不便の徳

現代は、様々な理由から体調を崩し精神を病む人が増えています。生活環境はますます便利になり、なんでも思い通りに快適になりましたがそれと反比例するかのようにあらゆる病気が増えているように思います。

人間は、便利になればなるほどにそれまで必要不可欠であった自然の道理から離れていきます。時間をかけて手間暇を惜しまず、心を寄せて何かに取り組んでいくということも、忙しい現代においては最初に省かれる項目に入ります。

不便なものは悪のように語られ、便利さこそが価値があるかのように評価されます。人間においても同様に、不便な人よりも能力の高い便利な人の方が重宝されやすくなっています。物の扱い方もまた、便利なものがたくさん売られ不便なものはすぐに捨てられていきます。

自分の五感をフル稼働させ時間をかけて習得するのではなく、誰でも簡単に平均的に時間を短縮してできる道具を求めてきたから今ではAIやロボット、さらに便利な存在に近づいていこうとしています。

しかしよく考えてみると、これは誰にとって便利なのか、誰にとって都合がいいのかということです。

楽して栄養をとれる、楽して自動でできる、楽して時間が節約できる、これらは自分にとって利があるから便利を優先します。しかし実際は、その楽して栄養をとれているように見えて健康を害していき、楽して自動でやっているうちに仕組みや修練、能力を磨くこともないから応用ができなくなり、楽して時間を節約しているうちに味わい深い関係や思い出をなくしていたりします。

結果ばかりを求めて、自分に利があるかどうかばかりを追求すればするほどに不自然が増えていき気が付くと本質的に不便になっていることに気づく日が来るのです。

むかしは、里山のように、または暮らしの中で、自分だけが利することをせず、敢えて不便であっても全体最適であるように努めていきました。手間暇も労力もかかり不便であっても、それを善として、周囲への思いやりのためにと楽よりも苦を選びその分、楽しくなるように、仕合せになるようにと発想を転換して喜びに換えていました。

例えば、お酒造りも、漬物作りもも、今の時代は、化学的なアルコールを添加したり、漬物も化学合成調味料を塗り込むだけですが本来は時間と労力と手間暇をかけて丁寧につくりこみました。お酒は、苦労の中でも醸し唄のようなものをみんなで歌いながら苦労してつくり、漬物も手でかき混ぜながら声がけしながらつけていきました。

しかし五感や体は、自然であることが分かるようにそのものを食べると美味しいと感じるものです。不便であることが美味しさをつくり、便利であることが不味さをつくるのです。

これは人格形成においてもまた同様のことが発生するように私は思います。教育の本質とは何か、それは地球の平和が続くよう人格を高め道徳的な社會を形成していくためにあるように思います。

だからこそ人間がどうあるべきか、それは生き方に出ますから便利な教育ばかりを施していたら便利な世の中になり便利な人になっていくでしょう。だからこそ今の時代の教育の中に私は不便さが必要であるように思います。

子どもたちに不便の徳を伝承できるように、実直に誠実に伝統の初心を継承していきたいと思います。

岩石の徳

BAのサウナのことを深めていく中で、岩石について調べています。世界には多種多様の岩石があり、様々な効果が持っています。遠赤外線を放射する石、微生物を殺菌する石、水を浄化する石、私たちが一般的に石ころと呼んでいるものでもその石が形成されるまでのあらゆる物語を秘めています。

特に、石の寿命は長く何億年、何千年は当たり前です。そして地球を中心に循環し、時には宇宙から隕石が飛来してきて地球の内部でまた混ざり合い新しいものに生まれ変わります。

その石の形成は様々で川で体積するものもあれば、プレート付近で圧力でできるものもあれば、マグマの高温によってできるものもあります。そのどれも大変長い時間と偉大な力を受けて出来上がっていることは間違いないことです。

私は幼いころから石が好きで、たくさんの珍しい石や相性のよいもの、偶然に出会ったものを持ち帰り大切にコレクションしていました。ある程度、増えてくると部屋が石だらけになるので庭に飾ったり、お気に入りの場所に隠したりしていました。

今ではその当時のようなコレクションはしていませんが、人生の節目で一期一会に出会ったものを宝石として大切に身近においてお守りにしています。

私は料理を炭でしますが、時折石をプレート代わりにして焼いて食べることがあります。むかしは土器を用いて、石を温めて料理したことが遺跡からも遺っています。私たちは石を温めることで、身体が癒された記憶があるようにも思います。

今回のサウナは、炭を使いますがその炭との相性のもっとも素晴らしい石と出会うためにこれから3か月かけて実証実験を行う予定です。どのような出会いが待っているのか、今からワクワクしています。

子どもたちに好奇心や夢、子ども心が伝承できるように私なりに岩石の徳に学び、自分のオリジナリティを追求していきたいと思います。

縁起とは

昨日は、天赦日ということもありBA(場)のご祈祷と引っ越しを行いました。この天赦日(てんしゃび)は天赦日とは「日本の暦上での最も最高な吉日」といわれ、新しく何か物事を始まるときのに選ばれる大吉日といわれます。この日は「百の神が天に昇り天が万物の罪を赦す(ゆるす)」という意味であり、六曜(ろくよう・りくよう)とは、暦に記載される日時や方位などの吉凶やその日の運勢を占う暦注の一つのことです。

天赦日の決め方は、立春から立夏の前日の戊寅(つちのえとら)の日、立夏から立秋の前日の甲午(きのえうま)の日、立秋から立冬の前日の戊申(つちのえさる)の日、立冬から立春の前日の甲子(きのえね)の日になっています。

日本人はむかしから縁起を大切にしてきました。この縁起とは、ウィキペディアには「縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す」とあります。仏教からのものですが、吉凶を占うものとして中国からの思想も入っています。

縁起というものは、兆しを観るということでもあります。

兆しが分かるというのは、タイミングが分かるということです。私にしてみれば、農家が種蒔きの絶妙な時機がわかるようにそれは一期一会の瞬間を逃さない仕組みだとも言えます。

自然の力をお借りするということは縁起を担ぐということでもあるのです。私たちは自分だけの力で物事を動かしているのではありません。そこには他力といった不思議な自然の恩恵を受けています。天赦日というものは、四季折々の中でもっとも自然の恩恵を受けやすい時機であるということでしょう。

時機時期に自分を合わせていくことは、かんながらの道を実践する私にとっては大切な初心の確認でもあります。子どもたちのためにも、確かな伝承を磨き続けていきたいと思います。

 

好きをつなげる

人は生きていく中で大切な何かに気づくものとです。その大切な何かとは、自分の人生の中で特に優先順位の高いもののことです。それはその人にしかない体験であり、その体験があるから自分自身の使命を感じるものです。

例えば、ある事故にあって人生が変わる人もあれば、ある人に出会って人生が変わる人がいます。それは一つのご縁ですが、その出来事によって大切な何かを悟るのです。

私の人生を振り返ってみたら、その連続であったように思います。今でも日々に出会う人によって自分自身が気づきによって変わっていきます。この気づきの連続が私を育て私を創ります。

人は自分というものを知るために旅をします。その人生の旅は、日々の気づきによって味わい深いものになっていきます。つまり気づくためには、その大切な何かをいつも求め続けなければなりません。自分を深く掘り下げて、日々の出会いの意味を掴み、日々の行動を省みて日々の生き方を磨き続けなければなりません。

自分の好きなことに専念するというのは、好きになる努力をし続けるということです。人生のすべての出来事を、大切な何かのために努力し続けるという実践が必要です。

どんな出来事であったとしても、大切な何かと常につながっています。一見意味のないようなことでさえ、後になってそれが大切な意味を持っていきます。ある人の傍で手伝い学んだこと、ある人の生き方から薫陶を受けたこと、ある人の行動から気づかされたこと、それもまたご縁と出来事によって大切なものを得ていくのです。

出会いを大切にする人は、一期一会に出来事も大切にする人です。

好きになるほどの努力をしたか、努力を忘れるほどに好きになったか、それは自分のいのちをどれだけ本気でつぎ込んだかという自分の人生への責任かもしれません。

自立ということを子どもたちに伝承するためにも、大切な何かのために好きをつなげていきたいと思います。

 

戦争を防ぐ

世界では今日もあちこちで国家間の小競り合いが続いています。第二次世界大戦が終わり、冷戦と呼ばれるようになりましたが実際には水面下ではずっと小競り合いは続いています。それがあるとき、大きくなり大戦と呼ばれるだけです。

つまり戦争は常に世界のあちこちで発生しており、地球のどこかでは常に血が流れ続けているのです。特にこの頃はそれが経済戦争にとってかわり、お金という武器を使って小競り合いを続けています。インターネットによる情報戦も過渡期に入り、いよいよ技術はギリギリの高さまで高まってきました。人類は追求する方向さえ間違えなければどこまでも夢を実現することができるのです。

どのような目的でその道具を用いるかで、その結果もまた変わっていきます。武器も使い方を換えればいのちを救うための道具になり、使い手の思想次第でどのようにでもなるのです。

人間にも大きく分けて二通りの人々がいて、ある人はそれを自分の利益になることだけに使い、またある人はそれを利他のためになることに使う人があるのです。歴史を省みると、平和が永く続いて世の中には道徳的な思想がしっかりと社會に根付いていたことがわかります。

その時代の人々が、どのように暮らしを、どのような生き方をしていたかが、その時代時代の栄光にもなり、破滅にもなります。それは時代を生きた人たちの命懸け挑戦であり、時代を創り続けてきた人たちの覚悟であり、そして伝承を守ってきた人たちの勇気でもあります。

私はこの今の時代、まるで逆行しているようなことに果敢に挑んでいます。実際には臆病者で小心者ですから恐怖や不安、そして身震いしながら前に進んでいます。見た目には楽観的であっても、あまりにも世の中の大多数の価値観を真逆に進んでいくことは信念が要ります。

ひょっとしたら時代時代に、そのような人物たちが存在しみんな同じように怖いながらも未来のために子どものためにと挑戦をしたのではないかと思うと先人たちに敬意の心が湧いてきます。

ある人は、変人と呼ばれ、またある人は狂人と呼ばれ、そして異端と呼ばれたり、反逆者と呼ばれたり、犯罪者と呼ばれたりもしたかもしれません。それだけ世間の常識に反するということは大変なことなのです。

しかしその人の動機が善であるか、そして私心がないか、また平和を求めているか、そのプロセスが思いやりがあるか、そして徳を積んでいるかといった基準で見つめれば真実は時間の経過とともに自然に顕現されていくものです。

純粋すぎる思いは、自己の魂に忠実であり、正直で嘘がありません。そういう不器用な生き方は、苦労が多いですが最短距離で誠実な場所へたどり着くように思います。

世の中が戦争を望んでいるからこそ、敢えて今こそ逆行してでも挑戦する価値があるのです。はじまってからでは遅く、始まる前にこそ人類に対しての愛で先人たちが祈り遺した想いを受け継ぎ伝えていく必要があると私は思います。

子どもたちのためにも、自己との対話と挑戦を続け勇気を出して取り組んでいきたいと思います。

 

風土の智慧

昨日は自然農の高菜の畑で除草を行いました。郷里の伝統野菜の継承のためにコツコツと育ててきましたが、ここ数年、連作障害などもあり土が弱りどうしても虫や雑草に負けてしまうことばかりでした。

今年は、土の甦生にも取り組むためマルチを敷いて様子を見ていましたがなんとか半分ほどは雑草とも共生し葉を出してくれていました。やはり8年くらい続けていると、高菜を好む虫たちが大量に発生してきます。

昨年は初期の頃の新芽の際にほとんど虫が先に食べてしまいまったく伸びていくことはありませんでした。手で取ってもとってもきりがなく、土の醸成と風通しが如何に大切なのかを学びました。つまり風土の智慧を得たということです。

この風土の智慧は、単に頭で理解できるものではありません、確かに身体全体で自然から体験により得るものです。智慧というものは、須らくこの体験というものが必要です。

体験が智慧を育て、智慧が体験を高めていきます。

風土の智慧は、風通しの価値に気づくこと、そして土の発酵の価値に気づくことです。この風を通すのは光であり、土を守るのは水であり、それらの調和には日と夜が必要です。そしていのちは、その中でゆりかごのように元氣を与えられて育ちます。

如何に人間がスマート農法などといって便利な機会で科学的につくっても、そんないのちの中にはいのちの充実はありません。元氣のない野菜を食べても、私たちは元気になることはありません。この元氣の素は、風土の智慧を存分に得ている中で育まれるのです。

そしてその風土には、関係性を持った人間の愛情が必要です。私たちは循環の一部になることで身体にその自然の一部を吸収し元氣をいただくからです。日々の食事で何をいただいているのか、決して忘れてはなりません。

農業は自然の一部になるわけですから、自然が元氣に調和すればするほどその一部としての私たちも元氣になってきます。畑が元氣になっていくのを観るのはとても仕合せです。

この後はカブラハバチの幼虫が増えてきますからまだまだ油断はできません。手で一つ一つ取ったらあとはうちの烏骨鶏たちの餌になります。うちの烏骨鶏もまた循環の一部です。

自然から風土の智慧を学び直し、この体験を世の中の経世済民に還元していきたいと思います。

国際人の育成

昨日、アフリカのマラウイにJAICAの活動で2年間ボランティアをした経験のある方と何人かで会食をする機会がありました。

最貧国の一つでもあり、現地での体験の話を聴いていると色々と思うことがありました。その方も、現地でたくさんの子どもたちの飢餓や死をみて、また貧困の原因になっている政治や賄賂などの現状を見て、人生観が変わったと仰っていました。

特に中国がアフリカに途上国援助に入ってきては、色々と現地で侵略行為のようなことをしていることなども聞きました。またかつて宣教師が入ってきては、布教していく仕組みなども話をしました。

世界の国家がどのように後進国を植民地化していくか、そして現地の方々がどのように貧困になっていくのか、さらにはそこで搾取していくのかなど、具体的にお聞きしていると教科書に書いているような話ではなく生の声で真実を感じます。

日本は島国で、この国の中にいると情報も限られなんとなくの空気感で日本人の生活範囲の意識しかありません。しかし実際に、世界に出て現実や現状を現地でありのままに感じると、世の中の本当のことが観えてきます。

そのうえで、何をすることが世界を善くすることか、何が世界を換えていくことかとそれぞれの場所で向き合う機会が得られるのです。

世界の事を自分事にできる人は、世界で起きている出来事を他人事にはしていません。視野の広さというのは、単なる自分だけの人生の自分事だけに生きるのではなく、自分の人生だけではなく、世界人類のことも自分事として捉えることができるように思います。

そういった国際人を育成することは、将来の日本に大切な人材を育成していくだけでなくこれからどのように世界に貢献し合っていくかという人類の方向性に参画するためにも大切なことです。

子どもたちのためにも、真摯に世の中を見つめ自分のやるべきことに専念していきたいと思います。

素直に聴く

人間は一人では生きていくことはできません。完璧である人はいませんし、最強であってもその反対に最弱が発生するのが自然の道理です。完璧を目指している人は、自分の弱いところを受け容れずさらけ出さない人が多いように思います。その逆に完全を目指している人は、弱さも受け容れそれをさらけ出すことで自分の強みを知り、仲間や周囲の信頼を得ているように思います。

この信頼とは、自然体の時に行われるものです。自分が不自然であるのは、自分自身が自分のことをわかっていないからにほかなりません。実際にほとんどの人が、自分のことが分かっているようでもっとも分かっていません。

自己を正しく認識するには、曇りのない澄んだ鏡でそのまま自分を見つめる必要があります。もしもその鏡が、自分の見たくないものや見たいものといったバイアスで曇っていたら本当のことはわかりません。そういう場合は、一度その鏡を綺麗に拭き取り磨き上げていくしかありません。

なぜ自分の鏡が曇るのか、自分の願望や欲望や価値観、刷り込みがあるからに他なりません。幼いころは刷り込みがなかったものが、大人になるにつれて様々な刷り込みを持ってしまいます。その刷り込みをとって、ハッと目覚めるには素直になるしかないのです。

素直さというものは、先ほどの鏡を拭き取ることと同じです。日々に素直になろうと心がけていくと鏡が綺麗に拭き取られます。そしてもっと素直であろうと実践し行動すればするほどに磨き上げられていくのです。

素直さというのは、他人の話が素直に聴けるということ。そして自分の心の声が素直に聴けるということです。素直に話を聴くというのは、謙虚さと自信がなければ聴くことはできません。

具体的に言うと自分から心を開くには自信が必要です、その自信は自分の弱さをありのままをさらけ出せるような自他との絆や信頼に基づくものです。そのうえで謙虚さは自分のわからない大切なことを教えてくださっていると真摯に傾聴したり、自分の視野が狭くなっているのではないかと視座を高めてもらったり、相手が自分のためにこんなことまで言ってくださっていると心から感謝をしたりすることです。

これは自他との関係の構築の仕方でもあり、同時に自己との関係の構築の仕方でもあります。自分を大切にしない人が他人を大切にすることができないように、自己と対話できない人は自他と対話することもできないのです。

だからこそ「素直」であることは、自分の天分や天命に気づき生きていくために最も重要な修養の根本であるのは間違いありません。自分の本当にこの世で与えられている使命や役割は、素直になればなるほどに明確になっていきます。

それは単なる願望や欲望という類のものではなく、まさに澄んだ境地で今与えられているこの場、この今、このご縁を活かそうとします。それが真摯さであり、それが人生に誠実であるということです。

誠実な生き方は、自他を仕合せにするだけではなく社會をも幸福に導いていきます。一人一人が誠実に心を磨いていくことが世の中をさらに美しいものに換えていくように思います。

聴福人としての修養を積んで、心の声を聴き、心の持ち方を子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

リーダーの定義とチーム観

時代の変化と共にリーダーの定義も変わっています。一概にリーダーといっても、その時代の特徴であるリーダーシップもチーム観と共に発展していきますから変化が已みません。

つまりチームの概念自体が発達発展し、時代の変化、社会の変化で人類の進化共に変わっていきますからそれだけリーダーや個々の役割も変わっていくのです。

最近、内閣府から科学技術基本計画の中で「Society 5.0」が提唱されました。これは狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)といった人類がこれまで歩んできた社会に次ぐ第5の新たな社会を、デジタル革新、イノベーションを最大限活用して実現するという意味で「Society 5.0(ソサエティー5.0)」と定義しています。

具体的にはSociety 5.0とは情報社会(Society 4.0)に続く、少し先の未来の社会の姿を表現したものです。これからの人類のサイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)をAI・ロボット・IoT(モノのインターネット)などの活用によって連携できるシステムを実現すること。それにより、AIやロボットに管理されるのではなく、一人ひとりが生き生きと暮らせる人間中心の社会がSociety 5.0としたのです。

これも一つの変化ですが、一人一人がイキイキ暮らせる人間中心の社会は、個別に好き勝手する社会ではないことは明らかです。多様性を維持しながら如何にみんなで居心地の善い社會にしていくか、それを実現するにはそれに相応しい人類のチーム観も発達していかなければなりません。

科学や文明と、生き方や文化といったものは両輪です。そしてその道具としての科学や文明よりも、生き方や文化といった命の根本や根源が優先されていることが過去の歴史を洞察してみてもっとも好循環が続くことは自明の理です。

だからこそ今の時代のチーム観を見直す必要があるし、新しい時代のリーダー像やリーダーの定義を学び直す必要があるのです。

これからの時代、「場」を育てるリーダーが本物のリーダーになります。そして「間」や「和」を扱い、人々だけではなく自然との調和をはじめ、あらゆるものの存在を活かす人物が新しい時代のチーム実現させます。

まさに日本人の先祖、聖徳太子や菅原道真をはじめ日本をここまで導いてきたリーダーたちの理念に共通するものがここでも顕現しています。よく歴史を学び直し、何がリーダーの資質であるのか、そして徳とは何か、もう一度、人類はチーム観からそれを紐解いて本質にたどり着くことで新しい時代が拓いていくように感じます。

子どもたちのためにも、どのようなチームを実現させるか。その実証実験に私たちの社も挑戦し、新しい時代の幕開けに貢献していきたいと思います。

夢のこと

私たちは寝ている時にたくさんの夢を見ます。その夢の中では、もう随分と会っていない人や、今まさに出会っている人、またもう会えない人、会ったことがない人がいます。

目を覚ますと不思議な感覚になり、架空上の物語を体験したんだろうと自己認識してそれを夢として片付けます。

予知夢はこれとは異なり、突然記憶の何かにつながりこれから発生する出来事をそのまま思い出します。これは未来のことを偶然に夢に見たのではなく、過去に起きていた出来事を思い出すかのように記憶につながりそれが鮮明に夢のように現れる状態のことを言います。

夢を見るのは人間だけではありません。むかし子猫や子犬や鳥と自宅で同居していたときがありましたが寝ている時に夢を見て泣いていたり、喜んでいたりという仕草をしていました。急に起こすと驚いて暴れたりしていましたから、きっと怖い夢だったのだろうと思ったことがありました。

またクワガタやカブトムシなども寝ていて突然、びっくりして動くこともありましたから夢を見ていたのかなと思ったことがあります。脳があるものしか夢を見ないと科学的には言われていますが、私は夢はすべての生命が観ているように思います。

そもそもこの世に生まれてきたことが夢のようであり、私たちは生きて様々な体験をしますがこれは体験できるような感覚を持たせてもらっているからです。あらゆる気温を感じる触覚や、痛みや苦しみ、そして快適さや幸福感、あらゆる感覚と感情はセットで私たちの生命を実感させてくれます。

夢のような人生を歩んでいる私たちが、別の夢を見るのは夢のように命を体験している最中であるからでしょう。そのうち肉体が滅んだとき、私たちは夢を見なくなりますがその夢のゆきさきはどこにいくのか。

すべての生命が奏でる夢の中で新しい世界はひらけていきます。

子どもの頃の夢が大人になって変わっていきますが、その世界も大切に見守っていきたいと思います。