お導き~運命に素直になる~

人生を振り返るとき、出会いの一つ一つの意味を後々に深めていると偉大なお導きによって今につながっていることに気づきます。その時、あの時の奇跡がまさに今の自分を創造しているからです。

この「お導き」という言葉は、言い換えれば「こちらですよと案内された」という感じにもなると思います。あなたの道はこちらにありますよと導いてくださった人たちはみんな出会った人たちの御蔭です。その道に従って素直に歩んできたから今があります。

運命というものを想う時、どちらに行くのだろうかとわかっているような感覚もあります。これは私が以前、交通事故にあった時や、災害を逃れられた時、いつも大切な局面で目には観えませんが予兆や予感によって助けられました。ある人はそれをご先祖様の見守りといい、またある人は運が善いからとも言います。

もしも道案内の方がいつも傍に居て、そっちではないですよ、こちらですよと観えるのならこんな安心なことはありません。多少道を間違えても、すぐに戻ってこれる。ちょっと寄り道してもまた元の道に戻ってこれる。自分の与えられた道が観えるというのは仕合せなことのように思います。

松下幸之助さんは、「自分は死ぬ直前まで運命に素直に従いたい」と言いました。この境地はどれほどのものかと思うのです。導かれて生きる、運命をひらく生き方というものは素直に今を味わいきるもっともお導きに任せた生き方なのではないかと思うのです。

つまり、運命を生き切った人が素晴らしいことであり運命は必ずその人に仕合せをもたらせているとも言えます。しかしそれを阻害しお導きを感じられなくなるのは運命に対して素直に生きていないからかもしれません。松下幸之助さんはこうも言います。

「苦しかったらやめればいい、無理をしてはならない。無理をしないといけないのはレベルが低い証拠。真剣に生きる人ほど無理はしない。無理をしないというのは消極的な意味ではない。願いはするが無理はしない。努力はしても天命に従う。これが疲れないこつである。」

天命に従う人は疲れないと言うのです。逆に天命に従わないから疲れると。無理というものは天命に逆らっているからだともいうのです。つまりすべてを「天にお任せするのだ」ということでしょう。

結果を気にして、評価を気にして、自分の人生を誰かのものにしてしまえば無理して疲れるばかりです。まさにこの今は、運命であり天命であり、これでいいのだと素直になって従っていけば自分の都合のままにはいきませんが必ず善いことになるとお導きに任せていけるのです。

お導きがこうであるのなら、素直にお導きに従いますと今を真剣に歩んでいる人は素直に自分のままでいられるように思います。あるがまま自分のままであるという仕合せは、何物にも代え難い人生の幸福です。

現代は脳ばかりを肥大化させ、人工知能の世の中ですから天命や運命、お導きなどという「信じる」ことはあまり意識されませんがこれは人間としての大切な永遠の叡智として切り離しておくことはできません。

子どもたちにも自分らしく疲れずに無理をせずに素直に生きられるように、天命に従いお導きを信じる生き方を譲り遺していきたいと思います。

暮らしの改善

現代の生活を眺めているとむかしからの暮らしというものがほとんど失われていることに気づきます。仕事だけの日々で、むかしから大切に習慣づけられたものがなくなるほどに私たちは生きていくバランスを維持することが難しくなるように思います。

たとえば、むかしの伝統的な暮らしの中で「祈り」というものがあります。最近では宗教や信仰している人たちは続けていますが一般的には都会の経済中心の生活の中でそれを見る機会も減ってきているように思います。

朝起きると朝陽に手を合わせ太陽を拝み、おはようございますとみなさんへ挨拶をする。お昼になるとこんにちわと笑顔で言葉を交わし、夕方にはご先祖様へ一日の御礼と感謝を述べて御縁やつながりのぬくもりを感じながら夜にはお休みなさいと和らぎ眠る。このように日本人は日々に偉大な何かに見守られながら清々しく仕合せに生きていこうとする習慣を持っていたと聞いたことがあります。

最近では、朝起きて朝食も取らずに満員電車に乗り昼間はずっとパソコンに向きあい食事もコンビニなどで短時間で済ませ夜も残業したり、夜もお酒を浴びるように飲んだりして睡眠の質も落ちてしまっているといいます。

日々の生活習慣をどうしているかというのは、人生を創り上げていく上でとても大切なことのように思います。そういう私も現代のスピードと結果重視の世の中で仕事の質量も多く、過度なストレスもかかり心身は疲れますが今では習慣に助けられているようにも思います。

私の場合は早起きして前日の振り返りをじっくりと味わい、反省をして行動を決めたら起きてお祈りをし、このかんながらの道ブログを書いて前日に学んだことの意味を深めます。そして有難いノートという日記を書いたら前日の人生出来事から得た気づきを今度は気づきノートに書いていきます。その後は出社し仲間たちと天国言葉やツイテル体操を行い、面白い話を交代でやったり、団欒というブレストを行い脳を活性化させています。情報共有や追体験をすることで、みんなで取り組めているお仕事の豊かさや課題を一緒に持ち合います。お昼には電気を消して自然の光を浴びてちゃぶ台で玄米自然菜食のお弁当で共食をし、休憩時間は焙りたて珈琲や健康茶などを飲み頂き物のおやつを食べます。あとは、早めに帰宅し自炊をして炭火を熾し、ゆったりとお茶を飲み楽しいことを考えて感謝で眠り一日を終わります。

こんなことをただ繰り返しているだけですが、その習慣の御蔭で心身がひどく具合が悪いときでもなんとか今までやってこれたように思います。思い返せば、日々真剣に生きるほどに喜怒哀楽の連続ですし、現代のような脳化社会では考えることばかりで過度に脳も疲弊しています。もともとメンタルも強靭な方ではなく、自分で言うのも変ですが敏感で繊細で偏っていますからすぐにダメージを受けてしまいます。

しかしその分、「継続する」ということを恩師の背中から学び、どんなことがあっても続けていくということの大切さだけは維持してきました。それが信じることだと言い聞かせて日々の習慣を改善してきたように思います。

マザーテレサにこういう言葉があります。

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」

自分に気を付けるということは、自分を改善し続けるということです。日々に繰り返し反省しながら自分の言動や行動を省みる。そしてよくないなと思ったことがあったらそれを翌日に直していけるようにまたチャレンジしてみる。結局は、脳が思っているほど簡単に自分を変えることなどできず、少しずつ、リハビリのように習慣の方、いいかえれば「暮らし」を改善していくしかないように思います。

現在、私は暮らしの甦生に取り組んでいますがこの暮らしとは生きてい上での根本、幸福に健康な日々を送るための中心になっているように思います。中心こそバランスの源であり、その源をどうしていくかが自立の鍵なのかもしれません。

引き続き、子どもたちが安心して自分を生き切り自分の存在価値を肯定して生きられるように日々の学びを糧にして禍転じて福に昇華し、さらに飛躍の機会にしていきたいと思います。

 

坦蕩々

生きていると日々に大変なことが発生します。理想が高ければ高いほど、また純粋であればあるほどに思い通りにはならないような出来事が波のように押し寄せてくるものです。

その都度、心や感情はざわつきますが生き方を訓練する機会として日々の初心に立ち返り自分を大切にしていけば波風は収まってくるものです。

以前、ある方に「波がたっても風を立てるな」と教えていただいたことがあります。その方も、心を澄ませていく実践を日々に取り組んでおられる方で生き方の訓練によって安心の境地を会得しておられました。

人間には偽りの自分と本来の自分というものが誰にしろあり、日々の暮らしの中でその自分自身をしっかりと見つめているからこそ本当の自分を磨いていくことができるように思います。

そのために学問はあり、学問は自己を修養するために存在するのです。孔子が  「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」と言いましたが、周りの目を気にして評判や評価のために勉強しているだけでは自分のことをさらに誤魔化していくばかりです。

何のために学ぶのかということを、腹に据えて人間学に取り組む人たちは真摯に自己と向き合い自分の与えられた使命に粛々と楽しんで取り組んでいけるように思います。これが楽しくなくなるのは、まだまだ学問が本当の意味で自分のためのものになっていないからかもしれません。

中江藤樹はこう言います。

「順境にいても安んじ 逆境にいても安んじ 常に坦蕩々として苦しめるところなし これを真楽というなり 萬の苦を逃れ 真楽を得るを学問のめあてとす」

意訳ですが、順調であろうが逆境であろうが、上手くいこうがいかまいが、自分にとって最高の状態でも、もしくは酷く悪い状況の時ですら、傲慢にならず慢心せず謙虚に心は静かに落ち着いたままで同じ処に居て安定し安心している。常に心は「平のまま」で波風を立てることもなく日常のように実践を続けて煩悶とすることがない。これらの安心立命の境地こそ「真楽」というのである。すべての自我妄執の苦難を切り抜け、この真楽を会得することが学問の本懐であると。この真楽とはまさに、もっとも深い感謝であり仕合せの学びの境地です。学問が楽しくて仕方がないのでしょう。人生をもっとも有意義に活かしきった姿です。

孔子はこうも言います。

「子曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。」

これも意訳ですが、自分を磨いていく人物は順逆の状況でも常に初心を保ち波風立てずに穏やかでゆとりがある。この逆に日々に磨かない人はつまらないことにいちいち波風立てて迷走し不安になり、落ち着きが無く自分や未来の心配ばかりをしている。そうならないように学問があり、人は人間を磨く学問がある御蔭で時々の状況で大きく崩れなくなるのかもしれません。

この孔子の言う「坦蕩蕩」、まさに平らで大らか、いい言葉です。もしも一人一人が、この「坦蕩蕩制」をやったらこの世の中は君子が増えて人々がみんな安心立命しながら笑い合い助け合い真楽の世の中を築けるかもしれません。

日々の実践は、大変な時にも生き方を貫けるかどうかで試されます。順境も逆境も人生を磨くための試金石です。時間という手助けもありますから、また原点回帰して根さえ残っていればそこから新たな芽が生えだしてきます。甦生や新生はいのちの常です。

日々に気楽に極楽に頑張らずに無理をせずに坦蕩蕩と、そうやって真楽の境地を得て子どもたちに安心立命することの価値や意味を伝承していきたいと思います。

見守る側としての心構えと心がけを楽しんでいきたいと思います。

 

自分を大切にするということ

中江藤樹の「致良知」という言葉があります。これは今の時代は素直になり切ること、真心のままになること、人徳を究めることなどと定義してもいいかもしれません。中江藤樹は人間には誰にしろ「良知」という美しい心を持って生まれているといいました。これは虚心赤心でもあります。まるで生まれたての赤ちゃんがはじめから周囲を信頼仕切らないと生きていけないように生まれながらにしてすべてのいのちと仲よく親しみ睦み合い尊敬し合い認め合う心が備わっているということです。

私の日ごろからの言い方では、これを「初心を大切にする」とも言います。しかし人間は日々の私欲が我欲、また感謝を忘れて足るを知らなくなってくるとその初心が曇っていき本来の備わっていた真心を見失ってしまいます。そうならないためにも、日々に内省し自分の心にだぶついてくるその欲を洗い清めていく必要があります。

そのために中江藤樹が実践したのは「五事を正す」というものです。これは「貌、言、視、聴、思」を常に意識するということです。つまり和やかな顔つきをし、思いやりのあることばで話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、真心をこめて相手のことを思いやるということです。

この平易な言葉で説明できる五事は、実際に自己観察してみるとすぐに我が入りこみ以上のような心のままでいることは難しい状態です。だからこそ、普段から自分の心と向き合い、自分の心を大切にし、心の命じるままに心を実践していく必要があります。

その心の実践で今の時代で大切にした方がいいと私が感じるのは「自分を大切にすること」のように思います。これは自分を優先すればいい、自分勝手にすればいい、我儘を聞いてあげればいいという意味ではありません。それに、単に自分を守ればいいということでもありません。

これは自分に孝行するということです。言い換えれば自分を敬うのです。

中江藤樹はこう言います、「私たちの心や体は、父母からうけたものであり、父母の心や体は、先祖からうけつがれたものであります。それはもともと、大自然から授かったものです。孝行とは、父母を大切にし、先祖を尊び、大自然をうやまうことです。そのためには自らの良知をみがき、体をすこやかにし、行いを正しくし、家族やまわりの人々と仲よく親しみ合うことが大切です。さらに、子どもをあたたかい心でしっかりと育てることも孝行です。」

自分を大切にするというのは、ご先祖様からいただいたこの借り物の自分を大切にしていくということです。そのためにはご先祖様を敬い、今の自分を育ててくださった父母や周囲の環境を敬い、日々に自他を愛して優しく思いやりの日常を過ごしていくということです。同様に子孫たちにも、その孝行を盡していくことが「自分を大切にする」ということなのです。

自分を大切にする人は、致良知が磨かれていきます。そして噓偽りない真心の人になっていきます。「自分を大切にする」とはつまり自分に嘘をつかず自分を誤魔化さず自分を責めず、自分に奢らず、自分を粗末にせず、親孝行や子どもたちをあたたかい心で見守るときのように自分自身に接していくということなのです。

時代を超えて、中江藤樹が大切にした生き方は今の時代の人々の生きる指南になっていきます。先人を敬い、本来の学問を子どもたちに伝承していきたいと思います。

理念研修とは何か

最近、現場で理念を研修しているところの話を聞くことがあります。しかしこの理念という言葉は、使っている人によってその言葉の定義が全く異なることに気づきます。それは経営という言葉も同じく、使う人の生き方や考え方によってまったくその意味が異なるのです。

これはその人が話す理念や経営の意味や定義、それ自体をどのように理解しているかで言葉の意味が変わります。これは例えば、本気や覚悟なども同じくどれくらい本気か、何が本気か、覚悟とは何か、覚悟を決めるとはどれだけのことを言うのかと同様にそれはその人の生き方や生き様を反映するものだからです。

しかし先日、拝見した他の会社が取り組んでいるという理念はとても生き方や生き様を反映したものではありませんでした。教科書的に単に一つのルールを覚えさせ守らせるだけのような理念の使い方、冊子を作るだけでそれを活かすことがない。しかもそれを最初に破っているのが経営者となれば一体誰がそんな理念に着いてくるのかということです。縛るものを開放するのが理念であるという人と、より縛るために理念を使う人もいる。結局は理念は道具と同じく使う人にとっては薬にもなれば凶器にもなるということです。

また同様に色々な企業が理念経営の研修などをやっていますが、果たしてそれが経営者の嘘偽りない本心からの本質の生き様や初心を記されたものか、本物かどうかを確かめるにはその理念を取材する人間の理念への定義がどうなっているかをまずは確認する必要があると私は思います。

理念を取材する人間がどのように理念というものを定義しているか、そしてその人は理念に正直に生きているか、理念をどれだけ大切に実行できている人かということが大切だということです。

形骸化する理念や、現場で使われない理念は文字通りスローガンでお飾りです。理念はコピーライターが取材するものではなく理念経営を実践する経営者しかできないものです。言葉を操るだけならそんなものはかえって言い訳の材料になったり、人々の不平不満の材料に用いられます。そのようなはっきりと定まっていない状態の理念をいくら研修を現場に何回もしても、浸透させたものがそもそも定まっていなかったのならばそれでは逆効果にもなることもあるということです。

だからこそ理念を聴くということはその人の遺言を聴くくらいの一大事だという認識を持つ必要があると私は思います。遺言がもしも間違っていたら、亡くなった人も報われないかもしれません。本当にその人が意図したこと、その人が心の奥底から願ったものだからこそ、その言葉には真実が宿り力が発揮されるのです。それが理念の本質なのです。

そもそも理念を扱う仕事をしているのなら、まずは自分自身が理念に向き合って正直に取り組み、その取り組む姿勢のままに理念に取り組む人たちに覚悟を決めさえ応援し支え見守り続けなければなりません。

結局は人間は、すべて生き方からはじまり生き様の間でこの世の使命を果たすのですからその初心を最期まで貫徹させてあげることが本当の思いやりになります。だからこそ人は生き方を通してお互いを磨き、生き様を通して協力し合い夢を生きる仕合せに出会うように思います。

そして何よりも理念研修で大切にするのなら、理念を高所から掲げて下に振り下ろすような凶器のような使い方をするのではなく、経営者自身がもっとも低所におりてみんながしっかりとその理念を理解してくださるように自分自身が説明を丁寧に根気強く行い、粘り強く伝え、そして自分自身に至らないところがあればそれを反省し自らが謙虚に修正していくかありません。当たり前のことですがトップとはもっとも高いところにいて偉そうにするのではなく、何よりも自分に素直になって謙虚に反省を怠らないで努力する人物になっていくことです。これをリーダーとも言いますが、このリーダーやトップもまた生き方ですから言葉の意味が使う人物にとってまったく異なるのは気を付けなければなりません。

子どもたちを観ていたら生まれながらに何のために生きるのかを学ばされ、どう生きるのを真摯に歩むのを感じます。それをもっとも身近で導く大人だからこそ、私はこの理念という言葉と真摯に向き合い子どもに恥じない位置で受け止める必要があると思うのです。

言葉を使い分ける前に、その言葉の大前提の自分の初心と向き合うのが理念研修なのです。

森信三氏の言葉です。

「人間の値打ちというものはその人が大切な事柄に対してどれほど決心し努力することができるかどうかによって決まる。」

人を導くことは、生き方を与えることです。引き続き、私たちは私たちの信じる子ども第一義の理念を磨き、仲間と共に本物の理念経営、つまり初心伝承を支援していきたいと思います。

借り物

加齢と共に体の調子が悪くなることが増えてきました。というよりも、体の声を聴くことができるようになってきたといってもいいかもしれません。「今日の体調はどうかな」などずっと若いときは少しも考えたことがないほど健康でやってきました。やりたいことがあればそれをやる、そしてそれをやるだけの十分な体力がついてきていました。

しかし次第に疲れが取れにくくなったり、あちこち痛みやすくなったり、無理をした古傷が傷んだり、体が今までと同じようには動かなくなります。そう思うと人生を80年で割ったとしてもちょうど40年くらいをピークに、衰退していきはじめるとも思えます。そのピークの時が更年期でもあり、体も他の心と精神の元氣のバランスを保とうと揺らぎ始めるのかもしれません。

元氣には様々なものがあり、よく気力体力精神力などというようにあらゆる力の源になっています。生き物はすべてどこかからエネルギーを転換して、元氣を発揮していくとも言えます。その元氣を発揮するために、あらゆるところから力を捻出してきますが何度も何度も使っているうちに劣化していきますからそれ相応の力を別のところから借りて元氣を維持していくものです。

若いときは、親からお借りして頂いた力をそのまま使い切っていく。そして次第にその力が失われ周囲の仲間や友人や愛する人たちから頂いた力をお借りしていく。そしてさらには世の中や自然の力、そして他力をお借りしながらまた力を使っていく。最後は借りたものをお返ししてこの世を去っていき次の時代の力の礎になっていく。そうやって力は借りたものをまたお返しします。そう考えると、力の本体とは何か。それは「借り物」であることに気づくのです。

この体もこの力も自分のものと錯覚しがちですが実はすべて借りた物なのです。その借りたものを大切に預かり、それをお返しする。そして次の人たちや生き物たちがその力をまた借りて生きていく。借りたものが循環しながら私たちは元氣をいただいて暮らしているということです。

自分の力だと何でも思い込み、不平不満を言うのはこの借り物であることを忘れているのかもしれません。大切な借り物だからこそ、丁寧に大事に手入れしながら使い切っていく。それが力を使う、つまり力を活かすということでしょう。

体の声を聴きながら、借りものを粗末にしないよういのちを大切に元氣をいただいていることを忘れないように謙虚に素直に生きて子どもたちの力に譲っていきたいと思います。

思いの手入れ

人間は自分の前提になっている「思い」に気づいているかどうかはとても重要であるように思います。この「思い」が、現実を変える唯一のものであるからです。

そもそも現実とは自然と同じく中立で中庸です。それはこちらの都合で変えられるものではありません。しかし現実は変わらないからこそ、自分が現実に対する思い込みや刷り込みを変えることができるのなら現実は変わって見えるものです。

ある人は、毎日仕事をするのが楽しいと感じ、またある人は毎日仕事をするのが苦痛だと感じる。同じ現実であったとしても、その前提になっている「思い」次第でまったくその人生が変わっていくのです。

ある人はせっかく奇跡のように生まれてきたのだから仕合せに楽しく生きようという「思い」がある人は現実は歓びの連続です。その逆に、何でも当たり前になって不平不満ばかりの「思い」がある人は苦痛の連続です。しかしそれもまた「思い」によって感じ方が異なるのです。

この「思い」をどのように手入れし続けるか、ここに人生を左右する鍵があるように思います。ないものねだりをするとすぐにこの「思い」はネガティブになります。あるものに感謝してすべてが善いことになると信じて生きている人は「思い」が楽観的になり幸福を感じています。

つまり人間は、生き方によってしか現実を変えていけず素直になることでそれを維持していくことができるということになります。では素直にならないのはなぜか、それがエゴや私心、自分の思い通りにならない不満や不安から発生するのは明白です。

素直になるというのは、本来の生まれてきた歓び、人生の仕合せをあるがままに嬉しい楽しい仕合せと感じることです。これを天国言葉と言った人もいましたが、松下幸之助さんは「自分は運がいい」という言い方もしました。

運が善い人はどんな時も「思い」が素直なままです。言い換えれば、素直だからこそ運がいいのです。自分がここまで生きてこれたことへの感謝や、多くのご先祖様たちが助けてくださったことへの感謝、今の人生が丸ごとで素晴らしいことになっているということへの感謝など、有り余る感謝の「思い」で満たされているからです。

感謝で「思い」を満たしている人は、邪念や刷り込みを受け難いように思います。「思い」をネガティブの方へ向けるか、その「思い」を感謝に向けるか。「思い」の手入れこそが省我の実践なのかもしれません。

日々我が身を省みる・・・子どもたちの一度しかない人生の思いを大切に守り続けていきたいと思います。

いのちの根源

火鉢で炭を使い何度もお湯を沸かしていると、炭の個性や特徴によって火の扱い方が変わってきます。そもそも火を扱うということは、水を扱うことと同じように人間が自然の持つ力を調節して利用するということです。

むかしはこの火や水や土などを精霊と呼び、生きている存在として接し崇めていました。現代では一般的にはガスや水道など簡単便利に火や水を利用できるようになりあまり精霊という意識を持つことがなくなりましたが神社や信仰の山などでは今でも神様として大切に祀られています。

古代日本ではこの精霊をどのように定義していたかウィキペディアには下記のように紹介されています。(原文まま)

『古代日本では自然物には生物も無生物も精霊(spirit) が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んで名称の語尾につけた[2]。古事記や風土記などの古代文献には葉の精を「ハツチ(葉槌)」、岩の精を「イワツチ(磐土)」、野の精を「ノツチ(野椎)」、木の精を「ククノチ(久久能智)」、水の精を「ミツチ(水虬)」、火の精「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいたことが知られている。また、自然界の力の発現はその精霊の働きと信じ、雷を「イカツヂ」、蛇を「オロチ」などと呼んだ。こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも及び、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」などと呼ばれていた。人間の生命や力の源が、血液の「血」にあると信じられたところに、「チ」が起源しているとも言われている。土(ツチ)、道(ミチ)、父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができる。また神話や古代氏族、とりわけ国津神系の氏族の祖先には「チ」を名称の語尾につけているものが見出される。神話では「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日霎貴)」、氏族では物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」などである。神名や人名の語尾(正確には「〜神」、「〜命』の前の語)に「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋ると信じられていた自然主義的観念の時代を反映しているものと考えられている』

もともと古代の日本語では「チ」や「ヒ」、「ミ」などといった一文字の中に根源的な精霊を定義して言語化したといいます。「チ」はその伝承されているいのちの原点のことを顕しているように「ヒ」は、太陽や光などのいのちの熱光源を顕していました。「ミ」などは、変化や受容するものなどを顕しました。

つまりは古代の人は、言葉でそのものを認識するのではなく精霊そのものの力をそのまま受け取りその姿をそのまま感じ取りそれをそのまま丸ごと活かすことができたのです。

現代は文明が発展し、科学の力によって分析力を高め誰でもその精霊をコントロールできるように便利にしていきました。しかし大きな災害や、地球規模の自然変動を観ると私たちがコントロールしたのはほんのたった少しの一部分でしかないことが分かります。

実際には活かしていると思っている精霊の力も、それは傲慢に使いこなせていると思い違いをしているだけで本当はもっと偉大な力だったものを受け取ることができなくなっているかもしれません。自分たちの進化は実際は進歩ではないかもしれないと疑う必要があるように私は思います。

科学では証明されないことを宗教だインチキだとすぐに価値観で裁く前に、古代の人たちが何を観て何を活かしてきたか謙虚に学び直す必要を感じます。そういう意味では、火に触れ、水に触れ、土に触れ、そして様々ないのちの根源に触れていくことは進化を高めていきます。

子どもたちには、進化に相応しい環境を用意し古代から謙虚に受け継がれてきたいのちの本質のままに伝承していきたいと思います。

七輪

聴福庵では、よく「七輪」を使って料理をします。この七輪とは、土製のコンロのことで炭火を熾したり煮炊きをしたり、焼き物をするときに用いるものです。暮らしの中でこの七輪があることで、炭火を用いた料理はとても幅が広がります。現在ではスローフードの道具として有名になっていますが、本来は日本人には欠かせない調理道具として永い時間暮らしを支えてくれたパートナーの一つです。

歴史としては古代は土師製の炉として宗教用道具として祭祀などにも用いられ平安時代になると室内において置き炉となりこれがのちに手あぶりになり、屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものだという説があります。能登製の珪藻土が有名ですがむかしは土師製粘土のものが多かったといいます。

この珪藻土というものは、植物プランクトンの遺骸が集積したものです。この天然珪藻土には無数のミクロの空胞がそのまま残っており、保温性・蓄熱性が高く熱効率が良くしかも丈夫でまさに炭火を熾し調理するための最高の材料だったのです。粘土から珪藻土になるのは珪藻土の産地の能登半島を除き明治時代になってからと言います。

現代では七輪の三大産地は土質の良好な愛知三河、石川珠洲・和倉、四国香川があり、かつてはこの三大生産地で日本全体の需要を賄っていたといいます。しかし七輪の需要の急激な減少から廃業が続き三河で3社、石川和倉で1社、石川珠洲で4社ほどになっているといいます。

聴福庵で活躍する七輪たちは、三河七輪と石川珠洲七輪です。まず三河は、江戸時代から続く三州瓦の産地で有名です。この地域は焼き物に適した粘土が多く、瓦以外の焼き物も盛んでした。三河土は熱との相性がよく保湿能力に長けています。これを珪藻土と組み合わせているので丈夫なのです。また黒七輪として有名なのは三河土に炭を塗って乾かし那智黒石で磨き上げているからです。手作りの黒七輪は味があり、うっとりします。

また能登半島は土の三分の二が珪藻土でできているすごい場所です。この豊富に産出する珪藻土鉱床から掘り出された珪藻土ブロックを、崩す事無くそのまま七輪コンロの形状へ切り出して焼成しています。これを「切り出し七輪」といいます。まさに珪藻土のままで形成された七輪は姿かたちそのものが美しく、卓上においても芸術品です。

これらを備長炭や様々な料理の種類に合わせた炭で調理するとき、素材の味は深く引き出されていきます。天然の材料を、天然自然の道具で調理する。現代のように、電磁調理器やプロパンガスなどでは決して出ない味が出てくるのです。

なんでも文明や技術は簡単便利になって効率があがり、人がラクをしてできるようになればいいという価値観ですがそれと共に失っていくものがあるのを決して忘れてはなりません。ラクになることが仕合せなのか、そうではないでしょう。ラクをすることではなく、仕合せのためにラクをしないこともまた選択すべきです。

これらの七輪などの道具は私たち日本人の仕合せを守り続けてきた文化そのものであり、人間が人間らしくゆったりと暮らしを味わい仕合せに生きていくために必要なものなのです。

子どもたちの未来に、大切なものまで奪ってしまわないように使命感を持って暮らしを甦生していきたいと思います。

仕事観

先日、「仕事観」について考え直す機会がありました。そもそも仕事とは何か、それは個々でそれぞれの価値観によって定義されています。仕事というもの自体をその人がどのように定義しているか、それが仕事観ということです。そしてその仕事観を聴けば働き方になり生き方が分かります。人生として働き方と生き方が一致させるにはその「仕事観」こそよく自分で再構築する必要があるのではないかと気づくのです。

たとえば、一般的な仕事観としてはどのようなものがあるか。それはやりたくないことをやるのが仕事、やらされることが仕事、生計を立てることが仕事、会社に行くことが仕事などというものがあります。こうなると、仕事が増えることは苦痛そのものであり自分に仕事が回ってくると損する気持ちになったり、面倒に巻き込まれたと思うのでしょう。次には、社会貢献することが仕事、お客様に喜んでもらうことが仕事、幸福を与えるのが仕事などというものもあります。こうなると仕事が回ってくると喜びや感謝、遣り甲斐や生きがいという気持ちがわいてくるのでしょう。

世の中には生き方が多様であるように個々人の生き様と同じく様々な仕事観があり、その仕事観によって人は日々の働き方を創造しているのです。もしもその仕事観が、やらされているものややりたくないものをやること、もしくは自分勝手にこれが仕事なのでと割り切っていたらそのうち一生その仕事をすることが自分の生き方になっていきます。

一生涯かけて取り組む仕事だからこそ、その仕事観は果たして一生かけてもいいと思っているものかどうかということを確かめる必要があるのです。なぜならそれが人生の幸福と密接にかかわっているからです。仕合せに生きるためには、仕合せに生きるための自分自身の仕事観をもう一度問いただす必要があるのです。

たとえば毎日の仕事が楽しくなくなってくるのは、その人の仕事観が歪んでいることが多いように私は思います。本来の仕事とは何か、それが根にあり芯が入っていれば多少の辛いことがあったとしても仕事が楽しくなります。しかし仕事観が本当に一生涯かけて取り組むことではないことをモチベーションにしていたらすぐに消極的な感情に呑まれて生き方や働き方を誤魔化してしまうようにも思うのです。

自分を偽り誤魔化す働き方をしていたら、それがそのうちに自分を偽る生き方になっていきます。自分らしく自分の生き方を貫くためには、自分が生涯かけてもいいと思っているようなことに今日も取り組んでいるんだという働き方を日々に磨いていく必要があります。

そのために、まず自分の仕事観や固定概念が果たしてどうなっているか。仕事だと割り切ったこと、常識だからと諦めたこと、過去の体験から刷り込まれたものをもう一度見直し、改めて「働くとは何か、生きるとは何か」という大前提の土台を創り直す必要があるように思います。

知ら知らずに私たちは誰かから教え込まれた仕事観というものを学校や社会から刷り込まれていくものです。責任の押し付けであったり、我慢して嫌なことを引き受けたり、健康を害してでも努力したり、そういうことをやることが仕事だと思い込んだりします。そのような仕事に合わせすぎているちに本来のチームであることができなくなったり、仲間であることができなくなったり、同志であったことを忘れたりもするものです。そういう時こそ内省によって何に合わせたか、仕事というものはこういうものだという固定概念に合わせなかったと気づけるかどうかで人生の歓びもまた変わっていくのです。

特に私が関わっている幼児教育の業界では「キャリアアップ」などという研修が流行りで行われています。まずキャリアとは何か、仕事とは何かを定義することなしに、単に補助金を配布するための知識を詰め込み直すような研修をやっていると現場の方々からもよくお聞きします。

子どもの仕事をするのに、なぜそれを本人の生き方や働き方と何ら関係しないつまらない仕事観に導こうとするのか。本来の子どもの仕事とは、生き方を与えるものであり保育とはその働き方で伝道していくものでしょう。

私たちは仕事観というものをまず見つめ何をもって生き方と働き方の一致というのかをそれぞれに問いてほしいと願います。私の働き方はふざけていて常識的な世の中から見ると自分勝手にやっているように見えるかもしれません。しかし「本当の仕事とは何か」が観えればこれが自分の目的に適っている仕事の仕方であることが観えるはずです。世のなかの仕事の常識を壊せるかどうか、この辺は簡単にはいきませんが遣り甲斐のあるプロジェクトです。

これからもカグヤは、その一点に集中して子どもたちの憧れる生き方と働き方に特化していきたいと思います。