暮らし方改革~暮らしフルネス~

最近、働き方改革という言葉が当たり前に聴かれます。しかし実際に働き方を換えているといっても、時短になったり、場所が変わったりするくらいでそれを改革とは言わないように私は思います。

そもそも改革というのは、それまでの意識が完全に別のものに入れ替わるほどの大きなイノベーションが発生したということです。それは言い換えれば、生き方が完全に別の何かに換わってしまうということです。

働き方改革が生き方改革であるのは、そのことから言えます。生き方が変われば、当然一緒に働き方も変わっていきます。それが生き方と働き方の一致であり、人生観が変わってしまい新しい人生がはじまったというくらいの変革が発生するということです。

例えば、人生観が変わるというのはどういうときか。

それは死にかけるような大病や事故、生死を分かつようなギリギリの体験をしたり、厳しい修行により悟るような体験をしたり、それまで信じてきたことがひっくり返るようなことに出会ったりしたときにも人生観が変わる人がいます。

この人生観が変わるとは、ある体験によってそれまでの生き方とは別の生き方を知り、その生き方に換わるということです。生き方改革とは人生改革ですから、それまでの人生とは決別し新しい人生を生きるようになるということです。

そしてその新しい人生を生きることを、暮らしが変わると私は定義しています。世の中でいうところの暮らしは、なんとなく生き方も働き方も変わらずにただ単に日ごろの生活の何かを少しオプション的に足したという具合のものです。道具が変わったり、衣食住を少し変えたくらいで暮らし方改革とかいったりします。

現代の便利な世の中で、なんでも大量生産大量消費の都市化された社会の中でいくら暮らしを換えたといっても変わったのはお金の使い方と時間の使い方くらいです。使い方改革という言葉がありませんから、使い方はたいして問題ではないということでしょう。

本来、暮らし方改革というのは別の人生を歩むと決めたときの副産物として日々の生活のあらゆるものが変わるということ。私に言わせれば、機械的な生活から生命的な生活へくらいの変化があったということです。

私の提案する「暮らしフルネス」はそれを実現するものなのです。

まだ言葉では伝わらないところも多いので、実践現場での体験や研修によって気づきを与えて変化を掴んでもらうしかない状態ですがそのうちこれがコロナの御蔭で新しい常識になっていくことを確信しています。

子どもたちの未来のために、暮らし方改革を実践していきたいと思います。

お堂の甦生~徳積堂~

徳積カフェの建築が進む中で、この場の名前を復古起新しています。現在、深めているものは「お堂」です。この堂という字は、会意兼形声文字です(尚(尙)+土)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」でできた字です。意味は「こい願う」と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」を現します。

そこから、「高い建物・神社・寺院」を意味する「堂」という漢字ができたといいます。この堂は、 古く接客や礼式などに用いた建物。表御殿。表座敷。そして神仏を祭る建物。さらには多くの人が集まる建物で呼ばれました。

この堂というと、イメージするのが三十三間堂や、平等院鳳凰堂、他にも大聖堂など神仏をお祀りするところを思い浮かべます。ひょっとすると現代では、お菓子屋さんの名前や広告代理店の名前、本屋さんとかいう人もいるかもしれません。

しかしかつては、辻堂やお堂といって村々や町の中でみんなが集まり親睦やコミュニティを育むオープンな交流拠点であったのです。他にも、山伏たちが休む室堂であったり、茶堂といって茅葺でできた旅往く人たちをもてなしたものもあります。日本には古来から人々をもてなす風土信仰があり、その風土信仰を支えた場の一つがお堂だったのです。

つまりはこの「堂」の持つ意味を考えてみると、読んで字の如くその「土地の風土と信仰と交流を見守る大切な場所」ということでしょう。なんとなくお堂が温かく懐かしい感じがするのは、お堂が地域を支えてきたことを心が憶えているからでしょう。

今では、西洋的なカフェがその役目を果たすようになってきていますが本来は「お堂」であったことは歴史に学べば自明します。私は、徳を伝承していくことに精進していますからこのお堂の甦生は大切な使命の一つです。

今回、徳積カフェが完成し、徳積堂として甦生することがとても楽しみです。

最後に、堂で有名な言葉に「堂に入る」があります。

これは論語の中で、孔子のいう「堂に升りて(のぼりて)室に入らず」が語源ですが堂に入るは「堂に升りて室に入る」を略した言い方で、客間にのぼり奥の間にまで入っていることから、奥義まできわめていることを表します。

徳積みの修業はまだまだはじまったばかりで終わりは永遠にありません。なぜならこれは人類の欠かせない修業であり、未来永劫子孫たちが担っていく大切な徳目だからです。

人々が子孫のためにみんなで堂に入るために磨いていく場。

まさに徳積堂は、子どもたちの未来のためにも欠かせない大切な徳の場になっていくと確信し、懐かしい未来が到来することを心から祈念しています。

徳積上棟式

昨日は、徳積カフェ建築の上棟式を無事に執り行うことができました。棟梁と家主が中心に、関係者で真心を籠めて進めていきました。祝詞をあげ、御祓いをし、祭壇を設けて塩、米、酒、小魚で四方を祀り拝みました。

この上棟式(じょうとうしき)というものは古くから木造建築の棟木を上げる時にその守護神を祭って、末永く新しく建てた家に禍いがなく、幸多かることを祈願して執り行うものとされてきました。木造建築にいのちを宿す極めて重要な意義を持っていたといわれます。

古来の人々は、すべてにいのちが宿ると信じていましたから一つ一つに大切な儀式があり、その儀式を通していのちが損なわれないようにと接してきたのです。

儀式をしながら地鎮祭をしたころのことも思い出し、ようやくここまで来たかという思いです。完成した後というのは傍目ではわかりませんが、実はそこまでは一つ一つのプロセスを少しも手を抜かず丹誠を籠めて大切に取り組みます。

その一つ一つの思い出の中に、真心は籠り、その後の「場」が醸成されていくのです。何を基本とするか、何を基礎とするか、建物も同じですが基礎がしっかりしておけばその後の建物は盤石であるように、最初のプロセスを丁寧に通っていくことが私は何よりも重要であると感じています。

さて話を上棟式に戻しますが、昨日はちょうど暦の十二直の「定(さだん)」という建築の上棟式に相応しい日に執り行いました。この十二直(じゅうにちょく)とは、中国で誕生した北斗七星の運行をもとに創られた暦(日時や季節をはかるもの)のことです。

よく六曜といって、大安や仏滅などで葬式や結婚式などの日時を決める暦もあります。もともと中国では甲骨文字でもわかるように、亀の甲羅とかで吉凶を占ってきた歴史があります。中国は歴史が長く、あらゆる経験を積み重ねてその経験値の智慧を取り入れてきました。それは漢方や、暦にも使われています。

星占いなどもありますが、天の運行に従ってこれをするタイミングを見計らうために経験を暦で記録したのではないかと私は思います。農家も同様に、ある意味で天候に対して占いをしているようなものでどの時期に種蒔きをするか、いつのタイミングがもっとも根をはるか、雨を占いながら執り行いますから似ているものがあります。

十二直は特に、北斗七星といった不動の目印を参考にタイミングを計りますから時機を見計らうのに効果的だったように思います。この北斗七星の回転を12等分し北極星に対してどの位置にあるかで時間や日・季節を表すために作られたのが十二直ということです。

十二直は、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉からなり、昨日は「定(さだん)」の日でした。jこの日は、物事が定まる日、善悪が決まる日といわれ結婚、移転、建築、開店、種まきに吉。ただし、訴訟、旅行、植木の植え替えは凶。とされてきました。

物事が定まるというのは方針を決め、覚悟したとも言えます。

徳を積むことで運営していく、徳を中心に実践をする場と定めたとも言えます。改めて、このような場がこの時代に創生できたことにご縁の導きと仕合せを感じます。前人未踏の挑戦を続けますが、あらゆる天の運行にお任せしながら丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

 

徳法一致

現在、世界の国々では徳治国家か法治国家の間で様々な政策が検討されています。しかしそもそもこの徳治や法治というものは、本来は目的であるものが手段に入れ替わり、今では別の意味で使われていることがほとんどです。

そもそも徳や法そのものが、思いやりからのものであるのならそこに使われる手段もまた思いやりに満ちたものです。しかしそれがネガティブで疑心暗鬼のものならその徳や法もまた別の意味に挿げ替えられるのです。

人間は、自己中心的な生き物です。

自己を中心として、善悪を決め、そして自分が正しいかどうかの基準を自分の都合で入れ替えていきます。それは歴史が証明しているものであり、現在の国家間のいざこざも冷静に分析すればそれがすぐにわかります。

例えば、人類共通の徳というものがあるとしたらあらゆるいのちへの思いやりです。一緒にこの世に生きているもの同士であるからこそ、相手のいのちもまた自分のいのちの一部と捉え大切に慈しみ接していくこと。自然界の生き物たちはまさに徳治の本質です。

自らで律し、自らが共生するために協力し合う社會を育てることが本来の徳であり治まるということでしょう。そういう意味では、徳や法は外側にあるものではなく人間力といったそれぞれの内面の中に磨いていくものであるのです。

一人一人がみんな自己の中にある欲望や自利的なものを治め、バランスを崩さないように暮らしていくこと。言うなれば自然にかかわり自然との共生に力を貸し、その利子分だけでみんなで分け合い賄うというシンプルな暮らしが徳治であるともいえます。

法治からみた徳治、徳治から見た法治というような対立概念ではなく、徳法一致の全体調和を目指すことこそ、原点回帰であり人類の末永く発展できる未来ではないかと私は感じます。

そのためには、徳法一致する仕組みが現在に必要でそこにブロックチェーンの仕組みが活かせるのではないかと私は信じているのです。

子どもたちのためにも、徳積の智慧を用い時代に挑戦してみたいと思います。

聖域の甦生

日本には古来から山岳信仰というものがあります。これは山は神の宿る聖域であり、子孫を見守る祖霊が鎮まるところと考えられていました。まさに山が信仰の源泉であるというのは先祖代々から根幹の意識があります。日本創生の神話の時代から私たちは山に深く見守られ、山から慈愛をいただき、山によっていのちを育まれてきたという思想です。

日本には富士山をはじめ霊山と呼ばれる山々が存在します。そして故郷にも故郷を代表するような山があり、私たちは暮らしを山と共に発展させ、山と共に築き上げてきた民族でもあるのです。

その山には、修験道というものがあります。これは山につくる道場のことで、山に入ることでいのちの原点を学び本来のいのちに還るような修行の場です。私は、日本では鞍馬山を大切深く尊敬しており山に行くことであらゆるいのちのインスピレーションを感じて自己内省をする修行をしてきました。そのことで人格を磨く機会を得て、実生活の暮らしを換える機会を学びました。

この「修験」道場という言葉の語源は、「修行して迷いを除き、験徳をあらわす」という意味だといいます。つまり「場」で実践し体験するなかで徳が磨かれ悟りを開く道のことです。

そして山岳信仰で有名な山伏は、山に伏して修行する者という意味で「山伏」と呼ばれるようになったといいます。山伏らは山を祀り、登拝して祈願し、舞や踊りを奉納し山を祈願の対象としてきた人々です。山での暮らしを通して日々を見つめ直し、新たな生き方を導いて人々の心の穢れを祓う役割を果たしてきたのかもしれません。

明治以降、明治政府の神道での国家統一による神仏分離令、その後の修験道廃止令の煽りを受けてそれまでの山岳信仰の伝統廃れ、戦後は宗教として生き残りはしましたが娯楽的な登山やハイキングなどが入ってきていよいよ山は単なる趣味やアミューズメントなどの一環になってきました。キャンプ場をつくり、グランピングなどができ、信仰の山という日本古来からの伝統のイメージが薄れてきているとも言えます。

本来のものが歴史の中で挿げ替えられていけばそれまでの系統が分からなくなってきます。そうやって人類は歴史をそれぞれの時代の価値観で歪めてきたとも言えます。しかし山は変わらずにそこに存在しています。

自然崇拝とは何ぞやといえば、その土地の風土や自然から本来の徳が顕現したものを悟り自ら自然に近づき謙虚に共生を学び直すことのように私は思います。私たちを産み育ててくださっている存在に気づき、その恩恵に感謝し徳に報いる生き方を実践することです。

何度も里に降りては人間は余計な争いや自然から遠ざかり心を痛めてきました。そんな人々が心を蘇らせ、徳を甦生させてきた場こそ、この修験場としての聖域であったのでしょう。

これから私は日本古来の思想とブロックチェーンを使った聖域をこの地に発祥させていくつもりです。自然を味方に、子どもたちに遺し譲りたい未来を創造していきたいと思います。

バランスを保つ

日本人にとって当たり前と思っていることでも、世界ではとても評価されることがたくさんあります。それは日本文化と呼べるものの中にこそ多く存在します。教えられずして自然に陶冶されてきたもの、風土で醸成されてきたものこそが真の教育の本質であり文化であるのは世界共通の普遍的な原理です。

現在は、その普遍的な原理を捻じ曲げるようにあらゆる情報を操作して集合的な価値観を操作し現実を歪めて本質を本質風に仕上げていきました。

それを繰り返している中で、次第にひずみが出てきているから余計な苦労が増えていくのです。本来の自然に気楽に自由に仕合せを味わいながら進化成長することをやめ、無理やり努力して苦労して真面目に取り組むことで頑張れば仕合せになれると信じて進化成長をさせようとするという具合に換わってきたのです。

後者の歪が嫉妬を産み、比較差別を産み、不平等を産み、人間らしさを奪っていくのもあります。決して前者が正義で後者が悪と裁いているのではなく、バランスが悪くなってしまうとそのどちらかということになり、社会もまたその価値観によって一色に塗られると閉塞感が出て偏った問題になっていくのです。

人間はバランスを保つためにも人格を磨く必要があります。

その人格は、社会の中で磨かれていきます。人間は社會を通して、お互いの行き過ぎた行動を反省し改善していく生き物です。その反省と改善こそバランスのことであり、私たちはもっと振り返り対話をする時間を大切にする必要があると私は思うのです。

私は、一円対話という仕組みを考えてそれを実践して弘めていますがこの時間を持てるかどうかにこそ文化醸成の秘訣があると思うのです。人類はただ前にだけ進む生き物ではなく、懐かしい未来を同時に生きるものです。かつての人たちが目指し実現した世の中、そして未来に向けて改善したいと反省した世の中を同時に生きています。

常にこの世のバランスを保つためには、私たちがその両輪の意識を維持し続ける必要があるように思います。世界の中で、私たち日本人はそのバランサーのモデルになれると思うのです。

子どもたちに先人たちの智慧を伝承していきたいと思います。

健康的な老い

私たちは加齢していき、体の機能も減退していきますが意識の方は加齢しません。なので、実際に身体の声を聴いていなければ、身体と意識のバランスが取れなくなっていくものです。

例えば、若い時に食べれた量を同じように食べたら胃がもたれたり、疲れの取れ具合、また筋肉痛がやってくる時期などもズレていきます。このズレこそ、自分の頭の中にイメージして意識している自分の肉体と現実の違いがはっきりしてくるものです。

他にも急に手足を事故で失ったり、触覚や味覚障害などの五感の急な症状の変化でも意識と体の変化に気づくものです。つまりイメージが先にあり、それに合わせて体を動かしていくのです。そのイメージ通りにならなくなっていく変化を感じることは今の自分の状態を把握するうえで大切になっていきます。

ゆっくりと変化していくことにおいては、イメージのすり合わせはさらに困難になります。時計の針のように、数時間や数十分のズレならすぐに気づきますが、1,2分や数秒のズレには気づくことができません。

どこからズレを修正し、イメージを切り替えていく必要がありますがその方法は自分の状態を常にチェックしながら今の本当の姿を自覚自得して受け容れることです。

老いたくないと思っているからこそ、老いと向き合うことを避けてしまいます。しかし現実は老いていきますから、その老いはいくら避けてもそれこそ追いかけてきます。

老化することは避けられないからこそ、老化を遅らせていくことしかできません。若くなることは不可能ですから、老化のスピードを緩やかにして長寿社会の中でできる限り健康を維持していくのです。

仕事も同じく、かつてのようには働けなくなりますからその現実を受け止めて働き方も換えていく必要があります。そのためにも暮らしを見つめ直す必要があるのです。

先人たちの暮らしを見倣いながら、健康的な老いを味わっていきたいと思います。

許容範囲

私たち、すべての生き物は自然の中の許容範囲をそれぞれが持って生活しています。いわゆる、範囲ようなものですが生きていくために必要な許容量の範疇を与えられているということでもあります。

これは虫から動物まで範囲があります。その範囲内で一定数を保っているのですが、それが大幅に超えるとどうなるか。自分たちで数を減らすか、移動して広げていくしかありません。最近、ニュースで見かけるサビトバッタなどは増えすぎて生きていけないために移動しながら作物を食い荒らして最後のところまでたどり着いてほぼ死に絶えます。他にもセイタカアワダチソウのような雑草も広がるだけ広がり、その後数を減少します。

本来、多様な種類の生命はお互いに範囲を分け合いながら許容量を超えないように自律して共存しています。それがもっとも長くそこに居ることができるという自然の持続可能な仕組みであることを知っているからです。

人類もかつては、それぞれの範囲で少人数で暮らしを営めば自然の許容範囲内で周囲と分け合って共存していた時期もあります。しかし現在は、先ほどのサビトバッタやセイタカアワダチソウのように人口を増加させ世界中に食料を求めては移動しています。

さらに人類の難しいのは、それを科学の力で乗り越えようとしあらゆる人工物をつくっては許容範囲を超え続けて地球の自浄作用を抑えこむかのように自然破壊を続けます。地球はそれでも偉大な自浄作用によって許容していきますが、問題は人口が増えすぎた最後は一気に減るのではないかという自然の摂理を免れないという事実です。

増えすぎた人口はどのように減っていくのでしょうか。

現在のコロナウイルスもまたその一つかもしれませんが、歴史を観ると人間同士の争いがもっとも減る理由になっていくように思います。現在、ソーシャルディスタンスとかいっていますがこれよりも大切なのは人が住み分ける範囲をお互いに保つことではないかと思います。

人が一人で住むために必要な許容量の設定を、地球の土地のサイズから割り当ててみる。その上で、どれくらいの数が適正なのか、そしてみんなで分け合って生きるためにはどのくらいの生産と消費、そして周囲の生命を活かし発展させていけばいいのかを人類で割り当ててみんなで努力していくのです。

自然の風土によっては、人口が増えれない場所もあるかもしれません。その場所場所でみんなで適量を守っていき、助け合っていけば自然の許容量の恩恵を永遠にいただくことができます。

地球の資源を貪りつくしてすべて取りつくして一番困るのは誰か、それは人間のはずです。

分かっていてもやめられないのは、考えられるのは人類は人類によって洗脳されているからです。自分たちで自分たちの洗脳や刷り込みを乗り越え、脳を整えて、本来のあるべきように回帰するには脳をなんとかするしかありません。知性をどう活用するのか、智慧を如何に尊重するのか。

使えるけれど敢えて使わず、便利だけど敢えて不便でいるというような人格を磨く必要があります。どうやってこれから先、数千年を子孫たちに遺していくか。もしくは数万年人類が生き残るために今、何をやるべきで譲るべきか、子どもを愛するように、人類を愛する素直さと勇気が求められています。

いつでも決めた時が間に合う時です。

引き続き子どもたちのためにも、最善を盡していきたいと思います。

伝達とは

人間は伝達させる技術を発達させてきました。これはコミュニケーション能力といって、人間社會では何よりも重要な能力の一つになっています。

如何に人間社會の中で、お互いに良好な関係を築きながら暮らしを営むか。色々な個性がある中で、どのように社会の中に居場所をつくるかは人間の命題でした。

また人間は、一人も同じ顔の人がいないように指紋が異なるように個性というものを浮き出して社會で自分の役割を得ようとしていきました。現代の教育が敢えて同じにしようばかりするのを見ると可笑しなことだと国家の意図を感じますが、本来人間は異なり違いが出るようにと発展し進化を已まないのです。

また異なる存在というのは、それぞれにメリットとデメリットがあります。完璧な存在などなく、必ずそこにはそれ相応の強みと弱みがあります。

それをどう活かすかで、新たな居場所もまた創造します。

本来、社會が性善説であり好意的な世の中であれば信頼関係があるのなら伝達技術もそんなに分化していくこともなかったように思います。いわゆる「阿吽の呼吸」のように、お互いに強みと弱みを知り尽くしていますからそれぞれの出番の中で共に社會を見守り合うのです。

しかしそうではない性悪説でシビアな世の中であれば信用を得るために伝達能力を駆使していく必要があります。映像や画像、数々の言葉、またあらゆる態度や姿勢や外見にいたるまで分化していきます。そして一部の価値観が同一のコミュニティを存在させ、そのコミュニティ同士での対話や社会で伝達の確認をしていくようにも思うのです。

そういえば、「むかし人類皆兄弟」という言葉を知り、世界のどの部族の人たちも「笑顔で通じ合い仲よくする」という話を聴いてしっくりきたのを覚えています。

もしも争いもなく、平和でお互いの異なりを大切にする世の中であれば現代のようにここまで複雑な伝達技術は生まれなかったはずです。そう考えると、果たして今のIT化や伝達技術の発展は本当に進化なのか。個人情報だの、セキュリティなど煩い世のなかになればなるほど、私たちは大きく退化しているのではないかなどとも考えるのです。

私はもともと直観タイプで全体最適や調和、一期一会のご縁や今のタイミングで総合的に把握し、丸ごとを捉えてコミュニケーションするという野性的な感覚優先のタイプですが、いちいち説明しないといけない世の中だから面倒でも理屈を学び、理論をつくり、伝達するための手法が技法を徹底して習得していきました。しかしそれも、最近では、新しい言葉や横文字を定義するのに疲れ気味で、世界の人たちとの交流も増える中で自然に「場」ですべて感じ取ってもらおうという具合に最近は面倒なことを避けています。

「場」は、私なりの伝達技術の原点であり、この場によってさまざまなことを理解し合い分かり合えるようにしています。

子どもたちにも、本来の人間らしい伝達ができる社會を創造していきたいと思います。

環境会議

人類は、果たして進化しているのか。

この問いは、とても大切であると私は思います。

そして進化とはそもそも何を指すのか。

私はこの進化については一つの結論が出ています。

理由は、いのちを観察すると観えるからです。

人間であれば、最初に赤ちゃんになります。

赤ちゃんは最初からすべてを持っていて、完全無欠です。

そこから刈り込みといって、不必要なところを削り、必要なところを残ります。

これを洗練とも私は呼びます、つまりシンプルにしていくのです。

その場の環境や状況、時代、周囲の風土に合わせて削り込んでいくのです。

そして顕現した姿が、その人の一生となります。

すると、進化とは何かに戻ります。

進化とは、そもそもの状態、原始のままでいることです。

現在翻訳される進化はどちからというとプロセスを指しますが、本来は結果を指すものだと私は思います。

つまり進化=原始なのです。

如何にシンプルであるか、如何に洗練されていたか、それは歴史を遡れば、今の文明社会ではないことは自明の理です。縄文時代、もしくはもっと前、人類は自然と一体になり心豊かに平和を続けた文明がありました。縄文人や原始人のことを、野蛮だとか、古くさい野生の動物のようなとか言いますが果たして本当にそうでしょうか。

それでは今の人類のいう知性と比べてどうでしょうか。

現在のようにゴミを増やし資源を吸い上げ環境を悪化させ欲とお金にまみれて差別や貧困、権力や戦争、これが知性であり進化でしょうか。

もっと本来のこと、真実のことを刷り込まれていない頭で考えることだと思います。

真っさらになれば、あるがままとは何か、本来がどうであったかに気づきます。私はこの本来がどうであったかを知ることが、生きる意味を学ぶことであり、ありとあらゆる学問が分かれる前の自然の姿だと思います。

伝統や伝承の中にはまだ連綿と真実のいのちの流れが宿るものがあります。

未来の人たちがこの時代をみたらどう思うでしょうか。

人類史の2000年、一部の人たちが何をやってきたか。それを人類と呼び、本来の人類の歴史を上塗りしてきました。100年後くらいの人は、今の私たちをバブルで欲望のままに突き進んだ世代などと呼ばれるのでしょうか。博打的に全部稼いだお金を使い切ろうとした世代とか言われるのでしょうか。

どちらにしても、子どもたちのことを思えばとても悲しいことです。

今ならまだ間に合う、そうやって奮闘してきたのもまた人類史です。人を愛するからこそ、諦めることができない、愛を知るからこそいのちをぶつけて夢を追いかけることができる。

環境問題の根源とは何か、今一度、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。