手入れ

「手入れ」という思想があります。これは一般的には、よい状態に保つために、整えたりつくろったりして、手を掛けることをいいますが私にとっては「磨く」ということと同じだと定義しています。

人はどんなことでも「磨く」ことで愛着が湧き、さらに磨く面白さがわかっていきます。この磨く面白さは、手入れの面白さなのです。少しずつ手入れをしていくうちに、取り組んでいることの本質を知ったり、そのものの価値を学び直したり、さらには関係性の中でお互いに尊敬、尊重しあったりすることができます。

これは人と物との関係もですが、人と人との関係もまた同様です。手入れをしていくことは、それ自体が関係性を結んでいくことであり、お互いのご縁の存在を磨き光らせていくのです。

磨くために大切なこと、手入れのためにもっとも重要なことはそのものの存在を深く知ることからはじまります。五感を総動員し、また第六感までも使い、そのものの存在に触れていきます。そうすると、そのものが何の役に立ちたがっているのか、なぜこの存在が生まれたのか、どこで活かすことができるのかが少しずつ見えてきます。

そして場数を経ることで次第に、お互いの善さがもっとも引き出し合える場所を見つけることができます。その場所を大切に守り、それをいつまでも手入れし続けることでさらに関係が磨かれ珠玉の輝きを発揮しだします。

だからこそ手入れを怠らないようにすることが、人間が人間らしく生きていくための智慧になるのは間違いありません。

一人一人が手入れをし、磨き続ければこの世はそれぞれが光り輝いていきます。そうやって輝いていく人が増えていけば、この世は明るく平和になっていきます。手入れすること、磨くことは、私の人生の大テーマです。

引き続き、子どもたちに手入れや磨くことを伝承していくために私自身が楽しく豊かに磨きを楽しんでいきたいと思います。

与贈循環の場

一緒に働く仲間が「与贈」についてブログで紹介してくれていました。私もこの言葉を知ったのは数週間前です。彼の説明では「自らの一切の利益を求めず、自らのいのちを何かのために使うこと。」、私はこれを真心とも呼びます。

私の思う真心は、一般的に言う頭と心の心ではありません。この真心は、自他一体の境地のことでありそのものと同化している状態、地球そのもの、宇宙そのものに同化している境地の時に出てくる心のことをいいます。

例えば、自分と境界線を分けているものが取り払われたとき私たちはその場と一体になっています。場が自分であるのか、自分が場になったのか、それはわからないほどに自然一体になります。この自然一体の状態のときのことを私は、「かんながら」と呼びます。

つまりは、まるで神様の依り代になったかのように純粋な心、そこには自他の別もなく、空と海が混じり合ったような透明な存在になっていきます。

私たちはなんでも名前をつけては物事の認識していきます。そして文字を書いてはそのものを説明していくようになりました。しかし、この世にあるものはすべて何かが変化した仮の姿でありその元はすべて同源のものです。

目の前にあるすべての道具も、自分の体も、そして天地自然界にあるすべてのものも、さらにはこの意識であったり、宇宙であってもそれは同源だったものが変化して形として顕れたものです。それに名前をつけていくら別のものにしたとしても、その本質は無であるのです。

この無が循環するところに場が生まれます。この無とは、有る無しの無を言うのではありません。元は同じであるという同源という意味、もしくは原点でもいい、その元のままという意味での無のことを言っています。

私たちがなぜ物を大切にする必要があるのか、そして如何に善きものを循環させていく必要があるのか、それは変化に偉大な影響を与え合っている存在であるからです。この善きものこそが、魂の故郷が住んでいる場所であり、その懐かしい「場」に出会うことで人々はいのちの本体に出会います。

私が家を直すのも、子ども心を守るのも、人類の智慧を伝承しようとするのもまた、この与贈循環を「場」によって顕現させていのちの安らぎやよろこび、しあわせの道を伝道していこうとしているからです。

徳が循環する世の中こそが、私たちの永続的な未来を保障するのです。

引き続き、一期一会に自分の人生を全うしていきたいと思います。

 

道徳経済一致

人類の創造する世の中は、道徳と経済のバランスによって保たれているともいえます。時代に時代によって、何を優先しているかで世の中のバランスが崩れていきます。今の時代は経済を優先し、道徳を後にしています。

二宮尊徳は、道徳と経済の一致を説きました。これは本来の道徳こそ経済であり、経済が道徳であってこそ本物の経済であるといいました。つまり道徳経済というものはすべて本来は一体のものであり無二であるということです。

それが今では、経済は道徳から離れた経済になり、道徳もまた経済から離れた道徳になっています。企業CSRを言われていますが、これは本来、どういう意味であるかということをそれぞれが深め直すことが大切だと私は思います。

だからこそまず取り組むことは、「徳」から考えなければなりません。徳とは、道徳と経済が一致した言葉です。この徳を磨き徳を高めることで、有徳の人たちが増えていきます。

有徳の人物が増えていくからこと、経済は富、道徳も豊かになるのです。まさにこれが富者有徳の原則なのです。

今の時代、これらのことが観えなくなっているかもしれません。しかし歴史を鑑みれば、藩政改革を行って成功した上杉鷹山もまたこの富者有徳の理念で人々を導きました。二宮尊徳もまた、心田開発といって人々から徳を引き出して徳の治世を目指しました。渋沢栄一もまた論語と算盤という言い方をしました。これは聖徳太子や、菅原道真、日本を創り上げてきた本質的な偉人たちみんなに共通するものです。

縁あって、金融の事にかかわっていますが私が本来、使命を感じるのはこの子縁といった子種、人類の子孫たちへの願いと祈りです。

引き続き、子ども第一義の理念で道徳経済一致を目指していきたいと思います。

大切にしたい文化~暮らしのひとこま~

昨日、インターンシップにきている学生がこれからカンボジアでボランティアを通して新たな学びにいくための「はなむけ」としてみんなでお餞別を渡す機会がありました。その内容は、現地で必要になりそうな非常食であったり、常備薬であったり、お手紙や手作りの玄米クッキーであったり、また路銀としてお金も集めて渡しましたがとてもあたたかい気持ちになりました。

日本では、むかしから旅に出る人や大切な門出にこれらのはなむけやお餞別を贈るという文化があります。これも大切な徳の一つで、離れていてもいつまでもこのご縁を結んでいることを実感して絆を深めていたのです。

昨日も「離れていてもいつも一緒ですよ」や、「またお便りをくださいね」や、「何かあったらいつでも連絡してね」や、「どんな学びがあったかまた共有してね」など、ご縁をいつまでも大切にしていきたいという思いが伝わってきました。

この「はなむけ」という言葉は、「《昔、旅に出る人の道中の無事を祈って、乗る馬の鼻をその行く先へ向けてやったところから》旅立つ人の安全を祈り、前途を祝して、酒食をもてなしたり、品物を贈ったりすること。」(コトバンク)とあります。平安時代の土佐日記にうまのはなむけと出てきますからかなり昔から続いている文化であることがわかります。

昔は特に交通機関が未発達だったでしょうから遠出の旅行には苦難や困難がつきものだったと思います。そんな時、仲間や家族は旅に出る大切な人の安全を祈願し物品や金銭や詩歌を贈ったり、宴を催したのです。人を大切にし、みんなでその人のことを祈る思いやりや愛、徳がこの文化の生まれるきっかけだったのかもしれません。

またお餞別のほかにも旅につきものである「お土産」は元々「宮笥〔みやげ〕」といい、寺院や神社に参拝した際の神の恩恵を、お守りやお札等の仏や神にまつわる物品と共に近所や親しくしている人々に分けようとしたのが本来の意味だったそうです。

「路銀」については、昔は村落で旅行費用の積み立てを行ったところもあったといいます。旅行者は村の代表として、村人から集めたお金で遠くの寺社に参拝し、帰郷の際には旅費の代わりに神仏の恩恵(お守りやお札など)と共に土産話を聞かせたといいます。村人たちは普段耳にすることのない異国の話を聞き、知見を広げたのです。みんなで費用を出し合ってその人がお土産を持って帰ってくる、無事であったことに安堵し感謝し、道中の様々な体験を共有できることで村のみんなで喜びや仕合せを分かち合ったのです。

むかしはみんな「暮らし」を大切にしていましたから家族のように接していたように思います。その家族が旅に出るのですから、みんなその家族の未来の幸運を祈り、みんなで自分の事ように寄り添って心の豊かさを分け合っていたように思います。

時代が変わっても、大切にしたい文化はこの日本にはたくさんあります。子どもたちがいつまでもこの国や歴史、先人たちの生き方に美しさを感じ、それが誇りになり伝承されていくように私たちも暮らしを大切にしながら子ども第一義の理念を実践していきたいと思います。

子どもの智慧~子縁伝承~

すべての生き物には、元来備わっている伝承の智慧というものがあります。これは今の生き物が種になり、次の時代にそれまでの文化が伝承されていくということです。私たちが生まれながらに、先祖の様々な体験を内在して継承し誕生していくように植物や昆虫、バクテリアに至るまでいのちは伝承を続けています。現在は遺伝子のことが解明され、明らかに遺伝子の記憶の中に過去の体験がインプットされることがわかってきています。

これらの記憶というものは、私たちは現在は文字や映像を使って遺していきますが過去には口伝という形で文字ではないもので伝承してきました。口伝は、その人の体内や生き方に記憶を宿し、それを口伝えにまたその生き方を継ぐ人物たちに伝承していく知恵です。

実際に、何千年前の神話のような歴史を口伝で伝承している民族もまだ残っているといいます。そして「場」での儀式を通して伝承し続ける信仰などもあります。

私たちは記憶の中で大切なこと、忘れてはならないことはすべて次世代の種に伝承する仕組みを持っているからここまで生き残ってきたとも言えます。先人の伝承の智慧はまさに現代科学の知識をすべて凌駕するほどの宝庫です。

しかし現代では、この宝庫の価値よりも目先の可視化された物理的な科学ばかりに頼り本来の目には見えない智慧のことを信用しなくなってきました。先人の智慧や伝承よりも、教科書に書かれているもの、科学で証明できるもの以外を信じなくなってきました。

短期的に見れば確かにすぐに解決することはそれらの知識で補えます。しかし長期的な問題はすべて智慧がなければ根本的な対応や解決をしていくことができません。先人たちは人類の子孫のことを案じ、智慧を譲るためにたくさんの犠牲を払ってきてくださいました。あらゆる災害に生き残る方法、あらゆる人災を未然に防ぐ方法、あらゆるいのちの生き残る術を記憶の中に留めおくように、それぞれに役割を与え、持ち場を守らせ、私たちの肉体や精神にその初心のようなものを宿していきました。

それを生まれながらに伝承されている私たちの智慧は、幼児期の子どもたちの感覚や感性、天与の徳性の中に見出していくことができます。

私たちが子どもから学び直す必要があるのは、その智慧を学び直す必要があるからです。子どもの智慧はまさに人類を救う鍵ですし、未来の希望そのものです。子どもたちがどんな時代でも次代の種の芽をもって生まれてきますから私たちはそれを手伝い見守っていくことでその智慧が育つのを助けていくことができます。

智慧の学問は、この幼い子どもたちから学び直すことです。

引き続き、子縁が結ばれ人類が新しい社會を創造していけるように見守る仕組みを伝道していきたいと思います。

子縁と故郷

子縁というものは、私たち人間社会においては何よりも重要なものです。子どもたちが未来を創造していくのだから私たちは子どもたちに今の知識を詰め込みそれをやらせることは未来を過去にしていくことになってしまいます。

そうではなく今の子どもたちを尊重しどう見守るかに大人たちの子縁における姿勢が問われます。過去から未来へ向かうのは、時間だけではありません。私たちの世代も自分たちが死に次の代が生まれてくるように、過去から未来へといのちは引き継がれていきます。

その「引き継ぎ」をどうするかは、とても大切なことでいつまでも自分たちのやり方ばかりを押し付けるのではなく次の代が挑戦し冒険できるように見守っていくことが引き継ぎをしていくうえでとても大切ではないかと私は思います。

どうしても人間は、自分のことを中心に考えて自分の視野に囚われてしまいます。それを少し離れて、人類は喜ぶか、地球は喜ぶか、先祖が喜ぶか、子孫が喜ぶかと視野を広げていくことで物事の捉え方を変えていけるように思います。

そうやって離れてものを見てみたら、子どもたちは生まれながらに次の時代の準備をしてきているのがわかります。私たちの世代が、今の時代に適応していくように子どもたちもまた次の時代に適応していくのです。植物であっても次の時代に適応する種になっていきます。

私たちの世代は一つの種ですから、種ができること、種としてやるべきことは一つです。子どもたちはその種を引き継がれ芽を出し花となり実をつけまた種になります。子縁というのは、子種でもあるのです。

子どもが生まれながらにもっている可能性、誰が教え込まなくても生まれつきにもっている伝承、そういうものを見守るところに保育の醍醐味と深さがあります。そしてこの時の保育とは、人類の引継ぎを示すものです。

子どもは希望であり可能性そのものです。子どもたちがどのように未来を創造していくかを子どもの姿を学び直していくとワクワクしてきます。その子どもたちが創ろうとする社會の手助けをしていくのが私たち大人の本当の役割だったはずです。

人類の故郷は子どもです。

子どもから学び、未来を創造するための仕組みを社業を通して発明したいと思います。

ナポレオンのエール

以前、スーパー公務員をモデルにしたドラマ「ナポレオンの村」というものを見たことがあります。これは限界集落をある公務員と村人たちで甦らせて活気を取り戻していくというドラマです。

もともと私たちは都市に住み、地方のこととは切り離して盲目に仕事に専念していますが実際は日本はいたるところで少子高齢化が進み、過疎が進み、空き家が増え、地域は手入れされずに荒廃を続けています。これは決して都市か地方かの問題ではなく、日本の近い未来を予想していくものです。

日本の政府も少子高齢化に対して様々な手を打ちますがそれで効果はほとんど出ておらず、このままでは限界集落で起きている問題がじわじわと真綿に浸み込むように国家全体に影響を与えるように思います。

この影響は国家理念に由るものであるのは間違いありません。これはまちづくりも村おこしも同じです。そこにいる一人一人が理念を策定し、その理念に対してできることをそれぞれが本気で取り組むことではじめてその理想は実現していきます。これは決して青臭いことではなく、本当のことです。これは会社経営であっても学校経営であっても、もしくは小さなサークルのような集まりであっても同様にみんなが主体的に目的に対して協働していかなければ決して理想を実現していくことができないからです。

何でも人は、やりたいことや目的から入れば主体性は発揮されていきます。それをやりたくないことをやっていたり、やらされていたりするのは本気になることを忘れてしまっているからです。

本気にさえなっていれば主体性は出ています、つまり熱中して努力できているのならそれは本気の証拠です。しかし本気になろうとばかりしようとしたり、本気かどうかばかりを迷っているのは受け身の証拠です。自分で決心し覚悟すれば、自ずから不可能に挑戦しようとするし、面白いことをやろうと思い始めるものです。それを抜けるかどうかはまさに自分自身によります。そのドラマの中で希望を与えるナポレオンの名言がいくつか紹介されています。まさに一つの現状打破の格言に満ちているナポレオンを参考にしたのは面白いと感じました。

「あなたの能力に限界を加えるものは、他ならぬあなた自身の思い込みなのです」

「あなた自身が信じていないことは、口で言っても、書いても、また、どのような行動をしてみても、他人を動かすことはできない」

「逆境には必ずそれよりも大きな報酬の種が隠されているものだ」

「人生の歩みは、自分自身の心から始まり、自分自身の心で終るのです」

「弱き人こそ薄情である。本当の優しさは強き人にしか期待できない」

そして心に響くナポレオンのエールです。

「勝利は、もっとも我慢強い人のものである。環境など何でもない。環境とは、自分でつくり出すものだ。お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにした時間の報いだ。」

 

長期的な視点

物事はなんでも時間をかけて現出してくるものです。今の社会は、何十年も前に積み重ねてきたことが現れたもので今突然出たのではありません。それは教育でもそうですし、生き方も同じです。

人間は死んだときにその人の生前のことが現出してきます。その人物が偉大であればあるほどに時間を経てその真価が現出します。歴史の偉人も、素晴らしい文化も、それは時間をかけて醸成されてきたものです。

現在は、すぐに評価を求めるあまり長い時間をかけて取り組むことは価値がないと思われていることもあります。経営が上手いという言葉一つであっても、目の前のことに対処して短期的に効果があることにばかりに費用対効果が上手な人をいうようになり、本当の意味で長期的に効果があることのために徳を積んでいくことを経営が下手だと言われたりします。

もちろん短期も長期も両方大事ですが、本来は長期的なものがあって短期的なものを処理していくのであって短期的なもののために長期的なものを捨てているようでは時間の経過とともに現出してくる問題に追われ続けていくように思います。

自分の代では叶わないことであっても、それを子孫のために取り組んでいくという長期的な取り組みや実践は必ず未来において徳が現出してきます。私たちの今の世の中を見渡してみたら、あまりにも目先の損得を優先するあまり環境問題や道徳荒廃、生活習慣病や精神疾患などかつて先人を含め自分たちがやってきたことが今に現出しています。

それに気づいたなら、将来のことを省みて今、長期的な視点でこれらの社會問題や人類の課題に対してそれぞれが取り組んでいくしかありません。そして何十年後の子孫たちが、その恩恵を受けて今の世の中がよくなってきたのを実感し、先人たちの実践を尊び継承して安心して平和を永続させていくことができます。

今の世代の責任は、長い目で考えたときにこそはじめて議論ができるように私は思います。今はすぐに自分自分と自分のことばかりを心配して、自分のことばかりを注目し目の前のことに対処していくことが最良かのようにニュースでも巷でも見聞きしますが本来、人類の思想は長期的に醸成され私たちに受け継がれているものですから正しく向き合い、場を育て、場をつくり、場を譲るということを場の思想を磨いて取り組んでいくことが私たち今を与えてくださった先人たちへのご恩返しと責任です。

引き続き、子ども第一義を実践し、何十年、何百年後の子孫たちに善いものを譲れるように、長期的な視点を大切にして徳の日々を積み重ねていきたいと思います。

暮らしの甦生

古民家甦生に取り組んでいると、建物の生命力というものをよく感じます。長い時間をかけて様々な災害を乗り越え今でも建っている建物には威厳と誇りも感じます。

現在では、建物は生命力よりも見た目のカッコよさや派手さまた流行りの美しさなどが人気があります。しかし古民家にはそういうものはなくても、自然本来の持つ美しさや生命力、そして文化があります。

長い年月の空き家などで傷んでしまっている家を見ることもありますが、たとえ今、誰かが住んでおらずに哀れな状態になっていたとしてもしっかりと手入れをし補強、改修、修繕をすれば、親世代、子世代、孫世代、さらにその先々までずっと住み継ぐことができます。

この住み継ぐということがいのちの循環を支え、持続可能な風土を実現させていくのです。

例えば、古民家には傾きというものがあります。現在のプレカット工法では、コンクリートの基礎の上にプラモデルを組み立てるように先に機械で設計をしてそのまま組み立てます。しかしむかしの工法は、固めの地盤に石を置くだけのものでした。そのため、何百年もたてば次第に沈んでいき傾きも出てくるのです。

現代工法は、数十年で壊して建て替えるように作られていますから傾きの心配はありません。しかしかつての古民家のように住み継ぐものは、何百年も建っている必要がありますから傾くことが前提で大工棟梁が木組みを考えて建てています。

昨年も、300年以上の古民家をいくつか見ましたが傾きがあっても安定し、かえって傾きがあることで地震や災害に強くなっていることも知りました。人間の体のように歳をとれば、次第に体も傾いてきます。しかし、その傾きもまた年齢の傾きでありそれでもしっかりと体は自分を支えています。

人間の体も建物と同じです。手入れや補強をしながら、生命力を伸ばし、自然の智慧や恩恵が働くようにその住まいを整えていくのです。

家も体も元は同じ、その中で私たちは住まう=暮らすのです。

暮らしの甦生というのは、住まいの甦生でもあります。それは単なる見た目だけの変化をするのではなく、生き方が変化していくことなのです。暮らしが変わるということは、生き方が変わるということです。自然と共生し新たな時代を共創することが、暮らしを甦生していくことです。

引き続き、古民家甦生を通して子どもたちが安心して暮らしていける世の中に貢献していけるように学び続けていきたいと思います。

かんながらの与贈

先日、贈与という言葉は聞いたことがありましたが「与贈」という言葉に出会いました。贈与はある人が誰かに無償で財産を贈ることを言います。しかし与贈になると少し意味が異なってきます。

その「与贈」について、場の研究所のフェイスブックにこう紹介されていました。

「私たちの「与贈」は、正確に言えば「〈いのち〉の与贈」です。いまマザー・テレサの愛のことばの本を読んでいたら、次のようなすてきな言葉に出会いました。『愛は分かち合わなければ、何の意味もありません。愛は行動に移されるべきものです。見返りを期待せずに愛さなければなりません。愛そのもののために何かをするべきで、何かを得るためにするのではありません。見返りを期待するなら、それはもう愛ではないのです。本当の愛とは、無条件で、何も期待せずに愛するということだからです。』(清水紀子訳)これほど「与贈」という行為の意味を正確に伝えている言葉に出会ったことはありません。場の研究所で、私たちが「〈いのち〉の与贈」と、〈いのち〉をつけているわけは、人間以外の生きものにも〈いのち〉の与贈循環を広めて、持続可能な地球をつくりたいと思っているからです。」

これは私の思う「徳」と同じです。愛を徳に換えればそのまま与贈ということなります。

私たちのいのちの中で永遠永久に存在しているものがこの循環している愛や徳、与贈です。それは生死を問わず、なくなっているようで存在し、宇宙の中にずっと積み上げられていくものです。

むかしの人は、それを「徳を積む」という言い方をしました。これは愛を与えることと、真心を盡すこと、そして自然が循環することがいのちそのものの本体だと気づいていたからではないかと私は思います。

そして私たちが今あるのは、かつてのいのちたちの屍の上で存在しています。時空を超えてめぐりめぐっているいのちの中で自然宇宙の中の恩恵そのものの偉大な場を舞台にして私たちのいのちそのものは何かによって活かされているということです。

当たり前ではないこの「場」の存在に如何に気づいて、自分をその「場」ではたらかせていくかがいのちそのものに同化していくことであり自然になることです。人類が永続する道もまたこの「場」に対する生き方次第です。

徳を色々な形で学び、その徳を如何に循環させていくかを私のかんながら(自然)の与贈から伝承していきたいと思います。