英彦山に残る“守静坊のしだれ桜”伝承物語

これは今から二百年以上前の江戸時代から霊峰英彦山の山伏の宿坊、守静坊(しゅじょうぼう)にある一本の老樹、しだれ桜と共に語り継がれているお話です。

霊峰英彦山は九州福岡にあり、日本三大修験場の一つに数えられ修験道のはじまりの聖地であり、古来においては霊験を極めた仙人たちが棲む神仙の地で人々が憧れる天国のようなお山であったといわれる場所です。

現代ではあまり聞きなれない修験道というのは、厳しい自然の中で修行をする修行者のことを指し、金剛杖や法螺貝などを持ち歩き、深山幽谷に入り自然と調和し己を磨きその験徳を実践する方々のことです。

そしてこの守静坊は、戦国時代末期から続く修験者の棲む宿坊で先代の駒沢大学名誉教授の長野覚氏で十一代続いている由緒ある坊です。

守静坊のしだれ桜が英彦山の地に植樹されたちょうど二百二十年年前には約三千人以上の修験者たちが英彦山の中で暮らしていたといわれます。当時の英彦山はとても賑わっており、山伏たちは薬草で仙薬をつくり、信仰者へのお接待やご祈祷や祭祀、護符の授与や生活の知恵の指導などを生業として暮らしていたといわれます。

その当時の面影を残し、今でも清廉に咲き誇る「しだれ桜」が守静坊の敷地内にあります。この桜はもともとは京都の祇園にある桜でした。品種名は一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)といいます。澄みきった可憐さを持つ花びらと、鳳凰のように羽を広げた姿はまるで今にも飛翔していきそうな姿です。

実際には樹齢二百二十年以上、高さ約十五メートル、幅約二十メートルほどあります。言い伝えでは、江戸時代の文化・文政年間に(1804年~1819年)に当時の守静坊の坊主である守静坊普覚氏が二度ほど、英彦山座主の命を受けて京都御所へ上京しました。その時、京都祇園のしだれ桜を株分けしたものを持ち帰りこの英彦山に植樹したといいます。

樹齢としてはもっと長いものがありますが、守静坊のある場所は標高六百メートルほどもあり、冬は特に厳しいもので雪は積もり、鹿などの野生動物も多く被害にあいます。厳しい環境の中で生き抜いてきた老樹は今までも何度も枯死する危険に遭遇しました。平成二十年には台風で倒木し枯れる寸前で花もつかなくなっていたこのしだれ桜を九州ではじめて樹木医と認定された医師による治療の甲斐あってまた満開の花が咲くほどに復活しました。

同時に守静坊も人が住まなくなって数十年ほど経ち坊内や庭園の荒廃が進み倒壊し失われる危機を乗り越え飯塚にある徳積財団が譲り受け皆様よりのお布施の御蔭様のお力をいただき修繕し新たな物語を繋ぎ結い直しました。また甦生で出た屋根の古い茅葺をしだれ桜の周囲に敷き詰め土壌をふかふかにしたことでさらに美しい花を咲かせてくれるようになりました。守静坊の敷地内に苔むした石垣と共に宿坊と見守り合うように凛とそびえ立つ姿はまるで英彦山の伝説にある仙人の佇まいを感じます。

しかしなぜこの京都の円山公園にある伝説の祇園しだれ桜が、ここで生き残っているのかということ。もしかするとむかしは大志を志す同志が共に初志貫徹しあうことを願い、同じ霊木の苗木を分けそれぞれの生きる場所に植えて大輪の花を咲かせようと誓い合ったという言い伝えもあります。その初志を叶えるために今も桜は私たちを見守っているのかもしれません。果たしてどのような浪漫が隠れているのかは、この守静坊のしだれ桜を直接観に来ていただきお感じしたものを語っていただけると有難いです。

私たち一人一人にも誰もが語り継がれてきた歴史を生きています。

先人や先祖の物語の先に今の私たちがそれをさらに一歩進めて結んでいます。今、私たちが生きているということは歴史は終わっていないということです。今も新たに生き続け語られている現在進行形の物語を綴っているということになります。みんなでご縁を結び、かつての壮大な物語に参加することは私たちもその語り継ぐ一人として同じ歴史に入ったことになります。

この守静坊もしだれ桜も偉大な語り部です。私は、毎年この時季の満開の桜を眺めると言葉にならないものが語りかけてくるようでいつも魂が揺さぶられています。

伝統と伝承は純粋な気持ちによって永遠に結ばれ繋がれていくといいます。

大和桜花の季節、霊峰英彦山守静坊にてご縁と邂逅を心から楽しみにしています。

矢絣と文様文化

日本は文様文化というものがあります。今でも手ぬぐいや着物などに縁起の善い文様が使われていることがあります。例えば、矢絣文様などはとても有名です。この柄は矢絣(やがすり)元々は矢羽・矢羽根(やばね)文様と呼ばれていたものです。矢羽文様は絣織りという技法で表現していたので矢絣と呼ばれるようになったものです。

もともと矢は武士にとって戦場を生き抜く大切な武具でした。そこからこの文様は武士の衣装や家紋にも使われています。矢の羽には鷹や鷲のものを使いました。縁起担ぎとしては、的を射るや出戻らないなどの意味も出てきました。

日本の文様の歴史を遡れば、縄文時代によるという説もあります。その当時から、縄文土器に文様を刻みその自然の力を取り入れる器として神事等にも用いられました。その存在を顕すという意味もあるのでしょう、

縁起担ぎについては、運気を上昇させたり幸運を引き寄せるための御呪いに似ているものです。中国では吉凶を占うものにも使われていたともあります。これも自然や宇宙の法則の仕組みを取り入れ、それを暮らしに活かした先人たちの知恵の一つでしょう。

時代が変わっても、もともと縁起担ぎで使われていたものは今でも大きな力を持つものです。ただの意匠としての効果だけではなく、そのものが持っている徳性や力を尊び、意識していくことで心の持ち方にも影響がでるものと思います。

伝統というものの面白さとは、こういう不思議な力や徳性を今でも活かすところにこそあります。日々の暮らしのなかで、文様を活かし子どもたちにその価値や意味を伝承していきたいと思います。

スリランカの大臣

昨日からスリランカにあるアーユルヴェーダ省の大臣、シシラジャヤコリ氏とその奥様、秘書と通訳の方が聴福庵に来庵されお泊りになり暮らしフルネスを体験していただいています。

他国の大臣が来庵するのもはじめてで安全面や食事の内容など緊張しましたが、いつも通りの私たちの暮らしの中で安心されとても喜んでいただきました。ちょうど今の季節は桃の節句の行事を実践している時期なのでお祀りしているむかしの人形の場をご覧いただきウェルカムドリンクに甘酒や玄米おはぎなどを一緒に食べ場を味わいました。

その後は、一通り聴福庵の生い立ちや甦生のためのルール、部屋ごとにむかしの懐かしくそして今に新しい暮らし方を説明しました。長いフライトでお疲れでしたので、先に粕漬の樽を甦生した大風呂に入っていただき備長炭を用いた七輪で春の地元の春の山野草を中心に湯豆腐やこんにゃくなどの日本式アーユルヴェーダの料理で古くて新しくした食文化をお伝えしました。

また会食の間にスリランカでの薬草の話や、在来種の話なども大臣からご教授いただきいつかスリランカに訪問の際は大臣が所有している現地の伝統在来種の薬草の畑やそれを活かした様々な取り組みをご案内いただくことになりました。将来的には両国の薬草や種を通して未来の子孫のために交流できるような関係をつくっていけたらという有難いご提案もいただきました。食後にも英彦山に千年以上伝承されてきた伝統の和漢方の不老園をお湯と共に飲んでいただきましたがスリランカの皆さまにもとても美味しいと評判でした。

最後に、伝統の日本の職人の手作りの和布団でお早目にぐっすりとお休みいただきました。朝食には私が聴福庵の地下水で手打ちで打った十割蕎麦をこれから振舞う予定です。初来日ということもあり、懐かしい日本の文化と真心を聴福庵と共にお届けでき仕合せでした。

もともとスリランカは仏教への信仰が厚く仏陀の教えや生き方を今でも大切に実践されております。私も英彦山の御蔭さまでお山の暮らしの中で修験道の実践することが増えて仏陀の教えに触れていますがそのためかとても親近感があり手を合わせる感謝の交流にも心豊かに仕合せを感じます。

親日国といわれますが、私もスリランカのことが今回の交流でさらに深く親しみを感じました。長い年月で結ばれてきたアーユルヴェーダの薬草の関係や伝統医療が今の時代に日本の暮らしと和合し新しくなり、子孫を見守っていただけるようになればと祈りが湧きます。

ご縁に感謝して、暮らしフルネスを丁寧に紡いでいきたいと思います。

むすび

私たちの日本人の神話のルーツに、造化三神という神様がいます。これは最初に天と地ができた原初に、高天原に顕れた三神のことです。具体的には、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)です。この天之御中主神以外の神様は天地開闢の際に独神として成り、そのまま身を隠した神様になりました。

そもそも造化という意味は、天地とその間に存在する万物をつくり出し、育てること。または自然そのものことをいいます。そして高天原とは何か、それは神様たちが居る場所といいます。天津祝詞のはじめには、「高天原に神留坐す・・」からはじまります。

これを現在の知識で洞察すると、高天原は宇宙根源であり造化とは生命の創生のことではないかということは推測できます。そこに三つの神様が顕れ、そしてすぐに二つの神様はお隠れになったという物語からはじまります。

あるようでない、ないようである、氣のような存在であるというのでしょう。そして造化というのは、化けるということですからその氣が化けたのが神様であるという意味にも意訳できます。

むすびの神というのは、その氣が合わさったものということで少なくても二つが一つになって消えて別のすがたになっていくということを顕しているようにも私は思います。

神話はそのあとに続き、例えば、神産巣日神であればその後に国をつくる大国主の薬をつくったり、少名比古那という子どもを送ったり、オオゲツヒメの穀物を地上へと授けたりと出てきます。

ないようにみえて確かにある存在の神様は、とても日本的で有難い存在でもあります。「むすび」の神様というのは、むすこ、むすめなどもむすびの象徴でもあります。

あの「おむすび」もまた、穀物を授けた神産巣日神に対する感謝の供物のようにも思います。日本人のルーツとして、このむすびというものが如何に大切であるかはすぐに気付きます。

ご縁を大切に生きてきましたが、そのご縁そのものを深める機会は少なかったように思います。改めて、このご縁の意味を学び直していきたいと思います。

おにぎりとおむすび

おにぎりとおむすびというものがあります。これを感じで書くと、お結びとお握りです。一般的に、おむすびが三角形で山型のもの。おにぎりが丸や多様な形のものとなっています。握りずしはあっても握り寿司とはいいません。つまり握るの方が自由なもので、お結びというと祈りや信仰が入っている感じがするものです。

また古事記に握飯(にぎりいい)という言葉があり、ここからお握りや握り飯という言葉が今でも使われていることがわかり、お結びにおいては日本の神産巣日神(かみむすびのかみ)が稲に宿ると信じられていたことから「おむすび」という名前がついたといわれています。

このように、お握りとお結びを比較してみると信仰や祈りと暮らしの中の言葉であることがわかります。形というよりも、どのような意識でどのような心で握るかで結びとなるといった方がいいかもしれません。

この神産巣日神は、日本の造化三神の一柱です。他には、天之御中主神、高御産巣日神があります。古事記では神産巣日神と書きますが、日本書紀では神皇産霊尊、そして出雲国風土記では神魂命と書かれます。このカムムスビの意味を分解すると、カムは神々しく、ムスは生じる、生成するとし、ビは霊力があるとなります。つまりは生成、創造をするということです。

結びというのは、生成や創造の霊力が具わっているという意味です。お結びというのは、それだけの霊力が入ったものという認識になります。いきなり握るのと、きちんと調えて祈りおむすびするのとでは異なるということがわかると思います。

また他の言い伝えではおにぎりは、鬼を切(斬)ると書いて「鬼切(斬)り」からきたというものもあります。地方の民話に鬼退治に握り飯を投げつけたもありおにぎりという言葉ができたとも。鬼をおにぎりにして、福をおむすびにしたのかもしれません。

私たちが何気なく食べているおにぎりやおむすびには、日本古来より今に至るまでの伝統や伝承、そして物語があります。今の時代でも、大切な本質は失われないままに、如何に新しく磨いていくかはこの世代の使命と役割でもあります。
有難いことに故郷の土となり稲やお米に関わることができ、仕合せを感じています。子孫のために徳の循環に貢献していきたいと思います。

日本の醸し文化

日本には古来から食文化というものがあります。その一つに酒があります。このお酒というものは、日本人は古来より家でつくり醸すのが当たり前でした。醤油や味噌などと同様に、発酵の文化と一つとしてそれぞれの家にそれぞれのお酒を醸していました。何かのお祝い事や、あるいは畑仕事の後などに呑み大切な食文化として継続してきたものです。

それが明治政府ができたころ明治32年(1899年)に、自家醸造が禁止されます。この理由は明治政府による富国強兵の方針に基づき税収の強化政策でした。実際に明治後期には国税に占める酒税の割合は3割を超え地租を上回る第1位の税収だった時期もあったそうです。

そこから容赦なく自家醸造が取り締まられ、高度経済成長期にはほとんどお酒を自分の家でつくる人とがいなくなりました。実際にはお酒以外にも酒以外にも、砂糖、醤油、酢、塩などの多数の品目にも課税されましたがこれらの課税はその後撤廃されていてなぜかお酒だけが今でも禁止のままです。

それに意を反して、昭和に前田俊彦氏がどぶろく裁判というものを起こしましたが敗訴しています。その時のことをきっかけに全国でも、おかしいではないかと声があがりましたがそれでも法律は変わっていません。先進国の中でもアルコール度が低いお酒でさえ醸造するのを禁止しているのは日本だけです。発酵食文化として暮らしの中で大切に醸してきたものが失われていくことはとても残念に思います。

ちなみにこのどぶろく(濁酒)というものは、材料は米こうじとお水を原料としたものでこさないで濾過しないものというお酒のことです。一般的な清酒はこすことを求めていますがどぶろくはこしません。しかしこのどぶろくを飲んだことがある人はわかりますが、生きたままの菌をそのまま飲めるというのは仕合せなことです。

以前、私も生きたままのものを飲んだことがありますがお腹の調子がよくなり仕合せな気持ちになりました。アルコールはただ酔うためのものではなく、菌が豊かに楽しく醸しているそのものをいただくことでそういう心持ちや気持ちになってきます。

つまりは生きたまま醸したものを呑む方がより一層、その喜びが感じられるのです。

現在、宿坊の甦生をしていて明治の山伏禁止令に憤りを感じましたがこの密造酒として禁止した法令にも同じように義憤を覚えます。

子どもたちが食文化としてのお酒が呑める日がくることを信じて、自家でやる醤油、味噌など日本の醸し文化を伝承していきたいと思います。

道歌の伝承

道歌というものがあります。ウィキペディアによれば、「道を教える道歌とは、随分古い時代からあった。最初から道歌として作ったものと、普通の短歌を道歌として借用する場合がある。借用する場合文句が変化することもある。短歌は日本人の口調に適し、暗誦しやすいので親しまれた。道歌そのものは以前から作られていたが、室町時代につくられた運歩色葉集いう辞典に道歌という字があったという。江戸時代の心学者が盛んに道歌を作った。その後道歌が盛んになった。」とあります。別の辞書を引くと、仏教の教えや禅僧が悟りや修業の要点をわかりやすく詠み込んだ短歌や和歌ともあります。

道徳的な教訓や心学といった道を歩んでいく上での普遍的な生き方を歌に詠みそれぞれが道しるべとしたものです。

私たちの人生は一つの道だといわれます。はじまりから終わりまで道を歩むのが人生で、その中で様々なことを体験し味わい私たちは人間であることを自覚します。これをよく読み直すと、人間がなぜ不安になるのか、欲に呑まれるのか、不幸になるのかなどが昔も今も変わっていないことに気づきます。いくつか集めてみると、

養生は 薬によらず 世の常の 身もち心の うちにこそあれ

孝行を したい時には 親はなし 考のしどきは 今とこそ知れ

めぐりくる 因果に遅き 早きあり 桃栗三年 柿八年

足ることを 知る心こそ 宝船 世をやすやすと 渡るなりけり

強き木は 吹き倒さるる こともあり 弱き柳に 雪折れはなし

日々の健康は日頃の養生、親孝行は今こそすぐやる、タイミングは因果次第、富は足るを知る中に、真の強さは柔軟性など色々とあります。

本当はわかっていても、そう思いたくないという人間の心理もあるでしょう。道歌はそういうことを諦めさせるためにも声に出して詠んだのかもしれません。

人々の長い年月で繰り返されてきた知恵は、今も何よりの徳や宝になり私たちを支えます。先人に倣い、伝承を大切に取り組んでいきたいと思います。

乾燥野菜の知恵

今年は、伝統在来種の高菜の出来栄えがよくすくすくと大きく育っています。収量が多いことから一部は葉物を乾燥して保存させるために挑戦しています。これは以前、郷里の加工の知恵の一つとして湯通しをして乾燥保存してまた戻して食べるという仕組みを試すものです。

少し前まではスーパーなどもなく、夏場に葉物が食べられないこともありました。また山に入るとそんなに里の野菜は食べれません。なので冬の間に乾燥させて、それを夏に戻して食べるという保存方法です。

野菜を乾燥させて保存する技術の歴史を調べると古代エジプト期から存在していたとされていたそうです。もともとエジプトは雨が少なく野菜が生育しない期間が長かったため乾燥野菜が重要な食料として利用されてきました。また古代ギリシャでも、乾燥野菜が重宝したそうです。それに乾燥野菜は栄養価も高く保存もきき調理が簡単であるため世界中で使われてきました。日本は湿潤気候のためどちらかというと発酵の方が保存では使いやすいようにも思います。

日本の乾燥野菜の歴史では、奈良時代からだそうです。具体的には塩漬けや干し野菜がメインでその頃は生野菜の栽培技術が未熟で長期保存ができる食品がありませんでした。そして戦国時代になると食料がますます不足してきのこや根菜類をたくさん保存食としてつくったといわれます。そして江戸時代は乾燥野菜は身近にあり、明治時代に入り洋食の文化が入り一時衰退しますが世界大戦の食糧難でまた乾燥野菜が重宝されるようになり広がりました。その頃には葉物の乾燥野菜も増えたそうです。兵士の食糧などにも使われたそうです。

歴史を紐解くと、食糧危機や食糧難のときにこの乾燥野菜の知恵は使われてきました。今のような飽食の時代は必要ない技術なのかもしれません。しかし時代を観てわかるように、いつまた食糧危機に入るかもしれません。

先人の遺してくださった知恵を伝承するのは、子孫を守る為でもあります。日々の暮らしの中で伝統を守ることは、将来の危機への備えでもあり子どもたちへの歴史の伝承でもあります。

伝統高菜の御蔭で私もたくさんの知恵をいただいています。引き続き、この時代に新たな暮らしを復古起新して子どもたちにその徳を繋いでいきたいと思います。

 

 

徳や恩に報いる喜び

昨日、木材の声を聴いて木材の寿命を伸ばすお仕事をなさっている方が来庵されました。主に神社仏閣や古民家の古材など、長い時間をかけて大切に時が刻まれ守られてきたものを甦生したり保護したりを生業になさっていました。その方が聴福庵にとても感動していただき、「ここにある木材がとても清らかで凄まじい生のエネルギーを発して木が喜んでいる」とメッセージをいただきました。

目のキラキラした方で、日本の伝統や歴史に深い尊敬の念を持っておられたのが印象的でした。

木材というものは、今では普通に建築の材料の物の一つのように扱われていますが本来は生きている木のことです。木は切ってしまえば死んでいると思っている方も多くいますが、木は眠っているだけで死んでいるわけではありません。古民家の古い松の木は今でも松脂が出続けています。また家は湿気で水を吸ったり吐きだしたり呼吸をしています。他にも、温度の変化で膨張したり縮小したりと形を全体にあわせて変化させています。

私は木材の木目を観察するのが好きで、よく木材を磨きます。経年変化していくなかで飴色に変わってきた木材を蜜蝋などで丁寧に磨き上げているとその木目に心がうっとりします。木材のもともと持っている徳が顕れてくるのです。

木は私たち人間よりも長い寿命をもっているものがほとんとです。古民家などは、すでに数百年経っているものばかりでずっしりと場が沈んでいます。長い時間をかけて木材の強度も柔軟性も、表面の木皮もバリアのような膜を持ちます。長く生きるというのは、それだけ修養するということですからそれだけ木材の徳も磨かれていくのでしょう。

今では古い木材は役に立たないからとすぐに廃棄し燃やします。何百年も経ったものの価値を捨てていきます。先祖代々、大切に守ってきたものの価値は目先の安い木材や輸入材、あるいは便利な合成の化学材によって消えてしまいました。縦軸のいのちの繋がりを切ることでお金を稼ぐようになりました。

このような金銭的価値のみで判断し、目新しいものの価値ばかりが良いものだと注目されて陰ながら私たちをずっと支え続けてくださったものへの真の価値は忘れ去られていきました。もっと別の言い方をするのなら今まで守ってくださってきた存在を蔑ろにして、経済効率を優先しました。今の日本の伝統家屋や文化遺産などを観ると一目瞭然です。これでは先人たちからいただいた恩徳に報いることはできないと私は感じています。

本来の仕合せというのは、先祖から今にいたるまでずっと子孫のためにといのちを盡してくれている存在を感じるときに深く味わえるものです。お役に立ってきたものたちが、まだお役に立てるといのちを伸ばしてこの世に留まってくださっているということ。

そういう存在に感謝することなしに、真の仕合せはないように私は感じます。

祈りというものは本来、そういう存在そのものへの感謝をすることではないでしょうか。私の実践は、今の時代の価値観からすれば趣味の強い人や変人のように思われるかもしれません。しかし、価値観が変化しなければ当たり前のことでした。当たり前のことを忘れることを変化というものではなく、当たり前のことを実践し続けことこそ変化だと私は思います。

引き続き、数百年先の子孫が安心して暮らしていくためにも当たり前のことを実践して徳や恩に報いる喜びを伝承していきたいと思います。

 

道具を磨く

「おりん」という仏具があります。お寺をはじめ仏壇には必ずこのおりんがあります。このおりんはもともと禅宗に起源を持つといわれます。禅は瞑想や坐禅を中心とした修行を行っていて、その瞑想や開始や終了、また坐禅の時間、読経をするときの合図として使われていたそうです。そこから他の宗派に広がっていき、今では家庭の仏壇をはじめあらゆるところで見かけるようになりました。

この「おりん」と似たものに金属製の鉢やお椀の形をしたチベットの民族楽器の 「シンギングボウル」 があります。 シンギングボウル は縁を叩いたりこすって音を出しますが おりんは縁を叩いて音を出すだけでこすって音を出したりはしません。その造り方も異なり、おりんは鋳型に金属を溶かして入れて作りますがシンギングボウルは、金属を叩いて作ります。厳密にいえば、どちらも仏具として使われてきた歴史があるのでどちらを用いても用途に違和感はありません。

あるご縁からネパールのシンギングボウルを分けていただき場での瞑想や坐禅に活用していますがその中にはおりんも混ざっています。ただし、432hzに統一しているのでその帯域ではないものは別の祈祷の際などに活用しています。

実際に楽器や仏具の違いなどは、私からするとあまりないように思います。その人がどのようにそれを用いるか次第では楽器にもなり仏具にもなります。これは全てに言えることで、生き方が道具に反映されるのです。

これは単に仏具や楽器の話ではなく、「場」というものも同じです。その場をどのようなものとして活かしているかで、その場にあるものは変わります。場を感じる力というのは、その場を調える人の生き方が反映されます。

時代の変遷を経て、いつまでも祈りや瞑想、そして供養や浄化に使われてきたおりんやシンギングボウルはそれだけ道具としての持ち味、歴史や伝承を宿しています。

むかしの道具たちを活かすことは、今の時代にも結ばれている生き方を伝承していくことにもなります。私は全ての道具を暮らしの中で活かしていきますから、あまり分別や分類することが好きではありません。そのものの持ち味が活かせるのなら、どう活用してもいいという考え方です。

格式を高めたり、敷居をあげるのも好きではなく大切に日常の暮らしの中で一緒に生きていく存在としてなくてはならないパートナーとして活用していく方を優先しています。

3000年以上前から在り続ける存在に深い尊敬の念が湧いてきます。引き続き、自分の思うように道具から学び、道具を磨いて新しくしていきたいと思います。