意味の存在

世界には様々な歴史があります。その歴史の中には、それぞれに大切な意味があり物語を継承しています。そしてその物語はこの今の私たちにつながりその意味は私たちが世界に伝承することで人類の発展に貢献しているとも言えます。

その物語の中には、人類としてどうあるべきかという挑戦と冒険が溢れています。ある人は、こう生きた、またある人はこう生きたというものが、様々な組み合わせによって遺ってそれを受け継いでいくのです。

これは人類に限らず、すべてのいのちに必然的に存在する使命でもあり生死を度外視して私たちは「どのような意味を存在したか」ということを試みているのです。

その意味は、目に見えて残っているものとすでに消失して目には見えなくなっているものもあります。しかし、その「場」で行われた歴史や意味は確かにその空間に時を超越して遺っているように感じるのです。それは生きている私たちが、無意識に伝承されているいのちの様相であり、いのちある限り様々な物語や意味はずっと続いているのです。

近代に入り、ありとあらゆる人種が融和し融合し混然一体になってきています。数々の意味がここにきて合わさってきているとも思うのです。その中で、伝統というものはそれぞれの意味を純度の高いままに保存してきた記憶媒体の一つでもあるのです。

これらに触れることで、かつての純度の高い精神や魂から確かな意味や物語を継承する人々がいます。彼らは、新しい時代を創造する人類の叡智を使いこなす子どもたちです。

私が伝統の継承にこだわるのも、いくら宗教とか言われても構わずに「場」を伝承しようとするのもまた意味の存在を守るためなのです。これは私だけではなく、いのちあるすべての生命がやってきたこと、人類の歴史を鑑みればなぜ大切なのかは必ず時間が経てばわかることだからです。

意味の存在を見つめることは、自分自身を深く見つめていくことです。残された時間、少しでも大切な意味の存在を伝承できるように伝道につとめていきたいと思います。

坩堝と襤褸

カナダに来てモザイク社会を洞察していますが、特にこのバンクーバーは多様な国の人たちがひしめき合って暮らしているのがわかります。アメリカにも人種のるつぼという言い方や、人種のサラダボールだという言い方もあります。

つまりは、混じっていて融合しているのかそれとも混じっているけれど独立しているのかという議論です。カナダは、それをモザイクといい混じっているけれども交わっていないというか、ありとあらゆるものを組み合わせでいいではないかという考え方なのではないかとも感じます。

それくらい移民の増加するスピードも速く、広大な国土があり、隣国アメリカの影響を大きく受ける地理的なものも影響しているようにも思います。

このモザイクという言葉の意味は、フランス語で「小片を寄せあわせ埋め込んで、
絵 (図像) や模様を表す装飾美術の手法」と記されます。石、陶磁器 (タイル)、有色無色のガラス、貝殻、木などが使用され、建築物の床や壁面、あるいは工芸品の装飾のために施されるものとして古くから歴史的にも様々な宗教関係の建物や芸術品にも用いられています。なんとなく、組み合わせて観える全体像でいいという敢えてはっきりしないところで魅力を出していこうという具合を目指しているのかもしれません。

ここ数年、先史時代の人々の遺骨から採取したDNAの解析が進み、もともと欧州人は人種の坩堝の遺伝子を持っているということが分かってきています。古遺伝学者のデビッド・ライク氏の研究結果では、欧州には先住民などそもそもおらず、自分たちの純粋なルーツを見いだそうとしても、そうした概念が無意味であると発言しています。

そう考えてみると、最初から混じっていてなんとなく近くでそれぞれに独立して暮らしていたという関係であったというのは欧米人の生活を見ているとなんとなく想像できます。個人というものや、コミュニティをお互いを尊重して距離を持つことで自分は常に坩堝移民として移動しながら生計を立てていたという生き方は、今の時代も変わっていないのかもしれません。多様な民族を一つにするのではなく、それぞれの民族のままに同じエリアで混じり共生するという坩堝という智慧は、遺伝子の中に組み込まれているようです。

これといった土地を決めずに、自分たちの集団でそれぞれの場所に移住しそこで暮らしを立てていく。そういう坩堝として生き残る智慧をもっていた民族が、国家というものを形成すると今のEUやカナダ、アメリカのようになるのかもしれません。

しかし実際には貧富の差や、肌の色による差別や、様々な問題は決してなくなってはいません。どのようにモザイクにしていくのか、カナダの実証実験はこれからの未来の新しい世代のつながり方を見極める一つの材料になるようにも思います。

日本にはモザイクではなく、古い布を組み合わせた襤褸という思想があります。使い古されたものを組み合わせて、それを勿体なく大切にいのちを使い切るという発想です。新しい組み合わせではなく、古い組み合わせというものに私はどうしても懐かしい未来を感じます。

これから新しい世界に、自分の信じるものが何かということを具体的な取り組みとして発信していきたいと思います。

 

人類共通の智慧

昨日は、UBC人類学博物館(MOA)と新渡戸記念庭園に行くご縁がありました。この二つはブリティッシュコロンビア大学の中にあり、緑がとても豊かな広大な敷地にゆったりと佇まいを備えています。

トーテムポールの展示や先住民族によるアートを含め、アフリカ、オセアニア、アジアなど世界の人類学のコレクションを収集し、約53万5000点もの収蔵品を持つ博物館です。とても一日ですべて見学することはできませんが、人類に共通するものを理解するのには充分な場所です。

特に印象深かったのは、世界中の民族の「暮らしの道具」が展示されていたことです。そこには人類に共通する確かな文化や思想、そして生き方や考え方が凝縮されていました。

例えば、工芸品であれば必ず自然物を用いますがその特徴を活かし修繕がきくもの、また自然循環を維持できるもの、その土地の風土で耐えるもの、用途などに合わせてデザインされています。そのデザインからは、具体的な暮らしが想像することができ古代の人たちはどのようにして自然の中で豊かに生活を連綿と続けてきたのかがわかるものばかりでした。

そのほかにも、日本でいうところの鬼や精霊、自然の畏怖などを霊力を宿す大木や巨石、また色などを用いて魔除けや祈り、荒魂や和魂のようなことを祭祀によって行っていました。ハレとケにあるように、暮らしの中で発生する様々なバランスをとるための工夫が文化の中に存在していました。

またこの人類博物館の面白いのは、先住民たちのトーテムポールなどがありその住居などを展示しているところでした。アイヌ民族の住まいを以前、見学したことがありましたがここカナダの先住民の住まいもまた木造建築でありまるで神社のような大黒柱を拵え、棟と梁と屋根を原型に、木の中で住まうように設計していました。その古代づくりは、日本の建築の原型ともいえるように思います。

人類学を深めれば、人類の原型が何かということが次第にわかってきます。人類がなぜ今、こうなったのかを考察するにおいても人類はかつてどうだったのかを考察するのは大変な意義があります。この大学の中にこの建物があること自体が、モザイク社会に挑戦するカナダの未来においても大きな影響があることを実感しました。

そして新渡戸庭園もその近くにあるのですが、日本の庭園以上に日本を感じさせる素晴らしいものでした。何が素晴らしいのかといえば、何を基本に据えて庭園を構成したのかを拝見することができたからです。海外で日本の文化、その庭園というものを定義するときに、必要不可欠なものが存在します。

私も古民家甦生で箱庭を創るとき、これだけは外せないものは何か、そして何を基準委するのかという心得のようなものを自分なりに構成していきました。それはかつての歴史的建造物を観察し共通するもの、その意味や哲学などを学び直しました。

ここの新渡戸新庭園は、カナダにありながらも日本の気候というものを感じられるものになっていました。そういう意味で目から鱗が落ちた思いがしました。むかしの都は風水を重んじて建てられたといいますが、この風水は庭づくりにもまた欠かせないものです。

どのような光が入り、どのような風が吹き、どのように水がゆらめくか、その一つ一つを演出するのに、あらゆる土、火、風、木、石、水などを調和させていきます。その調和の中心に日本の気候を置くというのは大変な叡智であろうと思います。

ここで学んだことを、今後の暮らしの提案と展開に結びたいと思っています。大きな学びの機会をいただき心から感謝しています。

先住民族の智慧

昨日からカナダのバンクーバーに来ています。私はまずはじめて入る国には必ず歴史がどうなっているのかを調べる傾向があります。これは成り立ちを知り、原点を理解し、今を観察するのが好きだからかもしれません。

歴史を学ぶということは、その国の生い立ちを学ぶということです。これは人間も同じく、生きていて今何かをするのは必ず意味がありますからその意味を紡いでいくためにも私は歴史を学ぶことではじめて観光の意義があるように信じています。

このカナダという国は、もともとファーストネーションズと呼ばれるネイティブインディアンたちが何万年も前から住んでいた場所でした。またインディアンという名前は、1492年にアメリカ大陸にやってきたクリストファー・コロンブスがそこをインドと思い違いし住民を”インディアン”と呼んだのが名前の由来だといわれます。

またカナダという国名の由来は、1535年ふたりのインディアンの若者がフランスの探検家ジャック・カルチエに「カナタ」への道を教えたことが由来だといいます。「カナタ」は、ヒューロン・イロクォイ族のことばでは、単に「村」や「村落」のことをさすものでした。しかし、別の言い方がなかったために、カルチエはスタダコナ(現在のケベック・シテイにあたる地域)の呼び名としてだけではなく、種族の酋長ドンナコナの土地全体を「カナダ」ということばで呼ぶことになったといいます。そののち1547年の地図では、セントローレンス川の北側全体が「カナダ」と示されそれから全域がカナダとなりました。

こちらでは、先住民のことをネイティブカナディアンともいうそうですがこれも後から来た人たちがつけた名前です。本来は、その土地に住んでいた人たちの場所を奪い国家を樹立するという話はここの国だけのことではありません。日本でもアイヌの人たちのように歴史をも改ざんされた民族もあります。変な話ですが、国を占領した後は先住民を同化政策と称して自分たちの国民になるように教育します。

カナダの「先住民の同化政策」は19世紀にカナダの先住民の子ども達約15万人が教会の運営する「寄宿学校(residential school)」に強制的に入学させられています。そして当時、カナダ政府は先住民を教育するのは自分たちの役目だとし、先住民の子ども達に独自の言語などを禁止させ、英語を話し、キリスト教を信仰するように強要したといいます。1990年代には、多くの教会が先住民に公式に謝罪をして2008年には、当時の首相スティーヴン・ハーパー氏が正式に謝罪をしています。

今更ですが、その国の文化や言語を奪うことを同化政策といって迫害をしているのはすべて後からやってきた人たちです。自然の征服と同様に人類は、動植物や森だけではなく同族の人間であってもすべて占領し征服し洗脳して管理しようとするのは歴史が証明しています。

結局は、イギリスとフランスとの争いからアメリカも入り、今でもその時の問題が政治問題としていくつも課題が残っています。第一次世界大戦、第二次世界大戦によって国家というものができた例はこのカナダだけではありません。

国家というものができる背景には、必ず侵略や征服、戦争が関わっています。先住民族たちは、国家というものがなくても文化を進展させ文明とも上手に付き合い、それぞれの居場所で持続可能な暮らしを維持してきた人々です。

今それをやれとは言いませんが、そこから私たちは大切な考え方や生き方を見習う必要があると思います。なぜなら、長い時間、その場所を大切に守りながら破壊せず、自らの暮らしを守ってきた先達たちだからです。

今回、機会があれば先住民たちの暮らしや文化を学んでみたいと思います。そこから子どもたちに譲り遺したい智慧を伝承してみたいと思います。

有難味

人間は様々な体験を通して「有難味」というものが分かるようになってきます。特に艱難辛苦の出来事に出会う時、人はその中で多くの方々に助けていただいていることに気づき人の有難味がわかります。

この有難味とは、文字の通り苦労の味わいが分かってくるということです。この苦労は単なる労力的な苦労ではなく、親の有難味や友人、ご縁、仲間の有難味といいように存在価値や値打ち、その尊さのことを言います。その尊さとは「存在価値」のことです。

関係がどのようなものであっても、出会ったことがあり、いや出会っていなくてもそこにその人の存在があるから救われるという事実。救われることで私たちはその有難味の存在に気づき、感謝の深い味わいに気づける人になるようにも思います。

人の有難味が分かるようになるというのは、感謝の味が分かるようになってきたともいえます。それは言い換えるのなら、存在価値の味が分かってくるということです。

お互いの存在価値を知るのなら、ご縁というものは何よりも尊いものであることに気づきます。そしてそれは自分というものの存在価値にも気づきます。自分の存在は存在自体で誰かのお役に立てるということ、そしてその存在が感謝の味わいを深くしていくということ。

私たちが生きているというのは、お互いの存在価値を噛みしめていくということなのかもしれません。価値は、何かをしてもらったかどうかではなくその人がそこに居るという価値。そしてその人の生き方で何かをするときに価値が出るという価値。この価値は、何物にもかえがえたい生きているだけで輝く価値でもあるのです。

活かされるというのは、自分の存在価値に気づき、周囲の存在価値に気づくときにこそ顕れるものです。人の思いやりややさしさ、ぬくもりや愛情、いただいたものをさらに感謝で磨いてこれからの恩送りに邁進していきたいと思います。

森の神様

昨日からフィンランド東北地方のクーサモ町にあるイソケンカイステンクラブに来ています。ここはサウナの本場、フィンランドの中でももっとも王道のサウナを提供するキングオブサウナと呼ばれる完全なるスモークサウナです。

フィンランドのサウナの品質を管理する協会「Sauna from finland」から、本格性、清潔性、リラクゼーション性などすべての項目をクリアした品質証明書も授与されているフィンの伝統のおもてなしを体験できる場でもあります。

私はここのサウナマスターからサウナの本質を学び、本物を体験するためにここまで来ました。サ道のタナカカツキさんにして、「ここが一番のスモークサウナ」であると紹介され遠路はるばると来てみるとまさにこれ以上のものがあるのかと心から感じ入りました。

確かに日本のサウナの聖地と呼ばれる「サウナしきじ」も湧き水と温度、利便性など日本人の水との邂逅に感動しましたがこのイソケンカイステンクラブはもう完全に異質です。

一言でいえば、「森の神様が宿る」サウナといってもいいかもしれません。

かつての私たち古来の日本人は、場に神聖なものを見出してきました。神社の清浄な場にいけば心が洗い清められます。同時にあらゆるものを五感で感じて、精神が研ぎ澄まされていきます。それを「杜」とも言います。そこには必ずご神木があり、私たちを永遠に見守ります。

ここの伝統のスモークサウナはまさに、杜で感じるものとまったく同じものがありました。美しい湖、この一帯がまさに神様の澄まう杜でありここで火や水、土や風、日や月、星々などが見事に調和されまさにその中心に「サウナ」があるのです。

大げさに思われるかもしれませんが、私は「場」を研究する場道家です。様々な場を学び、古来からのイヤシロチを創造することをライフワークにするからこそ感じるものがあります。

3年前に、この5つ星を超えた「7つ星」の場をここまで磨き上げたお父様がお亡くなりになり、今ではその娘さんたち2人の姉妹で家族運営されていますがお話をしているといつも身近に父の存在が見守ってくれているのを感じると仰っていました。

その遺志を継ぎ、ここに森の神様と共にフィン人の魂がキングオブサウナになって生き続けていると思うと不思議な奇跡を想い、とても有難く仕合せな気持ちになりました。

私も帰国後、日本人の魂が生き続ける浄化場サウナを建造しますがここでの貴重な体験を活かして先祖に恥ずかしくないように磨いていきたいと思います。子どもたちに、言葉ではなく心身精神すべてで伝承されていくような場を譲り未来への希望の糸を紡いでいきたいと思います。

ありがとうございました、ご縁に感謝しています。

 

暮らしの豊かさ~フィンランド~

私は古民家甦生を通して暮らしの甦生に取り組んでいますが、世界では暮らしに寄り添いながら文化を高め続けている国がいくつかあります。今回は、あるご縁からフィンランドを深めることになっていますがこの国はとても暮らしを大切にしながら人格を高めている国であるようにも思います。

もともとの原点に何を据えていくか、時代が変わってもむかしからの大切な普遍的な伝統と現代の発展との調和は今を生きる人たちの生き方に現れてきます。この国は、シンプルで豊かというイメージがぴったりで暮らしを味わいながら今の世界に上手く調和している感じがします。

昨年と今年の世界幸福度ランキングでは、他の変化のない国々の中で堂々の1位になっていました。外来人口に対する対応なども非常に親切であることや差別がないことなども影響があったそうです。暮らしが充実するからこそ、幸福度もまた充実するのだろうと私は思っています。日本の暮らしも以前は、とても質の高いものがありました。現代はほとんど暮らしが消失してきていますからどうしても幸福度は高まりません、日本は現在は25位だそうですが、比較するのではなく暮らしの質をもっと高める必要性を感じています。

フィンランドは福祉国家ですがIT技術も最先端を進んでいます。最近では政府が地元スタートアップとともにブロックチェーンを活用した難民向け金融・社会支援を開始したほか、国連がブロックチェーンを活用したプロジェクトを開始しています。近くにあるエストニアと合わせてこの二つの国は、新しい技術を使い自分たちの世界を広げ注目をされています。

また男女平等では110年をかけてその社會を構築し、工芸品、教育制度、安全面、汚職の少なさ、報道の自由、すべてにおいて世界の最高峰に達しています。

人口は550万ほど、国土は日本と同じくらい。実際の経済規模は小さくても一人当たりGDPなどを見ると豊かで自由な民主主義国です。そしてOECDレビューにおいては「世界で最も競争的であり、かつ市民は人生に満足している国の一つである」と2014年には報告されています。

フィンランドは収入、雇用と所得、住居、ワークライフバランス、保健状態、教育と技能、社会的結びつき、市民契約、環境の質、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っているのです。

大自然豊かで、芸術、伝統、文明すべてにおいてバランスよく取り入れ発展を続けています。精神文化も、日本と同様に八百万の神々を信じあらゆるものにはいのちが宿っているという思想も持っています。

国民の人格が国家の国格でもあるように私は思います。私が生まれる前の明治前後の日本を私はこの目で見たことはありませんが、きっと今のような雰囲気だったのではないかともこの国にきて直観しました。

どのような発展の仕方があるのか、そしてその国家理念は何なのか、そこに住む人々の歴史や生き方を学び直しながらその国の宝の磨き方を、日本の子どもたちの未来のために一緒に深めてみたいと思います。

 

共育

自然農の田んぼでお米作りをしていますが、お米の育つ力を信じてどれくらい手を貸せばいいのかに気づくのに何年もかかりました。具体的には、こちらが育てるのではなく、相手だけが育つのではなく、如何に一緒に育っていくか。こういう視点が持てるようになるのにとても時間が必要だったように思います。

育て方や育ち方などのマニュアルは多く出ていますが、「一緒に育つ」というものの考え方はまだ少ないように思います。

本来、生き物は信頼しあい信用し合うことで「共に育つ」ものです。

共に育つからこそ、はじめてどこまで手を貸せばいいかわかり、どこまで見守ればいいかもわかってきます。たとえ、出来が悪くても一緒に育ちあってきた時間はかけがえのないものです。

現在の価値観は結果重視ですから、結果や成果が悪いとすべてを台無しのように扱うものです。しかし実際は不出来であろうが、見た目が悪かろうが、一緒にいのちを燃やし、一緒にご縁を結び、一緒に思い出を共有し合った仲間であり、家族である事実は変わることはありません。

本当の意味での仕合せや喜び、豊かさはこの共育なかにこそあります。つまり古来からの教育とは共育ということでしょう。

自然の仕組みを先生にして私は教育を語ります。私の教育の考え方は、大学で論文を提出して博士になったわけでもなく、世間から評価や名誉をいただいているわけではありません。しかし自然がそうなっているものを学ぶのは、古来から人類の学び方の原型であり、その原点を基準にして今の生き方に反映させていくのが学問の醍醐味だと私は思っています。

教育者ではないのに教育者を語る不届き物かもしれませんが、実際に生きものが「育つ」という真理は、教育者が育てたのではないと私は思うのです。つまり一緒に育ったのです。その育つものを育てたものがもしもあるとするのならそれは「場」が育てたのであって教育者が育てたのではないのです。

そんなことは自然農で稲をつくってみれば必ずわかります。

引き続き、保育の仕事をするからこそ本質が何か、自然がどうなっているのかを子どもたちの傍で伝承していきたいと思います。

苦労の本体

昨日、自然農で収穫したお米の稲架け(はさかけ)を行いました。これは古来からある伝統的な方法で現代では人工的に機械で乾燥させるため見かける機会も減ってきました。

稲刈り直後のもみは約20%の水分を含みますが乾燥後のもみの水分は15%程度まで減少するため脱穀・調製やその後の貯蔵にとても効果があります。さらにこの稲架けの乾燥方式はお米の品質に及ぼす影響が大きいといわれ普通20~30日かけてゆっくり十分に乾燥させると品質、味覚がよい米に仕上がるといわれています。

また「はさ」の意味は、 挟(はさ)むの意とされています。今回は、長い竹を切ってそれを木に吊るし、その竹に一束ずつ藁紐で縛った稲を真ん中から広げてそれを竹に挟んでいます。

以前、稲架けしたときに雀が大量に飛来してきて食べていったので今回は釣り糸を用いて対策をしています。

次第に乾燥して色合いが変化し、黄金色の稲になっていく様子は格別です。また田植えから草取りなどを仲間と一緒に苦労し合ったことが懐かしく思え、この稲架けをみるたびに心が豊かに満たされていきます。

現代の農法は、ほとんど機械を使って一人で大量に生産します。私の自然農は、機械は一切用いずに肥料も農薬も一切入れませんからすべて手作業です。この農法は実際にはかなりの手間暇もかかり苦労ばかりです。

しかし一緒に取り組んでくれている仲間との豊かな思い出や、見守ってくださっている協力者のお陰様を身近に感じ、食べ物の大切をさを学び、自然の仕組み学び、生き物たちの共生と貢献の姿に癒され、水や太陽の恵みに感謝し、季節のめぐりの有難さ、五感で味わうお米作りの喜び、心の安心と安堵感、生きていくための智慧、お米の持つ偉大な力、野生のしたたかさ、風の持つ価値、土の魅力、まだまだきりがないほど出てきます。

苦労というものの本体は、一体何なのか。

苦労とは、いのちの味わいを与えてくれるものかもしれません。いのちが何を味わいたいと思っているのか、そして味わったことで感じる自分のいのちの仕合せは何なのか。

私たちは活かされているということを結局は学び、生きることを味わうことをやりたいのです。人間や人類は、この世にきてとても大切なことを忘れないために存在している生きものなのかもしれません。

だからこそ、どのような生き方をするのかは生死を度外視しても必要不可欠なもののように思います。一瞬一瞬、一期一会にこのいのちを大切に苦労していきたいと思います。

ありがとうございました。

煙の智慧

スモークサウナを深める中で、燻製のことを書きましたが同時にそもそも煙とは何かということを考えてみる必要があります。私たちは煙というものを見ても、それが一体何の煙であるのか、煙はどうなるのかを考えることが少ないようにも思います。

身近では焚火で出る煙、たばこなどの煙、車の排気の煙、火事の煙、工場の煙、他にもお灸の煙、お香の煙、蚊取り線香の煙など煙にも色々とあります。その煙は、見た目は同じに見えても実際に排出されているものはまったく成分が異なります。

煙は一般的には不完全燃焼によって発生した固体や液体の微粒子を含んだ空気のことを言います。煙は気体だけではなくそこには煤をはじめ個体や時には液体も混じります。あまりに微粒子過ぎて目には観えませんが煙になってそれが空気と合わさって広がっていきます。完全燃焼して煙が見えないときも、実際にはその微粒子は空気に広がっています。

黒煙や、濁った煙がでるときそのものは不完全燃焼しています。この不完全燃焼とは空気中の酸素が足りずに炭素とうまく合体できない状態ことを言います。炭素は酸素と合体すれば二酸化炭素になりますが酸素不足になるから一酸化炭素になるのです。そしてこの一酸化炭素が有毒の気体になりこれが窒息死などの原因になります。

人間は酸素を吸い続けなければすぐに死んでしまう生きものですから酸素不足になればすぐに呼吸困難になるということです。

二酸化炭素はCO2で一酸化炭素はCOですから、酸素Oが足りていない状態が一酸化炭素ですからその酸素を求めている状態が不完全燃焼を示すのです。

むかしの家は隙間だらけでしたから囲炉裏や竈があっても一酸化炭素中毒になることはありませんでした。しかし今の家は、気密性が高くほとんど魔法瓶ですから窓を閉め切った状態で火を熾せばすぐに一酸化炭素中毒になってしまいます。

そして煙には無色透明なもの、白いもの、黒いものがあります。完全燃焼すれば無色透明ですがそれでも煙は出ていることになります。そして白いものは湯気のように水分です。黒いものについては炭素の微粒子です。つまり湯気が液体で炭素は個体なのです。スモークサウナでいえば煙は炭素で、蒸気は水分ということです。

煙の中の炭素の中には、カルボニル化合物やフェノール、有機酸などあらゆるものが含まれます。その成分が防腐効果や殺菌効果なども発揮します。つまり有毒のものであっても使い方次第では、燻製にするための材料にもしたのです。

万物には、善悪があるように一長一短がありますし使い道次第では効能もあれば害毒もあります。

むかしの人々はそれをよく観察し、上手く暮らしに活かしたところに深い智慧があるように思います。引き続き子どもたちのためにも、残したいもの譲りたいものをうまく建築や仕事に取り入れて伝承していきたいと思います。