと言っているのです。

つまりは世を治め、民を苦しみから救うではなく単に利益だけを増やし続ける活動が経済になったということです。現代の経済学も、徳の話や治世の話ではなく単なる経済現象だけを学ぶものになってしまっているように思います。

経済学者、18世紀後半のイギリスの経済学者であるアルフレッド・マーシャルは、「経済学を学ぶにはクール・ヘッド(冷静な頭脳)とウォーム・ハート(温かい心)が必要だ」と言っています。弱者に対する温かい心がなければ、経済学をいくら学んでも意味がないとも。そして同じイギリスの経済学者ケインズの『人物評伝』にはこう記されます。

「クールヘッド(冷静な頭脳)とウォームハート(温かい心情)を兼ね備え、社会的苦悩に取り組むために最善の能力を進んでささげようと志して自らの力の及ぶかぎり努力しないことにはいられない人々の数をいっそう多くすることこそが私の念願なのです」と。

経済の本質を知る人は、その意味を理解しています。現在、ブロックチェーンをはじめ様々な新しい技術が新しい経済を築こうとします。しかしその根本にある思いやりや真心、先ほどの経世済民の祈りや願いのないところに本物の経済はありません。

本物の経済を願い育ててきた日本の先人たち、先輩たちの生き方に倣い、子どもたちのために今できること、自分の生き方で示していきたいと思います。