サクラ目覚める

英彦山の守静坊でサクラ祭りの準備をしています。このようなお祭りを主催する機会はほとんどなく、遠い山奥まで人は来るのは大変だろうなと感じつつ、皆さんが清浄な場を味わっていただけるようにと掃除を含め色々と調えています。

もともとこの場所は標高が高く、お山の清々しい風が吹いています。お水の音もせせらぎも、鳥の声も周囲の木々も和合して仙人の棲むような幻想的な環境があります。

お山の宿坊周辺のお手入れは2年目に入っても膨大な作務があります。この時期は特に冬の枯木や落ち葉が大量にあり、それを運び燃やしたり一部は薪にとっていたりするだけで一日の作務が終わります。また水路を調えたり、池のまわりを片付けるだけでも一日の作務が終わります。こうやって作務三昧の日々が山の暮らしです。

落ちても落ちても片づけ拾う落ち葉や枯れ木を眺めていると不思議と心が穏やかになってきます。何か忘れていた日々を思い出すようで、この懐かしい時間に心癒されます。

お山というのはとても力がある存在です。

そのお山の中に棲むというのは、いつも以上に自然を感じ、その吹いてくる風にも意識が外れません。法螺貝を吹けばその音は山全体に響き、そのお山の音を感じるとお山全体の気を意識します。

そのお山の中にあり、静かに力を蓄えていた桜が一斉に花を咲かせていきますがお山が目覚めるかのような覚醒の感覚を覚えます。

この「覚」という字は、代々この守静坊のご当主が継いできた名前です。

「覚」という字はむかしの「學」という漢字の省略された学に「見」が組み合わさった会意形成文字です。「 大きな目と人 」の象形から、学んではっきり見える 、「 おぼえる・さとる 」を意味します。漢字の成り立ちは学び舎で教え子たちに指導する、教え子を導く教師の両手を意味しているといいます。子どもたちが目覚めてそしてさとるといった導く人の名前が覚なのです。

どのように目覚めるのか、それはこの守静坊のしだれ桜が導いてくれるように私は感じます。一つ一つの意味を味わいながら、お導きに従っていきたいと思います。

不老長寿の薬菓子

昨年から英彦山の不老園を甦生して本草学を深めていますが、その不老長寿を今の時代に復古起新するために色々と試みています。今回はご縁あってカカオに注目してその効能などを組み合わせています。

今では薬ではなくお菓子として定着したチョコレートですがこれはもともと紀元前2000年前のメキシコでは「神様のたべもの」として非常に大切にされてきました。

もともと「カカオ」という言葉の語源はマヤ語の「カカウアトル」が変化したものです。

このカカオ豆は貴重で 赤道を挟んだ南北緯20度以内のアフリカや中南米、東南アジアなどで栽培されていますが実になる花の割合は200から300に1つしかとれません。とても効率が悪く高価になるのもそのためです。

このカカオは種子の果肉を食べるのですが、とても苦いものを苦いままにこのまま食べたり、焼いて煎ったりすりつぶしたり、水に溶かしたりして飲んだりしていたそうです。それがヨーロッパに伝来したときに砂糖を入れて飲むようになりました。いわゆるカカオドリンクです。その当時も大変貴重で裕福な人や王侯貴族しか飲むことができなかったそうです。

効能は、不老長寿、疲労回復、滋養強壮など多岐に及ぶといわれます。最近でもカカオの種子には多量のポリフェノールがあり強い抗酸化作用をもつ食品として注目されています。

新しい不老園に参考にしたのは、16世紀のアステカ文明のときにこのカカオ豆をドロドロになるまで溶かしさまざまなスパイスや香料と混ぜて「不老長寿の薬」として飲んでいたという伝説です。英彦山の不老園と共通するのは、あらゆる効能を含む薬草や種子を飲むという伝承があったからです。

現代では薬ではないカカオですが、先ほどのポリフェノールの他にもテオプロミンといった脳を調える効果があったり、食物繊維で肌荒れがなくなったり、ビタミンやミネラルも豊富でのどの炎症、胃潰瘍、食欲不振、解熱、デトックス、また恋愛ホルモンと呼ばれるフェニルエチアミンも含まれているのでまさに薬として観た方が効果があるように思います。

今の時代は、薬とお菓子の違いもちぐはぐになっていてむかしの人たちが本来どのようにそれらの食べ物を暮らしに取り入れていたのかも忘れ去られています。暮らしフルネスを実践するなかで、今の時代でも普遍的な意味が変わらないように変えるところは変化して今の時代の価値観でも本質が実感できるように宿坊とともに甦生させていこうと思います。

今度の英彦山守静坊でのサクラ祭りに初お披露目の予定です。

子孫たちへの誇りと先人たちへの配慮を忘れない温故知新の甦生を実践していきたいと思います。

英彦山に残る“守静坊のしだれ桜”伝承物語

これは今から二百年以上前の江戸時代から霊峰英彦山の山伏の宿坊、守静坊(しゅじょうぼう)にある一本の老樹、しだれ桜と共に語り継がれているお話です。

霊峰英彦山は九州福岡にあり、日本三大修験場の一つに数えられ修験道のはじまりの聖地であり、古来においては霊験を極めた仙人たちが棲む神仙の地で人々が憧れる天国のようなお山であったといわれる場所です。

現代ではあまり聞きなれない修験道というのは、厳しい自然の中で修行をする修行者のことを指し、金剛杖や法螺貝などを持ち歩き、深山幽谷に入り自然と調和し己を磨きその験徳を実践する方々のことです。

そしてこの守静坊は、戦国時代末期から続く修験者の棲む宿坊で先代の駒沢大学名誉教授の長野覚氏で十一代続いている由緒ある坊です。

守静坊のしだれ桜が英彦山の地に植樹されたちょうど二百二十年年前には約三千人以上の修験者たちが英彦山の中で暮らしていたといわれます。当時の英彦山はとても賑わっており、山伏たちは薬草で仙薬をつくり、信仰者へのお接待やご祈祷や祭祀、護符の授与や生活の知恵の指導などを生業として暮らしていたといわれます。

その当時の面影を残し、今でも清廉に咲き誇る「しだれ桜」が守静坊の敷地内にあります。この桜はもともとは京都の祇園にある桜でした。品種名は一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)といいます。澄みきった可憐さを持つ花びらと、鳳凰のように羽を広げた姿はまるで今にも飛翔していきそうな姿です。

実際には樹齢二百二十年以上、高さ約十五メートル、幅約二十メートルほどあります。言い伝えでは、江戸時代の文化・文政年間に(1804年~1819年)に当時の守静坊の坊主である守静坊普覚氏が二度ほど、英彦山座主の命を受けて京都御所へ上京しました。その時、京都祇園のしだれ桜を株分けしたものを持ち帰りこの英彦山に植樹したといいます。

樹齢としてはもっと長いものがありますが、守静坊のある場所は標高六百メートルほどもあり、冬は特に厳しいもので雪は積もり、鹿などの野生動物も多く被害にあいます。厳しい環境の中で生き抜いてきた老樹は今までも何度も枯死する危険に遭遇しました。平成二十年には台風で倒木し枯れる寸前で花もつかなくなっていたこのしだれ桜を九州ではじめて樹木医と認定された医師による治療の甲斐あってまた満開の花が咲くほどに復活しました。

同時に守静坊も人が住まなくなって数十年ほど経ち坊内や庭園の荒廃が進み倒壊し失われる危機を乗り越え飯塚にある徳積財団が譲り受け皆様よりのお布施の御蔭様のお力をいただき修繕し新たな物語を繋ぎ結い直しました。また甦生で出た屋根の古い茅葺をしだれ桜の周囲に敷き詰め土壌をふかふかにしたことでさらに美しい花を咲かせてくれるようになりました。守静坊の敷地内に苔むした石垣と共に宿坊と見守り合うように凛とそびえ立つ姿はまるで英彦山の伝説にある仙人の佇まいを感じます。

しかしなぜこの京都の円山公園にある伝説の祇園しだれ桜が、ここで生き残っているのかということ。もしかするとむかしは大志を志す同志が共に初志貫徹しあうことを願い、同じ霊木の苗木を分けそれぞれの生きる場所に植えて大輪の花を咲かせようと誓い合ったという言い伝えもあります。その初志を叶えるために今も桜は私たちを見守っているのかもしれません。果たしてどのような浪漫が隠れているのかは、この守静坊のしだれ桜を直接観に来ていただきお感じしたものを語っていただけると有難いです。

私たち一人一人にも誰もが語り継がれてきた歴史を生きています。

先人や先祖の物語の先に今の私たちがそれをさらに一歩進めて結んでいます。今、私たちが生きているということは歴史は終わっていないということです。今も新たに生き続け語られている現在進行形の物語を綴っているということになります。みんなでご縁を結び、かつての壮大な物語に参加することは私たちもその語り継ぐ一人として同じ歴史に入ったことになります。

この守静坊もしだれ桜も偉大な語り部です。私は、毎年この時季の満開の桜を眺めると言葉にならないものが語りかけてくるようでいつも魂が揺さぶられています。

伝統と伝承は純粋な気持ちによって永遠に結ばれ繋がれていくといいます。

大和桜花の季節、霊峰英彦山守静坊にてご縁と邂逅を心から楽しみにしています。

本草学の伝承と甦生

本草学という学問があります。これは元々は古く中国で発達した不老長寿その他の薬を研究する学問のことです。日本には奈良時代にこの学問が伝来したといわれ、江戸時代が最盛期だといいます。この本草は木と草のことを指しますが、古来薬用植物だけでなく薬として用いられる動物や鉱物などの天産物として薬用があるものがほとんど記されていました。

日本にある最も古い本草書は、701年の中国の古典『新修本草』といわれます。そして江戸に入り李時珍の『本草綱目』があり、そのあとは私の故郷の偉人でもある貝原益軒が江戸中期頃に『大和本草』を出版しました。これは貝原益軒が79歳の時に一生をかけて本草、名物、物産について調べた結果をすべてまとめたものです。そしてもう一つが同じく江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』です。これを著したのは大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であったといいます。もともとは中国の明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典で、約30年余りかけて編纂されたものを参考にしたものです。江戸時代がどれだけこの本草学が充実していたかがよくわかります。これに蘭学が加わり、明治に入るころには植物学・生薬学として受け継がれたといいます。

明治や大正の頃の博物学者、南方熊楠もこの和漢三才図会を前頁書き写したともあります。今の時代のように簡単にプリントアウトできない時代は、一つ一つ手作業で模写していたことを思うと学問への姿勢そのものが違うようにも感じます。

古来からの本草学は、神仙思想と合わさり不老不死を求めてきたものです。英彦山の不老園の歴史を調べると、この本草学の影響を多大に受けていたことがよくわかります。信じられないほどの長い年月を薬草の治験や実証実験を幾度も幾度も繰り返し、そして自然の篩にかけられて改善して磨かれたものだけが残っていきました。

まさに伝統と革新の集積そのものがこの本草学であることは間違いのない事実です。先日からスリランカのアーユルヴェーダ省の大臣も来日され、お互いの国の伝統医療の話など色々と意見交換をしましたが日本の誇る本草学をもっと学び直していきたいと感じる機会になりました。

これだけ研ぎ澄まされてきた学問が、明治以降は残念ながら西洋化の波を受けて失われていきました。これでは先人たちの努力や遺徳への配慮があまりにもないようにも思います。微力ながらこの本草学を私なりの暮らしフルネスの実践で甦生して、多くの方々に本来の日本の薬草の知恵を伝承していきたいと思います。

スリランカの大臣

昨日からスリランカにあるアーユルヴェーダ省の大臣、シシラジャヤコリ氏とその奥様、秘書と通訳の方が聴福庵に来庵されお泊りになり暮らしフルネスを体験していただいています。

他国の大臣が来庵するのもはじめてで安全面や食事の内容など緊張しましたが、いつも通りの私たちの暮らしの中で安心されとても喜んでいただきました。ちょうど今の季節は桃の節句の行事を実践している時期なのでお祀りしているむかしの人形の場をご覧いただきウェルカムドリンクに甘酒や玄米おはぎなどを一緒に食べ場を味わいました。

その後は、一通り聴福庵の生い立ちや甦生のためのルール、部屋ごとにむかしの懐かしくそして今に新しい暮らし方を説明しました。長いフライトでお疲れでしたので、先に粕漬の樽を甦生した大風呂に入っていただき備長炭を用いた七輪で春の地元の春の山野草を中心に湯豆腐やこんにゃくなどの日本式アーユルヴェーダの料理で古くて新しくした食文化をお伝えしました。

また会食の間にスリランカでの薬草の話や、在来種の話なども大臣からご教授いただきいつかスリランカに訪問の際は大臣が所有している現地の伝統在来種の薬草の畑やそれを活かした様々な取り組みをご案内いただくことになりました。将来的には両国の薬草や種を通して未来の子孫のために交流できるような関係をつくっていけたらという有難いご提案もいただきました。食後にも英彦山に千年以上伝承されてきた伝統の和漢方の不老園をお湯と共に飲んでいただきましたがスリランカの皆さまにもとても美味しいと評判でした。

最後に、伝統の日本の職人の手作りの和布団でお早目にぐっすりとお休みいただきました。朝食には私が聴福庵の地下水で手打ちで打った十割蕎麦をこれから振舞う予定です。初来日ということもあり、懐かしい日本の文化と真心を聴福庵と共にお届けでき仕合せでした。

もともとスリランカは仏教への信仰が厚く仏陀の教えや生き方を今でも大切に実践されております。私も英彦山の御蔭さまでお山の暮らしの中で修験道の実践することが増えて仏陀の教えに触れていますがそのためかとても親近感があり手を合わせる感謝の交流にも心豊かに仕合せを感じます。

親日国といわれますが、私もスリランカのことが今回の交流でさらに深く親しみを感じました。長い年月で結ばれてきたアーユルヴェーダの薬草の関係や伝統医療が今の時代に日本の暮らしと和合し新しくなり、子孫を見守っていただけるようになればと祈りが湧きます。

ご縁に感謝して、暮らしフルネスを丁寧に紡いでいきたいと思います。

むすび

私たちの日本人の神話のルーツに、造化三神という神様がいます。これは最初に天と地ができた原初に、高天原に顕れた三神のことです。具体的には、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)です。この天之御中主神以外の神様は天地開闢の際に独神として成り、そのまま身を隠した神様になりました。

そもそも造化という意味は、天地とその間に存在する万物をつくり出し、育てること。または自然そのものことをいいます。そして高天原とは何か、それは神様たちが居る場所といいます。天津祝詞のはじめには、「高天原に神留坐す・・」からはじまります。

これを現在の知識で洞察すると、高天原は宇宙根源であり造化とは生命の創生のことではないかということは推測できます。そこに三つの神様が顕れ、そしてすぐに二つの神様はお隠れになったという物語からはじまります。

あるようでない、ないようである、氣のような存在であるというのでしょう。そして造化というのは、化けるということですからその氣が化けたのが神様であるという意味にも意訳できます。

むすびの神というのは、その氣が合わさったものということで少なくても二つが一つになって消えて別のすがたになっていくということを顕しているようにも私は思います。

神話はそのあとに続き、例えば、神産巣日神であればその後に国をつくる大国主の薬をつくったり、少名比古那という子どもを送ったり、オオゲツヒメの穀物を地上へと授けたりと出てきます。

ないようにみえて確かにある存在の神様は、とても日本的で有難い存在でもあります。「むすび」の神様というのは、むすこ、むすめなどもむすびの象徴でもあります。

あの「おむすび」もまた、穀物を授けた神産巣日神に対する感謝の供物のようにも思います。日本人のルーツとして、このむすびというものが如何に大切であるかはすぐに気付きます。

ご縁を大切に生きてきましたが、そのご縁そのものを深める機会は少なかったように思います。改めて、このご縁の意味を学び直していきたいと思います。

暮らしの伝承

英彦山の守静坊の周囲は梅の花が満開です。この立派な梅園を味わい、梅の実をつくのを楽しみに待っています。特に梅干しにすると、その美味しさは格別で今では山での暮らしの喜びの一つになっています。

またこの時期は、ミツマタの花が開花しはじめます。桜や梅やミツマタは先に花から開花します。周囲の環境はまだまだ閑散とした冬景色ですが、そこに花が咲くと一際春の雰囲気を醸し出し清々しさを増していきます。

このミツマタという花はあまり知られていませんが、これは和紙の材料になるものです。もともと原産は中国大陸南部のヒマラヤ付近のもので、日本へは戦国時代のころに伝来したといわれていますが定かではありません。俳句の世界では春の季語として詠まれてもいます。

ミツマタは成長していくと枝の先がみっつに分かれていくことでミツマタと名づけられたといわれます。漢字では三椏、または三又などと表記されています。英彦山では、ご祈祷のお札をたくさんの檀家さんたちに配布していたといわれます。

和紙の材料のミツマタを大量に植え育て、和紙をすいてはそれをお札にしていったのでしょう。今でもミツマタの群生地がいくつかあります。守静坊にも、壁面の土手にたくさんのミツマタを植えました。日陰であるのと、土がまだ慣れていませんから成長するのにかなりの時間がかかるかもしれません。

宿坊は甦生していますが、現在は庭や周辺のお手入れをずっと行っています。山のお手入れは不慣れでなかなか思うようには進みませんが、この数年後にむかしの宿坊の美しく懐かしい風景をみんなで味わえるように精進しています。

歴史を伝承するというのは、暮らしを伝承することです。

来月には、念願のミツマタの和紙を秋月の井上和紙さんに甦生していただきこれをお札にして枝垂れ桜と共にご祈祷します。また歴史が甦生するのが今からとても楽しみです。

引き続き、生きた歴史、今でも続いている暮らしを調え、英彦山という存在の素晴らしさを後世に結んでいこうと思います。

おにぎりとおむすび

おにぎりとおむすびというものがあります。これを感じで書くと、お結びとお握りです。一般的に、おむすびが三角形で山型のもの。おにぎりが丸や多様な形のものとなっています。握りずしはあっても握り寿司とはいいません。つまり握るの方が自由なもので、お結びというと祈りや信仰が入っている感じがするものです。

また古事記に握飯(にぎりいい)という言葉があり、ここからお握りや握り飯という言葉が今でも使われていることがわかり、お結びにおいては日本の神産巣日神(かみむすびのかみ)が稲に宿ると信じられていたことから「おむすび」という名前がついたといわれています。

このように、お握りとお結びを比較してみると信仰や祈りと暮らしの中の言葉であることがわかります。形というよりも、どのような意識でどのような心で握るかで結びとなるといった方がいいかもしれません。

この神産巣日神は、日本の造化三神の一柱です。他には、天之御中主神、高御産巣日神があります。古事記では神産巣日神と書きますが、日本書紀では神皇産霊尊、そして出雲国風土記では神魂命と書かれます。このカムムスビの意味を分解すると、カムは神々しく、ムスは生じる、生成するとし、ビは霊力があるとなります。つまりは生成、創造をするということです。

結びというのは、生成や創造の霊力が具わっているという意味です。お結びというのは、それだけの霊力が入ったものという認識になります。いきなり握るのと、きちんと調えて祈りおむすびするのとでは異なるということがわかると思います。

また他の言い伝えではおにぎりは、鬼を切(斬)ると書いて「鬼切(斬)り」からきたというものもあります。地方の民話に鬼退治に握り飯を投げつけたもありおにぎりという言葉ができたとも。鬼をおにぎりにして、福をおむすびにしたのかもしれません。

私たちが何気なく食べているおにぎりやおむすびには、日本古来より今に至るまでの伝統や伝承、そして物語があります。今の時代でも、大切な本質は失われないままに、如何に新しく磨いていくかはこの世代の使命と役割でもあります。
有難いことに故郷の土となり稲やお米に関わることができ、仕合せを感じています。子孫のために徳の循環に貢献していきたいと思います。

清々しい気持ち

昨日は、二十四節気の雨水に入りひな人形をお祀りしました。このひな人形は私のメンターの一人、佐藤貞三先生から継承したものです。もう6年目になるでしょうか。もともと男兄弟しかいなかったこともあり、ひな人形とはあまりご縁がなく育ってきたから最初に拝見したときは大きな衝撃を受けました。

私にとっての人形というのは、祖父から戴いた端午の節句の時の五月人形です。人形というのは、どこか魂が宿っているようで幼い頃から怖いものがありました。子どもたちは幼少期から様々な人形に触れていきます。不思議ですが、愛着のある人形はその人と一対になっているような感覚もあり関係性の中に繋がりが生きているような気がします。人形の歴史は先史時代からあり、古代エジプトなどでもたくさん出土しています。人間が人形と共に歩んできた文化は、長い歴史があり日本でも様々なところで文化と融合して祈りから遊び、そして暮らしに根付いてきました。

ひな人形をお祀りするのは、一年に一度です。しかもそんなに長い期間ではありません。むかしはどのような気持ちでお祀りしたのでしょうか。一つは、身代わりとして厄を引き受けてもらおうとしたこと。もう一つは、女の子の健やかな成長を祈るためともあります。

また上巳の節句は、本来は3月最初の巳の日に、水に入り禊(みそぎ)をして厄を祓う行事でした。そこで人形(ひとがた)あるいは形代(かたしろ)と呼ばれる、草木や紙で作った人形に自分の穢れを移して水に流すことで厄を祓い幸せを願ったともいわれます。平安期の陰陽道なども和合しているのかもしれません。

いつもこの時期にひな人形をお祀りすると清々しい気持ちになります。一つ一つを飾り、祈り、お神酒をいただくのは習慣になっていますが仕合せを感じる大切な時間です。

伝承というものは、徳が喜び合う中にこそ太くなります。人の出会いやご縁からはじまったものが花が咲き実になり種になるには長い時間を要しますし奇跡の連続に結ばれます。

子孫へ、豊かで知恵のある未来を伝承していきたいと思います。

 

 

日本の醸し文化

日本には古来から食文化というものがあります。その一つに酒があります。このお酒というものは、日本人は古来より家でつくり醸すのが当たり前でした。醤油や味噌などと同様に、発酵の文化と一つとしてそれぞれの家にそれぞれのお酒を醸していました。何かのお祝い事や、あるいは畑仕事の後などに呑み大切な食文化として継続してきたものです。

それが明治政府ができたころ明治32年(1899年)に、自家醸造が禁止されます。この理由は明治政府による富国強兵の方針に基づき税収の強化政策でした。実際に明治後期には国税に占める酒税の割合は3割を超え地租を上回る第1位の税収だった時期もあったそうです。

そこから容赦なく自家醸造が取り締まられ、高度経済成長期にはほとんどお酒を自分の家でつくる人とがいなくなりました。実際にはお酒以外にも酒以外にも、砂糖、醤油、酢、塩などの多数の品目にも課税されましたがこれらの課税はその後撤廃されていてなぜかお酒だけが今でも禁止のままです。

それに意を反して、昭和に前田俊彦氏がどぶろく裁判というものを起こしましたが敗訴しています。その時のことをきっかけに全国でも、おかしいではないかと声があがりましたがそれでも法律は変わっていません。先進国の中でもアルコール度が低いお酒でさえ醸造するのを禁止しているのは日本だけです。発酵食文化として暮らしの中で大切に醸してきたものが失われていくことはとても残念に思います。

ちなみにこのどぶろく(濁酒)というものは、材料は米こうじとお水を原料としたものでこさないで濾過しないものというお酒のことです。一般的な清酒はこすことを求めていますがどぶろくはこしません。しかしこのどぶろくを飲んだことがある人はわかりますが、生きたままの菌をそのまま飲めるというのは仕合せなことです。

以前、私も生きたままのものを飲んだことがありますがお腹の調子がよくなり仕合せな気持ちになりました。アルコールはただ酔うためのものではなく、菌が豊かに楽しく醸しているそのものをいただくことでそういう心持ちや気持ちになってきます。

つまりは生きたまま醸したものを呑む方がより一層、その喜びが感じられるのです。

現在、宿坊の甦生をしていて明治の山伏禁止令に憤りを感じましたがこの密造酒として禁止した法令にも同じように義憤を覚えます。

子どもたちが食文化としてのお酒が呑める日がくることを信じて、自家でやる醤油、味噌など日本の醸し文化を伝承していきたいと思います。