真の豊かさを味わう場

本日は、場の道場で暮らしフルネス™の「室礼」の講習会を実施します。これは8年前から弊社の役員の一人が中心になって取り組みはじめ、今では暮らしの中で定着している実践の一つです。最初は東京の新宿の高層ビルと自宅のマンションではじめましたが、現在は古民家の御蔭で前よりも自然に豊かに室礼を取り入れています。

はじめに弊社で取り組んだときは、西洋的な建物でビジネスをするためのオフィスに自然なものを取り入れたいということで植物をはじめ日本の伝統のものを増やしていきました。例えば、炭であったり、和紙であったり、花器であったり藍染の敷物やイグサのゴザなど、和のものを中心に増やしていきました。そしてできるだけ、自然光や季節を感じるようにとお昼は団欒できるようにちゃぶ台を用意し、伝統の保存食、発酵食品などを持ち合い、時にはみんなでつくり、音楽も和楽器のもの流したりしていました。

そうやって忙しい時にも豊かさを失わないようにと、みんなで心がけ、保育の仕事をしているからこそ私たちは子どもたちが憧れるような大人のモデルになろうとみんなで都会の環境の中でも自分たちの在りたい姿に向かって挑戦をしてきました。

私たちは今では「暮らしフルネス」™を提唱していますが、その暮らしの柱の一つを深く支えてくれたこの「室礼」だったようにも今では思います。

この室礼は、四季折々の年中行事を通して先人たちの積み重ねてきた精神性を深く学ぶ大切な伝承の機会でもあります。私たちはどのようにこの風土で暮らしてきたのか、それを自然に心の豊かさを通して自然から学びます。それは代々、先人から子孫へ、大人から子どもへと譲渡されていきます。

つまり暮らしの中で行う、大切な保育そのものでありこれが私たちの民族を育ててきた一つの心の教育であったことは自明の理です。現代では、精神疾患をはじめ痛ましい事件が増えて殺伐とした場が増えてきています。日々の報道でも、人間のよくないところばかりをフォーカスし、本来の人間に備わっている徳や心の豊かさがあまり表に出てきていません。それだけみんな忙しくなってしまっているのだと思います。

しかし私のところには、癒しやつながり、そして仕合せの原点を求めて多くの人たちが集まってくるようになってきました。これは本来の豊かに生きるということを願い、子どもたちにも大切な日本の心を残したいという志のある仲間が増えているからだとも思います。

人生は一度きりです、どう生きるのかはその生き方が決めています。何か大切なことを思い出す節目、つまり年中行事があることで私たちはその初心を思い出して生き方を磨いて光らせていきました。

いぶし銀のように磨かれるのは、この節目をどう過ごしてきたかということでしょう。コロナ後にどう生きたらいいか、どう進めばいいかを悩んでいる人がたくさんいるとお聞きします。一度、ここに来てもらいその豊かさの本質を実感して子どもたちに日本の真心を弘めていけるようにみんなで一緒に「真の豊かさの実践を味わう場」を増やしていきたいと思います。

地域の目覚め

明治時代以降、税金で国家の問題を解決するという仕組みが入る前は人々はみんなで義援や奉仕、寄贈などの協力によって物事を解決してきました。例えば、その地域地域の伝承を調べてみたら川の氾濫を止めるために堤防を築いたり、石橋をつくったり、そのほかにも津波の対策をするために松を植えたりと、その土地の庄屋を中心に、地域の有徳の士がそれぞれの場所で協力して地域の課題を解決してきたことがわかります。

現代は、行政や国家の問題になっていますからほとんどが市役所にクレームを入れて解決しようとします。その市役所も、資金と人手不足から全部にこたえることはできませんから課題が山積みのままに素通りするしかない状態も増えてきています。

本来は、市民がみんなで協力し合って課題を解決すればそれはその土地への愛着や取り組んだことへの誇りもうまれ、その地域はますます課題を通して善い土地へと変化していくものです。しかし、この税金を払っているのだからやるのは当然のような感覚や、歪な作業分担などの意識から一切自分たちでやろうとはせず、また行政側も面倒なことを言われないように責任を被らないようにとあの手この手で避けているから悪循環が続いているのです。

クレームを言い合い、さらにそれを規制でコントロールする。こういうことをしているからかえって柔軟性がなくなりお互いに寛容な気持ちが薄れて動きずらくなりつまらなくなっていく。近代の日本のとってきたこの税の仕組みをそろそろ見直す必要を感じます。少子高齢化で人口減になっているからこそ、このままの仕組みではどうにもできなくなります。

江戸時代前の仕組みをもう一度よく検証して、そのころにどのように人々が協力して支えあって相互扶助の仕組みを働かせていたか。徳治によって、地域を見守ってきた有徳の士の背中をまた教育によって思い出させ、一人一人の自立を促すことが近道だと私は思います。

ある意味での投資や奉仕、寄付や寄贈、義捐は、まわりまわって大きな利益になっていくものです。つまり徳は得にもなり、損は徳で得になるのです。長い目でみてその事例が発生することを学び直すことで地域の目覚めも進むとおもいます。

身近なところ、弱いところ、小さなところから改善していきたいと思います。

義徳金

義捐金という言葉がります。震災などでみんなが寄付して集めつときにこの義捐金という言葉が使われます。なぜわざわざ「損」という字を用いるのか、疑問に思っていたので少しだけ深めてみようと思います。

この義捐をウィキペディアで調べると『「義捐」(ぎえん)は明治時代に作られた和製漢語である。「義」は、正しい行い、もしくは公共のために力を尽くすことを意味し、「捐」は、捨てる、捨て去るの意である。すなわち「義捐金」は、正しい行いのため、公共のために捨てる金を意味する(イスラームにおける喜捨相当)。戦後の国語改革で「捐」が当用漢字に採用されなかったため、「義えん金」と混ぜ書き表記した。現在はほとんどのメディアで「義援金」という表記が見られるが、これは新聞協会による独自の基準で定めた代用表記である』とあります。

また参考にされるのが夏目漱石の「吾輩は猫である」の中の「義捐」という言葉です。そこにはこう使われます。

「主人(苦沙弥先生)は黙読一過の後、直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。義捐などは恐らくしそうにない。せんだって東北凶作の義捐金を二円とか三円とか出してから、逢う人毎ごとに義捐をとられた、とられたと吹聴しているくらいである。義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないには極まっている。」

義捐とは、差し出すものという意味になる。現在の義援は、援けるという字が使われるのは自分の方が援ける側であるという自覚で義援するものです。しかし、少し前までは自分が損をするということを義捐とします。これは結構、感覚が異なるのは想像してみればわかります。

義援は援助できるところまでに対し、義捐は損ができるところまでということ。この援けるという字と損するという字、意味が完全に異なっています。

私はこの「損」をするという字は、悪い意味に思っていません。みんなで損をする、言い換えれば「徳」を積もうということになるからです。それを言い換えれば、義徳金ともいえます。

損をするというのは、自分の大切なものを差し出していくことです。現代は、得に対しての損といった相対的な損になっていて、みんな損はしたくないと思うようになりました。損することがもっともよくないことのようにも語られ、正直者が損をするとまでいいます。

しかし果たしてそうでしょうか。

本来は、損をすることは徳になります。まずは自分から損をして徳を選んでいく生き方、本来の子孫たちへのよりよい社会のために自分から損を選んででも徳を積んでいくような生き方。そういう義徳がこれから必要だと私は思うのです。

義徳金というものを、これから徳積ではじめようと思っています。

みんなが損をする覚悟で、世の中のために徳を積むのならきっと未来の子孫たちに偉大な財産を譲れます。まさに、情けは人のためならずのことわざ通りに必ず巡り巡ってその損は自分や家族に還ってくるからです。

改めて、この時代の価値観を毀すような実践を楽しんでいきたいと思います。

室礼の本質

来週、古民家講習会の3回目で室礼について行います。この室礼は大和言葉であることはブログで書きましたが改めて飾ることと室礼することの違いについて少し書いてみようと思います。

飾るという言葉を辞書で引けば、「1 他の物を添えたり、手を加えたりするなどして、美しく見せるようにする。装飾する。「食卓を花で―・る」2 物を、人目につくように工夫して、置き並べる。「商品をウインドーに―・る」「雛人形 (ひなにんぎょう) を壇に―・る」3 表面をよく見せる。取り繕う。「体裁を―・る」「―・らない人柄」「言葉を―・る」4 りっぱにやり遂げることによって、価値あるものにする。華やかさやすばらしさを添える。「白星で初日を―・る」「有終の美を―・る」「歴史の一ページを―・る壮挙」5 設ける。構える。「高座を―・ってくだされ」〈狂言記拾・泣尼〉」(goo辞書)とあります。つまりは、美しくするために飾るということです。

それに対して、室礼を辞書で引けば「1 「設(しつら)え」に同じ。「テーブル設いをする」2 (「室礼」「補理」とも書く)平安時代、宴・移転・女御入内などの晴れの日に、寝殿の母屋や庇(ひさし)に調度類を配置して室内の装飾としたこと。室礼(しつらい)は、鋪設とも書き、建具や調度を配置して、生活の場、または儀式の場を作ることである」(デジタル大辞林)とあります。

飾るだけではなく、儀式の場をつくるとあります。この儀式の場とは何かということです。この儀式は、公事 (くじ) ・神事・祭事・慶弔などの、一定の作法・形式で執り行われる行事。また、普段の生活での行為とは異なる特別な行為のことです。

単に装飾するだけではなく、そこに信仰や信条、宗教、哲学などが入っているということです。

例えば、今年の場の道場のトイレの室礼には「赤べこ」をしつらいしています。これは丑年と疫病除けに縁起があります。ほかにも、厄除け大三元大師のお札もあります。暮らしの中で私たちは信仰をしてきた民族ですから、数々の行事はすべて室礼とともにあります。

今月の例大祭では、玄関には松竹梅の門松を祀り、お社周辺のしめ縄や素焼きのお皿なども新しくし飾るだけではなく御水を汲みにいき、丹精を籠めた神饌をお供え、丁寧に磨き清浄にして場を整えます。そして直来で伝統の赤飯餅を用意し、ぜんざいを振る舞うのもまた室礼の一部です。

つまりこれらは単に綺麗に飾っているだけではないことはわかります。飾っていることと他に信仰が入っているのです。信仰心がある人は、単に飾る以上の心を用いていることがわかると思います。。意味があるものを意味のあるままに大事に祀り続けるのです。これは縁起を大切にしてきた民族だからです。

そうしたご縁があったものは単なるモノではなく、お祀りしていく神様となります。私が取り組んでいる暮らしフルネスの暮らしの柱は、この日本的な伝統の精神にあります。聴福庵も場の道場も徳積堂も、祐徳大湯殿もみんなその神様のようにお祀りしてしつらえています。

その室礼に感動してくださった人たちが、日本人のかつての懐かしい暮らしを思い出してくれて伝承をしてくださっています。

今回の講習では、実践を観ていただきながらなぜ古民家甦生が意味があるのかを伝えていきたいと思います。

大和言葉の情景

室礼(しつらい)という言葉があります。私もよく古民家をしつらいする機会がありますが、これは和語であり大和言葉の一つです。この大和言葉は、ブリタニカ国際大百科事典によればこう書かれます。

漢語や外来語が入る前から日本語にあった単語をさす。「和語」 (古くは「倭語」) ともいう。狭義の国語。日本語の基礎語彙の圧倒的多数がこれで,単語の音形は短く,「手」「雨」などのように1~2音節から成り立っているものが多い。ただしこれらの基本語が合成したり,接辞が接合することにより3音節,4音節といった合成語,派生語がつくられる。なお「大和言葉」が,おもに中古語に基づく雅語をさしたり,和歌 (やまとうた) をさしたりすることもある。

今では、漢字だけでなく、英語なども混ざっていろいろな言葉を私たちは使いますが、その中に私たちは気が付くと日常の中で自然に大和言葉をいくつか使っているのがわかります。

例えば、夕暮れ、せせらぎ、心遣い、こういうものもまた大和言葉です。どこか自然と情緒を感じさせるもの、配慮や思いやり、真心や優しさ、つまり真善美を感じます。

現代では私たちはいろいろな言葉を知らず知らずに使い分けます。「ありがとう」は大和言葉、「感謝」は漢語、「サンキュー」は英語です。場面場面に合わせて、その言葉を使い分けているのです。

そう考えてみると、大和言葉を使うときはどうするか。

私たちは「ありがとうございます」、「感謝します」、「サンキュー」では用途を分けていると思います。少しの言葉の使い分けですが、それだけ配慮の仕方を変えているということです。

私たち日本人は情緒豊かな風土の中で、情緒を磨き上げていきそれを言葉にしてきたということでしょう。この大和言葉を使うことで、どこか懐かしい日本人の情緒や情景が浮かびます。自然やいのちを尊重して、大切にしあっている関係が大和言葉を使うたびに出てきます。

先ほどの室礼では、飾るではなくしつらえるという言葉に日本人の情緒を深く感じます。日々の暮らしの中で、日本の情景や情緒を磨きつつ日本人らしい生き方を伝承していきたいと思います。

 

暮らしフルネスが始まる

最近、時代のスピードが急速に増して生きているときには観れないだろうなと諦めていたことが身近な景色で顕れてきています。どうせわからないと、半ばあきらめながらも舞台だけはと取り組んできたことが新しい常識に組み込まれはじめています。

未来が今になっていく感覚は、今までで今が一番大きく感じています。

私は、もともと子どもに興味があるのは私自身の中に変わることのない子どもがいるからです。その子どもは、魂と言ってもいいかもしれませんが純粋にこの世で保育されていることに仕合せを感じて豊かさと幸せを味わっています。

私たちは本来、どんな人も生きているだけで価値があり、この世に同じ空気を吸う人としてかけがえのない存在です。そんな当たり前な世界で、魂は存在して日々に自然に磨かれ淘汰され光り輝き安らぎを得ています、

そこに何らかの制限をかけて別の人生を与えていくのが刷り込みであり、環境であることは歴史を見ればすぐにわかります。縄文時代には、暮らしそのものが澄み切っており私たちは数千年もその喜びを感じていました。それがここ2000年弱で、暮らしが失われまるで何かの生産機械のように一つのことのために使役しています。

生きているという実感は、本来は何もない中にあり、その何もない中にはこのいのちを自然に紡ぐという当たり前の暮らしの中に無がありました。その無を楽しむというのが私のいう暮らしフルネスの本義であり本質です。

物事には本質があるように、事実にも原点というものがあります。

時代の節目にあり、今こそ、その原点に立ち返りみんな気づいて動き始めなければなりません。それは子どもの未来の話になるからです。子どもとは、未来のことです。未来をどうよりよくするかは、今の世代の本当の使命です。そのために私たちは今を生きているのです。今の私たちの生活があるのは、先の代の人たちの配慮であり、生き方であり、信じた現実です。それを修正し、改善し、さらに遠大な未来を描くのは始祖からの想いを継いでいくことです。

暮らしフルネスはいよいよこの時代に始まります。

想いを大切に誇りを見守る

人には様々な「想い」というものがあります。その想いを受け継がれていくことで、ますますその人たちの想いが豪壮になっていくものです。最初は小さな想いでも、それが積み重ねていけば次第に大きくなっていく。その想いを穢さないように、その想いを育てて見守っていくように誇りがあります。

よく物事を観察していると、誰にしろ大なり小なりの想いがあります。その想いに引き寄せられて、その想いを受け継ぎ、その想いの一部を担います。想いの連鎖は、時間を超え、場所を超え、それが人の想いを通して結ばれていくのです。

まるで伝言ゲームのようですが、一つ異なるのはそこに大切な想いを扱っているという自覚と、その想いを守りたいという願い、そして想いを信じて実践してきた祈りのようなものが入っているのです。

できるだけ正確に、そして以前よりも磨いて次の方に受け渡していきます。その想いを粗末にしないように、粗末にされないようにと細心の注意を払います。つまり、想いに対する配慮をしていくのです。

現在、古民家甦生でいろいろな事情で空き家になったところを引き継いでは甦生させています。しかしその空き家といっても、そこにはそこで生活をしてきた人たちの大切な想いが詰まっているもので特に長ければ長いほどにその想いは醸成され強いものになっています。

その想いがあるゆえに、簡単には片づけられないこともあるのです。特に想いを無視するような無配慮なことがあれば、誇りをもって対応するでしょう。その誇りは、損得度外視で「想い」を大切にして判断するのです。

誇りというものは、「想い」と連動しています。どんな想いを持っていたか、それは目には見えなくてもその想いを受け継いだ人にはとても大切なことなのです。現代の物質文明では、想いなどというものは目に見えないものですからお金で解決したり簡単に事務処理で片付けようとします、しかし、想いを持っているからこそ生命があるのであり、単なるモノではなくなります。そこに一つのいのちが存在するのです。そのいのちが壊れないようにと想いを大切にしていくのです。

またその想いが働き、想いに人は集まってくるのも事実です。

想いを粗末にしないように、想いを大切にするような配慮を私自身も気を付け、丁寧に真心をもって接していきたいと思います。

いのちの暮らし

現代は、物質文明でモノ化している世の中ですからなかなかいのちのようなものを重んじる風潮が失われてきつつあるように思います。苦しいことを避け、便利なものばかりに飛びつくのもまたこのモノ化する文明の価値観が拡大していくからでもあります。

なんでもモノにしてしまえば、いのちへの配慮なく便利なもののために壊してよくなっていきます。壊しては失われてしまうものも、仕方がないとモノ化を優先すればそのうち自分たちのいのちもまたモノ化されていくように思います。

そうならないように、日々の暮らしを整えいのちに感謝していくような不便さを楽しむ力が必要になります。

そもそも不便や苦労というものは悪いものではありません。苦労は実は楽しいもので、修行も同様にそれをやること自体に喜びがあり仕合せがあるものです。なんだか今の時代はそれは変人のようにいわれますが、むかしの時代の修行はただ苦しいのではなくその苦しみの中に深い喜びを感じていたのがわかります。楽に傾いている価値観の中では、苦はよくないことになっています。この苦の意味がそもそも違っているからそうなるのです。もともと苦楽は同じですから、苦も楽もどちらも仕合せの種になっているのです。

その仕合せの種をどう味わい育てていくのか、その育て方こそが暮らしなのです。

暮らしを充実させていくというのは、好奇心を失わない生き方を優先し、いのちを大切に物を活かすということでもあります。

そういう生き方をしている人は、日々を暮らしの実践道場として日々に新たに物事を丁寧に紡ぎ取り組んでいきます。その取り組みは、仕合せの種まきともいえるでしょう。

生まれてきて死ぬまで私たちはいのちがあります。

いのちを最期まで大切にすることは、最期までいのちを実践することです。いのちの実践は、いのちがあることを忘れないでいのちだと思って生活をし続けることです。つまり古来からある日本の伝統的な暮らしを大切にしていくことです。

子どもたちのロールモデルになるような生き方を伝承していきたいと思います。

 

新たな施浴伝説

歴史というのは、普遍的な私たちの先生です。困難な時こそ、今にあたふたするのではなくもう一度歴史に学び、今を考察していく必要があると思います。

今から1300年前、聖武天皇が治めた奈良時代に天平文化というものが花開きました。この時代は地震や疫病の大流行ありました。天然痘と思われる疫病では総人口の3割前後が死亡したとも言われています。

この疫病は権力者や貴族であろうが関係なく広がり、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)も病死しています。この時代は、地震や疫病から飢饉にまで発展しどうにもならないことが続きます。

だからこそ聖武天皇は仏教の力をかりて国分寺や国分尼寺を各地に作らせその総本山の東大寺と法華寺を建て大仏を建立したといいます。

先日、大三元大師のこともブログで書きましたがもともと節分の豆まきもここのとき宮中で行われた疫病を持ち込む鬼を国外に追い払う追儺に起源があるといわれます。感染症と地震は連動していて、今こそもう一度、歴史に学ぶ必要があるのです。

私が建立した原点サウナでもある、祐徳大湯殿サウナはこの時代の歴史も参考にしています。かつて古くから入浴と仏教には密接な関係があり入浴の起源は、仏像を湯で洗い浄めたことに始まるとされます。この時代、施浴といいお寺では寺僧の入浴後、近隣の人々に寺の風呂を無料で開放していたといいます。この施浴にまつわる伝説で有名なものが「光明皇后の千人施浴」です。

この光明皇后(701年から760年)は日本の第45代天皇・聖武天皇の皇后です。この光明皇后も天然痘で3人の兄を亡くしその生家である藤原不比等の邸を寄進し、その跡地に奈良に法華寺を建立して兄たちの菩提を弔います。

仏教への信仰心も篤く、社会のためにと真心を尽くしていた皇后がある日夢で仏のお告げを聞きます。そこで法華寺の施浴を建立し、千人の垢を洗い流す誓いをたてるのです。

そしてその千人目に現れた者は、肉がただれて血膿が噴き出たらい病の人でした。しかし皇后は自らその者の体を洗い、乞われるままに流れ出る膿まで吸い取ってやります。すると浴堂に紫雲が立ち込め、患者は瑞光に満ちた金色の仏に化身して「我れは阿閑(あしゅく)仏なり」と言葉を残して消えたといいます。

これはその後、ずっと人々の間で口伝で伝承されていて時代を超えて今でも人々の心に響くものがあります。世界ではマザーテレサなども同様に、深く人々の心を救おうとし真摯に手当てしてきた生き方が感じられます。

またこの光明皇后は千人の施浴の際、信仰の深い3人の女官に手助けをしてもらっていたといいます。そのこの女官のことを「典侍(ないしのすけ)」といって人々は3人を三典(さんすけ)と呼びました。これが銭湯で風呂を焚き、浴客の体を洗う男衆の呼び名である「三助」の由来となったといわれています。

つまり「施浴」を手伝い、人々の心の穢れや体の汚れ、ありとあらゆる苦難を癒そうと日本の石風呂(蒸し風呂サウナ)を活用したのです。

今の時代に似ているものを感じ、ここに共通の信仰の源泉を私は感じます。大げさかもしれませんが、私もこの祐徳大湯殿を建立する際に誓いを立てています。その誓いに恥じないように、歴史に学びこの時代に相応しい新たな伝説をはじめていきたいと思います。

自然の暮らし~医食同源~

春になると苦みのある旬の野菜がいくつかでてきます。その一つにフキノトウがあります。このフキノトウは、あの緑色の大きな葉をつけるフキの若い花茎のことです。花が開かぬ前の鱗片状の包葉に包まれたものをてんぷらや焼いたりゆでたりして食べます。

独特の苦みがあり、春の旬の代表の一つとも言えます。

この春に苦みには、「春の皿には苦味を盛れ」とありむかしから春には苦いものを食べるという習慣がありました。これは春野菜全体のことを言います。この春野菜の苦味成分には、冬の身体を春仕様に転換していく作用があるといいます。

冬は体温を逃がさないようにと、代謝機能を低下させその分、脂肪や老廃物を溜め込みたすくなっています。それで冬太りという言葉があるのです。この冬に脂肪を蓄えていると同時に老廃物も溜まっているのです。

この老廃物を取り除き、代謝を促すにもこの春野菜の苦みが役にたちます。この春野菜の苦みは、「植物アルカロイド」と呼ばれ新陳代謝を促し体内にたまった余分な熱や水分を体外に排出する作用があるといいます。それに加え春野菜には抗酸化作用のあるポリフェノール、他にもビタミンA(カロテン)、ビタミンB群、ビタミンC、があり体内の代謝を高めるために使われる補酵素があるといいます。この苦み成分は、サポニン、タンニン、アルカロイドなどになり、少量であれば、体にとっては肝臓の働きを活発にして解毒作用につながり腎機能も向上させるといいます。

春野菜には、春キャベツ、春ニンジン、フキノトウ、たけのこ、タラの芽、菜の花、新セロリ、新じゃがいも、新ごぼうなどがります。

ただおいしいだけではなく、私たちの食べるものは薬そのものであり、医食同源とあるように体を元気にして健康を保つのにも欠かせないのです。

暮らしフルネスの食は、まさにこの医食同源を実現するものです。旬を味わい、四季のめぐりと一体になりながら自然と離れず、自然と同化してその恩恵を全身に受け取ることで仕合せを感じるものです。

子どもたちに、その自然の暮らしを伝承していきたいと思います。