岩石の徳

BAのサウナのことを深めていく中で、岩石について調べています。世界には多種多様の岩石があり、様々な効果が持っています。遠赤外線を放射する石、微生物を殺菌する石、水を浄化する石、私たちが一般的に石ころと呼んでいるものでもその石が形成されるまでのあらゆる物語を秘めています。

特に、石の寿命は長く何億年、何千年は当たり前です。そして地球を中心に循環し、時には宇宙から隕石が飛来してきて地球の内部でまた混ざり合い新しいものに生まれ変わります。

その石の形成は様々で川で体積するものもあれば、プレート付近で圧力でできるものもあれば、マグマの高温によってできるものもあります。そのどれも大変長い時間と偉大な力を受けて出来上がっていることは間違いないことです。

私は幼いころから石が好きで、たくさんの珍しい石や相性のよいもの、偶然に出会ったものを持ち帰り大切にコレクションしていました。ある程度、増えてくると部屋が石だらけになるので庭に飾ったり、お気に入りの場所に隠したりしていました。

今ではその当時のようなコレクションはしていませんが、人生の節目で一期一会に出会ったものを宝石として大切に身近においてお守りにしています。

私は料理を炭でしますが、時折石をプレート代わりにして焼いて食べることがあります。むかしは土器を用いて、石を温めて料理したことが遺跡からも遺っています。私たちは石を温めることで、身体が癒された記憶があるようにも思います。

今回のサウナは、炭を使いますがその炭との相性のもっとも素晴らしい石と出会うためにこれから3か月かけて実証実験を行う予定です。どのような出会いが待っているのか、今からワクワクしています。

子どもたちに好奇心や夢、子ども心が伝承できるように私なりに岩石の徳に学び、自分のオリジナリティを追求していきたいと思います。

縁起とは

昨日は、天赦日ということもありBA(場)のご祈祷と引っ越しを行いました。この天赦日(てんしゃび)は天赦日とは「日本の暦上での最も最高な吉日」といわれ、新しく何か物事を始まるときのに選ばれる大吉日といわれます。この日は「百の神が天に昇り天が万物の罪を赦す(ゆるす)」という意味であり、六曜(ろくよう・りくよう)とは、暦に記載される日時や方位などの吉凶やその日の運勢を占う暦注の一つのことです。

天赦日の決め方は、立春から立夏の前日の戊寅(つちのえとら)の日、立夏から立秋の前日の甲午(きのえうま)の日、立秋から立冬の前日の戊申(つちのえさる)の日、立冬から立春の前日の甲子(きのえね)の日になっています。

日本人はむかしから縁起を大切にしてきました。この縁起とは、ウィキペディアには「縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す」とあります。仏教からのものですが、吉凶を占うものとして中国からの思想も入っています。

縁起というものは、兆しを観るということでもあります。

兆しが分かるというのは、タイミングが分かるということです。私にしてみれば、農家が種蒔きの絶妙な時機がわかるようにそれは一期一会の瞬間を逃さない仕組みだとも言えます。

自然の力をお借りするということは縁起を担ぐということでもあるのです。私たちは自分だけの力で物事を動かしているのではありません。そこには他力といった不思議な自然の恩恵を受けています。天赦日というものは、四季折々の中でもっとも自然の恩恵を受けやすい時機であるということでしょう。

時機時期に自分を合わせていくことは、かんながらの道を実践する私にとっては大切な初心の確認でもあります。子どもたちのためにも、確かな伝承を磨き続けていきたいと思います。

 

好きをつなげる

人は生きていく中で大切な何かに気づくものとです。その大切な何かとは、自分の人生の中で特に優先順位の高いもののことです。それはその人にしかない体験であり、その体験があるから自分自身の使命を感じるものです。

例えば、ある事故にあって人生が変わる人もあれば、ある人に出会って人生が変わる人がいます。それは一つのご縁ですが、その出来事によって大切な何かを悟るのです。

私の人生を振り返ってみたら、その連続であったように思います。今でも日々に出会う人によって自分自身が気づきによって変わっていきます。この気づきの連続が私を育て私を創ります。

人は自分というものを知るために旅をします。その人生の旅は、日々の気づきによって味わい深いものになっていきます。つまり気づくためには、その大切な何かをいつも求め続けなければなりません。自分を深く掘り下げて、日々の出会いの意味を掴み、日々の行動を省みて日々の生き方を磨き続けなければなりません。

自分の好きなことに専念するというのは、好きになる努力をし続けるということです。人生のすべての出来事を、大切な何かのために努力し続けるという実践が必要です。

どんな出来事であったとしても、大切な何かと常につながっています。一見意味のないようなことでさえ、後になってそれが大切な意味を持っていきます。ある人の傍で手伝い学んだこと、ある人の生き方から薫陶を受けたこと、ある人の行動から気づかされたこと、それもまたご縁と出来事によって大切なものを得ていくのです。

出会いを大切にする人は、一期一会に出来事も大切にする人です。

好きになるほどの努力をしたか、努力を忘れるほどに好きになったか、それは自分のいのちをどれだけ本気でつぎ込んだかという自分の人生への責任かもしれません。

自立ということを子どもたちに伝承するためにも、大切な何かのために好きをつなげていきたいと思います。

 

戦争を防ぐ

世界では今日もあちこちで国家間の小競り合いが続いています。第二次世界大戦が終わり、冷戦と呼ばれるようになりましたが実際には水面下ではずっと小競り合いは続いています。それがあるとき、大きくなり大戦と呼ばれるだけです。

つまり戦争は常に世界のあちこちで発生しており、地球のどこかでは常に血が流れ続けているのです。特にこの頃はそれが経済戦争にとってかわり、お金という武器を使って小競り合いを続けています。インターネットによる情報戦も過渡期に入り、いよいよ技術はギリギリの高さまで高まってきました。人類は追求する方向さえ間違えなければどこまでも夢を実現することができるのです。

どのような目的でその道具を用いるかで、その結果もまた変わっていきます。武器も使い方を換えればいのちを救うための道具になり、使い手の思想次第でどのようにでもなるのです。

人間にも大きく分けて二通りの人々がいて、ある人はそれを自分の利益になることだけに使い、またある人はそれを利他のためになることに使う人があるのです。歴史を省みると、平和が永く続いて世の中には道徳的な思想がしっかりと社會に根付いていたことがわかります。

その時代の人々が、どのように暮らしを、どのような生き方をしていたかが、その時代時代の栄光にもなり、破滅にもなります。それは時代を生きた人たちの命懸け挑戦であり、時代を創り続けてきた人たちの覚悟であり、そして伝承を守ってきた人たちの勇気でもあります。

私はこの今の時代、まるで逆行しているようなことに果敢に挑んでいます。実際には臆病者で小心者ですから恐怖や不安、そして身震いしながら前に進んでいます。見た目には楽観的であっても、あまりにも世の中の大多数の価値観を真逆に進んでいくことは信念が要ります。

ひょっとしたら時代時代に、そのような人物たちが存在しみんな同じように怖いながらも未来のために子どものためにと挑戦をしたのではないかと思うと先人たちに敬意の心が湧いてきます。

ある人は、変人と呼ばれ、またある人は狂人と呼ばれ、そして異端と呼ばれたり、反逆者と呼ばれたり、犯罪者と呼ばれたりもしたかもしれません。それだけ世間の常識に反するということは大変なことなのです。

しかしその人の動機が善であるか、そして私心がないか、また平和を求めているか、そのプロセスが思いやりがあるか、そして徳を積んでいるかといった基準で見つめれば真実は時間の経過とともに自然に顕現されていくものです。

純粋すぎる思いは、自己の魂に忠実であり、正直で嘘がありません。そういう不器用な生き方は、苦労が多いですが最短距離で誠実な場所へたどり着くように思います。

世の中が戦争を望んでいるからこそ、敢えて今こそ逆行してでも挑戦する価値があるのです。はじまってからでは遅く、始まる前にこそ人類に対しての愛で先人たちが祈り遺した想いを受け継ぎ伝えていく必要があると私は思います。

子どもたちのためにも、自己との対話と挑戦を続け勇気を出して取り組んでいきたいと思います。

 

地域の甦生

世界というものはそれぞれの地域が集まってできています。日本でもほんの小さな地域が、合体して村になり、町になり、群になり、県になり国になります。そしてアジアになり世界になるという具合です。

そう考えてみると、私たちの世界への出発点は地域ということになります。その地域をどのように発展させていくかは、地域に住む人たちの命題でもあります。現在は、グローバリゼーションが席巻し、ほんの小さな地域まで覇権の対象になったり大企業チェーンなどの収益源になっています。

そして地域の姿が次第に消え去り、地域と共にあった歴史や文化もまた消失していきます。高齢化が進み地域がなくなっていくのではなく、それまでの地域の価値観や定義が換えられ、地域の価値がなくなってきたことが地域がなくなる原因なのではないかと私は感じます。

地域の定義をはっきりさせ、地域で活動する人たちののそれぞれの役割を明確にしていくことでどのような地域にしていこうかといった理念がコミュニティを活性化し、その地域の文化を創造し伝承を促していきます。

地域といっても、その地域に住む人たちの地域愛が深いところはやはり居心地の善い温かさがあります。地域で仲たがいし、関係が悪く地域愛が薄いところはどこかそこにいくと居心地が悪いものです。

地域というものは、その地域に住む人たちの生き方が集積され集合されたものですから一人一人がその地域に対してどのようにかかわるか、そしてみんなで何を大切にしていくかということが優先されなければ地域という言葉そのものの定義から見直す必要があるように私は思います。

私も3年半前に故郷で古民家甦生に取り組み始めましたが、その取り組みを通して多くの素晴らしい方々や魅力のある方々、地域愛が深い方々とお会いしてきました。大切なのはそういう人たちを「つなぐ」ものを甦生していくものです。コミュニティを繋ぐものの中に哲学が入ることで、みんな地域とは何かを思い出すことができます。

改めてこれからの地域甦生と子どもたちの住みやすい世界のために自分にできることで貢献していきたいと思います。

風土の智慧

昨日は自然農の高菜の畑で除草を行いました。郷里の伝統野菜の継承のためにコツコツと育ててきましたが、ここ数年、連作障害などもあり土が弱りどうしても虫や雑草に負けてしまうことばかりでした。

今年は、土の甦生にも取り組むためマルチを敷いて様子を見ていましたがなんとか半分ほどは雑草とも共生し葉を出してくれていました。やはり8年くらい続けていると、高菜を好む虫たちが大量に発生してきます。

昨年は初期の頃の新芽の際にほとんど虫が先に食べてしまいまったく伸びていくことはありませんでした。手で取ってもとってもきりがなく、土の醸成と風通しが如何に大切なのかを学びました。つまり風土の智慧を得たということです。

この風土の智慧は、単に頭で理解できるものではありません、確かに身体全体で自然から体験により得るものです。智慧というものは、須らくこの体験というものが必要です。

体験が智慧を育て、智慧が体験を高めていきます。

風土の智慧は、風通しの価値に気づくこと、そして土の発酵の価値に気づくことです。この風を通すのは光であり、土を守るのは水であり、それらの調和には日と夜が必要です。そしていのちは、その中でゆりかごのように元氣を与えられて育ちます。

如何に人間がスマート農法などといって便利な機会で科学的につくっても、そんないのちの中にはいのちの充実はありません。元氣のない野菜を食べても、私たちは元気になることはありません。この元氣の素は、風土の智慧を存分に得ている中で育まれるのです。

そしてその風土には、関係性を持った人間の愛情が必要です。私たちは循環の一部になることで身体にその自然の一部を吸収し元氣をいただくからです。日々の食事で何をいただいているのか、決して忘れてはなりません。

農業は自然の一部になるわけですから、自然が元氣に調和すればするほどその一部としての私たちも元氣になってきます。畑が元氣になっていくのを観るのはとても仕合せです。

この後はカブラハバチの幼虫が増えてきますからまだまだ油断はできません。手で一つ一つ取ったらあとはうちの烏骨鶏たちの餌になります。うちの烏骨鶏もまた循環の一部です。

自然から風土の智慧を学び直し、この体験を世の中の経世済民に還元していきたいと思います。

素直に聴く

人間は一人では生きていくことはできません。完璧である人はいませんし、最強であってもその反対に最弱が発生するのが自然の道理です。完璧を目指している人は、自分の弱いところを受け容れずさらけ出さない人が多いように思います。その逆に完全を目指している人は、弱さも受け容れそれをさらけ出すことで自分の強みを知り、仲間や周囲の信頼を得ているように思います。

この信頼とは、自然体の時に行われるものです。自分が不自然であるのは、自分自身が自分のことをわかっていないからにほかなりません。実際にほとんどの人が、自分のことが分かっているようでもっとも分かっていません。

自己を正しく認識するには、曇りのない澄んだ鏡でそのまま自分を見つめる必要があります。もしもその鏡が、自分の見たくないものや見たいものといったバイアスで曇っていたら本当のことはわかりません。そういう場合は、一度その鏡を綺麗に拭き取り磨き上げていくしかありません。

なぜ自分の鏡が曇るのか、自分の願望や欲望や価値観、刷り込みがあるからに他なりません。幼いころは刷り込みがなかったものが、大人になるにつれて様々な刷り込みを持ってしまいます。その刷り込みをとって、ハッと目覚めるには素直になるしかないのです。

素直さというものは、先ほどの鏡を拭き取ることと同じです。日々に素直になろうと心がけていくと鏡が綺麗に拭き取られます。そしてもっと素直であろうと実践し行動すればするほどに磨き上げられていくのです。

素直さというのは、他人の話が素直に聴けるということ。そして自分の心の声が素直に聴けるということです。素直に話を聴くというのは、謙虚さと自信がなければ聴くことはできません。

具体的に言うと自分から心を開くには自信が必要です、その自信は自分の弱さをありのままをさらけ出せるような自他との絆や信頼に基づくものです。そのうえで謙虚さは自分のわからない大切なことを教えてくださっていると真摯に傾聴したり、自分の視野が狭くなっているのではないかと視座を高めてもらったり、相手が自分のためにこんなことまで言ってくださっていると心から感謝をしたりすることです。

これは自他との関係の構築の仕方でもあり、同時に自己との関係の構築の仕方でもあります。自分を大切にしない人が他人を大切にすることができないように、自己と対話できない人は自他と対話することもできないのです。

だからこそ「素直」であることは、自分の天分や天命に気づき生きていくために最も重要な修養の根本であるのは間違いありません。自分の本当にこの世で与えられている使命や役割は、素直になればなるほどに明確になっていきます。

それは単なる願望や欲望という類のものではなく、まさに澄んだ境地で今与えられているこの場、この今、このご縁を活かそうとします。それが真摯さであり、それが人生に誠実であるということです。

誠実な生き方は、自他を仕合せにするだけではなく社會をも幸福に導いていきます。一人一人が誠実に心を磨いていくことが世の中をさらに美しいものに換えていくように思います。

聴福人としての修養を積んで、心の声を聴き、心の持ち方を子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

夢のこと

私たちは寝ている時にたくさんの夢を見ます。その夢の中では、もう随分と会っていない人や、今まさに出会っている人、またもう会えない人、会ったことがない人がいます。

目を覚ますと不思議な感覚になり、架空上の物語を体験したんだろうと自己認識してそれを夢として片付けます。

予知夢はこれとは異なり、突然記憶の何かにつながりこれから発生する出来事をそのまま思い出します。これは未来のことを偶然に夢に見たのではなく、過去に起きていた出来事を思い出すかのように記憶につながりそれが鮮明に夢のように現れる状態のことを言います。

夢を見るのは人間だけではありません。むかし子猫や子犬や鳥と自宅で同居していたときがありましたが寝ている時に夢を見て泣いていたり、喜んでいたりという仕草をしていました。急に起こすと驚いて暴れたりしていましたから、きっと怖い夢だったのだろうと思ったことがありました。

またクワガタやカブトムシなども寝ていて突然、びっくりして動くこともありましたから夢を見ていたのかなと思ったことがあります。脳があるものしか夢を見ないと科学的には言われていますが、私は夢はすべての生命が観ているように思います。

そもそもこの世に生まれてきたことが夢のようであり、私たちは生きて様々な体験をしますがこれは体験できるような感覚を持たせてもらっているからです。あらゆる気温を感じる触覚や、痛みや苦しみ、そして快適さや幸福感、あらゆる感覚と感情はセットで私たちの生命を実感させてくれます。

夢のような人生を歩んでいる私たちが、別の夢を見るのは夢のように命を体験している最中であるからでしょう。そのうち肉体が滅んだとき、私たちは夢を見なくなりますがその夢のゆきさきはどこにいくのか。

すべての生命が奏でる夢の中で新しい世界はひらけていきます。

子どもの頃の夢が大人になって変わっていきますが、その世界も大切に見守っていきたいと思います。

ケの生き方

生き方を優先すると人は当たり前のことをしあわせに感じるようになるものです。それは当たり前の中にこそ、本来の求めている人生があり、その人生に気づくことによって私たちは何のために生まれてきたのかという初心に出会い続けることができるからです。

私たちは本来、生まれながらに生きる意味を持って生まれてきます。無理に生きる意味を探さなくても、あの草木や虫たち、動物たちのように生まれながらにこの世で様々な体験を味わえ、いのちを燃やすことで喜びを感じます。

この時の喜びとは、非常にささやかな暮らしや身近な何とでもないほんの些細な中に気づくことができます。何かをして喜ぶのではなく、何もしないのに喜ぶという具合に深い喜びに満たされるのです。

かつて民族学者の柳田国男氏が日本の伝統的な世界観を「ハレ」と「ケ」という考え方を定義しました。それは普段通りの日常を「ケ」の日、祭礼や年中行事などを行う日を「ハレ」の日としました。

しかし私はこの定義は下位概念での日常と非日常とを使い分けるだけで本来の上位概念であるいのちの生き方とは異なるではないかと思っています。つまり実際にハレとは、何かをすることで感じる仕合せと、ケは何もしなくても感じる仕合せという具合です。

私は暮らしを甦生する中で、何もしなくても心が満たされ仕合せを感じる機会をたくさん持っています。古く懐かしいいのちに囲まれ、自分もその中で同じようにいのちのつながりの中に存在すると感じるとき当たり前でささやかな暮らしに深い喜びを感じます。

その喜びはまさにケの仕合せであり、ハレの仕合せではありません。しかもハレは常にケの中にこそあり、ケがあるからハレが発生してくるとも言えます。つまりケこそ、ハレを内包しているのでありケであり続けることがハレそのものになっているということでもあります。

何もしないという豊かさは、心の豊かさでありいのちの歓びの本体です。

現代は、何かしなければという強迫概念のような周囲の環境や価値観で自分を見失ってしまう人も増えています。また忙しくなりすぎてしまい、自他の存在を蔑ろにしてしまう人も増えています。子どもたちはこの世界に来て、仕合せを感じられる機会が減ってきているようにも思います。

物が増えること、ハレが増えていくことが最上という価値観ではなく、むかしの人たちが実践していた心豊かな暮らし、そのケの生き方を甦生していきたいと思います。

 

変化する機会

近年、自然の猛威はさらに高まっており日本も台風や水害などの規模が拡大してきています。はっきりとした科学的なデータはありませんが、南極や北極の氷があれだけ急速に融けていき大量の水が海に放出されていきますがその水が一体どこにいったのかと思えばすぐに理解できます。

私たちの住んでいる地球は、水の惑星であり水が海から空へと循環してめぐりを続けています。その水量が上がれば当然、空から降ってくる水量も増えてくるのは自明の理です。海水温の上昇は蒸発する量も増やしますからその分、空の中にある水分量は確実に増加しています。

さらに台風は上空との寒暖差で起きますから、海水温が上がればそれだけ風の威力も上がります。マスコミやテレビのコメンテーターの部分最適の話ばかりを聞いているとなんとなく右から左に情報が流れますが自分の身近な自然現象に置き換えてみれば如何に今の環境変化が危険の方に傾いているのかはすぐにわかります。

私たち人間は、視野狭窄で短絡的になりがちですから急速な変化や危機は察知しますが長期的で緩やか、そして巨大な変化に対しては気づきにくくなっています。

そういえば「ゆでがえる理論」というものを思い出しました。この「ゆでガエル理論」はゆっくりと進行する危機や環境変化に対応することの難しさを戒めるたとえ話です。カエルを熱湯の中に入れると驚いて飛び出しますが、常温の水に入れて徐々に熱すると、カエルはその温度変化に慣れていき、生命の危機と気づかないうちにゆであがって死んでしまうという具合です。

急激な熱湯や冷水には反応できても、少しずつ起きる変化には気づかないで手遅れになるということです。これは生活習慣病も然り、思考のマンネリ化も然り、そして時代と錯誤していくのも然り、加齢して筋力が衰えていくのも然り、これは誰もが陥ることのように思います。

だからこそどうあるか、ここが試練のところだと思います。

変化とは、自分が変わっていくことです。自分が変わっていくのは、自分自身が何かをやめるということです。そして何かを変えるということです。気づいたらすぐに帰るということです。そのために行動をするということです。やめていないなら変わらない、何をやめるか、それまでの生き方をやめるということです。

人間が変化できなくなるのは、生き方が周りの環境によってぬるま湯になっていくからです。そうやってジワジワとぬるま湯に慣れていくうちに自分の生き方までぬるま湯に合わせて変わってしまっているからです。

初心を保つことや、信念にブレないこと、そして自分の決めた心に従うのは本気の主体性や自分自身の生き方への正対をし続けなければできないように思います。

災害から何を学ぶか、かつての人たちは災害をただの災害にせずそこから大きく変化する切っ掛けにして進化成長し続けました。

子どもたちのためにも、この変化に対してどう生きていくか。すべての災害は変化する機会になりますから先人に倣い、子孫へのお手本になれるように精進していきたいと思います。