共存共栄の知恵 ぬか漬け

暮らしフルネスの一環でぬか漬けを新たに始めています。このぬか漬けの乳酸発酵はとても複雑で、様々な酵母菌たちが働いて美味しい漬物が出来上がります。すでに高菜漬けは10年目に入っていますが、高菜の方も仕組みは同じですが青高菜と同様に時間の経過で発酵が異なりますから絶妙な時間を逆算して漬物の状態と塩梅を観ながら調整していく必要があります。

日々の暮らしの中で、質素で豊かな食生活が続いていかなければなかなか手入れしにくいものです。現代では、飽食なほどに様々なおかずがスーパーで購入することができます。よほど漬物を毎日食べたいという人でなければ、このぬか漬けの手入れは難しいようにも思います。質素とは、単に食べ物が少ないのではなくシンプルな食生活の中にある深い味わいを楽しむということもでもあります。

新型コロナウイルスでこれぞ好機と暮らしフルネスに取り組んでいますが、かえって今回のウイルスの御蔭で本来の人間の健康的で自然な暮らしが取り組めると考え方も共生していこうとチャレンジする機会にしています。

ぬか床の原型をさかのぼれば2000年ほど前の大和朝廷時代の塩漬けをした野菜を保存するものだったといわれます。それが奈良時代になり「須須保利(すずほり)」という漬物が出てきます。これは今では存在していない漬物で、穀物や大豆を臼で挽き、それに塩を加えて漬け床を作り、カブや葉菜類を漬けたものだそうです。これが「ぬか漬け」になったといわれています。

正確にはいつからぬか漬けがどこで始まったのかというのは不明だそうですが沢庵漬けで有名な沢庵和尚の時代には米糠はつけ床になっていたと記されているそうです。そしてぬか漬けの発祥の地といわれる北九州は、小倉城藩主である細川忠興が城下の庶民にもぬか漬けとして広めたといわれます。その頃、白米の普及で米糠が大量に出回りました。白米になったことによるビタミンB1が不足し江戸時代では脚気が流行り病となりました。しかしぬか漬けを食べれば、それが補えるとしてぬか漬けブームになったとあります。

小倉城の近くの八坂神社には、400年のぬか床があるといいます。私が譲っていただいたものは250年前のものですが、その菌達の歴史を味わいながらそのいのちと共生し暮らしを紡いでいます。

日本人の先人たちは、何度も菌やウイルスによって大変な思いをしてきました。しかしウイルスにも菌にも一長一短あり、全部を否定することは存在そのものを否定することのように思います。

そうではなく先人に倣い、お互いの持つ特性を活かしあいながら共に生き、共に発展していく関係を結んでいきたいと思います。

徳は得なり 損も徳なり

安岡正篤の一日一言(致知出版)に「徳は得なり」のことが紹介されています。

【徳は得なり】

「徳」というのを平たく初歩的に言うと、
人間が自然から与えられているもの、
即(すなわ)ち得たるところのもの、
みな「徳」だ。

だから「徳は得なり」
という文字の註釈がある。

天から、自然から、
親から生んでもらって
与えられたものは
みな「徳」である。

しかしその与えられたものの内容はいろいろで、
その中の特に根本的なものを
他のものに対して「徳」という。

どのようなものを得てきたか、どのようなものを得ているか。それは私たちが自然に得ているものです。その得ているものを改めて考えてみると色々と観えてくるものがあります。

例えば、生まれながらにこの身体を得て、この地球で生きていくための機能を得ています。そして自分にしかない個性や特性を得ていて、その得たものによって自分らしい人生を得ていきます。他にも、美しいと感じる心や豊かな精神、志や魂なども先祖からの遺伝や経験、思想などを得ています。

そう考えてみると、すべて得ているものばかりで成り立っているのが私たちの存在です。この最初から得ているものこそ徳の元であり、私たちの徳とは即ち得によって知ることができるということです。

そしてまたそれを反転させてみると、損もまた徳であることに気づきます。得ていたものを取捨選択して他のものに与えていくこと。つまり得ているものを与えていくのが損とも言えます。

「損もまた徳なり」であるのです。

私は徳積財団を設立しましたが、それはみんなで徳を与え合う仕合せを創るためでもあります。徳が育てば、社會はさらに豊かになり幸せも循環していきます。資本主義経済が限界値に入り、もはや人類はここで方向を転換しなければ子孫の仕合せは保障できません。今こそ、徳に舵を切るときで大切な時代の分水嶺です。

壮大で遠望な挑戦もまた、徳を信じるからです。

引き続き、子どもたちのために徳に報いる生き方を優先していきたいと思います。

健康から学ぶ

植物や樹木には根があることで養分を吸い上げて成長します。農家が健康状態を測るときは、土壌の質とその根の状態を観ていきます。私が不耕起栽培でご指導いただいているメンターもまた、土と稲の根の状態を観て田んぼの健康状態を測ります。

明らかに土の状態がいいとき、その土には大量の菌類がいて活発に活動しています。また稲の根も深くまで入り、たっぷり菌と共生している様子が根に現れます。

人間であればこの土と根は何かということを考えると、腸内環境でありそれが便に現れていることを感じます。腸内で私たちは、養分を吸収しますから腸内の状態がよければよいほど、先ほどの植物と同じように菌と共生できているということです。

私たちは、自然のままにむかしから続く暮らしをしてその地域で食べてきたものを食べ、暮らしを営めば自然にそれに適応した腸内フローラになるように思います。それが生活が乱れ、おかしな食生活や、生活リズム、他にも住環境が乱れれば当然腸内環境も乱れていきます。

腸内環境が乱れれば、先ほどの植物では根の力もなく土も貧弱になりますから健康が害されて弱くなっていきます。

健康というものは、そう考えてみると自分の土壌環境や根の状態を知らせてくれる存在でもあります。自分の根が弱っているのなら、環境を換えていくことが大切です。特に人間は、動けますから自分から進んで改善をしていくことができます。

例えば、冬の間に蓄積した疲れをどのように取り除くか、他にも運動不足から発生する筋力の衰えをどのように改善するか。それは日々の暮らしの工夫によって改善できます。

免疫を高める工夫をする中で、改めて先人たちの暮らしの知恵の素晴らしさを感じます。色々と今回の機会で、取り組んでみたいと思います。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。

働く仕合せ

人生を振り返ってみると、人は役に立つことで仕事は発展してきたように思います。自分がやりたいかやりたくないかというよりも、自分が役に立つことが喜びで仕事は増えていきさらに働き甲斐が出てくるのです。

仕事がないというのは、単なるお金が貰えないという意味ではありません。仕事がないというのは役立つことがなくなったということです。これはとても辛いことで不幸せなことです。

私が以前お会いして感動した方に、日本理化学工業の大山泰弘さんがこのような言葉を遺しています。

「工場見学に来る小学生や中学生に『働くって、どういうこと?』と投げかけると
『おカネをもらうことです』って。大人たちがそう言っているんですね。でも僕は、働くとは、人に必要とされ、人の役に立つことだと思います。」

そして会社とは本来、社員に「働く幸せ」をもたらす場であると定義します。

働けることとは、役に立てるということ。人間は誰かの役に立っていると感じられるとき仕合せを感じ、その人が役に立つときまた仕合せを味わえるように思うのです。なぜそうならなくなってきたのか、そこには利己主義や利益第一主義、自分さえよければいいという資本主義経済の社会の影響を受けているように私は感じます。

誰かにとって必要と不必要が無理やりにわけられ、利益に役に立たないものは不必要として捨てようとする。いわゆるゴミのように扱い、ゴミのように接することはその人の個性を尊重したものではありません。

人間にはそれぞれ一長一短があり、また能力の差もあります。利益を出せる能力が高い人間だけを評価し、そうではない人間を粗末にするというのは皆が働く幸せを感じられる場にはなりません。

みんなが働く幸せを感じられる場というのは、能力で誰か特定の人が評価して仕分けるのではなくみんなが必要になる場を創造していく必要があります。

みんなが必要な場とは、シンプルにいえば「助け合いの場」を創造することです。社會は信頼し助け合うための場であると考えるのなら、自ずから仕事の定義が変わります。そして働く意味が変わります。そうやって、人間は社會をどのように創造するかで幸不幸に分かれていくのです。

お金をたくさん貰える仕事が価値があり、そうではない仕事は価値がないかというとそうではありません。みんなその仕事は必要で、時にはお金と関係しないような芸術や文化、伝統などもまたみんなが仕合せになる社會のためには必要な仕事とみなしみんなで助け合うべきなのです。

今回の新型コロナウイルスでも、ドイツなどはアーティストやフリーランスの仕事を国家において必要な存在であるとし大きな支援をしています。これは文化を守ることであり、民度が試されることなのです。

現在の政府の対策は、残念ながら視座が低く国民の幸福を優先しているものではなくその場しのぎである感じがします。緊急事態でもあり、きっとトップの方をはじめ周囲も不眠不休で対応されているとは思いますがこういう時こそ少しだけでも立ち止まってみて何が国家の本質的な成長につながり、何が国民の本当の仕合せになるのかと原点に立ち返ってみるといいように私は思います。

世界人類は、みんなでどう幸福な社會を創るか。

どこかの国だけが搾取し富み栄え、ある国だけが只管に貧困で苦しむ、これが幸福な社會なのかと向き合う必要があるのです。この社会を反対に読むと会社ともなります。

現在、発生している世界を巻き込んだ有事においてどれだけの人がこの出来事と本気で正対し、原点に回帰しこれからの社會をどうしていくかに気づけるか。そこに私は人類の未来が決まるように思います。

世界は一つなのだから、せっかく生まれてきたのだからみんなで働く幸せを味わい、誰もが助け合いによって必要な社會を創ろうと生き方や働き方を改革していくチャンスにしていくといいように思います。

子どもたちの未来のために、働く仕合せを追求していきたいと思います。

 

自粛よりも優先するもの

現在、コロナウイルスで自粛要請がありますがおかしなことがたくさんあることに気づきます。これはあくまで自粛できる人に限るものであり、自粛したくてもできない人たちのことは入っていません。

例えば、先日、期限があるため免許の更新にいきましたがとても密集していてマスクを外す回数も多く、換気もよくない密室で消毒するものもたいしてありません。免許は更新しなければ失効しますからどんなに感染拡大で警戒があっても行かないわけにはいきません。法律を優先しての判断でしょうが、結局は法律を破れないからそれぞれで自粛といいますが法律優先であればだれも自粛などできないのです。

他にも、保育園や幼稚園には毎日たくさんの子どもたちが来ます。あれだけ密集してマスクもできない子どもたちが日々に接していたら感染が拡がるのは当たり前です。特に保育園や幼稚園は、日ごろから感染症の集積場のようにあらゆる感染症をもらってくるところですから今回のコロナウイルスのような感染力が高いものであれば防ぐのはほぼ不可能です。

学校は休校するのに、保育園幼稚園は休校しないというよくわからない理由のせいで何を国家が優先しているのかもよくわかりません。感染拡大は国民のせいとなれば、みんな協力しようとすることができなくなります。

こういう時こそ、法律は一時的に度外視してでも国民を守り、そして国民もこういう時だからこそみんなで助け合い協力して乗り越えていこうとする必要がありますが現在のような疑心暗鬼の状態で不安や不満ばかりが蔓延すればせっかく日本にある人徳的に乗り越えてきた絆や知恵を活かすことができません。

国民を信じて、リーダーを信じるというのは、お互いに一つの目的のために協力しあうために尽力するときにこそ発揮されます。これは会社組織でも同じことです。社長も社員を守るために尽力し、社員も会社を守るために尽力するとき絆も知恵も活かせます。

まず何を優先するかを示さない限り、みんなは安心して助け合おうとしないのです。国家はいわば、家庭の大きなものです。家長が家族を守り、家族は家を守るために尽力する。

この当たり前のことができなくなっていることが、今回の自粛要請には見え隠れするのです。みんな他人事のようになっている組織の末路は、想像すればすぐにどうなるかわかります。会社でいえば、社員に自粛しろといいながら同時になんとかしろということを社長が言っては社長は何も具体的なことをしないということです。そんな状態の会社で、みんなが協力し合ってまとまる雰囲気がでるわけがないことは簡単にわかります。

家の経営、会社の経営、国家の経営、その道はどれも同じで規模間や人数は関係ありません。みんなが助け合うために組織を創造したのだから、本来の組織の意味を学び、活かしてこそ困難を乗り越える原動力になります。

死人がたくさん出て、悲しみがより深くなってきています。早く、目覚めて気づいて勇気をもって果敢に挑戦してほしいと願います。まずは自分から取り組み示していきたいと思います。

人類の助け合い

コロナ騒動で色々と報道をみていると、振り回されていることが分かります。最初に情報を隠蔽し、事実が不明確であればあるほど不安は増大していくものです。これだけ情報化社会になっても、情報を扱う人たちのモラルやスキル、人格が影響をするのがよくわかります。

単に、恐怖だけ煽ってもどうにもならず具体的にどのように対処しみんなで対応していくのかの智慧を集めないといけません。他人任せにして自分で考えないことが癖になってしまうと誰かが無責任に伝えてきた情報に右往左往してしまうものです。

こういう時こそ、原点回帰し災害にどう対応してきたかという歴史を学び、本来、これは何が発生しているのかということを洞察していくことで余計な情報に振り回されないように思います。

それに改めてはっきりと日本の現状を理解したのが、「画一的」であるということです。行政の対応をみても、テレビの報道をみても、みんな一斉に画一的であることにこだわっています。

現在は、自粛によってある特定の経営が非常に苦しい状況に置かれています。それは飲食店であったり、観光宿泊業であったり、人が集まるようなイベント会場業であったり、芸能であったり、本来は娯楽として存在していた仕事が途端に厳しくなりました。

むかしだったら、みんなで協力し合って助け合い苦しい時こそ手を取り合って乗り越えてきたように思います。町の中でよく利用させてもらった大切な場が失われていくのを望んでいる人はいません。こういう時こそ本来は、他人事ではなく思いやりをもってみんなで何とかしていく必要があるように思います。

日本はすぐに自己責任などといって突き放します。確かにリスクに備えているかどうかの時に自己責任を追及するのはまだしも、このような事態に遭遇している時にそれをいうのはあまりにも矛盾があるように思います。

歴史に学べば人類は助け合うことであらゆる困難を乗り越えてきました。つまり助け合えば乗り越えられない困難はなかったということです。これが人類の智慧であり、今まで存続してきた最大の理由です。

不安で不確かな情報ばかりをかじりついて見てばかりではなく、どうやって助け合うかをみんなで語り合っていく情報を発信していくことが本当の意味でこの難局を乗り越えるための要諦だと思います。

日々の改善や知恵、そして助け合いの事例を発信していきたいと思います。

楔を打ち込む

世界が同時にコロナウイルスが蔓延しています。地球は丸く、すべては海を通して一つにつながっています。改めて国境というものの意味のなさ、そして現代人類というものの傲りを感じます

そもそもむかしは、みんなで別々の地域に住み、多様な生活を通してあらゆる環境に適応する人々が存在していました。独自の生態系に独自の生活文化が多様にあることで、あらゆる気候変動や災害に備えることができました。

現代のように画一的に同じ生活文化を世界に広げてしまったことで多くの弊害が出てきました。これは過去の歴史で何度も学んでいたはずなのにまた同じことに遭遇しています。

のど元過ぎれば熱さ忘れるではないですが、人類は忘れてしまえば過去のこととして今驚いていますが、よおくむかしのことのを感覚的に思い出してみればおかしいと思うことがたくさんあることに気づくはずです。

それは道理に反していることが直観できたり、王道ではないと原理原則から外れていることに気づくことに似ています。そういう感覚的なものは、むかしの記憶にアクセスしているのです。

自然界においても、あらゆる生きものたちは自然の中に暮らしながら気候変動のサインを察知します。おかしいと少しでも思えば、行動に移して身を守り生活居住区も換えていきます。時には冬眠し、時には種として土深く潜ります。これは、生き残る戦略でありかつての歴史の災害の記憶をいつまでも忘れないために持っています。

人類の傲りとは、目に見えるものしか信じなくなり、かつての記憶を蔑ろにし、本来の直観や感覚よりも科学が勝っていると誤解したところにあるように思います。都市型の生活をみればすぐにわかりますが、災害に非常に脆弱なつくりになっていることがわかります。

もしもに備えているものがほとんどないのです。自然から離れることはかえって自然災害から弱くするということです。これはウイルスでも同じなのです。滅菌や殺菌などで無菌にしても、あっという間に耐性菌が出てきて広がります。しかも自分の身体の中に菌を何兆ももっているのだからそもそも殺菌とか滅菌とかしていたら最後は自分も死んでしまいます。

ウイルスも同様に、免疫をつけて共生している存在をすべて取り払うことは不可能です。自然界は共生するために、どうすればいいか、どのような戦略があるのかをすべての動植物やいのちの存在から学べるようになっています。

人類が頂点にいる錯覚を起こしたことに気づき、実は頂点ではなく自然界の智慧に敵わない事実を悟ることが今回のウイルスから学ばせてもらうことにように私は思います。

人類は学ぶことで成長する生きものですから、どんなことからも真摯に学び直し、改善し、努力していけばまたそれが別の方向へと世界を換えていけるように思います。今回の機会は二度とない機会かもしれません。しっかりと天からの教えをキャッチし、然るべきこれからの時代に楔を打ち込みたいと思います。

美しい徳

有事の時に、生き残るためにみんな必死ですがその中でも日本人らしい美しい徳が引き出されそれによって助け合いの風土が醸成されみんなが安心して危機を乗り越えるための原動力になりました。

本来、有事の時こそ草莽崛起といって日本では他人のせいにせずに自分が何ができるかと立ち上がって物事を解決してきた歴史があります。まさにこの今こそ、それが試されるときでありみんなで行動を示して日本という国、そして人々を守っていく必要を感じます。

私たちは災害時にこそ、原点に立ち返りどのような助け合いが生まれたかをもう一度思い出すことです。

熊本や東日本大震災でも、助け合いの光景はたくさん見られました。自分さえよければいいのではなく、譲り合い、並び合い、正直に嘘はつかず、自分の分を少し我慢して周囲のためにと尽力していました。

世界にも稀にみる道徳的な人々だと称賛され、日本人は有事のときこそ自分さえ善ければいいではなく、みんなのお手本になるようにと自分を律し振る舞ってきました。

この誇るべき「助け合いの精神」は、私は自他一体の精神からきているものと思います。相手の事を自分の事のように思いやることができる、自分のことで相手のことを思いやることができる。

つまりはいつも誰かを思いやりながら暮らしてきた民族の歴史が証明するように思うのです。共感力の高さや、傾聴力の高さ、同じ人間として平等に接し、すべてのことを自分事として心配する。

ここに日本人の自然風土、そして生活文化の中で育まれた歴史があるように思うのです。

私たちは誰もが同じ人間であり、いのちはどれも同じものです。それを慈しみ愛おしむ心を持てるのは、神話の時代からすべてを八百万の神々として接して暮らしてきた日本人の精神文化が源流になっているのでしょう。

こういう時だからこそ、みんなで助け合い、日本人が有事の時にどのように乗り越えてきたかを歴史に学び取り組むチャンスです。子どもたちのためにも、自分にできることを挑戦していこうと思います。

自然の篩

日本人として生まれるというのは、日本の風土が育てたといのちというものもありますが日本人の体質というか遺伝的なものも持っているものです。その両方が上手くかみ合ったとき、日本的な意識と日本人的な暮らしを味わうことができます。

この日本的なものとは、中国には中国的なもの、ドイツにはドイツ的なものがあります。それは生活文化の中で発見することができます。海外に住んでみてすぐにわかるのは、その生活文化がその国にしっくりくるようにできているということです。

今までどのように暮らしを営んできたか、その風土とどのように付き合ってきたか、そこにその民族の生き方が反映されています。民族の生き方は、その後私たちに言葉としてではなく教えられたことがなくても感覚として刻み込まれています。

それは五感でも感じますし、第六感でも感じます。例えば「懐かしい」という感覚の中には、かつてその生き方に触れたことがったことを思い出した時に感じているものです。

この懐かしいものを味わうとき、私たちは同時に太古の記憶にアクセスしてかつての暮らしを思い出しているのです。そしてその懐かしさがしっくりくるとき、まさに自分たちの生活習慣を確認し直しているのです。

それは遠い遠い先祖まで遡ることもありますが、私たちはそこから分かれて今がありますからその経過の中で学んだことを篩にかけて今があります。そしてこれからも私たちは篩にかけていきます。

自然界は、長い歴史の中で様々なシーンで時代が変わるとき、環境が変わるとき、自然が篩にかけていきます。もっとも生き残るものを残し、そうではないものを淘汰させていくのです。

私たちはその時々の価値観を抽象的に今に反映させて、なんとなく世界を創りこんで世界がそうなっていると信じ込んでいますが自然は流転しながら常に変化を已みません。自然が変化するとき、私達もまた変化を求められます。自然に合わせて自分を変えていく生き方は、歴史に学び、温故知新して今を刷新していくことです。

今回のコロナウイルスは、新しい環境変化の兆しを伝えてきたものかもしれません。

これからどう生きていくか、生き方の何を見つめ直すか、早速行動に移していきたいと思います。