祈るしかない~自然の理法~

昨日、大型の台風が九州北部を横切りました。上空にはものすごい空気の流れる音や、風きり音、雨が家をたたく音などが響きました。自然の猛威はすさまじく、改めて人間の小ささに気づくものです。

古民家甦生をしてからは、むかしの建具やガラス戸を探しては配置していきました。そうすると、現代のような強化ガラスではなく手作りの薄いガラスを用いるため強風で割れるのではないかと心配になります。

今朝がた来てみると、干してあった玉ねぎはだいぶ落下していましたがそれ以外は、大きな被害もなく安心しました。

むかしは自然災害に対して対策は立てても、自然を征服できるとは思っていませんでしたから自然に敬意をもって接し、祈り暮らしました、災害があるような大きな自然の猛威の前には「祈るしかない」という心境だったように思います。

私も古民家や自然農をはじめてから、祈ることがとても増えました。というより、「祈るしかない」という境地になることを知りました。一つの諦めというか、できることはすべてやるけれど、あとは自然がやったことだから諦めるという具合です。

自然と暮らすというのは、私たちを謙虚にしていきます。

祈るしかないという境地は、あとは自然にお任せしますという心です。自分だけがいいのではなく、自然は常に全体最適に働きます。自分にはとてもつらく悲しい現実があったとしても、それによって悪くなるはずはないと信じるという意識です。

自然は常に理に適っています。言い換えれば自然こそ万物の理法の原点であり、真実の仕組みそのものです。その理に逆らうのではなく、その理を信じるということで私たちは自己を超越して自然の中に入っていきました。

祈るしかない境地を体験するというのは、傲慢になりそうな理に逆らう自分を正し、本来の自然の理法に回帰する機会を得るということです。

不思議ですが、祈るしかないという境地のあとはまた復興していこうという素直な気持ちが湧いてきます。自然の与えてくれた試練を受け容れて、さらに力強くいのちを燃やしていこうと覚悟するのです。

人類が何万年も、何十万年も共に暮らしてきた地球で生きてく智慧は確かに私たちの魂に刻まれています。真摯に自然の理法を学び、子どもたちにその智慧を伝承していきたいと思います。

創始理念

世界にそれぞれに国家というものがあります。国家には国家理念というものもあります。どのような国にするかというものをそれぞれで決め、それに向かって国家を成長させていきます。

日本という国は、今の世の中が示すような国家を形成しましたがその国家像は果たして本来の日本人が実現したかった国家だったのかと振り返る必要を感じます。

かつて明治維新の時、列強諸国に負けないように急ぎ国家というものを形成しました。しかしその国家は、列強諸国に負けないための国家であり本来の日本人が目指した国家ではありません。急ぎ、国力を蓄え、国家にするために私たちの先祖は国家理念の基礎の上にではなく借り物の国家理念で国造りを進めていきました。

私たちでいえば本来の国家理念とは、創始理念のことです。

創始理念というものを遡れは神武天皇に行き着きます。その即位建都の大詔にはこう記されています。

『夫れ大人の制を立つる、義必ず時に随ふ。 苟も民に利有らば、何ぞ聖の造に妨はむ。且当に山林を披き払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨み、以て元元を鎮むべし。上は則ち乾霊の国を授けたまひし徳に答へ、下は則ち皇孫正を養ひたまふ心を弘めん。然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇を為むこと。亦可からずや。夫の畝傍山の東南、橿原の地を観れば、蓋し国の墺区か、治るべし。』と。

意訳ですが、「大人が制度を立てるにあたっては、必ずその時勢に順応した良い制度を立てること。もし苟も人民の利益になる事であったならだれか聖人の制定したものであっても、その制度を変更するに妨げることはない。私はいま山林を開き伐採して宮殿を築造経営して恭しい心持で天皇の位に即き、人民の安寧と幸福とをはかろうとしている。そして上は神が国を授けたもうた其の御神徳に答え奉り、下は皇孫以下が正しい心を養成するように、そして天下を治める都を定め、その徳を弘め、世界の八方の荒れたる隅々までも一つの家庭とし、人類皆兄弟として互いに手をつなぐべき目的を実現するために、畝傍山の東南、橿原の地に都をつくるのだ」

みんなでよく話し合いながら、制度は変えていきなさい。そして人類みな兄弟として仲よく暮らしていきなさいということが記されています。

どのような国家を形成しようとしたか、その言葉や文書から読み取れます。私たちはその理念にそって、現代でもそれぞれに家庭を築き、社会や会社を築き、その理想の実現に向けて各々で取り組んでいます。

目的を忘れないようにしていくことが、国家というものの本来の姿を顕現していくことになるのです。子どもたちに大切な創始理念が受け継がれていくように、私も世界に誇れる日本の国家を今いる場所から発信していきたいと思います。

 

本質的な生き方

私は色々なことを深めては取り組みますから他人から多趣味な人といわれることがあります。しかし自分では色々なことはやるけれど、趣味でやっていると思ったことは一つもありません。もし趣味というのなら、炭くらいでしょうがその炭もまた子どものことを思ってはじめたものです。

そもそも目的をもって取り組んでいると、その手段が色々とあることに気づくものです。もしも手段だけで目的がなければそれは単なる趣味なのかもしれませんが、目的を最優先していくのならばそれは趣味ではなく手段の一つということになります。

私は子ども第一義という理念を掲げ、初心を忘れないように日々を過ごしています。そうすると、その理念や初心に関係する様々な出来事やご縁に出会い、それを深めていくと次第に様々なものに行き着きます。その過程で、伝統技術を学んだり、ビジネスを展開したり、古民家甦生をやったり、サウナをつくったり、むかしの稲作をやったり、ブロックチェーンをやったり、多岐に及んできます。それを周囲の方々はそこだけを切り取って多趣味といいますが、私は決して趣味でやっているわけではないのです。

しかしやる以上、全身全霊の情熱を傾けていく必要があります。なぜならそれが目的であり、それが理念であり初心の実践につながっているからです。仕事だからとか、生活のためだから取り組むのではなく、それが目的だから取り組む価値があるという具合なのです。

そして一旦取り組んだのならば、その取り組みの手段の意味が確かに実感できるまではしつこく諦めないで実行していくようにしています。なぜなら、手段は目的に達するための大切なプロセスであり、そのプロセスの集積が本来の目的の質を高めていくことを知っているからです。

目的を磨いていくためには、様々な手段によるアプローチが必要です。あまりにもジャンルが増えてジャンル分けできなくなり、気が付くとただの「変人」と呼ばれ始めますが、手段だけを見て変人と決めつける前に、この人の目的は本当は何かということを観る必要があるのではないかと思います。変人は須らく、目的に生きる人が多いように思います。

言い換えるのなら本質的な生き方を志す人ということでしょう。

自分に与えられた道を、オリジナリティを追求しながら楽しみ味わっていきたいと思います。

人類共通の智慧

昨日は、UBC人類学博物館(MOA)と新渡戸記念庭園に行くご縁がありました。この二つはブリティッシュコロンビア大学の中にあり、緑がとても豊かな広大な敷地にゆったりと佇まいを備えています。

トーテムポールの展示や先住民族によるアートを含め、アフリカ、オセアニア、アジアなど世界の人類学のコレクションを収集し、約53万5000点もの収蔵品を持つ博物館です。とても一日ですべて見学することはできませんが、人類に共通するものを理解するのには充分な場所です。

特に印象深かったのは、世界中の民族の「暮らしの道具」が展示されていたことです。そこには人類に共通する確かな文化や思想、そして生き方や考え方が凝縮されていました。

例えば、工芸品であれば必ず自然物を用いますがその特徴を活かし修繕がきくもの、また自然循環を維持できるもの、その土地の風土で耐えるもの、用途などに合わせてデザインされています。そのデザインからは、具体的な暮らしが想像することができ古代の人たちはどのようにして自然の中で豊かに生活を連綿と続けてきたのかがわかるものばかりでした。

そのほかにも、日本でいうところの鬼や精霊、自然の畏怖などを霊力を宿す大木や巨石、また色などを用いて魔除けや祈り、荒魂や和魂のようなことを祭祀によって行っていました。ハレとケにあるように、暮らしの中で発生する様々なバランスをとるための工夫が文化の中に存在していました。

またこの人類博物館の面白いのは、先住民たちのトーテムポールなどがありその住居などを展示しているところでした。アイヌ民族の住まいを以前、見学したことがありましたがここカナダの先住民の住まいもまた木造建築でありまるで神社のような大黒柱を拵え、棟と梁と屋根を原型に、木の中で住まうように設計していました。その古代づくりは、日本の建築の原型ともいえるように思います。

人類学を深めれば、人類の原型が何かということが次第にわかってきます。人類がなぜ今、こうなったのかを考察するにおいても人類はかつてどうだったのかを考察するのは大変な意義があります。この大学の中にこの建物があること自体が、モザイク社会に挑戦するカナダの未来においても大きな影響があることを実感しました。

そして新渡戸庭園もその近くにあるのですが、日本の庭園以上に日本を感じさせる素晴らしいものでした。何が素晴らしいのかといえば、何を基本に据えて庭園を構成したのかを拝見することができたからです。海外で日本の文化、その庭園というものを定義するときに、必要不可欠なものが存在します。

私も古民家甦生で箱庭を創るとき、これだけは外せないものは何か、そして何を基準委するのかという心得のようなものを自分なりに構成していきました。それはかつての歴史的建造物を観察し共通するもの、その意味や哲学などを学び直しました。

ここの新渡戸新庭園は、カナダにありながらも日本の気候というものを感じられるものになっていました。そういう意味で目から鱗が落ちた思いがしました。むかしの都は風水を重んじて建てられたといいますが、この風水は庭づくりにもまた欠かせないものです。

どのような光が入り、どのような風が吹き、どのように水がゆらめくか、その一つ一つを演出するのに、あらゆる土、火、風、木、石、水などを調和させていきます。その調和の中心に日本の気候を置くというのは大変な叡智であろうと思います。

ここで学んだことを、今後の暮らしの提案と展開に結びたいと思っています。大きな学びの機会をいただき心から感謝しています。

森の神様

昨日からフィンランド東北地方のクーサモ町にあるイソケンカイステンクラブに来ています。ここはサウナの本場、フィンランドの中でももっとも王道のサウナを提供するキングオブサウナと呼ばれる完全なるスモークサウナです。

フィンランドのサウナの品質を管理する協会「Sauna from finland」から、本格性、清潔性、リラクゼーション性などすべての項目をクリアした品質証明書も授与されているフィンの伝統のおもてなしを体験できる場でもあります。

私はここのサウナマスターからサウナの本質を学び、本物を体験するためにここまで来ました。サ道のタナカカツキさんにして、「ここが一番のスモークサウナ」であると紹介され遠路はるばると来てみるとまさにこれ以上のものがあるのかと心から感じ入りました。

確かに日本のサウナの聖地と呼ばれる「サウナしきじ」も湧き水と温度、利便性など日本人の水との邂逅に感動しましたがこのイソケンカイステンクラブはもう完全に異質です。

一言でいえば、「森の神様が宿る」サウナといってもいいかもしれません。

かつての私たち古来の日本人は、場に神聖なものを見出してきました。神社の清浄な場にいけば心が洗い清められます。同時にあらゆるものを五感で感じて、精神が研ぎ澄まされていきます。それを「杜」とも言います。そこには必ずご神木があり、私たちを永遠に見守ります。

ここの伝統のスモークサウナはまさに、杜で感じるものとまったく同じものがありました。美しい湖、この一帯がまさに神様の澄まう杜でありここで火や水、土や風、日や月、星々などが見事に調和されまさにその中心に「サウナ」があるのです。

大げさに思われるかもしれませんが、私は「場」を研究する場道家です。様々な場を学び、古来からのイヤシロチを創造することをライフワークにするからこそ感じるものがあります。

3年前に、この5つ星を超えた「7つ星」の場をここまで磨き上げたお父様がお亡くなりになり、今ではその娘さんたち2人の姉妹で家族運営されていますがお話をしているといつも身近に父の存在が見守ってくれているのを感じると仰っていました。

その遺志を継ぎ、ここに森の神様と共にフィン人の魂がキングオブサウナになって生き続けていると思うと不思議な奇跡を想い、とても有難く仕合せな気持ちになりました。

私も帰国後、日本人の魂が生き続ける浄化場サウナを建造しますがここでの貴重な体験を活かして先祖に恥ずかしくないように磨いていきたいと思います。子どもたちに、言葉ではなく心身精神すべてで伝承されていくような場を譲り未来への希望の糸を紡いでいきたいと思います。

ありがとうございました、ご縁に感謝しています。

 

共育

自然農の田んぼでお米作りをしていますが、お米の育つ力を信じてどれくらい手を貸せばいいのかに気づくのに何年もかかりました。具体的には、こちらが育てるのではなく、相手だけが育つのではなく、如何に一緒に育っていくか。こういう視点が持てるようになるのにとても時間が必要だったように思います。

育て方や育ち方などのマニュアルは多く出ていますが、「一緒に育つ」というものの考え方はまだ少ないように思います。

本来、生き物は信頼しあい信用し合うことで「共に育つ」ものです。

共に育つからこそ、はじめてどこまで手を貸せばいいかわかり、どこまで見守ればいいかもわかってきます。たとえ、出来が悪くても一緒に育ちあってきた時間はかけがえのないものです。

現在の価値観は結果重視ですから、結果や成果が悪いとすべてを台無しのように扱うものです。しかし実際は不出来であろうが、見た目が悪かろうが、一緒にいのちを燃やし、一緒にご縁を結び、一緒に思い出を共有し合った仲間であり、家族である事実は変わることはありません。

本当の意味での仕合せや喜び、豊かさはこの共育なかにこそあります。つまり古来からの教育とは共育ということでしょう。

自然の仕組みを先生にして私は教育を語ります。私の教育の考え方は、大学で論文を提出して博士になったわけでもなく、世間から評価や名誉をいただいているわけではありません。しかし自然がそうなっているものを学ぶのは、古来から人類の学び方の原型であり、その原点を基準にして今の生き方に反映させていくのが学問の醍醐味だと私は思っています。

教育者ではないのに教育者を語る不届き物かもしれませんが、実際に生きものが「育つ」という真理は、教育者が育てたのではないと私は思うのです。つまり一緒に育ったのです。その育つものを育てたものがもしもあるとするのならそれは「場」が育てたのであって教育者が育てたのではないのです。

そんなことは自然農で稲をつくってみれば必ずわかります。

引き続き、保育の仕事をするからこそ本質が何か、自然がどうなっているのかを子どもたちの傍で伝承していきたいと思います。

想念実現の教え

今月19日、元ヤオハングループ代表の和田一夫さんがお亡くなりになりました。私は17年前に約1年間、郷里の飯塚で同志と共に国内外の展開の秘書のようなものを務めながら傍で様々なことを教えていただいた記憶があります。その教えは今も生きていて、私にとっても素晴らしい経験になっています。

今でも、その当時に見せていただいた「感謝ノート」のことは鮮明に覚えており私もその「感謝ノート」を毎日欠かさず書いています。この感謝ノートは私と和田さんとの絆でもあり、今でも私の人生を支え導いてくださっています。

思い返せば、非常に純粋で好奇心があり、偉大な意識をお持ちの方だったように思います。いつも私に「もっと大きく考えなさい」と指導してくださり、私が何を提案しても「まだ小さいな」といわれ、「大きいものには魔術まである」ともいい、物事を捉えるときに常に「偉大な視座で取り組むように」とご指導してくださいました。

またどのようなご縁も点ではなく面でとらえるように言われ、すべての機会を完全に漏らさず活用するようにご指導してくださいました。傍にいて誰も気づかないようなどのような小さく霞んだ点であってもそれを「必然」として迷うことなくご縁をつながれていきました。

また「想念実現」という言葉を深く愛しておられ、「想いは必ず実現する」と信じて疑われておられませんでした。和田一夫さんと私の親友の同志と一緒に峰隆太さんが司会だったケーブルテレビの番組に出演したことは今でも懐かしく、楽しい思い出の一つです。

また仕事への姿勢、プロの厳しさも教えていただき、どのようなことも「命がけで真剣勝負」であることを学びました。いつも会議はまるで命がけの外科手術の現場のように一切のミスも許されない緊張感がありました。意識の持ち方、情熱を傾けること、利他であること、世の中のためになること、またプロ意識や一流人の仕事の流儀のようなものも体験させていただきました。同志となんども企画書をやり直し、一緒にミスがないように何度も何度もチェックして徹夜ばかりしていたことも今では懐かしい思い出です。

今思えば、接したお時間は短かったけれどいただいたものは本当に多くあることに気づきます。1年後、私も創業したてでしたのでそのまま郷里を離れ東京へと挑戦するために和田一夫さんの中国への移住に同行することはできませんでしたが最後にご自宅に呼ばれ、それまでの感謝や謝礼をいただいて温かい握手をしていただいたことも今でも忘れがたい貴重な思い出です。

振り返れば振り返るほどに私が出会った中の人でもっとも人間らしく、純粋無垢で子どものような瑞々しい感性や魂がむき出したようなまさに善い意味で人であり人ではないまるで神さまに近い方でした。

今もその当時に一緒に行動を共にし種を蒔いて育ててきた想念と共に、友と一緒に郷里で夢の実現に取り組んでいます。いただいた御恩は決して忘れることはなく、今の私の想念と共にこの世に生き続けています。子どもたちの未来のために、これからも御恩返しをしていきたいと思います。

心からご冥福をお祈りいたします。

ありがとうございました。

模様替え

先日、社内の模様替えをする話があがりました。日々に様々な仕事が変化する中で、片付けをしていくことや、整理していくこと、何が元の状態かを明確にすることは気持ちの上でも働くうえでもとても効果があるものです。

模様替えという言葉を調べてみるとコトバンクには『建物、室内の装飾、家具の配置などを変えること。「部屋を模様替えする」 物事の仕組み・方法・順序などを変えること。「組織の模様替え」』と書かれています。

この模様という言葉は、図柄や様子を現わす言葉でもありますが兆しを示す言葉でもあります。何かの変化がある際に、その変化に対応して環境を整えていくことは自分たちが変化するために効果があるものです。

人間はすぐに慣れ親しんだ環境の中でマンネリ化しやすいものです。マンネリ化は以前、ブログでも書きましたが次第に変化を嫌がり避けてしまうものです。変化というのは、本来は成長や変化をたのしむものでそれを可視化することで自分自身の暮らしの改善も確認できます。

そしてこの改善は「磨く」ことで、新しい自分の意識や今までにない自分の姿を環境から再認識することもできます。環境によって自分を変えることもできますが、模様替えに取り組むことで新たな変化を身近に感じることができるように思います。

むかしの家の間取りは、ハレの日とケの日によって模様替えを行いました。その都度、変化を味わい、そして平素に帰りました。このハレとケの行き来によって、日々の暮らしを味わい、変化や成長を深めていきました。

色々な模様がある日々を彩ることは、豊かな日常を大切にしてかけがえのない場をみんなで大切に守っていくことに似ています。

模様替えから新たな変化を楽しんでいきたいと思います。

時の濾過力

天然地下水のことを深めていると改めて地球の不思議に気づくことができます。当たり前に飲んでいる水が如何に自然の力を借りて循環し浄化され流動しているのかを知ると、私たちの身体でも起きている「濾過」について考え直すことができます。

私たちの身体もまた地球の一部であり、地球の水は私たち生命を支えていますから水を学ぶことはいのちの根源を学び直すことかもしれません。

もともと地下水はここ数日のブログでも書きましたが、雨や雪が永い間をかけて地中に沁みこみそれが鉱物や植物の化石、微生物や地球そのものの浸透圧などによって濾過されたものです。それが粘土層によって貯蓄され、それが湧き出てくるのを湧き水といい、地下を掘って出したものを井戸水といいます。

どちらの水も濾過されたもので濾過の状態によってその成分が異なります。水は大変柔軟性がある存在ですから、どんなものも通過していく力があります。長い時間をかければかけるほどどんな小さな穴でも通っていきます。そして偉大なほどに小さな穴を通るとき、不純物はすべて取り除かれて分解されていきます。

自然界に陰陽があるように水にも陰陽があります。それが酸性とアルカリ性です。そして人間に中庸があるように、水にもまた中性というものがあります。自然界はバランスを保つところが中心ですから、その中心を保っているとき私たちはその水をもっとも美味しいと体が感じてバランスを整えるために摂取するようにも思います。

私たちの身体もまた、酸性に傾いているのか、アルカリ性に傾いているのかで自分の状態を確認します。地下水であれば、一般的には濾過が浅いものは酸性で深くなればなるほどアルカリ性であるとも言われます。このアルカリ性になる理由は、実はまだ科学でもはっきり解明されているわけではありません。いまだに諸説があり、本当は何によってアルカリ性になるのかが明確になってはないのです。

それだけ自然界というものは、まだまだ観えない存在によって不思議な力を隠し持っているということだと私は思います。

しかしはっきりと言えるのは、何千年、何万年を経て濾過された天然地下水の価値は濾過の力をはっきりと感じます。じっくりと時間をかけるというろ過装置は、時代の厚みや文化の価値と同様に叡智に優れているものばかりです。

時間をかけて濾過したものを今の私たちが五感で摂取できるというのは、時の濾過力を感じて心身が浄化されていくのでしょう。現代のようなスピード社會において、天然の永遠の水は私たちを深く癒すはずです。

浄化場づくりは私の天命であり天職です。

引き続き、子どもたちに譲れる懐かしい未来を譲り遺していきたいと思います。

育つ場

人が集まり何かを行うというのは、そこに「場」が産まれているからです。その「場」をどのように醸成するかの仕組みは「農」と同じように田畑に種を蒔き、実践を積み重ねていくことで次第に土壌が肥沃になり次第に生きものたちが集まってくるのと同じです。

私たちの「思い」は種とも言えます。

どんな種を蒔いてきたか、そしてその芽をどのように育ててきたか、それをどのように見守り続けてきたかそれによって実をつけるのです。

育つということは、言い換えれば「育つ場」があるということです。そしてその育つ場は、成長し合える環境が用意されているということになります。

私は、保育の仕事を15年間続けてきましたが保育の本質を掘り下げてきました。その中で、如何にこの場づくりが発達に影響があるかを体験を通して実感してきました。私は同時に自然農や自然養鶏、自然治癒をはじめ、風土の中でいかに自然に近づけて自然と共生するかを見つめてきました。

その経験を「場道」という言葉にして、新たに暮らしの甦生に取り組んでいます。

そもそもこの「場」という字の成り立ちは、「土+易」で構成される会意兼形声文字です。これは「土地の神を祭る為の柱状の土の象形」と「太陽が地上に上がる象形」で「あがる太陽を祭る清められた土地」として「場」という漢字が成り立ったといいます。

つまりもっとも神聖な祈りの場所が「場」であったというのが場の字の成り立ちからも垣間見れます。

どのような気持ちで場に接するか、どのような姿勢で場に正対するか、その場を創る人の生き方が出てきます。場によって世の中が清められるように、場によって子どもたちが健やかに育つように最善を盡していきたいと思います。