聴く姿勢

人間は、無敵の時と敵だらけになるときがあるように思います。敵だらけになるときは、総じて誰の話にも耳を傾けず独善的に自分が正しくて周りが間違っていると思い込んでいるものです。その時は、一番身近にいる親しい人や、自分のことを心配してくださっている友人にまで敵だと思い込んでしまったりするものです。

では無敵であるとはどういうことか、それはこの反対に人の話に耳を傾けるという時です。人は、話を聴いている状態の時は自分の間違いに素直に気づくことができ、人のアドバイスや忠告を謙虚に受け止め周りの人たちのことが仲間になります。仲間になれば敵はいませんから無敵となるのです。

人間は、話を聴けるかどうかが何よりも自分の状態を確認できる物差しです。大体、人は自分にとって都合の良い話や自分が聞きたい話を探し求めているものです。その逆に、耳の痛い話や聞きたくない話は耳を閉じていたり避けたり、無視したりと耳を傾けることはありません。

この耳は、聴くと書いているように心に直結しています。自分の心が聴きたくないことは耳を閉じればいいのです。耳を閉じるというのは、話を聴かなくなればいいのです。しかしこの時、心を閉じてしまうから周りは敵に見えてしまうのであり心を開いていれば周りは仲間に見えるのです。

思い込みが強ければ強いほど、相手のことを先に決めつけてしまい話を聴くことはありません。確かに正しいか正しくないか、自分にとって有利か不利かはありますが本来は相手の言い分にも「一理ある」と聴くことこそが自分によって有利でありそしてもっとも正しいことに近づくことになります。

この「一理ある」という聴き方は、自分だけではなく相手のことを認めているという行為です。相手を認めず自分の思い込みだけを押し付けてしまえば相手は自分が尊重されなかったと感じてしまい信頼関係が崩れてしまいます。人間は、見た目が同じようでもそれぞれに個性が異なり持ち味を活かし合う生き物ですからお互いを尊重しあい信頼関係を築くことで協力して生き延びる戦略を発揮して社會を形成してきた生き物です。

だからこそその基本(ベース)には、「聴く姿勢」を持つ必要があるのです。素直さや謙虚さは自分の「聴く姿勢」に顕れます。自分から「きっと大切なことを教えてくださっている」という姿を持ち続けて、人の話を聴く努力ができる人が将来的に人格が磨かれ徳を高めていくように思います。

子どもたちも素直に謙虚に心を開いて自分らしく生きていけるように、聴く姿勢を正していきたいと思います。

人間を磨く

「磨く」という言葉があります。ではこの「磨く」とは具体的にどのようなものをいうのか、それは包丁などでいえば砥石で磨けば研ぎ澄まされてよく切れるようになります。これも磨いたということの一つです。他にも年代物の床や木を何度も拭いていけば、それも光沢が出てきて磨かれます。このように磨くというのは、繰り返し何度も何度もそのものの本質を引き出そうと取り組むことで磨かれていくのです。また「人間は磨けば光るダイヤモンドの原石」という言葉もあります。

ではその人間はどのように磨かれるのか。

それは人の話を素直に聴くということで磨かれます。なぜなら人は謙虚になることが引き出されることであり、謙虚になることでその人の本質が出てくるからです。そう考えると、まさにに人間関係こそが磨き合う本であり、人間は人間同士で関わり続けることで信頼関係を通して人格を磨き合いお互いを光らせているのです。

だからこそ自分自身にとっての「磨き」は、「信頼関係を築く」実践であり、そのために人の「諫言」や「忠告」、アドバイスを聴き入れることであることが分かります。自分に厳しいことを言ってくださる存在や、自分の過ちや視野の狭さを指摘してくださる存在、自分の間違いを正してくれる存在が磨いてくださる砥石なのです。

アドバイスを自ら聞かない状態とは、磨くことをやめているということになります。もっとも気を付けるべきは、プライドが邪魔して耳を傾けることをやめてしまい磨くよりも周囲の評価を気にしてコーティングしてしまうことです。コーティングが剥げないようにといつまでも人のアドバイスを避けていたら信頼関係が築けません。そうなるとその人の本質が磨けなくなりますから、さらにコーティングを上塗りし固めていくうちにそのものの本質や持ち味まで消失してしまうかもしれません。コーティングは簡単ですが、剥がすのは大変な作業です。

最初は自分が単なる石ころだったとしても、どんな石でも時間をかけて磨けば光ります。そして自分で自分は石ころだと思っていても、その石ころは悠久のいのちのリレーでバトンを受け継いだ親祖からの歴史がある石ころです。磨いて光らないはずはなく、単に自分で磨くのをやめているだけなのです。

自分で磨くためには、素直に周りの言うことに耳を澄ませて傾聴し、謙虚に自分で心を研いでいくのです。人は話を聞きたくないとすぐに独善的に自分が正しいと思い込んでしまいますがその時こそ、磨くことを忘れないで素直という素材を謙虚という砥石で磨こうと心を定めることかもしれません。

安心してそういう言葉が言ってもらえるように、信頼関係を研ぎ澄まし、常に自分が間違っていないか、何か見落としていることはないかと、環境に働きかけながら磨き方を日々に研鑽していきたいと思います。

 

 

むかしのいのち~もったいない~

昨日、聴福庵のおくどさんの間の天井煤竹の残りで装飾などを行いました。煤竹は、丈夫で傷まないのであらゆるところに活用することができます。飴色に美しくしなるこの竹は歴史を生き抜き燻されたいのちの凄みを感じます。

今の時代、何でもすぐに加工して大量生産をして本物に似たようなものを作ることができます。本物風の似て非なるものが、席巻しているこの時代では時代の篩にかけられて生き残ったものは古臭いものとして捨てられていることが多いように思います。

しかし少し考えてみればわかります。

この本物の煤竹を作ろうと思ったなら、100年から200年間、囲炉裏の上で日々に燻し続ける必要があります。そんな時間と手間暇をかけてつくろうとしたら、出来上がるのにこれから100年から200年待たなければなりません。ホームセンターなどで売ってある煤竹は、見た目は飴色風ですがこれは機械で一気に燻し加工することで本物風に似せているものです。

もしも先ほどの100年から200年の煤竹の大量注文をお店が頼まれたらすぐに「品物がない」と断るはずです。また「200年待ちでもいいですかと聞いて「はい」と答える消費者はいない」と答えるでしょう。

簡単に真似できるものと、真似できないものがこの世にはあります。いくら似せても、歴史や時間は似せられないのです。

私は伝統というものを考えるとき、かけてきた時間の長さを感じます。

人間は誰でも寿命を全うしたいとは願うものです。そのために、いのちを永く使い切ろうと大切に用いてきたのです。「もったいない」という言葉の本質や背景には、このいのちの大切さが籠められているのです。

そのいのちを加工して時間を懸けずに簡単に作りこまれて消費しては捨ててゴミにするという世の中では、いのちの価値もまた失われていくように思います。

すぐに加工して使える物を欲しがる風潮は、人間にまで影響を与えすぐに加工して使える人間を欲しがるようになります。

本来、時間をかけてそのもののいのちをじっくりと感謝して使おうという価値がもったいない心を育み、自然の智慧を活かす風土環境を醸成したように思います。

むかしのいのちの価値観が失われてきている現代において、子どもたちの感性にも影響を与えてきているように思います。伝統というものは、その歴史の時間を通して先人たちが守り継続してきた思いや願い、祈りがあります。

聴福庵の天井に配置した煤竹には、そういう祈りや願い、思いが入っています。引き続き、子どもに譲り遺していきたい生き方を伝承していきたいと思います。

空氣の本質~元氣な暮らし~

人間は空調に慣れてしまうと空気の流れや新鮮さなどを感じなくなりますが、むかしの古民家に住んでみると風が縦に流れているのを感じ澱みのない新鮮な空気の美味しさを味わえるものです。家の中では囲炉裏をはじめ、火鉢などを炭を熾してお茶を飲みますがその空気も床下から天井の屋根へと流れていく空気によって常に浄化されていきます。

以前、新潟のとある古民家宿泊施設に泊まったときそこは空調設備が整い現代のサッシの窓で厳重に閉め切られていたのですが、囲炉裏で火を熾したらすぐに一酸化炭素中毒の症状が出たことがありました。現代の住宅では危ないからと決して閉め切ることがないのですがつい古民家だから大丈夫だろうと安心していたのが原因でした。古い家でも、現代風になっているところは空気が循環していないのだなと改めてむかしの家の智慧を感じる善い体験になりました。

人間は空気を吸っていかなければ生きてはいけません。空気の中から水分を吸収したり、目には観えない様々ないのちのエネルギーを得ています。森林浴なども空気の中に入っている様々なものを吸収して心身ともに癒されていくのです。その空気が環境汚染によって汚れており、都市ではなお空気は汚れますから健康を害しているのは当然とも言えます。

以前、「医師が薦める本物の健康住宅」という記事を読んだことがあります。そこに小児科医の真弓定男院長の記事に「食事と空気を昔に戻せば、子どもはみんな元気になる」というものが書かれていました。

「特に、みなさんが普段何気なく吸っている空気の問題は重要です。何より気をつけないといけないのは、冷暖房で温度調節された空気です。人間は25日間、何も食べなくても水さえあれば生きていけます。その水も5日間程度なら飲まなくても大丈夫。でも、5分間呼吸をしなければあっという間に死んでしまいます。それほど空気は大切なものです。ところが、この空気をおざなりにしている人が非常に多いのです。
町中の空気より、自然な空気のほうが体にいいことは誰でも知っていること。それなのに、冷暖房や加湿器を効かせた室内で、一年中同じ温度、湿度の中にいるのは、あまりにも不自然だとは思いませんか?体には、もともと温度調整機能が備わっています。気温が高ければ自動的に毛穴を開いて汗を出し、逆に気温が低ければ毛穴を閉じて体を震わせ、熱を生み出す。そうやって体温を一定に保っているにもかかわらず、機械によって体の状態を保とうとすれば、体本来の機能が失われていくのは当たり前です。」

現在、東京では総合空調のビルの中で一日を過ごすことがあります。田舎で自然農や古民家で暮らしているなかで都会の生活に戻るとあっという間に皮膚や疲れが溜まっていくのを感じます。もちろん、病院の入院のように病気の時は回復に役立つのですが健康な時にはかえって不健康になるという具合に体温調節の機能などが働かなくなるのを自分の体験からも感じます。

田舎での体の活き活きした強さは、自然の中で五感が働き躍動することで得られる元氣です。都会は体はあまり使わず、頭ばかりを使うので五感よりも脳さえ動けばいいのかもしれません。しかしその脳も、便利すぎる都会の生活の中で空気や電磁波、食事によって働きが減退しているのも感じます。

さらに真弓先生は、「本来、外気と室内の温度差は、5℃以上あってはいけません。できるだけ外と近い空気を吸う。冬でも薄着の習慣をつける。それが子どもの健康を守る大事な秘訣です。」といいます。

自分の体をあまり甘やかさずに、少し厳しくすることで本来備わっている力を発揮させるようにする。健康を守るというのは、今の時代では環境に甘えずに自律して自立する生活習慣を身に着けるということかもしれません。

最後に、「本物の家」についてこう語られています。

「通気性のいい家とは、家の中の風が縦に吹く家のこと。昔はどの家にも必ず縁の下がありましたが、床下の空気が畳を通して1階に上がり、格子状の天井を通して2階へ行き、その空気が瓦屋根を通って外へ行く。昔ながらの木造旅館などがそのいいお手本です。すぐに新しい家を建てることができないという方は、窓を開ける習慣をつけましょう。外の空気となじませるだけでも違います。建物の空気を大事にすれば、健康面だけでなく、心ものびのび育つはずですよ。」

むかしの家にすれば、本物の家になるという言葉はまさに本質だと思います。

先人たちは、この土地の風土の中で私たちよりもずっと長い間、暮らしを営んできました。その中で得た住宅や家の智慧は、私たちが健やかに安心して健康に生きていくために創意工夫された努力の結晶とも言えます。

それを外来の異なる風土から入ってきた建物や家に住み、その翳った分を加工して乗り越えるのもそろそろ限界に来ているように思います。環境汚染が進み、気候変動やあらゆる資源が激減する中で、そんな遠くない未来に私たちは便利さや快適さを見直してでも健康で長生きし、安らかに豊かに暮らす方を選択することになると思います。

その時のためにも、先人の智慧を伝承することは今の時代を生きる世代の大切な使命です。引き続き、子ども第一義を実践し「本物」を譲り遺すために自立と自律を実践して継続継承していきたいと思います。

 

夏のしつらえ~清々しい涼しさ~

昨日、聴福庵の建具を「簾戸」(すど)しつらえました。本来は6月初旬から秋にかけてですが、ちょうどいい建具が見つからなかったためここの時期になりました。入れ替えてみると、ようやく夏を迎える準備ができた感じになり清々しい気持ちになります。

むかしの日本の先人たちは、夏の厳しい蒸し暑さをしのぐために様々な工夫をしてきました。例えば、身近であれば北から南に風が抜ける通り庭に打ち水をして調整したり、風鈴で音を鳴らし風を感じたり、桶に水を入れてスイカを冷やしたり、金魚を観照したり、団扇も夏の浴衣の色や模様も、その「心持の方も工夫」して涼をとってきました。

今のようにエアコンや扇風機のなかった時代、家も衣服のように衣替えし、障子戸や襖を、風通しをよくした「簾戸」に置き換えて工夫してきました。この「簾戸」(すど)は呼び名が多く夏戸、夏障子、御簾戸、葦戸でもよく、すだれ(萩、葦、竹ひご)をはめ込んだ建具のことを言います。

通気性のなくなった家の中は、モワっとするような蒸し暑さが増していくものです。学校の体育館なども同様に空気がこもって蒸し暑さにうな垂れますがこれは空気が通っていないために起きています。

襖や障子は紙でできているため水分を吸収しやすく保湿してしまい同時に風も遮断してしまいます。もしも襖や障子で閉め切った部屋になれば、自ずから部屋の空気が動かなくなり障子が吸った水分が溜まり蒸し暑くなるのです。しかし間仕切りしなければかえって外の窓からの熱が廊下伝いに部屋にこもってしまいます。葦の隙間から漏れる木漏れ日のような日陰に部屋の中が柔らかくなり空間がうっとりしてそれだけで涼が流れます。

自然の方を無理やり変えるのではなく、自分の心の持ち方や観方の方を転じていく。先人たちは心の工夫をしながら自然と共生し、自然の善いところを見て自分に都合が悪いところは自然を変えるのではなく「自分を変えて」さまざまなことに知恵を働かせて暮らしてきたのがわかります。

自分の思い通りの生活をすればするほどに我は強くなっていきます。自分の思い通りにならないことばかりに思い煩い不平不満を言って周りを変えようと文句を言う前に、先人たちの工夫のように知恵を働かせてかえってその季節を楽しむような素直で融通無碍な発想や転じ方をしていきたいものです。

自然と共生し、豊かに生きるということはそれぞれの持ち味や特性を生かし、それを適材適所に配置してその魅力を引き出していくことです。

夏の楽しみが増え、夏の模様替えが心の中に風を通してくれます。今年から聴福庵で清々しい夏をしつらえと共に過ごして古くて新しい暮らしを復古起信していきたいとおもおもいます。

 

野性のチカラ

昨日、熊本で自然を愛する会と共にヒューマンネイチャースクールを主催する方とお会いするご縁がありました。会が立ち上がってから43年間、自然と共に育ち、自然と共に生きる、「共育」・「共生」を願いに、登山やキャンプといったアウトドアをベースに、会員相互の親睦や社会奉仕活動・国際交流事業をはじめ、様々な活動を行っておられました。

お話をお聴きしていると、私たちの観ている子ども観と同様で「子どもはできないのではなく、知らないだけだ」という言葉に改めて環境が変わって得たものと失ったものの存在を再確認することができました。

公式サイトには、「子どもたちの現状とこれから」というところでこう書かれています。

『「生きる力を育む」ということで、教育の現場では様々な取り組みが行なわれているようですが、昔の子どもと今の子どもは何処が違うのでしょうか?食生活が欧米化したことにより体型の変化はあるようですが、本質的な部分は少しも変わっていないように思います。大人が作り出した社会環境の影響をまともに受けているだけで、子ども達は今も昔も子どもらしい部分は何も変っていないように思います。確かに今の子は、昔の子に比べて我慢強くありません。辛抱出来ない子が多いと言われます。しかし、それは大人の都合ではないでしょうか。出来ないのではなく、したことがない、しなくていい、する必要がない、知らないという環境にいるからだと思います。昔の人が創意工夫してきた知恵を含め、私たちが子どもの頃に当たり前のようにやっていたような体験が不足しているだけのようです。体験させ伝えてあげることができれば大丈夫だと思います。』

今の時代は、物に溢れ、環境に恵まれ、自ら何もない中で強烈に「求める」ということも少なくなってきています。現状に満足してこのまま特に大きな辛抱や苦労をしなくても生きていくことができる時代でもあります。そんな状況の中で、最初からやる前にできないと思い込んでいたり、どうせ自分にはできないと決めつけたりして諦めている人も多いように思います。

本当はそれは単に「知らない」だけで、何でもやってみようとすれば人間はなんでもできます。私も幼少期から何もない中で、様々に創意工夫してやってきました。それは今も会社経営をはじめ、現在挑戦しようとしていることも前例に囚われず諦めず「辛抱」して忍耐しながらも子どもたちの未来のためにと日々に新たな挑戦を求め続けています。

最初からできないと思い込んだり、大変なことを避けて苦労を嫌がるのは今の恵まれすぎた環境に対して本来備わっている生きる力が減退しているからかもしれません。農業一つでも、農薬がないとできないとか肥料がないから育たないとか、自然に育つ環境という観点ではなく材料や道具がないからできないと思い込んで最初から諦めていたら共に育つものも育ちません。

人間というものは、なんでも環境を整えて安心安全になってしまうと生きる力がなくなってくる生き物なのです。だからこそ、過保護過干渉にせず信じて見守りその人が育つために敢えて自分から主体的に活動できるような「自然野性環境」が必要になるのです。

この自然野性環境とは、五感を総動員し、ないものねだりはせずにどんなものでもすべて活かそうとする野性のチカラの発揮できる環境のことです。そうすれば元来備わっていた持ち味や活力が引き出されその人にしかできないチカラや魅力が顕現してきます。言い換えるのなら汗と苦労のチカラです。

あまりにも恵まれすぎる環境を与えれば与えるほど、汗も苦労もせず人間はもともと備わっている野性のチカラを消失していきます。そしてそのうち環境がないからできないと何かのせいにしているうちに自分自身も消失していくのかもしれません。

子どもの頃の野性のチカラを発揮する体験は、大人になってもその人の人生に自信を与えるように思います。自然の中で、創意工夫して生きた力はそのままに自分自身の可能性を拡げていくからです。

私も自然や伝統文化を愛するのは、そこにむかしからの先人の智慧を身近に感じるからです。先人の智慧は今のように何でも環境が整っている中では一つとして生まれてはいません。その智慧はすべていのちを使い切るような自然の叡智の中で創意工夫して実現してきたものです。

子孫たちに、その智慧が伝承していくことが生きる力を伸ばしていくいのちのリレーでありかけがえのないバトンになります。

子どもたちが置かれている現代の風土や環境をもう一度、研究し直し何を得て何を失っているのかを真摯に学び直していきたいと思います。

 

自己肯定感のこと

人は自分自身に自信を持つことで安心することができます。他人からの評価を基準にしていたら不安はいつまでも続き、自分自身のことを自分で認めることではじめて自分というものの存在を信じることができるようになるものです。

人間は幼い頃からの育った環境が影響して、自分自身との関係が出てくるものです。本来は自分のままでいい、自分らしくていいものが差別や偏見によって歪められていくものです。

いつまでも自己否定したり自己肯定感が低いままなのは、自分自身に差別や偏見の眼差しがないかをまずチェックする必要があります。他人から馬鹿にされたり、他人から揶揄われたり、蔑まれたりしたことが同様に自分も他人に対して無意識にそういう復讐心から偏見が入っていたりするのです。

自分に自信がないと自分の自信を持とうとすることは大切ですが、そのためにまた評価を求めてしまうのは自分自身の偏見がそうさせているかもしれないということです。思い込みの強い人や、決めつけの強い人の方が仮初の自信を纏っていることが多く、本来の自分らしくや自分のままでいいとは思っていないことが多いように思うのです。

誰しも人間であり、その人はその人のままが価値があると自分の偏見や価値基準なしに思えているかどうか。その観る目が、鏡のように澄んでいるのなら丸ごとの自分自身のこともそのままに認められるはずです。

自分のここは認めるけれど、これは認めない、決して見ようともしないでは向き合うことができないのです。人は自分自身と正対して、自覚して、自認してそれも自分だと認めるとき、自分というものの存在を感じます。

そのうえで、自分自身と折り合いをつけながら対話をしながら協力して生きていくとき自然体になっていくのです。自然体の姿は、差別や偏見のない姿になっているといっても過言ではありません。

自己肯定感が低いと不平不満を言う前に、自分の偏見や差別をなくそうと自他のことをもっと認めて本質を深めて人間を知ろうとしていくことが大切なのかもしれません。

すべての生き物にはいのちがあり、そのいのちは常に平等で普遍です。違いを認め合い、異質なものを受容するとき自分のことも愛せるようになるのかもしれません。

子どもたちが安心してあるがままに楽しく豊かに生きる社會を築いていきたいと思います。

心を笑顔(オープン)に

人間関係というものは、心をどれだけオープンにして信頼関係を築いていくかに懸かっているように思います。心が通じ合うことは、安心につながりそのことで関係が善くなるだけでなく仕事も遊びもすべて楽しく豊かになっていきます。

よく心をオープンにというと、自分の感情をさらけ出すことだと思っている人がいますがそれも一つの手段ですが反ってそのことで関係が悪化している人が多いように思います。本当は自然体でその人の真心や本心が出ている姿は、とても善い人なのに周りを気にしたり自信がなかったり自分を過度に守ったりしていると、反って周りに緊張する状況を与えて「あー、またもったいないなぁ」と思うこともあります。なぜなら人間は、自然体になればなるほどその人の本性や本心が出て周りも安心して自分も安心してその人の素の魅力が引き出されていくからです。素から磨くことは、玉を光らせる法理が活かせるからです。評価ばかりを気にして無理に我慢している時よりも、その人のことが全部観えた方がもっとも「その人らしい」し、みんなも本人との信頼が築かれ安心するからです。

例えば、日ごろ何もしゃべらない人に「本心をさらけ出して何かしゃべったら」というと反って黙られるか、ネガティブな感情をぶつけられることがあります。そういう人に「本心を言って」というと、かなりきつい攻撃的な言葉が出てきたりします。それを聞いた周りも衝撃を受け、その人を理解するよりも不信感や疑心暗鬼、またショックから涙したり辛い思いをします。言った方も言わなきゃよかったと思うし、言われた方も聞かなければよかったなどとも思います。こうなるとまた悪循環の連続です。

しかし本来、本心をさらけ出すというのは決して無理をしてそういう時だけ感情をぶつければいいという意味ではありません。普段から自然体で周りの人たちと接することを言うのです。ただここでの自然体は誤解されるのですが、「決して自分勝手に好き放題する」という意味ではありません。いろいろな感情表現を自然に出していたり、自分の思っていることや感じたことをそのままに話せたりできるという自分らしい自然体のことです。決して自然体とは、日ごろ自分の表情を偽り無理をして我慢していることの逆の意味ではないのです。

つまり普段から周囲を信頼し自分の感情としての優しい自分、楽しんでいる自分、明るい自分、我儘な自分、そして時折、悲しい自分、つらい自分、情けない自分、思っていることなどをそのままに表現して周りを信頼できていることがさらけ出している状態だということです。くどいようですが無理をして隠しているものをさらけ出せというさらけ出すではなく、普段から自然体でもいい状態になるようにさらけ出していくということです。さらけ出せば「自然に笑顔」が増えていきます。そして周りも楽しい笑いが増えていきます。そのためには、自分自身がリラックスできるような環境を用意したり、もっと自分が自然体でいられるように周りとの関係を築くために少しずつでも訓練していくしかありません。

もちろん訓練は時間もかかるし、挑戦も必要です。今まで隠して誤魔化して偽ってきたものを出したり怖いことや辛いことを乗り越えるのは、少しずつの勇気です。その勇気は笑顔になっていくという笑顔をさらけ出す勇気です。

最初から上手くいかなくても下手くそでも、笑顔を育てみんなが安心して、そして楽しく笑い合い豊かな社會を創造して自他が仕合せになるために「笑って」なんでも「楽しむ」こと、前向きに「ちょうどいい」と全体善に生きていくこと、笑う門には福が来るといいますがまずは「笑う」訓練からはじめていくといいと思います。

固まってしまった表情を崩すのは、自分の「笑い」の姿です。心をオープンにの定義は、「心を笑顔に」ということなのです。もっと自分の心が笑ったままでいられるように、周りを信頼して周りの笑顔が増えていくような自分の生き方を見つめていきたいと思います。

赤ちゃんや子どもたちの純粋で素直な素敵な笑顔や笑いが世の中から消えていかないように、困難を乗り越えて皆で一緒に心を笑顔(オープン)にする豊かな社會を創造していきたいと思います。

歴史的建造物

昨日は、万里の長城や明の十三陵を観光する機会がありました。実際に写真で見るのと歩いて見るのとでは大違いでその建造物のスケールの大きさに感動しました。また十三陵の永楽帝の長陵もまるで現在でも皇帝が佇み棲んでいるかのような荘厳絢爛な建造物にも感銘を受けました。

北京から少し離れれば、山水画に見たような景色が広がっています。偉大な山河が連なり、遠くから雄大な風が吹き抜けていくイメージです。この広大な土地で、人々が暮らしてきた足跡を直観すると四千年の歴史という悠久の流れを感じます。

この万里の長城は、1987年に世界文化遺産に登録されその長さは6,000km以上あるとも言われています。この長さを具体的に言うと、北海道から沖縄までが約3,000kmあり、その長さの約2倍以上の長さを「人の手」で作られたものです。

この長城は城というよりは城壁という感じですが、北方騎馬民族の脅威がありその民族が南下してこないように設けられたものだったといいます。実際には、長城のいくつかの場所には交易所もあり南から絹などの特産品、食料、北からは馬などを交易していたといいます。

しかし、お互いの勢力の均衡次第で侵攻が繰り返されたようです。初期は秦の始皇帝の少し前から造りはじめ完成したのは明の時代だとも言われます。そこまでで約2000年です。この間、ずっとこの北方騎馬民族との対立や戦争が続いていたというのは私たちには想像し難いものがあります。騎馬の時代が終わり、武器が火砲や戦車、飛行機になってからはこの長城は役割を終えました。今では、観光地として人の往来が盛んです。

そう考えてみると、この長城を境目に北方民族(狩猟民族)と南方民族(農耕民族)の関係が常に歴史の舞台に登場してきて国が変化し続けてきたのを感じます。それぞれの境界線の中で、人々は融和したり戦争したりとお互いの歩んできた道が重なり合い折り合いをつけていきますが簡単には折り合いがつきません。ここまでと線引きしても、それを超えてお互いにせめぎ合うのです。

世界の中でも現在、いろいろな国々も思惑から外交が続けられていますがその国の歴史がどうであったか、その国の価値観がどのような歴史によって仕上がってきたか、よく現地の人々の暮らしや生き方に目を向けてみればその心理や方向性なども洞察することができます。

そういう意味では歴史的建造物はその国の価値観を色濃く反映されているのです。引き続き、長く文化を交流したくさんのことを教えていただいた隣国中国から近未来の動向を洞察してみたいと思います。

中国のスケール

中国という国は、そのロシア、カナダに次いで世界第3位の大きな国土を持っています。歴史の長さも、人口の多さも、山河の雄大さもまたスケールの大きさを感じます。

さらに国土の広さは多様な気候や風土の存在も感じさせます。東側は海に面しており、西側は砂漠と高山地帯、南は亜熱帯性気候で北は極寒の地がありマイナス30度の世界です。この気候風土の変化から、様々な人種や文化、民族が存在しています。

中国というと、私たちの一般的なイメージは山水画だったりテレビで見かけるような海側の都市や北京などの首都の一部の写真が中国だと思い込んだりしますが実際にはあらゆる多様性に富んだ気候風土や人種が集まって存在しているのが中国の本体とも言えます。

日本でも、沖縄と北海道などでは気候風土も異なります。それに東北や九州などでも、地域の伝統文化なども差異があります。しかし中国は、方言を超えてまったく使っている言語も異なり、文化も異なり、肌の色や食べているものも異なっていたりしますからそのスケールが大きいことはすぐにわかります。それは国土が日本の25倍の大きさ人口が10倍であることからも理解できます。

最近は、中国人の観光客が爆買い、爆食、爆待ちなどと「爆」をつけられますがもともと、消費するエネルギーも私たちのスケールを超えているように思います。広大な土地で無数の他民族、多人口、多様な文化に支えられたそのスケールがその新しいものを取り込み取り入れる柔軟性やスピード感を磨いてきたのかもしれません。

現在は、経済の成長速度が著しくGDPは更新し続けておりまもなくアメリカを追い越し世界1位に近づいています。特に広大な土地を持つ中国では、地域での発展もまた極端に著しく最近注目されている深圳では、人類史上最速で成長している都市とも言われます。ここに住む若者は65%、老人は2%しか居らずたった30年で1400万人まで膨れ上がった都市です。

この深圳は経済特区に指定されており中国全土から稼ぎたい一攫千金を目指す夢を持って成功したい若者が押し寄せ、この10年で増えた人口は400万人以上、横浜やロサンゼルスまるごとに匹敵する規模で拡大しています。電気のバスや自動車も当たり前に走り、道ばたで果物を売る老人もスマホを手にしていて、決済はすべて電子決済で行われます。また自転車は大半がシェア自転車で、スマホでロックが解除できるほどになっているともいいます。

ITの分野でも過去の色々な経緯を辿らずに、突然に最先端のテクノロジーを使いこなすようになる。この速度においてもスケールの大きさを感じます。

中国のスケールの大きさとは、この人間の極端な柔軟性であり新しいものに対する受け容れる幅のスケールのことではないかと感じました。好奇心旺盛さは、そのエネルギーの源泉です。中国の成長の凄さを垣間見る気がします。引き続き、明日からの訪問でそのスケールを確かめてみたいと思います。