カグヤの実践

昨日、新宿の本社に来客があり社内を案内していきました。社内には、創業以来の様々な実践の結果があり、それを一つ一つ説明していくとなぜ今、こうなったのかという理論がすべて明確に説明ができます。

またこれは自然農の田んぼや、福岡の聴福庵、そしてBAに至るまで何かを聴かれればすべて明確にその意味や理由、またなぜ今こうなっているのかという結果を語れます。

これは私がすべて実践に基づいた経験を智慧にまで磨き、真実を正直に語るからできるとも言えます。思い返せば、試行錯誤しながら子どものために何がもっとも価値があり意味があるのかと生き方を見つめ、それを仕組みや形にしていこうとしてきたからかもしれません。

生き方を優先するのは理念があるからですが、理念が必要なのはそれは子どもの仕事に取り組むからです。自分の都合で子どもを利用するのではなく、本来の目的のために子どもを主語にして自分たちの在り方を見つめて変えていく。

こういった実践の日々は、すべて理念に基づくものであり結果として顕れているものはすべてそれに取り組んできた努力の結晶とも言えます。

これが、現在の世の中では必要になり始め多くの人たちにその智慧や仕組みや改善を提案していくようになりました。ここまで来るのには多くの試練や葛藤があり、新しい常識を創り上げていくのには働く人たちみんなの真摯で誠実な試行錯誤の実験があったことは間違いありません。

理念を決め、正直に取り組むというのはそこには誠があります。

誠は真ですから、実ったものは本物です。

これからいよいよ展開が大きくなってきますが、地味に実直にやっていくことは今までと変わることはありません。子どもの憧れる会社、社會を実現するために誠実に真実に取り組んでいきたいと思います。

心の平和

人間は、様々な体験を経て人生を創造していくことができます。どのような濃密な体験をするか、言い換えれば如何に今を充実して生きるかは、心の持ち方次第とも言えます。

この心の持ち方は、何のために生きるのかという問いからはじまる生き方で決まります。生き方とは、人生の在り方であり、自分の存在理由のことです。

日々に忙しくなってくると、目先のことや周囲の些事に心を奪われていくものです。心が奪われて心を亡くせば心を手放してしまうものです。

そうならないためには、日々に反省し、自分の心はどこに在るのかを確認し続けなければなりません。

自分自身の心を見つめることができる人は、心の在りようが如何に人生に大きな影響を与えるかを自覚しています。心の在りようを確認するには、常に心がどのように活動しているか、今、どのように感じて、何を学んでいて何をやりたいと思ったのかと常にその動きを捉え続けて見失わないようにしていかなければなりません。

心が何処にいったのかわからなくなるから人間は迷い惑い、ブレてしまいます。大きく揺れても、自分の心の在りかさえ見失分ければ自分に与えられた天分を発揮するためにまた今に集中していくことができるのです。

今の時代、心を向き合う時間や空間、場が少なくなってきています。夜空を見上げる時間もなく、そのような満天の星空が観える場所は都会にはありません。そして静かで穏やかな時が流れる空間、また自然物と自然循環と合致していくような暮らしの時も失われています。

人間が本来、生きていくのに絶対的に不可欠な心と一緒に過ごす時間を持てないというのはとても悲しいことです。宗教者や教育者において、平和はそれぞれが常に願うところであるはずです。なぜなら人類を戦争などに導きたいはずはないからです。

だとしたら「心の平和」は、何よりも優先すべき実践項目です。心の平和が広がり、子どもたちの未来に豊かな人生が推譲していけるように日々の内省を味わいながら心の仕事に取り組んでいきたいと思います。

ブロックチェーンの神様

BAで建立した神社にご鎮座していただく神様を勧請するために秩父神社に参拝してきました。もう何年も前から、ご縁をいただき古神道をはじめ様々な伝統的な習わしなどを教えていただきました。

古来より、なぜ変えてはならないものがあるのか。そしてこの神社の仕組みの本質とは何かをここで学ばせていただきました。

今回、BAの技術を末永く見守ってくださる神様に「オモイカネ」という神様をお迎えします。この神様は、『古事記』では思金神、常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)、八意思金神と表記されています。

系譜では、高御産巣日神の子であり、天忍穂耳命の妻である万幡豊秋津師比売命の兄とされ智慧を司る神様とされています。具体的には岩戸隠れの際、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたことで有名です。また国譲りでは、葦原中国に派遣する神の選定を行っています。その後、天孫降臨で邇邇芸命に随伴したとされています。

名前の由来も(八意)思金神の「八」を「多い」、「意」を「思慮」と解し、「八意」は思金神への修飾語、「思」を「思慮」、「金」を「兼ね」と解し、名義は「多くの思慮を兼ね備えていること」と考えられているといいます。

もともと神道は自然崇拝のため神様の多くは自然を司る神様が多い中でこの「オモイカネ」は珍しく「知恵・思考・思慮」という概念を神格化した神様だとも言えます。

今回、この「オモイカネ」を勧請する理由は、BAでブロックチェーンの技術者を見守り、平和にブロックチェーンの技術が世界に展開していけるようにその技術を見守る神社にするためです。新しい先進技術がこれから誕生するとき、無から有を産み出していきます。その時こそ、智慧が必要でありその智慧が日本の叡智で構成されていくことで世界へ貢献していくことができます。まさにブロックチェーンに相応しい神様です。

そしてこの「オモイカネ」は、他にも木工・金工職人守護というものがあります。これはオモイカネのもう一つの表記「思金神」という名前から大工の道具の曲尺(カネジャク)とつながり、建築関係でもご利益・御神徳もあるからです。今でも、伝統的な建築現場の仕事始めの日に行われる手斧初(ちょうなはじめ)という儀式では、オモイカネを祀っています。つまり「匠の神様」でもあるのです。私がブロックチェーンストリートで、古民家甦生をしていくことを見守っていただくためでもあります。

そして他にも「オモイカネ」は、天気を司る力もあったといいます。天候を読み、天機に長けていたということです。新しい時代の節目に、天機を活かせるように見守っていただくためでもあります。

秩父神社の縁起では人皇第10代崇神天皇の御代の11年(紀元前86年)に初代国造である知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、神祖 八意思兼命を奉斎したとあります。そしてこれが秩父神社から分祀分霊する理由です。

不思議なご縁ですが、私がこれから取り組むBAでの徳積に大いに深い恩恵を授けてくださると思います。出会いを大切に一期一会のご縁を深めて厚くし、子どもたちの未来に一石を投じていきたいと思います。

いのちの流転

昨日は、聴福庵の家祈祷を宮司さんに来ていただき行いました。今年一年の神恩感謝と家の穢れを祓い清めるために行いました。私は古いものを磨きます。その磨く中で、あらゆるものを洗練し光らせていきます。

ある意味では、磨くというものは浄化の一つであり磨き抜かれた場所には清らかな場が生まれます。清らかな場とは、それだけで人々の心の穢れを祓うことができます。

本日からの歳神様のお迎えにあたり、暮らしの中に祈りと祓いがあることは日々を確かに磨いていくうえでも大切な行事になっています。

そもそも、祝詞奏上で大祓いとは何かというものを言霊によって私たちは直観します。

人間が生きていくうえでの穢れとは本当は何か、そしてその穢れを清めて幸福に生きていくための仕組みを祝詞には記されます。

私たちは、知らず知らずに自分勝手に好き勝手に世界がまるで自分だけのものように感じるようにできています。これはいのちは、自分のいのちを全うしようとするからです。しかし本来の世界は、自分のいのちがあろうがなかろうが永遠に偉大な循環の中で全体のいのちは存在しています。

私たちが何をしようと、自然循環の中でそれは呑み込まれまた浄化されていきます。しかし、自然循環の中で純粋で透明ないのちであれば私たちはその存在に活かされている仕合せを感じ、心安らかに和みます。それが次第に自己中心に傾くようになり、いのちがそこから離れすぎると途端に様々な穢れがはじまります。

まるで清流が汚れを流して元の美しく透明な水に回帰するように、海が波によって綺麗な砂浜に回帰していくように、また台風が通り過ぎた後の澄んだ青空のように元の状態に回帰していきます。

回帰とは、ひとまわりして元の状態に戻ることを言います。

万物が流転するというのは、地球や宇宙、そしてこの自然界の偉大な法則の原理です。私たちは、地上に止まっているようでそして平坦なところに居るような気がしています。

しかし実際は、地球は円くそして自転を已みません。猛スピードで流転しながら、太陽を廻り、そして宇宙を廻る存在です。

私たちは流転という仕組みを学び、流転に回帰することを待つことで循環の力を存分に発揮することができるのです。本来の日本人の先祖が積み重ねてきた伝統的で自然的な暮らしは循環を磨き学ぶ道場であり、私たちはそれを実践することで穢れを祓い、洗練し、心魂を磨き上げてきました。

今の時代、暮らしはただの経済効果の産物のひとつになり、物質文明の中で無理やりに暮らし風のものを取り入れることで暮らしをやっている気にさせていたりします。

いのちは、流転し磨かれていきますから本来のいのちの暮らしは自然の原則に適ったものでなければなりません。風土、真善美、あらゆるものを徳とし、その徳を磨く必要があります。

来年は、徳循環を具現化し経済一辺倒の価値観に楔を打ち込み、本来のいのちの充実や原点回帰に挑戦していきます。子どもたちに先人のいのちを繋ぐ役目を果たせるように、精進を続けていきたいと思います。

お山の意志

昨日から京都の鞍馬山に来ています。私の人生においてこの鞍馬山との出会いは大変に大きく、人生の方向性を決めてくれた出会いであったのは間違いありません。

このお山は、日本の中でも私が深く敬愛するお山の一つであり自然の原型や原点がそのままに存在しているお山です。自然の原型というものは、自然のはじまりともいいます。いわばお山こそ、いのちの母であり、父です。そのお山からいのちの存在そのものを学び、私たちは自らを真に活かす道を学びます。

この鞍馬山といえば牛若丸に兵法を授けたといわれる天狗「魔王大僧正」が有名です。後に日本の八天狗に数えられた大天狗である「鞍馬山僧正坊」、もしくは魔王大僧正の配下が鞍馬山僧正坊であるとも言われるものです。

鞍馬山にある鞍馬寺の縁起は、奈良時代に艱難辛苦の末に唐から日本に渡り帰化した僧である鑑真の弟子・鑑禎(がんてい)が、ある夜に山城国の北方に霊山があると告げられる霊夢を見ます。鑑禎がその霊山を訪ねて行くと、山の上に宝の鞍を載せた白馬が見え、そこが鞍馬山でした。鞍馬山に入った鑑禎は女の姿をした鬼に襲われ殺されそうになりますが、そこに枯れた古木が倒れてきて鬼はつぶされ助かります。翌朝、そこには毘沙門天の木造があったことから、ここに毘沙門天を祀る鞍馬寺を建立したといいます。

鞍馬寺がはじまるずっと以前から、このお山は不思議な意志をもって働いているように思います。私たちが信仰するお山というものは、お山自体が一つの生命体であり、意志があるように思います。

日本の霊山の数々には、そのお山の持つ使命や個性があり今でも私たちを見守り導く存在です。私たちの先祖は、お山に入りお山から学びその教えを人類の道しるべとして下山し人々へ指導してきました。

私たちの先祖は山のことを単なる山とは思わず、お山であると尊敬し、お山を尊び、お山から得た様々なインスピレーションを生き方にまで昇華させていったのです。お山には、悠久の自然があり、雄大ないのちの循環があります。

短いスパンでだけ物事を考えて、目の前のことばかりに忙殺されているような日々において人間は時折、悠久の流れや自然の歴史を忘れてしまいます。どうでもいい些事に追われて大切な一度きりの人生やいのちを使い切ることを忘れてしまいます。

私たちはお山に入ることで、何か忘れてはならない大切なことを思い出し学び直すように思います。登山ではなく、まさに山人合一の境地に入るということでしょう。

鞍馬は、魔王尊がご鎮座するお山として「クラ+マ」というのではないかと思います。魔王とは、地球のいのちのことでしょう。地球のいのちの根源を感じるこのお山にくれば、自然に太陽な月の存在を身近に感じます。

三位一体の遺志を持つ、この鞍馬山から私は何よりも深い地球人として生き方を学びました。

「月のように美しく、太陽のようにあたたかく、地球のようにちからづよく」

まさにいのちの姿そのもの、尊天のままであることをお山で感じます。このお山で学んだことを、下山し人類の未来に向けて伝道していきたいと思います。

ご縁を大切にする人たち

目に見えないつながりというものが観える人たちがいます。この人たちは、ほとんど目には観えない方のつながり方だけを観て物事を判断していきます。言い換えれば、ご縁を大切にして生きている人たちです。

ご縁というものは、目に見えない糸のようなものです。同じ糸を手繰り寄せていきながら、みんな引き寄せられていきます。一見、何も関係がないように思えてみても実は大きな意味があります。それを知るには、悠久の時が必要です。しかしその悠久の時を味わいながら生きる人たちがいます。まさにこれもご縁を大切にする人たちです。

また一期一会といって、今此処この瞬間のみを生きる人たちがいます。常に生き方を優先し、頭で考えたような他人との比較や評価などを気にせず自分の魂の声に従って自分自身の判断や行動を決めていきます。他人からどう思われるかではなく、自分はどうありたいかという信念に生きています。だからこそ今というものを一期一会に味わい盡します。これもまたご縁を大切にする人たちです。

ご縁というものは、奇跡的で不思議なものです。

あの時、あの瞬間、あの出会いがなければ今がありません。

これを逆算すれば、今までの人生、すべてその出会いと別れが決めたのです。出会いや別れにこそ真心を籠める人たちもまたご縁を大切にする人たちなのです。

そう考えてみると、ご縁を大切にする人とは生き方を優先する人たちのことです。生き方を大切にするからこそ、ご縁もまた大切にされていきます。

柳生家の家訓に、「小才は、縁に出合って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を活かさず。大才は、袖すり合うた縁をも活かす」があります。

袖すり合うた縁をも活かすとは、常に生き方を優先する人物こそが大人物であるということでしょう。私も、思い返すとご縁に活かされ続けた人生でした。ご縁を大切にしこれからも生き方を磨いていきたいと思います。

場を磨く

人間は、どうしても他と比較したり他人の評価を気にするものです。そもそも何のためにということをいくら決めていたとしても、そういう他人の目に晒されているうちに自分の初心を忘れてしまうものです。

何のためということがあれば、その人の本当にやろうとしていることにつながるためそこに迷いが消えていきます。逆を言えば、人は目的を忘れることを迷うといっているのであり目的を大事に初心を忘れなければ迷うことはないということです。

吉田松陰にこのような言葉が遺っています。

「小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。」

この爽快であるというのは、迷いがないこと。悔いのない生き方、成長する生き方を優先している人だからこそやつれるようなことがないということです。

どんなことも初心を忘れなければそれは成長の糧になり、学びの意味につながるのです。まさに一度きりの人生、どんな時も明るく朗らかにいのちを燃やしていくのが人生の意味につながります。

思えば私は17歳のころからずっと吉田松陰の書に薫陶を受けてきました。松陰神社に行けば、一つ必ずインスピレーションをいただきそれを学びの目標にしてきました。何か事を成そうとするとき、心の支えの中にはこの吉田松陰の言葉があります。

「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」

「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。」

「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。」

BAの開校に向けて、私は覚悟を磨く決心をしています。そしてそれは遺志を継ぐ思いからです。最後にこの言葉で締めくくります。

「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。」

ハタラキを守り、ハタラキを弘め、子どもたちの未来のために世界の方向性を易えていくために場を磨いていきたいと思います。

風土の智慧

昨日は自然農の高菜の畑で除草を行いました。郷里の伝統野菜の継承のためにコツコツと育ててきましたが、ここ数年、連作障害などもあり土が弱りどうしても虫や雑草に負けてしまうことばかりでした。

今年は、土の甦生にも取り組むためマルチを敷いて様子を見ていましたがなんとか半分ほどは雑草とも共生し葉を出してくれていました。やはり8年くらい続けていると、高菜を好む虫たちが大量に発生してきます。

昨年は初期の頃の新芽の際にほとんど虫が先に食べてしまいまったく伸びていくことはありませんでした。手で取ってもとってもきりがなく、土の醸成と風通しが如何に大切なのかを学びました。つまり風土の智慧を得たということです。

この風土の智慧は、単に頭で理解できるものではありません、確かに身体全体で自然から体験により得るものです。智慧というものは、須らくこの体験というものが必要です。

体験が智慧を育て、智慧が体験を高めていきます。

風土の智慧は、風通しの価値に気づくこと、そして土の発酵の価値に気づくことです。この風を通すのは光であり、土を守るのは水であり、それらの調和には日と夜が必要です。そしていのちは、その中でゆりかごのように元氣を与えられて育ちます。

如何に人間がスマート農法などといって便利な機会で科学的につくっても、そんないのちの中にはいのちの充実はありません。元氣のない野菜を食べても、私たちは元気になることはありません。この元氣の素は、風土の智慧を存分に得ている中で育まれるのです。

そしてその風土には、関係性を持った人間の愛情が必要です。私たちは循環の一部になることで身体にその自然の一部を吸収し元氣をいただくからです。日々の食事で何をいただいているのか、決して忘れてはなりません。

農業は自然の一部になるわけですから、自然が元氣に調和すればするほどその一部としての私たちも元氣になってきます。畑が元氣になっていくのを観るのはとても仕合せです。

この後はカブラハバチの幼虫が増えてきますからまだまだ油断はできません。手で一つ一つ取ったらあとはうちの烏骨鶏たちの餌になります。うちの烏骨鶏もまた循環の一部です。

自然から風土の智慧を学び直し、この体験を世の中の経世済民に還元していきたいと思います。

変化する機会

近年、自然の猛威はさらに高まっており日本も台風や水害などの規模が拡大してきています。はっきりとした科学的なデータはありませんが、南極や北極の氷があれだけ急速に融けていき大量の水が海に放出されていきますがその水が一体どこにいったのかと思えばすぐに理解できます。

私たちの住んでいる地球は、水の惑星であり水が海から空へと循環してめぐりを続けています。その水量が上がれば当然、空から降ってくる水量も増えてくるのは自明の理です。海水温の上昇は蒸発する量も増やしますからその分、空の中にある水分量は確実に増加しています。

さらに台風は上空との寒暖差で起きますから、海水温が上がればそれだけ風の威力も上がります。マスコミやテレビのコメンテーターの部分最適の話ばかりを聞いているとなんとなく右から左に情報が流れますが自分の身近な自然現象に置き換えてみれば如何に今の環境変化が危険の方に傾いているのかはすぐにわかります。

私たち人間は、視野狭窄で短絡的になりがちですから急速な変化や危機は察知しますが長期的で緩やか、そして巨大な変化に対しては気づきにくくなっています。

そういえば「ゆでがえる理論」というものを思い出しました。この「ゆでガエル理論」はゆっくりと進行する危機や環境変化に対応することの難しさを戒めるたとえ話です。カエルを熱湯の中に入れると驚いて飛び出しますが、常温の水に入れて徐々に熱すると、カエルはその温度変化に慣れていき、生命の危機と気づかないうちにゆであがって死んでしまうという具合です。

急激な熱湯や冷水には反応できても、少しずつ起きる変化には気づかないで手遅れになるということです。これは生活習慣病も然り、思考のマンネリ化も然り、そして時代と錯誤していくのも然り、加齢して筋力が衰えていくのも然り、これは誰もが陥ることのように思います。

だからこそどうあるか、ここが試練のところだと思います。

変化とは、自分が変わっていくことです。自分が変わっていくのは、自分自身が何かをやめるということです。そして何かを変えるということです。気づいたらすぐに帰るということです。そのために行動をするということです。やめていないなら変わらない、何をやめるか、それまでの生き方をやめるということです。

人間が変化できなくなるのは、生き方が周りの環境によってぬるま湯になっていくからです。そうやってジワジワとぬるま湯に慣れていくうちに自分の生き方までぬるま湯に合わせて変わってしまっているからです。

初心を保つことや、信念にブレないこと、そして自分の決めた心に従うのは本気の主体性や自分自身の生き方への正対をし続けなければできないように思います。

災害から何を学ぶか、かつての人たちは災害をただの災害にせずそこから大きく変化する切っ掛けにして進化成長し続けました。

子どもたちのためにも、この変化に対してどう生きていくか。すべての災害は変化する機会になりますから先人に倣い、子孫へのお手本になれるように精進していきたいと思います。

与贈循環の場

一緒に働く仲間が「与贈」についてブログで紹介してくれていました。私もこの言葉を知ったのは数週間前です。彼の説明では「自らの一切の利益を求めず、自らのいのちを何かのために使うこと。」、私はこれを真心とも呼びます。

私の思う真心は、一般的に言う頭と心の心ではありません。この真心は、自他一体の境地のことでありそのものと同化している状態、地球そのもの、宇宙そのものに同化している境地の時に出てくる心のことをいいます。

例えば、自分と境界線を分けているものが取り払われたとき私たちはその場と一体になっています。場が自分であるのか、自分が場になったのか、それはわからないほどに自然一体になります。この自然一体の状態のときのことを私は、「かんながら」と呼びます。

つまりは、まるで神様の依り代になったかのように純粋な心、そこには自他の別もなく、空と海が混じり合ったような透明な存在になっていきます。

私たちはなんでも名前をつけては物事の認識していきます。そして文字を書いてはそのものを説明していくようになりました。しかし、この世にあるものはすべて何かが変化した仮の姿でありその元はすべて同源のものです。

目の前にあるすべての道具も、自分の体も、そして天地自然界にあるすべてのものも、さらにはこの意識であったり、宇宙であってもそれは同源だったものが変化して形として顕れたものです。それに名前をつけていくら別のものにしたとしても、その本質は無であるのです。

この無が循環するところに場が生まれます。この無とは、有る無しの無を言うのではありません。元は同じであるという同源という意味、もしくは原点でもいい、その元のままという意味での無のことを言っています。

私たちがなぜ物を大切にする必要があるのか、そして如何に善きものを循環させていく必要があるのか、それは変化に偉大な影響を与え合っている存在であるからです。この善きものこそが、魂の故郷が住んでいる場所であり、その懐かしい「場」に出会うことで人々はいのちの本体に出会います。

私が家を直すのも、子ども心を守るのも、人類の智慧を伝承しようとするのもまた、この与贈循環を「場」によって顕現させていのちの安らぎやよろこび、しあわせの道を伝道していこうとしているからです。

徳が循環する世の中こそが、私たちの永続的な未来を保障するのです。

引き続き、一期一会に自分の人生を全うしていきたいと思います。