暮らしフルネス

人は日々に色々なことを感じて生きています。しかしその生きることの深さや浅さはそれぞれの感じ方によって異なるものです。

ある人は、どんなに色々なことがある日々を過ごしていても微細な自然の変化に気づきとても心豊かに様々なことを感じ取っている人もいればまったく自然から離れて味わうことをしない人もいます。

同じ人間であっても、感じ方一つでまったくその味わうことの深さや浅さが異なるのです。

人は心がありますから、心は鋭敏かつ微細にほんの小さなことでも味わおうとしますそういう人は心の豊かな人であり、人生の意味を深めている人です。

現代は、頭で考えているばかりで味わうことを減らし過ぎたように思います。生きていくよりも不安を解消することや欲を満たすことばかりに知性を働かせすぎて、本来のいのちのハタラキやいのちの存在のことを忘れてしまっているようにも思います。

この今というものは、一期一会でありまさに此処が自分の生きている場所です。その場を味わい感じるというのは、人生の醍醐味を知るということです。

人生は一度きりだからこそ、心を充たすように生き、心豊かに生き、仕合せをみんなで分け合っていくことで心を高め心を磨いていけるようにも思います。

苦労もまた、心が豊かになる一つのご縁ですし、仕合せもまた心を豊かにする一つの暮らしです。

暮らしフルネスとは、一期一会の人生を深く味わうということです。

引き続き、新しい時代に人間にとっての真の豊かさとは何かを伝承し子どもたちの未来につないでいきたいと思います。

自由の意味

人間には何をもって自由でいるかの定義がそれぞれにあるように思います。例えば、金銭的な自由というのを自由であると思っていたり、職業的な自由を自由と思っていたり、権力や武力を持っていることを自由と思っていたり、世の中には自由の価値観はそれぞれで異なっているのです。

しかしその自由はよく洞察してみると、誰かが刷り込んだ自由であって本来の自由ではないことはすぐに自明します。特に人間社会においては、昔から奴隷制度や支配の歴史は連綿と繰り返されてきた事実であり、本当の意味で自由であったという時代は少ないのではないかとも思うのです。

もしも人間の思い通りになることが自由であると思い込んでいるのなら、その前提条件が外れない限りこの世の中の本質や真実を理解することはないように私は思います。それぞれがもし好き勝手に自分の思い通りにしようとしたらこの世界は紛争が絶えず、利害関係によって人間はさらに不自由を増やしていきます。

この自由というものの考え方をどれだけ本気で学ぶか、そこに人間が人間としての大切な素養と学びの本質があるように思うのです。

ではどのようにしてこの世界に蔓延する思い込みや刷り込みから自由になるか。

それはまず本当の自分という存在に気づくことからのように思います。そしてそれは深い自己との内省によって気づくものです。つまり自分とは何か、自分は本当はどのような存在であるのかに自己と対話をして気づくということです。

自己との対話ができるとき、人ははじめて自由の意味を知るように思います。

世の中の常識から解放され、様々な人間社会の刷り込みを取り払いあるがままでありのままでいのちを働かせていくことができることのなかにこそ自由自在の境地があります。

この世に存在させていただいた以上、子どもたちの自由のために日々の暮らしの中で自己の魂や心に従っていのちを磨いていきたいと思います。

思いやりの生き方

人は心に余裕やゆとりがあると相手のことや周囲の人たちのことを慮ることができます。相手の気持ちに寄り添うことができる人は、それだけ視野が広く自他のつながりや人間関係の意味や深さを味わうことができている人です。

個人主義が強くなり、自分のことばかりを気にするようになると相手を慮るよりも自分の身のことばかりを心配するようになります。言い換えれば、自分のことばかりを慮り他の人への思いやりができなくなってしまうのです。

相手がどのように感じているだろうかや、周囲は喜んでくださっているだろうか、そして世の中は善くなっていくだろうかと常に思いやりを向けて生きている人は気遣いや気配りなどを欠かしません。

また一緒に生きていることを忘れずに、いつもつながりを大切にして生きています。それはつながっているのかを疑心暗鬼に確認するような不安な心理状態ではなく、常に一緒につながって生きているという実感を持っている安心な心理状態です。

人は思いやりを持てるとき、人間としての器を大きくしていくことができます。先ほどの慮ることを配慮とも言いますが、よく相手のことを思いやり、その人がどのような状況に置かれどのような心理で、きっと大変なことがあっているのだろうと心配していけば人間はそこに繋がりを感じることができるのです。

それを別の言い方で共感というのです。

共感が大切なのは、人間として一緒に生きていることを実感するためです。一緒に生きていると実感できれば、人間はお互いに助け合い見守り合うための力を得ることができます。

同じ場所に立っていても孤立無援で必死で頑張る意識の人もいれば、お気楽極楽にみんなに支えていただいて安心して仲間に頼る意識の人もいます。

それはその人の生き方に由るのです。

思いやりの生き方を選ぶ人は、よく人の話に耳を傾け共感して仲間に恵まれていきます。素直さというのは、どれだけ相手を思いやるか、そして正直に生きるか、また支援に対して感謝をし、恩返しをするために徳を磨き、天と人がまるで一体になったかように生きています。

子どもたちに安心した未来を譲り渡せるように思いやりの生き方を積み重ねていきたいと思います。

 

 

場の振り返り

人間は共感することでつながっていく生き物です。チームワークの在り方などいろいろな形ができてきますが、根本にはお互いに共感しあうことで絆を深めていくように思います。

人間にはそれぞれに「思い」があります。その思いがどんなものであるか、その思いに対して自分はどう思うか、それをお互いに傾聴し、共感し合い、そしてゆるしあうことで人は繋がりや結びつきを深めていくからです。

その共感は単に理念的なもの、思想的なものへの共感をすればいいというわけではありません。その人がどう感じたか、何を気づいたか、それをお互いに耳を傾けることで相手の気持ちを汲んでいくという思いの連鎖をつなげていく必要があります。

この連鎖とは、相手を慮る事、相手を思いやる事、相手を尊敬することでつながります。つまり、お互いに尊重し合う関係でない限り本当の意味で共感することはないのです。

カタチばかりの共感をしても、尊重し合っていないのだからそれはどちらかが一方的に共感風のようなことをしただけです。本来の共感は常に互いに平等であり尊重ですから「思いやりを通じ合わせた」時にこそ「共感」になっているのです。

では思いやりを通じ合わせるためにどうすればいいか、それはお互いの事を深く理解し合い、お互いが相手のことを深く思いやるという関係を築いていくことが最善であることは自明の理です。

そのために「場」を用意し、その場の醸成によってお互いのことを深く分かり合う時間を持つ必要があります。この時の場とは、人生の大切な時間を共有することであり共に生きている仲間のことを深く分かり合い信じあうという体験の場を創造するということでもあります。

チームというのは一朝一夕にはできません。なぜなら「一緒」になるためにも体験の場数を増やし、そのプロセスを積み重ねていく必要があるからです。どのような「場」をみんなで練り上げていったか、それはその時々の場の振り返りによって顕現してきます。

私が一円対話を実践する理由は、その場の振り返りを見極めチームの状態を理解し、善きチームに導くための場を醸成していくためです。子どもたちが、自分たちで善きチームを築き仲間の力を借りて共生と貢献の素晴らしさに気づき充実した人生が過ごせるように場をさらに高めていきたいと思います。

徳の境地

古民家甦生をしていると思い通りにいかないことばかりがあります。思い通りにいかないことをちょうどいいと転じられるには、ゆるす力が必要になります。このゆるす力は、心を磨くことで高まっていきますがそれには思い通りにいかないことの意味を内省し深める必要があるように思います。

人間は自分が正しいと思い込むと、思い通りになることが最良のように思いこんでいくものです。そして思い通りにならないことは悪いことのように決めつけてしまうことです。

しかしそれは単に余裕がなかったり、ゆとりがなかったり、または視野がせまかったり、長期的に考えていなかったり、初心や本質から離れてしまっていたりすることがほとんどです。

逆を言えば、思い通りにならない時こそそういうことにハッと気づくチャンスであるともいえるのです。

人間はそれぞれに執着があります。ある人はスケジュール通りにいかないと怒ったり、言うとおりにやらないと怒ったり、失敗して怒ったり、感情はある意味思い通りにならないことで波立っているとも言えます。

しかし人間はその起きた出来事に対してどのように捉えるかは人それぞれのゆるす力によっても異なってきます。このゆるす力とは別の言い方では、人徳とも言えます。

人徳を磨いている人は、思い通りにならない時こそ自分を磨く砥石だと思っていますから喜んでその機会を使って自分を磨いていきます。苦労を自ら楽しんで取り組んでいる人がいるとします、その人は確実に徳を磨いていくのです。

思い通りにいっているからと喜んで思い通りではないことを素通りばかりしていたら、確かに得はしていてもそれは徳を磨いているとは言えないかもしれません。自分がなぜ生まれてきたのかに立脚すれば、魂を磨き徳を高めることこそが人生の生きる意味であるのは自明してくるからです。

今のような時代、徳の話をしてもなかなか理解されることはありません。しかし徳を一緒に磨いていこうと話をすると共感する人たちは増えていきます。自分が明るく朗らかに健やかに、居心地をよくしてなんでもちょうどいいと楽しんで生きればまさにそれが「思い通りではないけれど思った以上のことが起きて導いてくれる」という徳の境地に入っていくことができるのです。

私がいただいているような先祖代々の徳を、子どもたちのみんなに譲り渡していけるように徳を高め、徳の境地を体現していきたいと思います。

自然の徳

昨日は、BAの箱庭に苔をいれ整える作業を行いました。日本庭園には、石、苔、紅葉などの木、そして観音竹や灯篭があります。今回は、ブロックチェーンを祀る神社を建立するため御神前を清浄な空気で満たせるようにあらゆる工夫を凝らしています。

例えば、全体には大量の備長炭や竹炭を使い、また水の通り、風の通りがいいように配置し、また光が揺らぐように照明関連などを配置しました。

私は障害があるのか、小さな光でも眩しく感じます。それに光が揺らいだり、動いたり、また留まったりするのを感じます。それに暗闇の様子や陰翳を強く感じるタイプのようで、黒を感じる種類が多く、多種多様な黒を感じて使い分けることができます。

私が古民家甦生の中で相性がいいのは、その陰翳を自由に扱うことができるからです。今ですら、照明器具が発達し明々と一日中同じ明るさの中で過ごしますが私はそれが苦手です。

水から反射してくる光や、透明な風で揺られながら訪れる光は心を澄ませるだけではなく身体も癒されていきます。

日本庭園の素晴らしさは、この風、光、土、水、石、木、いのちの絶妙な組み合わせに自然の徳を実感するからです。

自然の徳が、人間の心身を癒していくように私の取り組む徳積みが人類を平和に導いていけるように挑戦を続けていきたいと思います。

石の徳

昨日は、BAに建立する留魂碑を故高橋剛さんのお父さんと一緒にノミで文字を手彫りで刻む作業を行いました。二人ともはじめての体験でしたが、石に文字を刻むことを通して故人の供養になったのではないかと感じました。

そもそも石に遺志を刻むというのは、なんとなく感覚で理解していましたが実際にノミをもって手彫りで刻んでいると、心が穏やかな気持ちに包まれてきます。石というのはどこかごつごつと固く、頑強なものというイメージを持っていましたがノミで彫っていると柔らかく静かで穏やかな存在であることに気づきます。

この穏やかになる気持ちはどこから来るのか、本当に不思議でかつての先人たちが仏像や石碑を彫刻したのは心を静めるためでもあったのではないかとも感じました。

石は、私たちのいのちよりもずっと永くこの世に存在しているものです。まるで永遠ともいえる悠久の時間をゆったりと過ごしています。その存在に触れていると、「時間」というものに触れるように思うのです。

悲しみが時が解決してくれるように、時間というものはその過ぎていく過程で様々なことを許し、また慈しみ、安らぎを与えます。同様に、石が持つ時間は私たちの心に深くそれらの時の徳を与えているのではないかと感じるのです。

私の直観では、石は時そのものを司る存在なのです。

時が石に刻まれていくことで、石がすべてを包み恕してくれます。私たちが石を身近において石に見守られていると感じることができるのは、その石の徳に感応しいのちが安心することができるからです。

次回は、今回刻んだ文字の仕上げを行います。一つ一つの物語を石と共に刻み、初心を次世代へ伝承していきたいと思います。

本当の暮らし

昨日は、聴福庵でブロックチェーンハッカソンを行いました。暮らしの場の中で働くことでどのような効果があるのか、実証実験も兼ねてでしたが非常に有意義な時間を過ごすことができました。

現代は、個人が優先されすぎてきて仕事とプライベートを分け過ぎてかえって日々の暮らしが貧しくなってきているように思います。仕事もプライベートも充実するというのは、本来、暮らしが充実するということです。

この暮らしとは、言い換えれば人生のことであり、人生の中に仕事があるのであって、仕事の中に人生があるのではないと言えばすぐにわかると思います。

どのような人生を歩みたいかを決めたなら、暮らしが始まります。その暮らしの中で、どのように働くのかと思えば当然幸福で充実した日々を送りたいと願うものです。

そして人生の豊かさとは、味わい深い今の集積によって満たされていきます。つまり、いのちの営み、いのちのハタラキを充分に実感する時間を味わって過ごしているということなのです。

この暮らしという言葉もそれぞれの人たちが色をつけては様々な定義で使われています。

しかし本当の暮らしのことは頭ではわからず、いのちで理解するものです。いのちの理解は、具体的にはいのちのハタラキと一緒に過ごしている時にしか感じません、それは丁寧に生きて、手間暇をかけて味わうという悠久の時間、また永遠の時間と共にあるときに感じるものです。

先人の暮しは、常に人生の意味を味わっているものばかりでした。

現代は特に忙しくなる仕組みが動いていますから、心の病を抱えたり、身体が不健康になったり、何か本当の仕合せなのかに気づきにくくなってきています。人生を救済するというのは、本来は先生や宗教の務めだったのかもしれませんが今の時代はそれも難しくなってきていますから本物の場の必要性を感じます。

子どもたちが、自分の人生の暮しを味わえるよう私がまず挑戦して実践で示していきたいと思います。

いのちの甦生

昨日から聴福庵でブロックチェーンハッカソンの準備をしていますが、いつもの日本民家での心豊かな充実した日々の暮らしを私たちはいつも通りに取り組むだけなのでどのような化学反応があるのかが楽しみです。

そもそも暮らしというものは、単なる生活をすることではありません。心の充実感、味わい、そして真の豊かさは、いのちのハタラキと共に存在しています。いのちのハタラキは、手間暇かけた丁寧な生活の中だけに存在します。

なぜなら、いのちを扱うということは、いのちが壊れないように接する必要があるからです。そのものが壊れないように接すると言ってもいいかもしれません。

私たちは知らず知らずのうちにものを粗末にしていきます。また同時にいのちをも粗末にしていきます。ものにはいのちがあるのですが、なんでも捨てているうちにもののいのちがわからなくなっていきます。

どんなものにも、作り手の思いがあり、また使い手の思いがあります。お互いに思いがあるからこそ、思いやりというものが存在します。

その思いやりは、思いに対する配慮であり、いのちへの尊重でもあります。そういうものを感じながら生きていくことが、本来のいのちのハタラキを感じることであり、ハタラキを感じたからこそ生き方もまた変わっていきます。

働き方改革とは、生き方改革のことをいいます。生き方改革とは、いのちのハタラキを改革するということです。

現代のように物が増え贅沢ができる時代になったからこそ、本物の豊かさを思い出し気づき直すことで人類のかじ取りを学び直す必要を感じています。

暮らしの中でのハタラキは、いのちの甦生です。

引き続き子どもたちのためにも、いのちの甦生を伝道していきたいと思います。

石碑の本質

明後日からBAで、志半ばで斃れた友人の遺志を石に彫り込む作業がはじまります。友人のお父さん一緒に、ノミを使って手彫りで言葉を彫っていきますがはじめての取り組みですから準備を進めています。

私のルーツは、石工だったそうでこういう機会がないと石を彫ることなどありませんでした。ノミを使って、石に刻んでいくということがどのような意味があるのかこれから実践を通して学び直していきたいと思います。

そもそも石碑とは何かと定義すると、ウィキペディアにはこう書かれます。

「石碑(せきひ、英語: stele, stela)とは、人類が何らかの目的をもって銘文(碑文ともいう)を刻んで建立した石の総称。「碑(いしぶみ)」ともいう。墓石としてなど他の目的を持たず、銘文を刻むこと自体を目的とするものをいう(ただし、英語の stele の場合は、木製のものや墓碑も含む場合がある)。なお、何かの記念として建てられたものを記念碑(きねんひ)、和歌・短歌や歌の歌詞を刻んだものを歌碑(かひ)、俳句を刻んだものを句碑(くひ)、詩を刻んだものを詩碑(しひ)という。 」

風化もせず安定した石材に、後世の人たちに伝えたいもののために石碑にしていることが多いように思います。それは例えば、悲劇であったり、もしくは勇気であったり、また自然の偉大さを伝えるものであったり、神様や仏様が見守っていることを知らせるものであったり、用途は様々です。

しかし石碑には同時に「思い」というものも共に存在しているように思います。

人の思いは生き続けますから、その思いが生き続けていますよというものを伝えるものではないかと私は直観的に感じています。

私もまたその思いが集積した存在として今を生きています、私の原動力はすべて先人たちの遺志の延長線上に存在しているからです。私を動かしているのは私ではなく、私を動かすのは遺志であり、思いなのです。

遺志が石に刻まれるということが、石碑の本質なのでしょう。

BAでの伝説の幕開けを楽しんでいきたいと思います。