意味の存在

世界には様々な歴史があります。その歴史の中には、それぞれに大切な意味があり物語を継承しています。そしてその物語はこの今の私たちにつながりその意味は私たちが世界に伝承することで人類の発展に貢献しているとも言えます。

その物語の中には、人類としてどうあるべきかという挑戦と冒険が溢れています。ある人は、こう生きた、またある人はこう生きたというものが、様々な組み合わせによって遺ってそれを受け継いでいくのです。

これは人類に限らず、すべてのいのちに必然的に存在する使命でもあり生死を度外視して私たちは「どのような意味を存在したか」ということを試みているのです。

その意味は、目に見えて残っているものとすでに消失して目には見えなくなっているものもあります。しかし、その「場」で行われた歴史や意味は確かにその空間に時を超越して遺っているように感じるのです。それは生きている私たちが、無意識に伝承されているいのちの様相であり、いのちある限り様々な物語や意味はずっと続いているのです。

近代に入り、ありとあらゆる人種が融和し融合し混然一体になってきています。数々の意味がここにきて合わさってきているとも思うのです。その中で、伝統というものはそれぞれの意味を純度の高いままに保存してきた記憶媒体の一つでもあるのです。

これらに触れることで、かつての純度の高い精神や魂から確かな意味や物語を継承する人々がいます。彼らは、新しい時代を創造する人類の叡智を使いこなす子どもたちです。

私が伝統の継承にこだわるのも、いくら宗教とか言われても構わずに「場」を伝承しようとするのもまた意味の存在を守るためなのです。これは私だけではなく、いのちあるすべての生命がやってきたこと、人類の歴史を鑑みればなぜ大切なのかは必ず時間が経てばわかることだからです。

意味の存在を見つめることは、自分自身を深く見つめていくことです。残された時間、少しでも大切な意味の存在を伝承できるように伝道につとめていきたいと思います。

人類共通の智慧

昨日は、UBC人類学博物館(MOA)と新渡戸記念庭園に行くご縁がありました。この二つはブリティッシュコロンビア大学の中にあり、緑がとても豊かな広大な敷地にゆったりと佇まいを備えています。

トーテムポールの展示や先住民族によるアートを含め、アフリカ、オセアニア、アジアなど世界の人類学のコレクションを収集し、約53万5000点もの収蔵品を持つ博物館です。とても一日ですべて見学することはできませんが、人類に共通するものを理解するのには充分な場所です。

特に印象深かったのは、世界中の民族の「暮らしの道具」が展示されていたことです。そこには人類に共通する確かな文化や思想、そして生き方や考え方が凝縮されていました。

例えば、工芸品であれば必ず自然物を用いますがその特徴を活かし修繕がきくもの、また自然循環を維持できるもの、その土地の風土で耐えるもの、用途などに合わせてデザインされています。そのデザインからは、具体的な暮らしが想像することができ古代の人たちはどのようにして自然の中で豊かに生活を連綿と続けてきたのかがわかるものばかりでした。

そのほかにも、日本でいうところの鬼や精霊、自然の畏怖などを霊力を宿す大木や巨石、また色などを用いて魔除けや祈り、荒魂や和魂のようなことを祭祀によって行っていました。ハレとケにあるように、暮らしの中で発生する様々なバランスをとるための工夫が文化の中に存在していました。

またこの人類博物館の面白いのは、先住民たちのトーテムポールなどがありその住居などを展示しているところでした。アイヌ民族の住まいを以前、見学したことがありましたがここカナダの先住民の住まいもまた木造建築でありまるで神社のような大黒柱を拵え、棟と梁と屋根を原型に、木の中で住まうように設計していました。その古代づくりは、日本の建築の原型ともいえるように思います。

人類学を深めれば、人類の原型が何かということが次第にわかってきます。人類がなぜ今、こうなったのかを考察するにおいても人類はかつてどうだったのかを考察するのは大変な意義があります。この大学の中にこの建物があること自体が、モザイク社会に挑戦するカナダの未来においても大きな影響があることを実感しました。

そして新渡戸庭園もその近くにあるのですが、日本の庭園以上に日本を感じさせる素晴らしいものでした。何が素晴らしいのかといえば、何を基本に据えて庭園を構成したのかを拝見することができたからです。海外で日本の文化、その庭園というものを定義するときに、必要不可欠なものが存在します。

私も古民家甦生で箱庭を創るとき、これだけは外せないものは何か、そして何を基準委するのかという心得のようなものを自分なりに構成していきました。それはかつての歴史的建造物を観察し共通するもの、その意味や哲学などを学び直しました。

ここの新渡戸新庭園は、カナダにありながらも日本の気候というものを感じられるものになっていました。そういう意味で目から鱗が落ちた思いがしました。むかしの都は風水を重んじて建てられたといいますが、この風水は庭づくりにもまた欠かせないものです。

どのような光が入り、どのような風が吹き、どのように水がゆらめくか、その一つ一つを演出するのに、あらゆる土、火、風、木、石、水などを調和させていきます。その調和の中心に日本の気候を置くというのは大変な叡智であろうと思います。

ここで学んだことを、今後の暮らしの提案と展開に結びたいと思っています。大きな学びの機会をいただき心から感謝しています。

森の神様

昨日からフィンランド東北地方のクーサモ町にあるイソケンカイステンクラブに来ています。ここはサウナの本場、フィンランドの中でももっとも王道のサウナを提供するキングオブサウナと呼ばれる完全なるスモークサウナです。

フィンランドのサウナの品質を管理する協会「Sauna from finland」から、本格性、清潔性、リラクゼーション性などすべての項目をクリアした品質証明書も授与されているフィンの伝統のおもてなしを体験できる場でもあります。

私はここのサウナマスターからサウナの本質を学び、本物を体験するためにここまで来ました。サ道のタナカカツキさんにして、「ここが一番のスモークサウナ」であると紹介され遠路はるばると来てみるとまさにこれ以上のものがあるのかと心から感じ入りました。

確かに日本のサウナの聖地と呼ばれる「サウナしきじ」も湧き水と温度、利便性など日本人の水との邂逅に感動しましたがこのイソケンカイステンクラブはもう完全に異質です。

一言でいえば、「森の神様が宿る」サウナといってもいいかもしれません。

かつての私たち古来の日本人は、場に神聖なものを見出してきました。神社の清浄な場にいけば心が洗い清められます。同時にあらゆるものを五感で感じて、精神が研ぎ澄まされていきます。それを「杜」とも言います。そこには必ずご神木があり、私たちを永遠に見守ります。

ここの伝統のスモークサウナはまさに、杜で感じるものとまったく同じものがありました。美しい湖、この一帯がまさに神様の澄まう杜でありここで火や水、土や風、日や月、星々などが見事に調和されまさにその中心に「サウナ」があるのです。

大げさに思われるかもしれませんが、私は「場」を研究する場道家です。様々な場を学び、古来からのイヤシロチを創造することをライフワークにするからこそ感じるものがあります。

3年前に、この5つ星を超えた「7つ星」の場をここまで磨き上げたお父様がお亡くなりになり、今ではその娘さんたち2人の姉妹で家族運営されていますがお話をしているといつも身近に父の存在が見守ってくれているのを感じると仰っていました。

その遺志を継ぎ、ここに森の神様と共にフィン人の魂がキングオブサウナになって生き続けていると思うと不思議な奇跡を想い、とても有難く仕合せな気持ちになりました。

私も帰国後、日本人の魂が生き続ける浄化場サウナを建造しますがここでの貴重な体験を活かして先祖に恥ずかしくないように磨いていきたいと思います。子どもたちに、言葉ではなく心身精神すべてで伝承されていくような場を譲り未来への希望の糸を紡いでいきたいと思います。

ありがとうございました、ご縁に感謝しています。

 

暮らしの豊かさ~フィンランド~

私は古民家甦生を通して暮らしの甦生に取り組んでいますが、世界では暮らしに寄り添いながら文化を高め続けている国がいくつかあります。今回は、あるご縁からフィンランドを深めることになっていますがこの国はとても暮らしを大切にしながら人格を高めている国であるようにも思います。

もともとの原点に何を据えていくか、時代が変わってもむかしからの大切な普遍的な伝統と現代の発展との調和は今を生きる人たちの生き方に現れてきます。この国は、シンプルで豊かというイメージがぴったりで暮らしを味わいながら今の世界に上手く調和している感じがします。

昨年と今年の世界幸福度ランキングでは、他の変化のない国々の中で堂々の1位になっていました。外来人口に対する対応なども非常に親切であることや差別がないことなども影響があったそうです。暮らしが充実するからこそ、幸福度もまた充実するのだろうと私は思っています。日本の暮らしも以前は、とても質の高いものがありました。現代はほとんど暮らしが消失してきていますからどうしても幸福度は高まりません、日本は現在は25位だそうですが、比較するのではなく暮らしの質をもっと高める必要性を感じています。

フィンランドは福祉国家ですがIT技術も最先端を進んでいます。最近では政府が地元スタートアップとともにブロックチェーンを活用した難民向け金融・社会支援を開始したほか、国連がブロックチェーンを活用したプロジェクトを開始しています。近くにあるエストニアと合わせてこの二つの国は、新しい技術を使い自分たちの世界を広げ注目をされています。

また男女平等では110年をかけてその社會を構築し、工芸品、教育制度、安全面、汚職の少なさ、報道の自由、すべてにおいて世界の最高峰に達しています。

人口は550万ほど、国土は日本と同じくらい。実際の経済規模は小さくても一人当たりGDPなどを見ると豊かで自由な民主主義国です。そしてOECDレビューにおいては「世界で最も競争的であり、かつ市民は人生に満足している国の一つである」と2014年には報告されています。

フィンランドは収入、雇用と所得、住居、ワークライフバランス、保健状態、教育と技能、社会的結びつき、市民契約、環境の質、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っているのです。

大自然豊かで、芸術、伝統、文明すべてにおいてバランスよく取り入れ発展を続けています。精神文化も、日本と同様に八百万の神々を信じあらゆるものにはいのちが宿っているという思想も持っています。

国民の人格が国家の国格でもあるように私は思います。私が生まれる前の明治前後の日本を私はこの目で見たことはありませんが、きっと今のような雰囲気だったのではないかともこの国にきて直観しました。

どのような発展の仕方があるのか、そしてその国家理念は何なのか、そこに住む人々の歴史や生き方を学び直しながらその国の宝の磨き方を、日本の子どもたちの未来のために一緒に深めてみたいと思います。

 

共育

自然農の田んぼでお米作りをしていますが、お米の育つ力を信じてどれくらい手を貸せばいいのかに気づくのに何年もかかりました。具体的には、こちらが育てるのではなく、相手だけが育つのではなく、如何に一緒に育っていくか。こういう視点が持てるようになるのにとても時間が必要だったように思います。

育て方や育ち方などのマニュアルは多く出ていますが、「一緒に育つ」というものの考え方はまだ少ないように思います。

本来、生き物は信頼しあい信用し合うことで「共に育つ」ものです。

共に育つからこそ、はじめてどこまで手を貸せばいいかわかり、どこまで見守ればいいかもわかってきます。たとえ、出来が悪くても一緒に育ちあってきた時間はかけがえのないものです。

現在の価値観は結果重視ですから、結果や成果が悪いとすべてを台無しのように扱うものです。しかし実際は不出来であろうが、見た目が悪かろうが、一緒にいのちを燃やし、一緒にご縁を結び、一緒に思い出を共有し合った仲間であり、家族である事実は変わることはありません。

本当の意味での仕合せや喜び、豊かさはこの共育なかにこそあります。つまり古来からの教育とは共育ということでしょう。

自然の仕組みを先生にして私は教育を語ります。私の教育の考え方は、大学で論文を提出して博士になったわけでもなく、世間から評価や名誉をいただいているわけではありません。しかし自然がそうなっているものを学ぶのは、古来から人類の学び方の原型であり、その原点を基準にして今の生き方に反映させていくのが学問の醍醐味だと私は思っています。

教育者ではないのに教育者を語る不届き物かもしれませんが、実際に生きものが「育つ」という真理は、教育者が育てたのではないと私は思うのです。つまり一緒に育ったのです。その育つものを育てたものがもしもあるとするのならそれは「場」が育てたのであって教育者が育てたのではないのです。

そんなことは自然農で稲をつくってみれば必ずわかります。

引き続き、保育の仕事をするからこそ本質が何か、自然がどうなっているのかを子どもたちの傍で伝承していきたいと思います。

炭好き

私は個人的に炭が大好きで、炭オタクのように言われています。炭の魅力は言い尽くせないほどで、ありとあらゆるシーンで私は炭を活用しています。特に炭火については暮らしの中心に据えており、炭火があれば暮らしは必ず豊かになると信じています。

そして今度、炭火を活用したサウナに初挑戦するためフィンランドのキングオブサウナと呼ばれるスモークサウナを研究してくる予定です。

そもそもサウナの原型であったスモークサウナは、紀元前からずっと続いていたものですが20世紀に入り薪の燃焼によって排出される煙を煙突から逃がすサウナストーブの発明や、煙の出ない電気サウナストーブの設置が主流になりそのほとんどが消えていきました。日本でも、洞窟や石窟内での蒸気浴が主流でしたがそれがお湯を貯める風呂になり今ではほとんど消えています。

私は何をはじめるのにも原点や原型にこだわるタイプで、そのもののはじまりに道理や真理、そして自然の摂理や意味を深めます。その理由は、はじまりがあって発展し、それが終わりを迎えるからです。簡単に言えば歴史を学ぶことで、そのものの本質をつかむことがまず先でそれができればあとは自由に設計することができるからです。

学ぶというものは、単に知識を得るものもありますが物事の本質を深めるというものもあります。知ったかぶりといわれないように、そのものの歴史を学び直し、謙虚に自分の知識が智慧に及んでいないことを体験することで自然への畏敬、科学や発明への尊重が産まれます。

物づくりは物のいのちを扱う仕事ですから、何よりもその取り組みの姿勢にこだわるのが私の流儀なのです。またこんなことを書いていると宗教とか変人とか言われますが、「物が語る」ということを聴くことが如何にたいせつなことか、先人たちの生き方を子どもたちに伝承していきたいと思っているのです。

話を戻せば、石を温めるというのは後程紹介しますがまず煙という存在の面白さです。私は古民家でお香を焚いていますが家が穏やかになり清浄になっていきます。しかし囲炉裏や竈の近くは燻されますからまた独特の雰囲気を醸し出します。」

燻すことで有名なものに燻製がありますが、燻煙には殺菌や防腐効果、抗菌作用や味を引き立てる力があります。成分はフェノール系化合物やアルデヒドで、木材中の主要3成分のセルロース、ヘミセルローズ、リグニンが熱分解してできるものです。

私は山や田畑に出るとき、虫に刺されたりしないように野生動物や病原菌が寄り付かないように体を煙で燻していたことがあります。なぜか煙で燻すことで、その周囲には虫があまり近寄ってこなくなります。自然の智慧を観て、昔の人たちはそれを暮らしに活用したように思います。

これから10日間かけて、先人の智慧を深め炭を究めていきたいと思います。

想念実現の教え

今月19日、元ヤオハングループ代表の和田一夫さんがお亡くなりになりました。私は17年前に約1年間、郷里の飯塚で同志と共に国内外の展開の秘書のようなものを務めながら傍で様々なことを教えていただいた記憶があります。その教えは今も生きていて、私にとっても素晴らしい経験になっています。

今でも、その当時に見せていただいた「感謝ノート」のことは鮮明に覚えており私もその「感謝ノート」を毎日欠かさず書いています。この感謝ノートは私と和田さんとの絆でもあり、今でも私の人生を支え導いてくださっています。

思い返せば、非常に純粋で好奇心があり、偉大な意識をお持ちの方だったように思います。いつも私に「もっと大きく考えなさい」と指導してくださり、私が何を提案しても「まだ小さいな」といわれ、「大きいものには魔術まである」ともいい、物事を捉えるときに常に「偉大な視座で取り組むように」とご指導してくださいました。

またどのようなご縁も点ではなく面でとらえるように言われ、すべての機会を完全に漏らさず活用するようにご指導してくださいました。傍にいて誰も気づかないようなどのような小さく霞んだ点であってもそれを「必然」として迷うことなくご縁をつながれていきました。

また「想念実現」という言葉を深く愛しておられ、「想いは必ず実現する」と信じて疑われておられませんでした。和田一夫さんと私の親友の同志と一緒に峰隆太さんが司会だったケーブルテレビの番組に出演したことは今でも懐かしく、楽しい思い出の一つです。

また仕事への姿勢、プロの厳しさも教えていただき、どのようなことも「命がけで真剣勝負」であることを学びました。いつも会議はまるで命がけの外科手術の現場のように一切のミスも許されない緊張感がありました。意識の持ち方、情熱を傾けること、利他であること、世の中のためになること、またプロ意識や一流人の仕事の流儀のようなものも体験させていただきました。同志となんども企画書をやり直し、一緒にミスがないように何度も何度もチェックして徹夜ばかりしていたことも今では懐かしい思い出です。

今思えば、接したお時間は短かったけれどいただいたものは本当に多くあることに気づきます。1年後、私も創業したてでしたのでそのまま郷里を離れ東京へと挑戦するために和田一夫さんの中国への移住に同行することはできませんでしたが最後にご自宅に呼ばれ、それまでの感謝や謝礼をいただいて温かい握手をしていただいたことも今でも忘れがたい貴重な思い出です。

振り返れば振り返るほどに私が出会った中の人でもっとも人間らしく、純粋無垢で子どものような瑞々しい感性や魂がむき出したようなまさに善い意味で人であり人ではないまるで神さまに近い方でした。

今もその当時に一緒に行動を共にし種を蒔いて育ててきた想念と共に、友と一緒に郷里で夢の実現に取り組んでいます。いただいた御恩は決して忘れることはなく、今の私の想念と共にこの世に生き続けています。子どもたちの未来のために、これからも御恩返しをしていきたいと思います。

心からご冥福をお祈りいたします。

ありがとうございました。

模様替え

先日、社内の模様替えをする話があがりました。日々に様々な仕事が変化する中で、片付けをしていくことや、整理していくこと、何が元の状態かを明確にすることは気持ちの上でも働くうえでもとても効果があるものです。

模様替えという言葉を調べてみるとコトバンクには『建物、室内の装飾、家具の配置などを変えること。「部屋を模様替えする」 物事の仕組み・方法・順序などを変えること。「組織の模様替え」』と書かれています。

この模様という言葉は、図柄や様子を現わす言葉でもありますが兆しを示す言葉でもあります。何かの変化がある際に、その変化に対応して環境を整えていくことは自分たちが変化するために効果があるものです。

人間はすぐに慣れ親しんだ環境の中でマンネリ化しやすいものです。マンネリ化は以前、ブログでも書きましたが次第に変化を嫌がり避けてしまうものです。変化というのは、本来は成長や変化をたのしむものでそれを可視化することで自分自身の暮らしの改善も確認できます。

そしてこの改善は「磨く」ことで、新しい自分の意識や今までにない自分の姿を環境から再認識することもできます。環境によって自分を変えることもできますが、模様替えに取り組むことで新たな変化を身近に感じることができるように思います。

むかしの家の間取りは、ハレの日とケの日によって模様替えを行いました。その都度、変化を味わい、そして平素に帰りました。このハレとケの行き来によって、日々の暮らしを味わい、変化や成長を深めていきました。

色々な模様がある日々を彩ることは、豊かな日常を大切にしてかけがえのない場をみんなで大切に守っていくことに似ています。

模様替えから新たな変化を楽しんでいきたいと思います。

土地の本質

星の王子様の著者のサン・デグジュペリが「地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ」という言葉を遺しています。以前、ネイティブアメリカンの言葉か何かで「土地は、先祖から受け継いだものではなく、子孫からの借り物である」という言葉を知ったことがあります。

現在、古民家甦生を含め、ブロックチェーンストリート構想など色々と手掛けていますが本来、私たちが住んでいるこの「場」とは一体何かということを改めて考え直させる言葉であることに気づきます。

現在、不動産を含め土地というものは一つの商品のように扱われています。むかしは土地といえば自分の故郷であり、その風土はアイデンティティそのものでもありました。地名がそのまま私たちの苗字になったり、伝統を表現する名称になったりしたのはそれだけその風土に根差した暮らしを行っていたからです。

暮らしが消失し、土地が人間の単なる売り買いされる物のようになってからその土地の意味も価値も変化してきたとも言えます。

実際には先祖代々の土地といって田舎にいけば活用できない土地が溢れ、空き家も増え、単なるや物置やゴミ置き場、駐車場、もしくは雑草だらけになっているところも多くあります。子どもたちもそのような土地を欲しくないといい、固定資産税もかかり管理も大変なことからみんな処分に迷惑しているところも多いといいます。これは都市部だけでなく農地でいっても休耕田をはじめ土地が活用できずに困っています。

しかし先ほどの『子どもたちから借りたもの、借り物』としたらどうでしょうか。

農地であっても農薬漬けにしてボロボロになって作物も育たないような汚染された土地を子どもたちに返すでしょうか。そして手入れもせずにゴミ置き場のようになった土地を子どもに返すでしょうか。自分の子どもにそんなことが果たしてできるのでしょうか。

土地というものは、先祖がくれたものではなく子どもたちから借りたものでそれは次の世代に必ず善い形にして返していく必要があります。そうやって代々、借りたものを磨き善くしてきたことで子孫は安心してその宝を受け継ぎそれを守り、それを育て譲り繁栄を続けて今に来ているのです。

当たり前のことをもう一度、見直し、意識を換えていかなければこのままでは子どもたちは負の遺産ばかりを渡されてしまうことになります。良識のある人たちや、子どもの志事をする方々はもう一度、この意味を深く考え直してほしいと思います。

私が古民家甦生をするのも、古い懐かしい土地を磨き直すのもまた、「子ども第一義」の理念に取り組んでいるからです。そしてこれは私の生き方であり磨かれた家家や土地は未来への子どもたちへの深い愛情の実践なのです。

子どもたちから借りたものをもっと善いものにして譲っていくことこそ、先祖の徳に報いていくことです。引き続き、何が本来のもので何を伝承することが子どものためというのかを磨き直していきたいと思います。

文化の融合

かつて文化が融合し独自の進化を遂げてきたものがたくさんあります。例えば、食文化でいえばインドのカレーや中国の餃子やラーメン、他にもお好み焼きやちゃんぽん、よく見てみたらきりがないほどにあらゆる文化を日本人は融合させて自国のものにしていきました。

海外になってくると、カリフォルニアロールや甘い緑茶、そのほかにもフランスなどでの弁当箱が流行るなどいろいろな日本の文化が現地で融合して現地の文化に取り込まれています。

そう考えてみると、文化というものは歴史を鑑みてもありとあらゆるところで上手く現地化してその国のものになり今に受け継がれてきています。これを文化交流ともいうのでしょうが、それぞれの文化の発祥が異なっていてもそれをお互いに学び合い自分のものとして昇華し吸収していくことで相互に発展し合ってきたように思います。

特に食文化は、現在では世界中のものが食べれるようになり自分たちの風土や性質に合ったものに料理人が改良を加え続けて新しくしています。身近な食生活が変わることで私たちはその国の文化を上手く自分たちのものに転換して元々あったものとは異なる新しい価値のものにしていくのが進化だと思います。

ちょうどBAに日本の伝統的な浄化場サウナを建造するために来週からフィンランドに訪問します。実際にはフィンランドのサウナと日本のサウナは文化が異なり、日本人はフィンランドから来たものを自分たちの文化に別の形で吸収していきました。

それは例えば、フィンランドはサウナがメインで水風呂はあまり使いませんが日本では水風呂とサウナは必須の組み合わせになっています。日本人がオリジナリティを発揮して、独自のサウナの使い方や用い方をしていくのはもともとあった蒸気浴や風呂の文化が根元にあるからです。根元から枝分かれして発展し、それがまた異質な文化と融合するとき、私たちは何が発祥でどのように進化してきたかを学び直します。

原点に学び、その経過を洞察し、何を進化してきたかを学び直すことは自分たちの文化の源泉を学び直す偉大な旅です。自分たちの民族のオリジナリティを追求することは世界への貢献であり、人類の進化でもあります。

時代の変わり目に、新しいものに取り組んでいけることに好奇心がわくわくします。復古創新した新しい「場」を学び直していきたいと思います。