やり遂げる力

運とは何かということを考えることがあります。幸運を持っている人と、不運を持っている人。どちらにしても運というものは誰にしろ存在するものです。ただし、その中に運を活かす人と活かさない人があるというのは現実としてあります。

この時の運とは何かを定義してみると、それは機会でありチャンスのことです。つまり運は別の言葉にすれば機会やチャンスのことでありそれを活かすか活かさないかというだけであることはわかります。ここからの文章は運をチャンスという言葉に置き換えて書いていきます。

チャンスというのは、そもそも挑戦する機会のことです。毎回、挑戦する機会がありますが今がその時かどうかをまずはよく観察して耐え忍ぶ必要があります。これは季節でいえば、今が蒔き時なのかもしくは収穫の時なのかを見極める目のことです。蒔き時に収穫しようとしてもその時は実がなく、収穫時に蒔いても実がなることはありません。

自然にリズムがあるように、私たちはその時を捉える力がなければチャンスを掴むことができません。これが一つの幸運というのは事実です。そしてもしも掴んだならば、それをやり遂げなければチャンスはものにすることはできません。掴んだら何が何でも話さずにやり遂げるといった強い思いが必要になってきます。簡単に手放してしまったら、チャンスは逃げていきます。

チャンスが逃げないようにするには、何が何でもやり遂げるといった強い思いと実現するための力が必要です。その力が発揮されてはじめて私たちは運を活かしたといえるのでしょう。

ゴッドファザーの映画で有名な小説家のマリオ・プーゾがこういう言葉を遺しています。

「運と力は、切っても切れない関係にある。運がめぐってきたら、やり遂げる力がいる。また、運がつくまで待つ力も必要だ。」

つまり運を掴んだなら、あとはやり遂げる力次第ということでしょう。

また熊沢蕃山の遺した歌にこうもあります。

「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」

今の私の心境は、これに近いように思います。チャンスはまるで絶望の中の希望のような明るさがあります。例えれば闇夜の中の星々のような存在です。その一つの星を掴み、それを光らせて輝かせるのが私たちの役割のようにも感じます。この存在が宇宙の大きな役割の一端を担います。

子どもたちのためにも運を活かしてやり遂げる力をつけていきたいと思います。

二つが一つ~聴福の境地~

聴福人というのは、造語ですが私たちが取り組んでいる一つの生き方のことです。これは文字の通り、聴くことが福であり、福こそが人の姿であるという言葉で成り立っています。人はもともと福が備わり、それは聴くことで実感できるというものです。

ここでの聴福というのは、ただ人の話だけを聴いて福にするのではありません。あらゆるご縁を聴くという意味でもあります。日々は小さな現象が集まっているものです、それは微細で気づかないような小さな変化から感情を揺さぶるような大きな変化まであります。

心を落ち着けて、そのものの現象の意味に耳を傾けていくことでこれは一体何が起きているのかということを直観するのです。その直観は、私心がないとき、我欲が洗い清められたときに全体が観えて現象の意味が顕現します。また素直になること、依り代や器になるときに現象そのものと一体になります。

自他一体の境地ともいうのかもしれませんが、あらゆるものと自分が今につながっていく感覚になるのです。これを瞑想で近づける人もいますが、一期一会の生き方をしている人は常に今にその感覚を持っているようにも思います。

しかしこれは持続するものではなく、常に自己対話を続けて私心を取り払い続ける必要があります。バランスを保つというのは、常に変化の中で中心を守り続けることに似ています。この中心とは「中の心」といいますが、心そのものの中心のことです。

外の現象と中の現象、世の中には二つの現象が同時発生していきますからその二つを一つにしていき続けてバランスを保つ必要があります。水も二つが一つ、火もまた二つが一つになって存在します。水を保つのもバランス、火を保つのもバランス、この世のすべは円環していて二つがご縁で結ばれて存在します。

聴福の真の境地は、この二つの声を聴き、二つのご縁を一円に結ぶということです。

自他の心を一つにすること、そのためには周知を集めて私心を取り続ける精進が必要です。日々の暮らしを整えていくことは、この二つを一円にすることです。

子どもたちの未来ために場を譲り遺していくためにも、心の修練を積んでいきたいと思います。

 

場を極める

先日から英彦山とのご縁があり宿坊のことを深めていると、かつての聖地ということの意味を再確認することがあります。

もともとこの宿坊とは、主に仏教寺院や神社などで僧侶や氏子、講、参拝者のために作られた宿泊施設のことです。この英彦山では盛時には僧坊3800余が建ち並んで門前の集落をつくっていたともいいます。山の中を歩いていると、宿坊跡だったような場所がなんとなく棚田のように残っています。

厳しい山間での暮らしが観えて、この神域でみんなで助け合い学び合い生きていたことを感じます。明治29年には126戸を記録した坊舎も、現在は顕揚坊、楞厳坊、増了坊など10数軒を残すだけになっています。かつての坊舎は、それぞれに工夫された庭園がついていたといいますがその形跡もあちこちに残っています。その跡地からは、その澄み切った精神性を感じることができます。

本来、聖域とは何かと定義するとそこには聖なる場があったということです。そして聖なる場があるということは、その場を整えていた人があったということです。人は自然の中である一定の精神性を磨き極め高めるとそこに場を創ります。その場に入ると、心の安堵や平安が訪れまるで仏教でいうところの極楽浄土が現れます。

その極楽浄土とは、心の澄み切ったところです。

かつての宿坊は、その心の澄み切った場所であったと私は思います。その場所を守り続けるというのは、その場を清め続けるということです。何が荒廃してなくなったのかといえば、そこに人物がいなくなったことです。

人物と書いて、人と物ですがそれが磨き清められた空間には場が誕生します。私が場道家を名乗るのは、その「場」を極めようとしているからです。場を極めるのは、聖地を甦生させることです。

子どもたちに心の楽土を感じてもらい、魂のふるさとに原点回帰して本来の自分を取り戻していけるように丁寧に甦生を続けていきたいと思います。

 

思考を止めない

久しぶりに東京入りして明治神宮をゆっくりと散策する機会がありました。コロナの緊急事態宣言が解除されてから街中は人があふれています。3密を避けてといっても、駅の周辺やデパートなどは行列ができています。変わったのは、すべての人がマスクをつけていることくらいな感じです。

人間は、他人の様子に合わせて多数派の意見や誰か専門家や権力者の発言に依存すると思考停止してしまうものです。簡単に言えば、自分で考えることを止めてしまうという具合です。

本来、現状はコロナの問題は何の解決もしたわけではなくワクチンも接種したわけでもなく、さらに状況は変異株や感染数は増えて悪くなる一方です。しかしみんなコロナ前の日常に戻ってきています。ひょっとしたら自粛して解除までは我慢したのだからとその反動が来ているのかもしれません。もしくは、マスコミの情報を頼りすぎて自分の感覚で判断するのをやめてしまったのかもしれません。

どちらにしても、思考停止してしまえば悪い方の状況がそのうち常識になってしまい何が最善で何が本質なのかもわからなくなってしまうようにも思います。

自分の感覚を信じるというのは、自分で考え続けるということとイコールです。誰かの意見は参考にしても、大切なのは自分の感覚を大切にするということです。

人間は一つの災害に対応するだけでも精いっぱいで、二つ以上の災害に対応するのはほぼ不可能です。感染症が流行しているときに、他の自然災害などが発生すれば悲惨な事態になります。これは歴史を観ればすぐに理解できますが、地震などのあとに死者が増えるのはそのあとに感染症や飢饉などが発生するからです。

連鎖的に何かが発生する前に、何かしらの対処を早急にして次の災害に備えるというのが大切なことだという教訓です。

リスク分散、これは危機回避をするためにみんなで力を合わせて支えあう仕組みでもあります。ブロックチェーンは、DAOといって自律分散の仕組みです。何かあった時のために、いかにそれぞれが自律して支えあうか。お互いの役割を信頼を築いて協力して助け合い生き残る智慧でもあります。

私はコロナだから今の判断をしたのではなく、自分の感覚を信じてずっと今までやってきました。自分の嗅覚、聴覚、触覚などの五感、そして手と足と運を信じて歩んできました。その中で、今はこうすると自分の信じる道を直観して決断をしてきました。それは思考を止めないための工夫だったように思います。

刷り込まれていく世の中で、刷り込まれないことこそが生きるための本当の知恵だと今、私は確信しています。子どもたちが、いつまでもこの地球で仕合せに暮らしていけるように刷り込みを少しでも取り払い、刷り込まれない環境を創るために思考停止する世の中に暮らしフルネスの楔を打ち込んでいきたいと思います。

徳を磨くチャンス

徳積堂が間もなく始動するにあたり、初心を確認する機会が増えています。自己との対話を通して、改めて心の調整を丁寧に紡いでいく毎日です。

徳というものの正体は、なかなか現代では伝わりにくく構想だけを話すとすぐに感謝ポイントや恩返しシステムなどと脳が判断できるもので理解されていきます。私はもともと実践を重視するタイプですが、世の中に現代の言葉で甦生し、今なら何をすれば徳を積めるのかの具体的な事例を伝え、仲間や同志たちと一緒にその豊かさを伝道していきたいと取り組む中で様々な葛藤も生まれます。

特に親しい人や、尊敬できる人たち、また親切な方々になかなか伝わらないときは時機ではないのではないかや、これで本当に良かったのかと自問自答することもあり、その時は静かに元の場所に回帰して徳についてまた自分なりの整理をしていきます。

目に見えないものを語るとき、現代ではそれは宗教の類であると分類わけられます。しかし、この世の中はご縁も同様に目には観えない「つながり」によって存在や関係が結ばれているものです。そしてその空間的にも歴史的にも深く結ばれた縁起によって私たちは自分の道を体験していくことができています。

徳というものもまた中庸であり、実態はわかるようでわからないものです。今朝がた、また整理しているとふと常岡一郎さんのことを思い出しました。この方もまた、徳を積み、自分を磨き切った人生を送られた方でした。同じ福岡県出身の方です。こういう言葉があります。

「徳と毒はよくにている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒が薬ということばもあるではないか。毒になることでも、そのにごりを取れば、徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引きうけるなら辛いことほど徳になる。」

「とく」に濁点が入ることで、「どく」ともなる。多少の毒は薬になり、良薬苦しともいえる。何も毒がないものは徳にもならない可能性もある。大事なことは、その毒の濁りを洗い清め禊ぎ祓い、徳にしていけばいいのである。最初から毒だからと避けて清らかなところにだけいてもそれは徳にはならないものかもしれません。泥沼の中の美しい蓮のように、私たちにとって大事なことはただ清らかなところで善いことをすればいいのではなく、それがたとえ自分にとっては苦労であっても勇んで訪れてきたご縁に素直な心で取り組んでいくこと。やりたいことのためにやりたくないことを我慢するのではなく、やりたくないこともまた喜んで勇んで引き受ける。あらゆる我執をも手放して、濁った心を見つめてそれを磨いて光らせる正直な想いで引き受けて至善に転換していく。そういう取り組む姿勢や実践の積み重ねによって感謝と歓喜が湧いてきてこそ徳になるのだと。つまり、毒を自分の身体を通して徳にしようという祈りの心の中にこそ徳を醸成する要諦があるということなのでしょう。

これは私の意訳ですから文章をどうとるかは、それぞれの人の解釈ですが徳積みとは禍を転じて福にすることであり、故事の人間万事塞翁が馬のような生き方をするときに出会えるものだと私は思います。つまり素直さこそが明るさであり、その明るさによって濾過されたものが人々の幸福を増やしていくのです。

初心は常に子どもたちの未来のために取り組んでいますから、すべてのご縁を活かし徳を磨くチャンスに換えていきたいと思います。

つないでいく貴重な存在

私たちは先人たちが譲ってくださったもので生活を営んでいくことができます。それは例えば、土地、家、環境、使っている道具、田畑や食料、また生活文化などもすべて先人が子孫に譲り遺してくださったものです。

発明品なども同様に、先人が知恵を絞り発明したからこそ私たちはそれを今も活用することができています。エネルギーなどの電気や石油もまた、発明されたものの一つです。

当たり前に私たちは使っているもののほとんどが、先人たちが譲り遺してくださったものです。それをどう大切にして、また同様に私たちは次世代へとつないでいくのか。これは先人の知恵の恩恵に触れる人たちを中心に行われていきます。

伝統職人たちは、まさに先人の知恵の伝承者でもあります。左官をはじめ、刀鍛冶、また鰹節職人などもこれらの先人の知恵を学び続けています。いくらその時代に世の中に必要とされなくなったとしても、その知恵は非常に大切なものなのでそれを次世代へと渡さなければなりません。

時代がまたそれを必要とする日が必ず来ますから、その技術の継承は重要なのです。

そう考えてみると、歴史の中では何度も失われそうになったことがあるように思います。例えば、戦乱で滅亡したり、或いは疫病が流行り、また或いは飢饉があったりして人口が減り伝承できない状態になったこともあるように思うのです。

それでも今でも遺された先人の知恵に触れるときに、私はそれまでつないできてくださった方々の有難い存在と恩恵を深く感じます。よくぞ、ここまでつないでくださったという具合にです。

私たちの体も本当は同様に先祖や先人たちがずっと子どもを育て見守りつないできた存在です。よくぞ私までつないでくださったと実感するのです。そういう実感が感謝になり、同様につないでいこうという気持ちになるのです。

私が取り組んでいる甦生は、単なる現代に適応できるように温故知新することだけではありません。甦生はつなげていくことであり、感謝の伝承を結んでいくことでもあるのです。

子どもたちが未来に、これらの先人の徳がしっかりと譲られていけるように私がやれることを命を懸けて取り組み、仲間や同志を集めていきたいと思います。

藁ぶき古民家の土壁の解体と再生

昨日、藁ぶき古民家の甦生で土壁の解体をしましたが中から百数十年前の竹小舞が出てきました。この竹小舞とは、土壁の下地に使う細い竹のことをいいます。 土壁の下地のことを小舞といい、竹で格子状に編み込んで構成します。

この小舞の下地は法隆寺の建立の時代から存在し、竹が小舞として使われるのは鎌倉時代以降だといわれます。正確には、この壁の工法は「竹小舞下地壁」といいます。

この竹小舞に使う土を荒壁土といいます。これは良質の荒木田土に押し切りで切った藁を混ぜ練った物を寝かして発酵させたものを使います。ほとんどの藁は溶けていきますがこの発酵することによって強度も増えますし持ちもよくなります。そして出来上がった土にさらに藁を足して練り込んで塗り込んでいきます。

実はこの荒土壁は、何度も何度も再生することができます。例えば、500年の古民家であればいろいろな風雨によって傷んでもまた解体して混ぜて発酵させて塗り込めば元通りです。永遠に再生可能な材料によって家が保たれています。

またその土壁の中の竹だから腐らずに傷まずに朽ちずに使い続けることができます。先人の知恵は偉大で、現在では持続可能などと叫ばれていますがむかしはそもそも永遠であることが当たり前だったのです。

地球に住んでいるものたちは、常に循環するものを観続けてきました。ちゃんと廻ってくるものの邪魔をせずに自然の恩恵を享受されていました。現代は、消費文明ですから捨てるものばかりつくり、再生できないものばかりを流通させています。

本来のこの日本の土壁の再生から学ぶことが多いと私は思います。この土は、田んぼの土や河川などの粘土質で発酵するもの。藁も発酵を促していくものです。発酵する技術があることで、いつまでも腐敗やカビなどが発生せずに家が長持ちします。

漆喰もアルカリ性ですからカビが生えません。この辺も先人の知恵で、高温多湿の日本の風土では水が澱むことを厳禁にしていました。なので、風水を重んじ、古民家周辺の地域も風がよく通り、水がちゃんと流れるように設計して配置されていました。まさに澱まない仕組みと智慧で環境を構成していたのです。

今回、この荒壁の土をまた再生してひび割れや壊れた場所を補正していきます。そしてまたいつかこの古民家を再生するとき、子孫たちは私たちがどのように再生したのかを観て家が大事にされていることを知るように思います。

こうやって言葉だけではなく、先人の生き方で私たちは文化を伝承してきたように思います。子どもたちのためにも、今の自分たちが譲り遺していきたい未来を丁寧に紡いでいきたいと思います。

藁ぶき古民家の甦生~床下のイヤシロチ化~

今日は、結友の仲間たちと一緒に藁ぶき古民家の土壁を落とします。これはシロアリ被害が酷い二階の部分の重量を軽くして木の負担を減らすために行います。本来は、土壁の御蔭で家の補強も調湿効果もあるのですが仕方がありません。

それほどまでに今回の古民家はシロアリ被害が甚大で、少しの修復ではなくまさに大手術が必要な状態でもあるのです。江戸時代ころから存在し、むかしの百姓の素朴な藁ぶき屋根の古民家ですからもともと使っている材料がいいわけではありません。

そこに空き家になってから十数年の間、換気もされず庭木も伸び放題ではシロアリの巣になってしまうのは時間の問題でした。家も傾き、野生動物がたくさん棲んでいるくらいですからもうボロボロの満身創痍状態からの甦生です。

今回は、土壁を落とし、その土は発酵土と混ぜて床下に敷いていきます。この土を甦生させ、地面からの水分によって土壌を微生物によって豊かにし、その発酵する活動によって空気を清浄にします。土が清浄で豊かになれば、その「場」もまた整っていきます。

場が整うことで、その場所にいると居心地がよくなります。これは誰でも簡単にわかることですが、もしもゴミが散乱しているようなところで異臭が漂ったり、カビが発生したりシロアリがうごめいていたらみんな居心地が悪いという感覚になるものです。その逆に、よく掃除されて綺麗になって整っている場所や穏やかで美味しい空気が流れているところでは心地よいのです。

家の土台が浄化され、清浄であれば澱みが好きな虫たちもあまり寄り付きません。この澱みが好きな虫とは、例えばムカデやヤスデ、ナメクジなど。そしてゴミが好きなのがゴキブリやハエなどです。さらに動物でいえば、ネズミなどです。

床下というのは、人間の体でいえば腸内のようなものです。腸内細菌、つまり腸内フローラが善い状態だと肌も艶々しますし感染症や病気にかかりません。これは人間でいえば免疫が高い状態なのです。家も同様に、床下の状態が良いというのは家全体の免疫が高いということなのです。ここがカビていたり、湿気でひどい状態であればすぐにシロアリなどの害虫などの巣になります。

私は、古民家甦生をするときに必ず取り組むのが床下のイヤシロチ化なのです。そして同時に床下の水分がちゃんと天井に抜けるかどうかを確認します。屋根は天であり、床下は地です。この天地が和合しているかどうかが、家が長持ちし、その中で人が健康に長生きできるための要諦だからです。

健康住宅というものは、この呼吸する仕組み、そして腸内フローラのようにいい床下環境、そして空気と水の循環が滞ることがないようにすることが肝要なのです。血液と同じく、常に澱まずに循環し続けていれば私たちは健康を維持できますがこれが住宅にも通じているのです。

人間と共生しあう微生物によって、私たちは健康を守られています。味噌などの麹菌、そして漬物などの乳酸菌、野菜などに付着している土壌菌類、空気中から木や土壁などから古民家に長く一緒に暮らしてきた微生物を取り込んでいます。そうやって免疫を高めながら、人間に有害なウイルスなどを忌避してくれます。

家は人間を守る仕組みの智慧そのものです。

今日の古民家甦生からも、改めて里山循環の仕組みや人間と自然との共生を学び直していきたいと思います。

ブロックチェーンと徳

現在、ブロックチェーンをつかって新しい取り組みをはじめています。世の中ではビットコインなどの暗号化技術に使われていることで有名ですがシンプルにいえば改ざんできない台帳というイメージが近いように思います。

用意に改ざんできませんから、それだけ信用や信頼を提供するものということです。これからこの技術を用いて何が生まれるかは、社会の変化に合わせてアイデアをそれぞれが出していきますから確かにこれからの未来に大きな影響を与える技術であることは間違いありません。

特に新しい経済の在り方においては、でこの技術が使われる可能性を秘めています。現在は成熟期に入っていますから、この辺でまた原点回帰していく必要があります。歴史は何度も原点回帰をしながららせん状に発達していきますから経済も社会もこれからまた原点回帰がはじまるのです。

例えば、通貨の原点回帰とは何か。もともと通貨が必要になったのは物々交換の中でその時に交換できるものがない場合に、のちの信用の証として貝を交換したことが通貨のはじまりともいわれます。そこから貝貨という貝殻を用いた貨幣が誕生しました。 特にタカラガイは豊産、繁栄、再生、富などを象徴し、キイロダカラとハナビラダカラなどが使われました。

お祈りで私たちが手を合わせるのも、貝を合わせるところから来ているともいいます。日本でもハマグリなどが縁起物として使われますが、これも必ずぴったりと合いますから間違いない証として用いられました。

実は改ざんできないという意味は、このぴったりと合致するというところから嘘偽りのなく信用・信頼できますという証明の仕組みを顕しているのです。そこから、私たちは貝が紙幣に変わり今では通貨を用いて経済も社会も発展させていったのです。

しかし現代はどうなっているのか。

地球何個分が買えるほどの紙幣を発行し、今の世界は通貨であふれかえっています。これでもかと通貨を発行しては、嘘偽りの状態で事実と異なる状態で混乱を極めています。物々交換でいえば、交換できる資源がもうなくなっているのに貝殻だけはたくさん渡していつか交換すると先送りしているような状況なのです。

その貝殻がもしも証明できる価値がなくなってしまえば、物々交換はできませんからそこですべてゴミのように溢れかえります。現在の環境問題と同様に先送りして延命治療をするだけをしていてもいつかは必ず終焉を迎えます。そうならないように、私たちは原点回帰してもう一度、原初の初心に立ち返る必要があるのです。

私はそれをブロックチェーン技術を用い実現しようとしています。

具体的には、むかしの人たちの智慧の一つである「天の蔵に徳を積む」という考え方を用いるのです。これは私たちは等価交換という評価によって今の社会を動かしていますが、実際にこの世の中には等価交換できないものも同時に発生しています。

それが「陰徳」というものです。この陰徳は、私たちはお祈りをするのと同じで直接的には見返りがありません。しかし間接的に、また全体的にその祈りは別のかたちになって縁起を結んでいきます。つまり、そこで使われている対価は別の大きな場所へと転換されて移動していくのです。

むかしは蔵といえば、今でいう銀行です。銀行にはお金しかいきませんが、本来は天の銀行のようなものがありそこにお金では換算できないものが貯められているということを信じていました。

実は本来の信用・信頼の社会というものは、人徳というものが重要でした。信頼でき信用できる人だからこそ、その人に託したりその人の願いを適える絆を持ったのです。人は信用・信頼しあうことでここまで発展をしてきた民族です。その民族が、急速に欲望に負けてその徳を荒廃させていったのはこの通貨という道具を単なるモノとして扱っていったからです。もしくは使えなくなったものをゴミとして捨てるところが影響なのです。

私はブロックチェーンによって、徳循環の世の中を甦生させていこうと思い「BA」(ブロックチェーンアウェイクニング)を設立しました。先人の智慧と現代の最先端を用い、温故知新した原点貝貨としての役割を持つものをこれから発明していきます。

子どもたちの未来に、延命治療ではなく根源治癒が働くようにこの「場」から挑戦をしていきたいと思います。興味があり賛同する仲間をこの「BA」に集めていきたいと思います。

健康第一義

人は健康でなければ、何をやっても楽しくはありません。健康とは、身体だけに限らず、心や精神の健康もあります。つまり健康とは全体調和してバランスが取れている状態であり、すべてがととのい落ち着いて和合している状態のことです。

まるで穏やかな日和で心地よさを感じて仕合せを味わうように、すべてが調和して平和を感じて味わうとき私たちは健康のありがたさを感じます。調和が健康というのは、人間であれば必ず体験したことがあると思います。

常に今の状態をよく観察して変化に合わせて自分を調和しととのえていくこと。これは暮らしをととのえていく中で磨かれていくものです。もちろんサウナなどでととのうこともありますが、それは現代社会の過酷なスピード社会の中での一時的なととのいであり、本来は恒久的に暮らしを楽しみ、味わい、すべてが調和し続けるようであることが本当の意味でととのうことになるのでしょう。

そのためにはまずは、私たちは生老病死といった逃れなれないものと常に調和していく必要がありますから常に気を付ける必要があります。私も最近は、老いを実感することが多くなり、老いのことについて向き合うことも増えています。

江戸時代の俳人、国学者でもあり武士でもあった「横井也有(よこいやゆう)」という人物がいます。この人が記した、健康十訓はずっと健康で長生きするときの参考になったといいます。少し紹介すると、

『健康十訓』
一.少肉多菜(肉を控えて野菜を多く摂りましょう。)
二.少塩多酢(塩分を控えて酢を多く摂りましょう。)
三.少糖多果(砂糖を控えて果物を多く摂りましょう。)
四.少食多噛(満腹になるまで食べずよく噛んで食べましょう。)
五.少衣多浴(厚着を控えて日光浴し風呂に入りましょう。)
六.少車多走(車ばかり乗らず自分の脚で歩きましょう。)
七.少憂多眠(くよくよせずたくさん眠りましょう。)
八.少憤多笑(いらいら怒らず朗らかに笑いましょう。)
九.少言多行(文句ばかり言わずにまずは実行しましょう。)
十.少欲多施(自身の欲望を控え周りの人々に尽くしましょう。)

とあります。まさに、日々の暮らしをととのえるために何を気を付けて生きていけばいいのかを記しています。今でも、この真理は変わっていません。私たちの心と体と精神の健康は、常にこの日々の手入れにこそあります。お借りして滞在しているこの自分をどう丁寧に手入れしながら活用していくか、これはすべての人類の課題ですから学ぶことばかりです。きっと江戸時代の人も、わかってはいるけれどつい欲に任せて生活することで病気になり不健康になったのでしょう。

人間はつい調子にのってしまいますから、若い時はできても歳をとるとそうはいかなくなるものです。老いと向き合うことが増えると、当たり前ではなかった健康と向き合い感謝することが増えますから歳をとることもまた素晴らしいことだと感じます。

最後に、この横井也有のこの言葉で締めくくります。

「老は忘るべし。又老は忘るべからず。」

歳をとって老いていくことは気にせずに情熱と気力を充実させていく暮らしをしながらも、老いていくことは忘れずに丁寧な暮らしを通してととのえていくのですよと。

300年前の人の格言ですが、心に沁みます。子どもたちのためにも、暮らしの実践を伝承していきたいと思います。