お堂の甦生~徳積堂~

徳積カフェの建築が進む中で、この場の名前を復古起新しています。現在、深めているものは「お堂」です。この堂という字は、会意兼形声文字です(尚(尙)+土)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」でできた字です。意味は「こい願う」と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」を現します。

そこから、「高い建物・神社・寺院」を意味する「堂」という漢字ができたといいます。この堂は、 古く接客や礼式などに用いた建物。表御殿。表座敷。そして神仏を祭る建物。さらには多くの人が集まる建物で呼ばれました。

この堂というと、イメージするのが三十三間堂や、平等院鳳凰堂、他にも大聖堂など神仏をお祀りするところを思い浮かべます。ひょっとすると現代では、お菓子屋さんの名前や広告代理店の名前、本屋さんとかいう人もいるかもしれません。

しかしかつては、辻堂やお堂といって村々や町の中でみんなが集まり親睦やコミュニティを育むオープンな交流拠点であったのです。他にも、山伏たちが休む室堂であったり、茶堂といって茅葺でできた旅往く人たちをもてなしたものもあります。日本には古来から人々をもてなす風土信仰があり、その風土信仰を支えた場の一つがお堂だったのです。

つまりはこの「堂」の持つ意味を考えてみると、読んで字の如くその「土地の風土と信仰と交流を見守る大切な場所」ということでしょう。なんとなくお堂が温かく懐かしい感じがするのは、お堂が地域を支えてきたことを心が憶えているからでしょう。

今では、西洋的なカフェがその役目を果たすようになってきていますが本来は「お堂」であったことは歴史に学べば自明します。私は、徳を伝承していくことに精進していますからこのお堂の甦生は大切な使命の一つです。

今回、徳積カフェが完成し、徳積堂として甦生することがとても楽しみです。

最後に、堂で有名な言葉に「堂に入る」があります。

これは論語の中で、孔子のいう「堂に升りて(のぼりて)室に入らず」が語源ですが堂に入るは「堂に升りて室に入る」を略した言い方で、客間にのぼり奥の間にまで入っていることから、奥義まできわめていることを表します。

徳積みの修業はまだまだはじまったばかりで終わりは永遠にありません。なぜならこれは人類の欠かせない修業であり、未来永劫子孫たちが担っていく大切な徳目だからです。

人々が子孫のためにみんなで堂に入るために磨いていく場。

まさに徳積堂は、子どもたちの未来のためにも欠かせない大切な徳の場になっていくと確信し、懐かしい未来が到来することを心から祈念しています。

徳法一致

現在、世界の国々では徳治国家か法治国家の間で様々な政策が検討されています。しかしそもそもこの徳治や法治というものは、本来は目的であるものが手段に入れ替わり、今では別の意味で使われていることがほとんどです。

そもそも徳や法そのものが、思いやりからのものであるのならそこに使われる手段もまた思いやりに満ちたものです。しかしそれがネガティブで疑心暗鬼のものならその徳や法もまた別の意味に挿げ替えられるのです。

人間は、自己中心的な生き物です。

自己を中心として、善悪を決め、そして自分が正しいかどうかの基準を自分の都合で入れ替えていきます。それは歴史が証明しているものであり、現在の国家間のいざこざも冷静に分析すればそれがすぐにわかります。

例えば、人類共通の徳というものがあるとしたらあらゆるいのちへの思いやりです。一緒にこの世に生きているもの同士であるからこそ、相手のいのちもまた自分のいのちの一部と捉え大切に慈しみ接していくこと。自然界の生き物たちはまさに徳治の本質です。

自らで律し、自らが共生するために協力し合う社會を育てることが本来の徳であり治まるということでしょう。そういう意味では、徳や法は外側にあるものではなく人間力といったそれぞれの内面の中に磨いていくものであるのです。

一人一人がみんな自己の中にある欲望や自利的なものを治め、バランスを崩さないように暮らしていくこと。言うなれば自然にかかわり自然との共生に力を貸し、その利子分だけでみんなで分け合い賄うというシンプルな暮らしが徳治であるともいえます。

法治からみた徳治、徳治から見た法治というような対立概念ではなく、徳法一致の全体調和を目指すことこそ、原点回帰であり人類の末永く発展できる未来ではないかと私は感じます。

そのためには、徳法一致する仕組みが現在に必要でそこにブロックチェーンの仕組みが活かせるのではないかと私は信じているのです。

子どもたちのためにも、徳積の智慧を用い時代に挑戦してみたいと思います。

聖域の甦生

日本には古来から山岳信仰というものがあります。これは山は神の宿る聖域であり、子孫を見守る祖霊が鎮まるところと考えられていました。まさに山が信仰の源泉であるというのは先祖代々から根幹の意識があります。日本創生の神話の時代から私たちは山に深く見守られ、山から慈愛をいただき、山によっていのちを育まれてきたという思想です。

日本には富士山をはじめ霊山と呼ばれる山々が存在します。そして故郷にも故郷を代表するような山があり、私たちは暮らしを山と共に発展させ、山と共に築き上げてきた民族でもあるのです。

その山には、修験道というものがあります。これは山につくる道場のことで、山に入ることでいのちの原点を学び本来のいのちに還るような修行の場です。私は、日本では鞍馬山を大切深く尊敬しており山に行くことであらゆるいのちのインスピレーションを感じて自己内省をする修行をしてきました。そのことで人格を磨く機会を得て、実生活の暮らしを換える機会を学びました。

この「修験」道場という言葉の語源は、「修行して迷いを除き、験徳をあらわす」という意味だといいます。つまり「場」で実践し体験するなかで徳が磨かれ悟りを開く道のことです。

そして山岳信仰で有名な山伏は、山に伏して修行する者という意味で「山伏」と呼ばれるようになったといいます。山伏らは山を祀り、登拝して祈願し、舞や踊りを奉納し山を祈願の対象としてきた人々です。山での暮らしを通して日々を見つめ直し、新たな生き方を導いて人々の心の穢れを祓う役割を果たしてきたのかもしれません。

明治以降、明治政府の神道での国家統一による神仏分離令、その後の修験道廃止令の煽りを受けてそれまでの山岳信仰の伝統廃れ、戦後は宗教として生き残りはしましたが娯楽的な登山やハイキングなどが入ってきていよいよ山は単なる趣味やアミューズメントなどの一環になってきました。キャンプ場をつくり、グランピングなどができ、信仰の山という日本古来からの伝統のイメージが薄れてきているとも言えます。

本来のものが歴史の中で挿げ替えられていけばそれまでの系統が分からなくなってきます。そうやって人類は歴史をそれぞれの時代の価値観で歪めてきたとも言えます。しかし山は変わらずにそこに存在しています。

自然崇拝とは何ぞやといえば、その土地の風土や自然から本来の徳が顕現したものを悟り自ら自然に近づき謙虚に共生を学び直すことのように私は思います。私たちを産み育ててくださっている存在に気づき、その恩恵に感謝し徳に報いる生き方を実践することです。

何度も里に降りては人間は余計な争いや自然から遠ざかり心を痛めてきました。そんな人々が心を蘇らせ、徳を甦生させてきた場こそ、この修験場としての聖域であったのでしょう。

これから私は日本古来の思想とブロックチェーンを使った聖域をこの地に発祥させていくつもりです。自然を味方に、子どもたちに遺し譲りたい未来を創造していきたいと思います。

バランスを保つ

日本人にとって当たり前と思っていることでも、世界ではとても評価されることがたくさんあります。それは日本文化と呼べるものの中にこそ多く存在します。教えられずして自然に陶冶されてきたもの、風土で醸成されてきたものこそが真の教育の本質であり文化であるのは世界共通の普遍的な原理です。

現在は、その普遍的な原理を捻じ曲げるようにあらゆる情報を操作して集合的な価値観を操作し現実を歪めて本質を本質風に仕上げていきました。

それを繰り返している中で、次第にひずみが出てきているから余計な苦労が増えていくのです。本来の自然に気楽に自由に仕合せを味わいながら進化成長することをやめ、無理やり努力して苦労して真面目に取り組むことで頑張れば仕合せになれると信じて進化成長をさせようとするという具合に換わってきたのです。

後者の歪が嫉妬を産み、比較差別を産み、不平等を産み、人間らしさを奪っていくのもあります。決して前者が正義で後者が悪と裁いているのではなく、バランスが悪くなってしまうとそのどちらかということになり、社会もまたその価値観によって一色に塗られると閉塞感が出て偏った問題になっていくのです。

人間はバランスを保つためにも人格を磨く必要があります。

その人格は、社会の中で磨かれていきます。人間は社會を通して、お互いの行き過ぎた行動を反省し改善していく生き物です。その反省と改善こそバランスのことであり、私たちはもっと振り返り対話をする時間を大切にする必要があると私は思うのです。

私は、一円対話という仕組みを考えてそれを実践して弘めていますがこの時間を持てるかどうかにこそ文化醸成の秘訣があると思うのです。人類はただ前にだけ進む生き物ではなく、懐かしい未来を同時に生きるものです。かつての人たちが目指し実現した世の中、そして未来に向けて改善したいと反省した世の中を同時に生きています。

常にこの世のバランスを保つためには、私たちがその両輪の意識を維持し続ける必要があるように思います。世界の中で、私たち日本人はそのバランサーのモデルになれると思うのです。

子どもたちに先人たちの智慧を伝承していきたいと思います。

許容範囲

私たち、すべての生き物は自然の中の許容範囲をそれぞれが持って生活しています。いわゆる、範囲ようなものですが生きていくために必要な許容量の範疇を与えられているということでもあります。

これは虫から動物まで範囲があります。その範囲内で一定数を保っているのですが、それが大幅に超えるとどうなるか。自分たちで数を減らすか、移動して広げていくしかありません。最近、ニュースで見かけるサビトバッタなどは増えすぎて生きていけないために移動しながら作物を食い荒らして最後のところまでたどり着いてほぼ死に絶えます。他にもセイタカアワダチソウのような雑草も広がるだけ広がり、その後数を減少します。

本来、多様な種類の生命はお互いに範囲を分け合いながら許容量を超えないように自律して共存しています。それがもっとも長くそこに居ることができるという自然の持続可能な仕組みであることを知っているからです。

人類もかつては、それぞれの範囲で少人数で暮らしを営めば自然の許容範囲内で周囲と分け合って共存していた時期もあります。しかし現在は、先ほどのサビトバッタやセイタカアワダチソウのように人口を増加させ世界中に食料を求めては移動しています。

さらに人類の難しいのは、それを科学の力で乗り越えようとしあらゆる人工物をつくっては許容範囲を超え続けて地球の自浄作用を抑えこむかのように自然破壊を続けます。地球はそれでも偉大な自浄作用によって許容していきますが、問題は人口が増えすぎた最後は一気に減るのではないかという自然の摂理を免れないという事実です。

増えすぎた人口はどのように減っていくのでしょうか。

現在のコロナウイルスもまたその一つかもしれませんが、歴史を観ると人間同士の争いがもっとも減る理由になっていくように思います。現在、ソーシャルディスタンスとかいっていますがこれよりも大切なのは人が住み分ける範囲をお互いに保つことではないかと思います。

人が一人で住むために必要な許容量の設定を、地球の土地のサイズから割り当ててみる。その上で、どれくらいの数が適正なのか、そしてみんなで分け合って生きるためにはどのくらいの生産と消費、そして周囲の生命を活かし発展させていけばいいのかを人類で割り当ててみんなで努力していくのです。

自然の風土によっては、人口が増えれない場所もあるかもしれません。その場所場所でみんなで適量を守っていき、助け合っていけば自然の許容量の恩恵を永遠にいただくことができます。

地球の資源を貪りつくしてすべて取りつくして一番困るのは誰か、それは人間のはずです。

分かっていてもやめられないのは、考えられるのは人類は人類によって洗脳されているからです。自分たちで自分たちの洗脳や刷り込みを乗り越え、脳を整えて、本来のあるべきように回帰するには脳をなんとかするしかありません。知性をどう活用するのか、智慧を如何に尊重するのか。

使えるけれど敢えて使わず、便利だけど敢えて不便でいるというような人格を磨く必要があります。どうやってこれから先、数千年を子孫たちに遺していくか。もしくは数万年人類が生き残るために今、何をやるべきで譲るべきか、子どもを愛するように、人類を愛する素直さと勇気が求められています。

いつでも決めた時が間に合う時です。

引き続き子どもたちのためにも、最善を盡していきたいと思います。

時代の価値観

時代には時代の価値観というものがあります。私たちが暦でみる数字の中にはない、その時代の人々の集合意識というかその時代を象徴するような価値観が発生するのです。

不思議なことですが、私たちの身体はそれぞれに離れていますが意識は常につながっていて一つの集合意識を持っています。その影響は、自然の活動ととても密接であり、地球に住む私たちは地球の意識とも言えるその自然の活動とリンクして変わっていくのです。

この地球の意識は、宇宙の運行とも連動しています。

星を観てむかしの人たちが様々なものを読んでいた中には、この人間や他の種の生命の動きもまた読んでいたように思います。

現在は、絶滅時代といわれる人もいますがかつてないほどに自然が落ち着いていて生命が増えた時代です。そこから一転して、急速にあらゆる生きものが減っていく時代に入ります。

増減は自然の常でもありますが、バランスというものは偏れば反対側に傾きますからその振れ幅が大きければ大きいほど、私たちもその衝撃を免れません。

それは時代の価値観もまた同じように変化するように思うのです。

ある一定の価値観が長ければ長いほど、それが一転すればそれだけの大きな変化を伴います。コロナウイルスにはじまり、これから人類はいくつかの意識が変わる出来事に遭遇することも予想できます。

その時、意識を換えさせられるか、先に意識を換えてしまうかで衝撃波は変わってきます。変化というものは、柔軟性や臨機応変も必要ですし、ある程度の事前の勇気と挑戦も必要です。

時代の価値観を創造することが、時代を超えて存在する使命を果たすことです。

子どもたちの懐かしい未来のために、今こそ変化を産み出していきたいと思います。

環境会議

人類は、果たして進化しているのか。

この問いは、とても大切であると私は思います。

そして進化とはそもそも何を指すのか。

私はこの進化については一つの結論が出ています。

理由は、いのちを観察すると観えるからです。

人間であれば、最初に赤ちゃんになります。

赤ちゃんは最初からすべてを持っていて、完全無欠です。

そこから刈り込みといって、不必要なところを削り、必要なところを残ります。

これを洗練とも私は呼びます、つまりシンプルにしていくのです。

その場の環境や状況、時代、周囲の風土に合わせて削り込んでいくのです。

そして顕現した姿が、その人の一生となります。

すると、進化とは何かに戻ります。

進化とは、そもそもの状態、原始のままでいることです。

現在翻訳される進化はどちからというとプロセスを指しますが、本来は結果を指すものだと私は思います。

つまり進化=原始なのです。

如何にシンプルであるか、如何に洗練されていたか、それは歴史を遡れば、今の文明社会ではないことは自明の理です。縄文時代、もしくはもっと前、人類は自然と一体になり心豊かに平和を続けた文明がありました。縄文人や原始人のことを、野蛮だとか、古くさい野生の動物のようなとか言いますが果たして本当にそうでしょうか。

それでは今の人類のいう知性と比べてどうでしょうか。

現在のようにゴミを増やし資源を吸い上げ環境を悪化させ欲とお金にまみれて差別や貧困、権力や戦争、これが知性であり進化でしょうか。

もっと本来のこと、真実のことを刷り込まれていない頭で考えることだと思います。

真っさらになれば、あるがままとは何か、本来がどうであったかに気づきます。私はこの本来がどうであったかを知ることが、生きる意味を学ぶことであり、ありとあらゆる学問が分かれる前の自然の姿だと思います。

伝統や伝承の中にはまだ連綿と真実のいのちの流れが宿るものがあります。

未来の人たちがこの時代をみたらどう思うでしょうか。

人類史の2000年、一部の人たちが何をやってきたか。それを人類と呼び、本来の人類の歴史を上塗りしてきました。100年後くらいの人は、今の私たちをバブルで欲望のままに突き進んだ世代などと呼ばれるのでしょうか。博打的に全部稼いだお金を使い切ろうとした世代とか言われるのでしょうか。

どちらにしても、子どもたちのことを思えばとても悲しいことです。

今ならまだ間に合う、そうやって奮闘してきたのもまた人類史です。人を愛するからこそ、諦めることができない、愛を知るからこそいのちをぶつけて夢を追いかけることができる。

環境問題の根源とは何か、今一度、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

兆しを読む

台風10号が通り過ぎていきましたが、準備の御蔭でこちらは無事で済みました。直前に来た台風9号が猛烈で色々と吹き飛ばされて荒れたので、このままではまずいと準備したことが善かったように感じています。

これは自然の法則や摂理が働いているように感じます。

最初の被害の時に、どれだけ次への準備を怠らないか。自然は常に最初に警告を与え、そのあとそこで篩にかけます。篩にかけて用心するものは生き残り、何も改善しないものは死に絶えていきます。

自然災害を思う時、この後、訪れるであろうさらに大きな自然災害に対してどれだけ謙虚に畏怖畏敬の念で自らを改善したか。それが試される時が来ていると実感するのです。

突然に巨大なものが来るのではなく、その予兆といった兆しがあります。

虫や動物たちは、自然と共に暮らしていますが野性を失わず常に周囲に気を配り、あらゆるものへのいのちへの用心があります。そのことから兆しを感覚的に捉えることも早く、準備を怠りません。

油断するとそれはすぐに死につながる世界に生きるというのは、常に感覚を鋭敏にしながらその予兆を嗅ぎ取る力を磨いているともいえます。食べ食べられる関係において、何を食べ何を食べないかを嗅ぎ分けるとき、それは同時に予兆を感じ取って判断しているともいえるように私は思います。

常に危機に備えるというのは、油断こそ本当の敵であるという意味であり常に予兆を嗅ぎ分けて準備を怠るなということでしょう。

そこまでしなくてもと色々な人に言われることがありますが、本来、リーダーとは人々を危険から守る役割の人です。みんなが安心して暮らしていくためにも、誰かが危機感をもって鋭敏に感覚を研ぎ澄ませて予兆を嗅ぎ取ることで未然に危機を脱することができるのです。

本当の怖さは、マスコミや一般論、集団心理ではたらく危機風のことに踊らされ本来の予兆を勘違いしてしまうことです。そのうち麻痺すれば、本当の危機にも対処することができなくなります。

敢えてそこまでしてでもというのが、今の時代の感覚を鈍らせない方法でありこの先の自然災害の篩にかけられて生き残る智慧でしょう。

今回の体験もまた、教訓にして子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

予知の仕組み

今は台風や大雨などは科学が発展し衛星画像などを送って確認することができますがむかしはそんなものはありませんから予知によって判断されていきました。

目に見える予想に対して、目に見えない予知。科学はみんなこの目に見えるようにしていく作業ですから、目に見えないものは消えていくのでしょう。しかし、時として目に見えないものにも長期予測や予知などがありそれを簡単に非科学的だから切り捨てるのはどうかとも思います。

以前、カマキリを研究して積雪予測をしていた酒井与喜夫先生とお会いしたことがあります。これはカマキリの産卵の場所を定点観察することにより積雪の位置を予知したというものです。驚くほどの的中率で、昆虫たちが生き残るために自然を予測しておられました。他にも木々の水分量を測ったりしながら、謙虚に自然から学び感覚を通して真心で接して自然に教えてもらおうとする姿勢に深く感動したことを覚えています。

現在は台風が通り過ぎている真っ最中ですが、台風などはアシナガバチで予知したといわれます。軒下や高いところに巣をつくるときは台風が多い年になるといいます。といっても、むかしは台風という言葉の定義もなく、「野分」や嵐、大風などと呼ばれていました。自然はいつ猛威を振るってくるか、むかしの人たちは予知をするためにあらゆる身近なものを認識しました。

例えば先ほどのカマキリは秋に高い場所に産卵すると、その年は大雪になる。ミミズが地上に這いだしたら雨が降る。クモの巣に朝露がかかっていると晴れる。カエルが鳴くと雨が降る。ナマズが暴れると地震がくる。などです。

特にナマズにはこのような記録が江戸時代の安政見聞誌に残っています。

「本所永倉町に篠崎某という人がいる。魚を取ることが好きで、毎晩川へ出かけていた。二日(地震当日)の夜も数珠子という仕掛けでウナギを取ろうとしたが、鯰がひどく騒いでいるためにウナギは逃げてしまって一つも取れぬ。しばらくして鯰を三匹釣り上げた。さて、今夜はなぜこんなに鯰があばれるかしら、鯰の騒ぐ時は地震があると聞いている。万一大地震があったら大変だと、急いで帰宅して家財を庭に持ち出したので、これを見た妻は変な事をなさると言って笑ったが、果たして大地震があって、家は損じたが家財は無事だった。隣家の人も漁が好きで、その晩も川に出掛けて鯰のあばれるのを見たが、気にもとめず釣りを続けている間に大地震が起こり、驚いて家に帰って見ると、家も土蔵もつぶれ、家財も全部砕けていたという。」

現代では、電気信号を予測したからだとか、磁場を読んだからなどがあります。本来、私たちは自然の一部ですから感覚的に自然災害を予測しました。しかし現代は、その感覚を手放して科学的に頭で見えるものに頼って感覚を捨てていきました。

本来、目に見えないものとは感覚の世界であり、私たち人間はもともと自然と同様に感覚が備わった存在だったのです。それと環境や教育によって減退させていき、その力をつかうよりも科学的なものだけを使うようになりました。

しかしです。

それに頼りすぎることにより、これから訪れるであろう自然災害への畏怖や畏敬もまた失われていくのは本末転倒です。どんなにすごいコンピューターが出ても、予測できるものとできないものがあります。それは感覚でしか予知できません。本来、天気予測などは数日から数週間くらいの読みですが、本来のむかしの農家などは半年から数年先、もしくは数十年先までも予測していたといいます。

それは予知に限りなく近いものであり、全感覚と頭脳を発揮しありとあらゆる自然を観察して判断材料にしたのです。科学か自然かである前に、人間はもっと謙虚であるべきであろうと私は思います。それは本当の意味で、災害を未然に防ぐための本質的な予知になると感じます。

先人を倣い、本来の生き方、私たちが生き残るための智慧を伝承していきたいと思います。

自然災害の智慧 ~日本人の役割~

有史以来の自然災害を色々と調べてみると、私たちの想像を超える規模で巨大であったものがたくさんあることが分かります。津波、地震、台風、竜巻、洪水、熱波にブリザード、火山の噴火に隕石の落下まできりがないほどです。

歴史に残って私たちが認知できるというのは、滅亡ほどの災害ではなかったからでもあります。もしも隕石の落下からの大津波で地球全土を洪水にする規模がくれば、文明は崩壊してしまい出来事を知る人はほんの限られた人たちだけになり今のように神話として語り継がれる程度です。

まだ数千年の歴史しか知りえませんが、数億年、数十億年の間には、滅亡するほどの災害に何度も遭遇していることが予想されます。今、私たちは地球環境問題と向き合っていますが改めて今私たちがこの地球で住みよく暮らせることに深い感謝を考えて謙虚さを取り戻す必要が感じます。

東日本大震災でも目覚める人がいましたが、今回のコロナ禍でもさらに気づき行動する人が増えたように思います。人類は、自然災害や天敵に晒されるとき、本能から本質を思い出すのかもしれません。

自然災害を深めて気づくことがもう一つあります。

それは自然災害は一瞬の猛威ですが、その後の人災の方が問題であり多くの死者は災害の後に出ているということです。例えば、食料が尽きて飢饉がきたり不衛生から感染症が拡がったり、人心が荒れて犯罪が蔓延ります。

自然災害というよりも、人災の二次被害の方が圧倒的な死者が出ているのです。これは災害後の人々の在り方、リーダーや政治がどうなっているのか、それまでの結びつき、結び方が露呈するのです。

日本がよく感動されるのは、災害後の人々の道徳的な行動です。自然災害がもっとも多い国だからこそ、何をすれば人が死ぬかを本能的に文化として伝承されているのです。

災害に遭ったから不幸ではなく、災害後に助け合わなかったことが不幸だと自覚しているのかもしれません。災害は乗り越えていくことができます、しかしそれは人類の協力や助け合い思いやり、そして道徳があってこそです。

教育とは一体何のためにあるのか、それはみんなで生き残るための智慧と徳を養い人格を磨き高めて肝心要の自然災害の時でも乗り越える絆を深めるためではないでしょうか。

単なる知識を詰め込み、試験をして大学や就職のためにするものではないのです。平和な時代の教育も確かに必要ですが、これからは自然災害のステージが今までよりも2つも三つもステージが上がり、そこから生き延びるために、生き残るために、本来の生きる力を身に着けていく必要があるのです。

これからの自然災害を生き残る力、それは日本人がもっとも長けていて世界に模範を示す役割があるように私は思います。日本人は、世界のリーダーとして今こそ自然災害後の助け合いの仕組みを人類に示すときです。

子どもたちのために、残りの人生、できることやれること、暮らしフルネスを通して伝道していきたいと思います。