意味の存在

世界には様々な歴史があります。その歴史の中には、それぞれに大切な意味があり物語を継承しています。そしてその物語はこの今の私たちにつながりその意味は私たちが世界に伝承することで人類の発展に貢献しているとも言えます。

その物語の中には、人類としてどうあるべきかという挑戦と冒険が溢れています。ある人は、こう生きた、またある人はこう生きたというものが、様々な組み合わせによって遺ってそれを受け継いでいくのです。

これは人類に限らず、すべてのいのちに必然的に存在する使命でもあり生死を度外視して私たちは「どのような意味を存在したか」ということを試みているのです。

その意味は、目に見えて残っているものとすでに消失して目には見えなくなっているものもあります。しかし、その「場」で行われた歴史や意味は確かにその空間に時を超越して遺っているように感じるのです。それは生きている私たちが、無意識に伝承されているいのちの様相であり、いのちある限り様々な物語や意味はずっと続いているのです。

近代に入り、ありとあらゆる人種が融和し融合し混然一体になってきています。数々の意味がここにきて合わさってきているとも思うのです。その中で、伝統というものはそれぞれの意味を純度の高いままに保存してきた記憶媒体の一つでもあるのです。

これらに触れることで、かつての純度の高い精神や魂から確かな意味や物語を継承する人々がいます。彼らは、新しい時代を創造する人類の叡智を使いこなす子どもたちです。

私が伝統の継承にこだわるのも、いくら宗教とか言われても構わずに「場」を伝承しようとするのもまた意味の存在を守るためなのです。これは私だけではなく、いのちあるすべての生命がやってきたこと、人類の歴史を鑑みればなぜ大切なのかは必ず時間が経てばわかることだからです。

意味の存在を見つめることは、自分自身を深く見つめていくことです。残された時間、少しでも大切な意味の存在を伝承できるように伝道につとめていきたいと思います。

森の神様

昨日からフィンランド東北地方のクーサモ町にあるイソケンカイステンクラブに来ています。ここはサウナの本場、フィンランドの中でももっとも王道のサウナを提供するキングオブサウナと呼ばれる完全なるスモークサウナです。

フィンランドのサウナの品質を管理する協会「Sauna from finland」から、本格性、清潔性、リラクゼーション性などすべての項目をクリアした品質証明書も授与されているフィンの伝統のおもてなしを体験できる場でもあります。

私はここのサウナマスターからサウナの本質を学び、本物を体験するためにここまで来ました。サ道のタナカカツキさんにして、「ここが一番のスモークサウナ」であると紹介され遠路はるばると来てみるとまさにこれ以上のものがあるのかと心から感じ入りました。

確かに日本のサウナの聖地と呼ばれる「サウナしきじ」も湧き水と温度、利便性など日本人の水との邂逅に感動しましたがこのイソケンカイステンクラブはもう完全に異質です。

一言でいえば、「森の神様が宿る」サウナといってもいいかもしれません。

かつての私たち古来の日本人は、場に神聖なものを見出してきました。神社の清浄な場にいけば心が洗い清められます。同時にあらゆるものを五感で感じて、精神が研ぎ澄まされていきます。それを「杜」とも言います。そこには必ずご神木があり、私たちを永遠に見守ります。

ここの伝統のスモークサウナはまさに、杜で感じるものとまったく同じものがありました。美しい湖、この一帯がまさに神様の澄まう杜でありここで火や水、土や風、日や月、星々などが見事に調和されまさにその中心に「サウナ」があるのです。

大げさに思われるかもしれませんが、私は「場」を研究する場道家です。様々な場を学び、古来からのイヤシロチを創造することをライフワークにするからこそ感じるものがあります。

3年前に、この5つ星を超えた「7つ星」の場をここまで磨き上げたお父様がお亡くなりになり、今ではその娘さんたち2人の姉妹で家族運営されていますがお話をしているといつも身近に父の存在が見守ってくれているのを感じると仰っていました。

その遺志を継ぎ、ここに森の神様と共にフィン人の魂がキングオブサウナになって生き続けていると思うと不思議な奇跡を想い、とても有難く仕合せな気持ちになりました。

私も帰国後、日本人の魂が生き続ける浄化場サウナを建造しますがここでの貴重な体験を活かして先祖に恥ずかしくないように磨いていきたいと思います。子どもたちに、言葉ではなく心身精神すべてで伝承されていくような場を譲り未来への希望の糸を紡いでいきたいと思います。

ありがとうございました、ご縁に感謝しています。

 

苦労の本体

昨日、自然農で収穫したお米の稲架け(はさかけ)を行いました。これは古来からある伝統的な方法で現代では人工的に機械で乾燥させるため見かける機会も減ってきました。

稲刈り直後のもみは約20%の水分を含みますが乾燥後のもみの水分は15%程度まで減少するため脱穀・調製やその後の貯蔵にとても効果があります。さらにこの稲架けの乾燥方式はお米の品質に及ぼす影響が大きいといわれ普通20~30日かけてゆっくり十分に乾燥させると品質、味覚がよい米に仕上がるといわれています。

また「はさ」の意味は、 挟(はさ)むの意とされています。今回は、長い竹を切ってそれを木に吊るし、その竹に一束ずつ藁紐で縛った稲を真ん中から広げてそれを竹に挟んでいます。

以前、稲架けしたときに雀が大量に飛来してきて食べていったので今回は釣り糸を用いて対策をしています。

次第に乾燥して色合いが変化し、黄金色の稲になっていく様子は格別です。また田植えから草取りなどを仲間と一緒に苦労し合ったことが懐かしく思え、この稲架けをみるたびに心が豊かに満たされていきます。

現代の農法は、ほとんど機械を使って一人で大量に生産します。私の自然農は、機械は一切用いずに肥料も農薬も一切入れませんからすべて手作業です。この農法は実際にはかなりの手間暇もかかり苦労ばかりです。

しかし一緒に取り組んでくれている仲間との豊かな思い出や、見守ってくださっている協力者のお陰様を身近に感じ、食べ物の大切をさを学び、自然の仕組み学び、生き物たちの共生と貢献の姿に癒され、水や太陽の恵みに感謝し、季節のめぐりの有難さ、五感で味わうお米作りの喜び、心の安心と安堵感、生きていくための智慧、お米の持つ偉大な力、野生のしたたかさ、風の持つ価値、土の魅力、まだまだきりがないほど出てきます。

苦労というものの本体は、一体何なのか。

苦労とは、いのちの味わいを与えてくれるものかもしれません。いのちが何を味わいたいと思っているのか、そして味わったことで感じる自分のいのちの仕合せは何なのか。

私たちは活かされているということを結局は学び、生きることを味わうことをやりたいのです。人間や人類は、この世にきてとても大切なことを忘れないために存在している生きものなのかもしれません。

だからこそ、どのような生き方をするのかは生死を度外視しても必要不可欠なもののように思います。一瞬一瞬、一期一会にこのいのちを大切に苦労していきたいと思います。

ありがとうございました。

模様替え

先日、社内の模様替えをする話があがりました。日々に様々な仕事が変化する中で、片付けをしていくことや、整理していくこと、何が元の状態かを明確にすることは気持ちの上でも働くうえでもとても効果があるものです。

模様替えという言葉を調べてみるとコトバンクには『建物、室内の装飾、家具の配置などを変えること。「部屋を模様替えする」 物事の仕組み・方法・順序などを変えること。「組織の模様替え」』と書かれています。

この模様という言葉は、図柄や様子を現わす言葉でもありますが兆しを示す言葉でもあります。何かの変化がある際に、その変化に対応して環境を整えていくことは自分たちが変化するために効果があるものです。

人間はすぐに慣れ親しんだ環境の中でマンネリ化しやすいものです。マンネリ化は以前、ブログでも書きましたが次第に変化を嫌がり避けてしまうものです。変化というのは、本来は成長や変化をたのしむものでそれを可視化することで自分自身の暮らしの改善も確認できます。

そしてこの改善は「磨く」ことで、新しい自分の意識や今までにない自分の姿を環境から再認識することもできます。環境によって自分を変えることもできますが、模様替えに取り組むことで新たな変化を身近に感じることができるように思います。

むかしの家の間取りは、ハレの日とケの日によって模様替えを行いました。その都度、変化を味わい、そして平素に帰りました。このハレとケの行き来によって、日々の暮らしを味わい、変化や成長を深めていきました。

色々な模様がある日々を彩ることは、豊かな日常を大切にしてかけがえのない場をみんなで大切に守っていくことに似ています。

模様替えから新たな変化を楽しんでいきたいと思います。

文化の融合

かつて文化が融合し独自の進化を遂げてきたものがたくさんあります。例えば、食文化でいえばインドのカレーや中国の餃子やラーメン、他にもお好み焼きやちゃんぽん、よく見てみたらきりがないほどにあらゆる文化を日本人は融合させて自国のものにしていきました。

海外になってくると、カリフォルニアロールや甘い緑茶、そのほかにもフランスなどでの弁当箱が流行るなどいろいろな日本の文化が現地で融合して現地の文化に取り込まれています。

そう考えてみると、文化というものは歴史を鑑みてもありとあらゆるところで上手く現地化してその国のものになり今に受け継がれてきています。これを文化交流ともいうのでしょうが、それぞれの文化の発祥が異なっていてもそれをお互いに学び合い自分のものとして昇華し吸収していくことで相互に発展し合ってきたように思います。

特に食文化は、現在では世界中のものが食べれるようになり自分たちの風土や性質に合ったものに料理人が改良を加え続けて新しくしています。身近な食生活が変わることで私たちはその国の文化を上手く自分たちのものに転換して元々あったものとは異なる新しい価値のものにしていくのが進化だと思います。

ちょうどBAに日本の伝統的な浄化場サウナを建造するために来週からフィンランドに訪問します。実際にはフィンランドのサウナと日本のサウナは文化が異なり、日本人はフィンランドから来たものを自分たちの文化に別の形で吸収していきました。

それは例えば、フィンランドはサウナがメインで水風呂はあまり使いませんが日本では水風呂とサウナは必須の組み合わせになっています。日本人がオリジナリティを発揮して、独自のサウナの使い方や用い方をしていくのはもともとあった蒸気浴や風呂の文化が根元にあるからです。根元から枝分かれして発展し、それがまた異質な文化と融合するとき、私たちは何が発祥でどのように進化してきたかを学び直します。

原点に学び、その経過を洞察し、何を進化してきたかを学び直すことは自分たちの文化の源泉を学び直す偉大な旅です。自分たちの民族のオリジナリティを追求することは世界への貢献であり、人類の進化でもあります。

時代の変わり目に、新しいものに取り組んでいけることに好奇心がわくわくします。復古創新した新しい「場」を学び直していきたいと思います。

地下水の伝道

聴福庵をはじめ、今、建造中のBAも地下水をくみ上げた水を活用しています。聴福庵は、地下7メートルほどから。BAは、地下30メートルほどあろうかと思います。浅井戸と深井戸を用いています。

この地下水というものは、地下に溜まった水の総称をいいます。そして地面より下の水はすべて地下水と呼んでいいともいえます。また海を除き水のうち表面に現れた水、河川や湖の水は表流水です。

地下水は主に帯水層というところを流れ溜まっています。この帯水層とは、地中にしみこんだ雨や雪が土壌層を浸透してその下にある砂れき層の間隙(すきま)のことです。これが地下水の貯留槽です。この砂れき層の厚さは地域により異なり、数メートルから平野部では100メートル以上になる地域もあるそうです。河川は川幅が広くても1キロメートル程度ですが、帯水層は平野では地域によっては何10キロメートルの幅で存在することもあるそうです。

私たちが利用する井戸水は、この帯水層まで穴を掘ってそこから水を汲んでいるのです。

雨水が天から降り、その雨水を数年から数万年かけて濾過し地下水になっていきます。土壌の中の砂や小石、炭、などありとあらゆる鉱物たちが水を浄化し私たちが飲める地下水にまで濾過します。よく考えてみると、とても神秘的な自然の濾過システムで地下水には不思議な力が宿っていると信じられるのもそれだけの時間の経過があって時空を超えてきた水を飲んでいるからです。

地球の資源が枯渇してきている昨今で、空気の浄化や水の浄化、土の浄化などあらゆる浄化が持続可能な循環のためにも求められます。そしてその浄化はまず、その資源を貪るように大量消費する考え方から転換する必要があります。

それは言い換えれば、人間の心や精神の浄化ともいえます。欲望ばかりを優先し、徳を積む世の中にするのもまた浄化の一つです。浄化の本質は濾過することで、余計なものを取り払って穢れを洗い清めていくことです。

地下水の活用は懐かしい未来を子どもたちに譲るために大切なテーマです。引き続き、水の大切さを伝承できるように地下水の伝道をしていきたいと思います。

育つ場

人が集まり何かを行うというのは、そこに「場」が産まれているからです。その「場」をどのように醸成するかの仕組みは「農」と同じように田畑に種を蒔き、実践を積み重ねていくことで次第に土壌が肥沃になり次第に生きものたちが集まってくるのと同じです。

私たちの「思い」は種とも言えます。

どんな種を蒔いてきたか、そしてその芽をどのように育ててきたか、それをどのように見守り続けてきたかそれによって実をつけるのです。

育つということは、言い換えれば「育つ場」があるということです。そしてその育つ場は、成長し合える環境が用意されているということになります。

私は、保育の仕事を15年間続けてきましたが保育の本質を掘り下げてきました。その中で、如何にこの場づくりが発達に影響があるかを体験を通して実感してきました。私は同時に自然農や自然養鶏、自然治癒をはじめ、風土の中でいかに自然に近づけて自然と共生するかを見つめてきました。

その経験を「場道」という言葉にして、新たに暮らしの甦生に取り組んでいます。

そもそもこの「場」という字の成り立ちは、「土+易」で構成される会意兼形声文字です。これは「土地の神を祭る為の柱状の土の象形」と「太陽が地上に上がる象形」で「あがる太陽を祭る清められた土地」として「場」という漢字が成り立ったといいます。

つまりもっとも神聖な祈りの場所が「場」であったというのが場の字の成り立ちからも垣間見れます。

どのような気持ちで場に接するか、どのような姿勢で場に正対するか、その場を創る人の生き方が出てきます。場によって世の中が清められるように、場によって子どもたちが健やかに育つように最善を盡していきたいと思います。

 

先生

人間は何を先生にするかでその考え方の基本ができてきます。

そもそも先生といわれるものにはいくつかあります。例えば、先に生まれた人や学徳のすぐれた人、そして自分が師事する人、他にも教師、医師、弁護士など、指導的立場にある人、政治家や議員に対しても使われたりします。

この先生は、私が中国に留学していたときはみんなを先生と呼び、学校の先生は老師と呼びました。中国での先生は、「~さん」という相手の敬称として使われます。なのでこの先生というのは日本で構築されてきた言葉なのがわかります。

先生というものは、尊敬するものとして使われていたものが次第に師匠や世間的に偉い人、自分よりも知識が豊富な人などに使われています。しかし先生をどのように定義するかはその人たちの生き方が影響します。

例えばある人は、子どもから学び子どもを先生にするのなら先生とはだれか、それはお互いに先生ということになります。先生とお互いに学び合って人達同士ではすべて先生になっているということです。

どちらかが上か下かではなく、みんな学び合っている同志、先生であるという意味です。このような学び方をすれば、誰かだけが偉い人や特別な人だけで先生が語られなくなります。誰かだけが先生で誰かだけが弟子というのは、人はいつかは死んで弟子も師になり、師も弟子になるときがきますからみんな先生であるのは自明の理です。

論語の中に「三人行えば必ず我が師あり」があります。

どんなことも先生にする人は、その生き方そのものが「先生」であるということでしょう。

子どもたちに先生がいる喜びや仕合せ、先生とお互いに尊敬し合う関係を伝承していくために、すべてのものを先生にして学び直していきたいと思います。

暮らしの甦生

世の中を眺める視点として地球(自然)が認めるものと人類が認めるものに大別されるように思います。人類が認めるものというのは、この世には人類しか存在しないという考え方で人間都合のみの社会で語られる正論や真実などのことです。

それに対し、地球(自然)が認めるものというのは歴史の篩にかけられ淘汰され循環の理を一切邪魔せず、人間も全体の一部であるといった全体調和したもののことです。

人間は教科書をはじめ、人類という枠内でこの世に社会と都市を形成してきました。しかしどんなに人類が道具を用いて便利な世の中を自然から切り取ったといっても、他の生き物を食べて生きていますし、自然の恩恵なければ生きながらえていくこともできません。それは宇宙に出てみてわかる自明の理です。

しかし、人類が人類だけを中心にこの先も物事を進めていくのなら必ず資源は枯渇し文明が崩壊するのはわかっていることです。これは過去に文明が滅んだ歴史を洞察しても人類は人類同士の中でのみ世の中を構築してしまうと結局は傲慢さや欲望にまけて自らで崩壊を招いています。

つまり人類のみで構成する文明はいつの時代も傲慢さを招き、地球や自然を一切邪魔しない全生命圏の共生と貢献の循環の生き方が謙虚を招き文化を醸成していきます。

かつて日本の大部分に住んでいたといわれるアイヌの人たちは、自然の利子で生活を営み、自分たちが自然に貢献することで得られた利子を少しずつ積み立てそれを子孫に譲り暮らしを充実させていきました。

どれだけ長く生きて、どれだけ心豊かに仕合せに生きられるかと考えればこの生き方が最善なのは誰でもわかります。実際には、利子ではなく元本に手をつけて借金ばかりを増やし借りれるだけ借りて返済もせずにすべて使い切り先送りして踏み倒そうという発想では必ず終わりがきて滅ぶのは客観的に観れば誰にだってわかります。

実際には日々に報道される環境汚染の現状をみていたり、国家間の紛争や民族対立などをみていたら、もうここまで来たらどうしようもないと目を逸らしたい気持ちもわかります。競争させられた孤独で不安な世の中で必死で守ろうとするのも確かに事実です。

しかし人類の素晴らしさは何よりもよくないと思ったなら先人の生き方を学び、何がもっとも人類にとって価値のある選択だったのかと歴史を先生にしていくことで理性と本能のバランスを保ち間違いを正していける生きものであるところです。

私は只今も自分なりに暮らしを甦生していますが、これは決して狭義でいう自分の生活だけを甦生させようとしているのではありません。広義でいえば、永く遠い懐かしい生活を甦生させることは人類が本当の意味で繁栄と発展を約束されていた生き方に気づきそれを人類が取り戻していくことです。

それは敢えて能力があるけれど使わないという決断、敢えて効率的である方を選ばないという決断、敢えて少し損をしてでも徳を積もうという決断をすることを暮らしの甦生であると定義するのです。

この暮らしという言葉もそれぞれで使っている人次第で言葉の定義も異なります。しかし人類にとっての本来の暮らしとは、子々孫々まで永遠に幸福で生きていくためのものであるのは古今普遍的なものです。

時代が変わっても、変えてはならないものがあるし変えていかなければならないものがあるのです。子どもたちの仕合せを願い、暮らしの甦生を続けていきたいと思います。

旅の醍醐味

旅という言葉があります。この言葉の語源は諸説あるようですが「他火」や「他日」ではないかといわれています。辞書によれば、「住み慣れた場所を離れること」と定義されています。そして英語ではtravelとも言いますがこの語源である古代ゲルマン語では「産みの苦しみ」ともいうそうです。

旅行は今では旅行会社のツアーのように、リゾートに遊びにいくように楽しいものと認識していますがむかしの旅は、つらく苦しいことであったことが語源からもわかります。

よく考えてみれば、自給自足する場所をようやく手に入れそこで住み慣れた家や暮らしを離れるというのはそれだけ危険や苦難を伴ったものです。現代のように便利な移動手段もなく、宿泊施設などもなく、食料は限られたものだけで常に心の緊張を保つ必要もあり、大変な覚悟と決意が求められたように思います。

かつての古の旅に関する格言も、今の時代に読むと意味がはっきりと伝わってこないのは時代的な環境や価値観の影響を受けているからです。もしもその時代に生まれていたなら、その言葉の意味もはっきりと共感し理解したかもしれません。

つまり人間は同じ言葉を使っていたとしても、同時代の価値観で同体験を積んでいない限りその言葉の持つ意味が分からないということです。これは同様に、人生に対する価値観と体験も然りです。

言葉を学ぶということは、時代が異なっても同じ生き方をしてみるということでもあります。その言葉に近づこうとして、今の時代なら何をすることがその意味に一番近づくかと考えてみると少し意味が深まります。そのように自ら体験して近づこうとすることが、冒険であり挑戦であり旅の醍醐味かもしれません。

旅をするというのは、今の時代も危険も苦難も本当は付き纏うものです。しかしそれでも得たいものがあり、それでも叶えたい夢があるのなら敢えて飛び込んでいく勇気が必要になります。

旅には日ごろ得られない大切なコトや物語に満ちています。

人生の旅を味わい、新たな挑戦の扉を開いていきたいと思います。