地域の宝

先日から地域の宝を守るためにどうすべきかというテーマをいただき深め続けています。ここでの地域とは何か、それは中央か地方かといった地域ではなく、故郷としての地域です。

そして故郷とは何か、それは心の原点のことです。心の原点を愛する人たちによって、故郷は生き続け、それが失われることによって故郷は消失します。

残念ながら画一的になってしまった現代社会の中で、本来多種多様であった故郷の形状は破壊され、ほとんどの地域から故郷が消失しているように思います。地域の宝を残したいという声も次第に失われ、経済効果や生産人口の増加ばかりに地域政策が奪われ本来の大切なことを忘れてしまっているようにも思います。

私たちとっては、子どもというのは社會の宝です。社會とは何か、それは人間が共存共栄していく自然の智慧のことです。その社會の宝とは何か、それは子どもであることはいちいち説明する必要はありません。

子どもが消失すれば社會もまた消失します。子どもたちが創りだす社會が、未来の社會であり、それを見守るのが本来の大人の役割です。そういった原点、つまり宝を受け継ぎ引き継ぎ、つなぎ守ることが未来へ地域や故郷を遺す唯一の方法だと私は思います。

地域の宝を守るというのは、故郷を愛する人たちを守るということです。そして故郷を愛する人たちを増やすことで故郷は甦生していきます。故郷を愛するというのは、故郷の歴史を守るということです。

その時代時代の人たちが愛してきた記憶、そして暮らしてきた営み、つまり歴史を遺していくということです。もし歴史がなくなればその地域の故郷もまた失われます。まったく歴史を無視して、新しいものに入れ替えたなら歴史がなくなり人も心も消えていきます。

そうやって国土や風土がまるで他国のように入れ替わっていくのはすべてこの歴史を奪い故郷を消失させていくから実現しているのです。故郷とは歴史のシンボルなのです。そのシンボルを守ることこそ、地域の宝を守ることなのでしょう。

日本もまた戦後の政策によって地域が次第に消失していきました。地域再生などに取り組む人たちは、何をもって地域再生というのかをもう一度、よくよく考えてみてほしいと願います。

子どもたちが安心して心の原点を持ち、世界で活躍していけるように地域の宝を守っていきたいと思います。

人類の智慧、保育の叡智

昨日、お伺いした取引先で理念についての話し合いに参加してきました。そこは先々代の創業者が、どのような想いではじめたのか、そして今その変遷をどのように辿り変化してきたかということをみんなで味わい語り合いました。

過去の歴史に向き合い、今の現実に向き合い、これからの未来に向き合う。

この向き合うためにもその向き合う鏡として理念があるということはとてもありがたいことのように思います。実際には、この鏡を通して自分を観ると如何に自分が本質からずれたことをしているかがわかってくるものです。

物事には必ず動機があり、そしてその理由があります。さらには原点や初心というものがあり、そこから何のために行うのかというみんなが助け合い協力して自分というものを社會で活かすための道徳倫理があります。それを自覚することは、自分を活かし周囲を活かすことになりそれが自他の仕合せになっていきます。

昨日、印象的だったのは自立と協力の話でした。

自立は自律でもあり、如何に自分の中に法やルールを設けて律することができるか。そうやって自分自身を省みて自己自修し慎み自分で善なる自分を練り上げていくか。自分というものを育てるのは自分ですから、自分と向き合う生き方の話です。昔から迷惑をかけているからこそ迷惑をかけないようにしなさいと言われてきたものです。

そしてもう一つの協力とは、迷惑をかけているのだからもっと信頼して助け合いなさいと言われてきたものです。人は一人で何でもできる人を目指したら、孤立してしまい一緒に集団や社会で自分を役立てることが難しくなります。自分の持ち味や得意を活かしてくれるのは周囲ですからみんなに感謝して協働していくことでみんなも自分も豊かな人生を送ることができます。特に人類は、これまで生き残ってこられた最大の智慧は協力してきたことですから迷惑をかけてもいいからその分、みんなと助け合って協力することの大切さを諭すのでしょう。

この迷惑をかけないことと迷惑をかけること、この矛盾する二つは自分に対しては自律、周囲に対しては協力、そのうえで自分を立てることということが成り立ちます。

さらにはその陰に隠れている本当の教えは何かといえば、感謝することを忘れないということでしょう。人間は当たり前のことを忘れると感謝しなくなっていくものです。結局は迷惑をかけないことも迷惑をかけることも感謝を忘れていないかと思いかえすためのものであることに気づきます。

自分というものを成り立たせてくれる存在は、社會の存在です。社會は感謝が循環することで成り立ち、それによってみんなが共生して貢献し合うことができます。自立の本質とは、感謝のことであり感謝できる人、感謝し合う人を育てることこそ人間を育てるということの本質なのです。

如何に能力が高くても、如何に資金力があったとしても感謝できない、感謝し合えないのでは人間としての社會では成立することはありません。人は感謝で立たせ合うことで人になります。目には見えない中にこの人を支え合う感謝がいつも循環していることが、社會を成立させていくための人類の智慧そのものなのです。

人類の智慧を伝承する理念を持つことは、生き方そのものですからその理念にかかわる人たちはみんな仕合せを創っていけます。そしてそれを育むことが保育の叡智なのでしょう。改めて、子どもの仕事とは何か、保育の本質とは何か、機会から学び直し続けていきたいと思います。

 

平等機会、公平調和

人間はよく公平か不公平か、平等か不平等かに文句を言うものです。自分にとって条件が悪いことを不公平や不平等だといい、自分にとって条件がよければ公平や平等などともいいます。

よく評価の話で、この公平性や平等性が語られますが本来は同じ人間は誰もおらず、みんな異なる存在ですからそんなものは公平も平等もそれを受ける人次第でいくらでも変わってくるものです。

例えば、動物でも道具でも得意不得意というものがあります。早く走れるものだけのレースをするのなら足が遅い動物はいつも負けてしまいます。また道具も繊細なことが必要な作業ばかりのときは巨大なハンマーなどは使い道がありません。それに対していくら文句をいっても、そのルールで行われていれば仕方がありません。

また悪平等という言葉もあります。

これは先ほどのレースであれば、レースをするのに差をつけてはならないと結果同じにしてしまうことです。機会を平等にするのではなく、結果だけ平等にするのは不公平になりかえって競う必要もなくなり誰もやる気をなくしてしまいます。

みんなが同じでいいのなら、誰もが一律に金太郎飴のようになって同じ結果を与えれば済みます。しかしそれこそが不公平であり不平等であることに気づく必要がるのです。これも受け手がどのように自分自身で平等や公平を感じたかに因るからです。

例えば、身長も体重も大きくよく食べる人でよく働く人がいたとします。同時にあまり食べれなくても省エネで長く働く人がいます。その食べる量を一律にしたとして、果たしてよく食べる人はそれで平等や公平を感じるか、そして食べれない人も平等や公平を感じるかは受けて次第。食べるものにおいても好き嫌いもありますから与え手がいくら公平で平等に均一に同量分けたといっても与え手側の公平や平等は受け手の不平等不公平にもなるのです。この辺は現在の教育でも同じことが行われていることがほとんどです。

本来、平等や公平というものは全体を観てその上で何がもっとも平等で公平かはそのものの特性やそのもののその時の価値や重要さで変わってくるのです。集団の中では一人一人に合わせていく必要があります。そしてその集団の中でそれぞれの個性に合わせた配慮をし、状況に合わせて最適な判断を下していくことが限りなく公平や平等につながっていくのです。

しかしいくら平等や公平にしても、足るを知らない人はいつまでも不平等や不公平ばかりを感じて不満を持ち続けて生きていきます。本来、自分に必要なものはすべて与えられていると感じている人はどんな環境下っても自分が生まれつきどのような状態で生まれてきたとしても足るを知り自分自身の価値を伸ばして活かしていきます。そして周囲もそれを活かそうとします、ここには集団の平等や公平が生まれます。四肢が不自由であったとしても、値千金の笑顔で集団を元気づけるのもまたその人の集団での役割もあるのです。そしてそれは集団のみんながそれを自覚しているのです。

しかし個人主義が当然になるとすぐに他人と比較し、その他大勢や世間の一般的な相場などとの比較をする人は足るを知らず感謝を忘れ、不平不満や文句ばかりを並べたててしまいます。そのうち、自分にとってもっとも不平等なところに自分を運び、不公平なところで働き、さらに不平不満の悪循環に陥り孤立することもあると思うのです。なんでも自分にとって相応しいと謙虚に自分を高める人は、そのうち周囲の人たちがその才能や個性を活かすように盛り立ててくれるのです。これがみんなにとっての平等で公平であるとも言えます。

つまりどのような場所で何をするのかによっては百花繚乱の個性の人たちが大勢いますからみんなにとって何が平等で公平になるかは目的に応じて、適材適所にそのものたちの役割や善さが発揮されていく最適な環境をみんなで譲り合い助け合い、感謝し合い学び合い、許し合うことで和が発揮されていくのです。

うちのベランダの植物一つ一つでさえ、日陰が好きなものもあれば風が好きなもの、高所であるもの低所が好きであるもの。光をたくさん必要とするのもあれば、水を大量に必要とするものもあります。そのどれもが、狭いベランダを共有してみんなで暮らして居心地の善い場を創造していくのだからみんなが協力し合って生きていくのが平等と公平の要諦なのでしょう。

今の時代は一人で完結できることが多くなり、みんなで協力し合っていくことが少なくなってきました。だから自分にとっての平等や公平を主張する人が増えました。本来は、むかしは規範があり皆さんと力でと謙虚な人が結果も出ていました。個人主義の社会がこの不平等や不公平をさらに蔓延させているのでしょう。

本来の平等とは、機会の平等のことであり、公平とは、調和することなのです。

利己的になり、自己中心的な世の中で行われる現代のあらゆるところにある国の人事評価が社会を貧しくしているのかもしれません。

最後に孔子の言葉を紹介して締めくくります。

「国を保ち家を保つ者は、寡(すくな)きを患えずして均しからざるを患え、貧しきを患えずして、安からざるを患う、と。蓋(けだ)し、均しければ貧しきものなく、和すれば寡きことなく、安ければ傾くことなし」

まさに和すれば少なきはなく、安ければ傾くことはない。平等と公平の本質は、あの時代から何も変わっていません。引き続き、子どもたちの憧れる社會の実現に向けて様々な刷り込みを取り払っていきたいと思います。

原風景と風土の徳

昨日、千葉県神崎にあるむかしの田んぼで田植えをしてきました。みんなで協力し、田植えをしお昼には昨年の新米で手巻き寿司をつくりみんなで和気あいあいと語り合いました。天気もよく、食材も地元神崎の発酵したものばかりを食べ、この田んぼで作られた酒米や甘酒などを飲み心も体も仕合せな時間を過ごすことができました。

「和」とは何かということを頭で考えて勉強をする人もいますが、本来の和とは「和」という言葉が先に生まれたのではなく和があって言葉ができたのです。その和を体験するためには、むかしからの原風景の中で原体験を得るしかありません。今の人たちはすぐに頭で考えて先に答えを出して、その中で価値があるものやメリットがあるものだけを取捨選択しようとする傾向があります。

体験することの価値が失われていることが残念で、本来は体験の中でこそその意味や言葉の価値を知るのが真実です。映画館の中で外から眺める人生ではなく、中に入って一緒に味わっていく人生の価値というものは和の醍醐味の一つです。

話を戻しますが、世界人口の約半数の人たちが食べるお米は地球上ではとても重要な役割を果たしています。特にアジアは米食文化で、様々な伝統行事や神聖な祈りなどもお米を中心に行われます。元号が変わる今年は、新嘗祭といって今までの稲の種を次の代へと引き継がれる大切な行事が行われます。

それだけ私たちにとって稲作というものは、この日本の風土の原風景であり、先ほどの田植えは日本人の原体験であるのです。

この原風景とは何か、辞書には「人の心の奥にある原初(一番最初)の風景。原体験から生じるさまざまなイメージのうち、風景の形をとっているもの。今はなくなってしまった、子供の頃の記憶のような風景。様変わりした現実の風景に対して、本来そうであっただろう、懐かしさを覚える風景。」と書かれます。またほかの辞書には「原体験におけるイメージで風景のかたちをとっているもの。」と書かれます。

私にとっての原風景の定義とは、「本来の風土の景色」ということです。もともとはじまりがどうであったか、この風土にしてこの景色ありということです。それは東南アジアの風土であればこの風景、北欧のこの風土であればこの風景、アフリカの風土であればこの風景というように、その土地が自然そのままあるがままの風景になったものということです。

現在は、風土に合わない様々な異文化が価値観のコントロールによってそれぞれの場所で展開されています。すると、原風景から遠く離れた光景が現れます。例えば、アフリカの真ん中に巨大なピラミッドがあったり、北欧にバンブーハウスがあったり、日本でアフリカの服装をしていたらすぐに原風景ではないことは気づくはずです。

つまり風土の中に人間も一体になり調和するとき、私たちはそれを懐かしいと感じ、原初の魂に触れているのです。こうやって風土に学び風土となることは、私たちの人生に大きな影響を与えていきます。

それを「懐かしい」という感覚で表現しますが、これは心に原風景を持ったということです。それを別の言い方では故郷を持つとも言います。風土が故郷になり、私たちはそこから出て故郷の価値を再認識し、どのように故郷と調和を続けるかを自覚します。そうやって自分の体や心を創ってきたもの、自分というものを育てて形成したものへの感謝や尊敬が自分の自信や幸福感を満たしていくのです。

当たり前すぎて語られることも少なくなりましたが、この風土という絶対的な価値に気づいている人は少ないように思います。

子どもたちもまた風土の化身であり、風土の景色です。

その風土の恩恵や徳を譲り遺していくためにも、私は子どもたちのために人生を使っていきたいと思います。

 

 

本質を愛する人間~何のために生きるのか~

私は、こだわりが強いと色々な方に言われることがあります。この「こだわる」という語は、もともとは「ものごとがどとこおる」「つっかえる」など執着を表す言葉でした。国語辞典の大言海では、少しという意の「こ」に差し支える、支障があるという意味の「さわる(障る)」が転じた「たわる」という言葉だともいわれています。

つまり「こだわりが強い」とは、執着が強いと訳されるのです。しかし、よく料理人のこだわりや、職人のこだわりなど、妥協も一切なく本質を徹底するために削れるものはすべて削り落とすほどの熱意や情熱を傾けたものもまたこだわりが強いといわれます。

そのほかにも、オタク気質や誰にも評価されなくても自分の道を貫き通す人にもこだわりが強いといわれます。

このこだわりという言葉は、決してマイナスなイメージだけではなくプラスのイメージもまたあるのです。特に私は、本気の仕事に携わるとき本気の人と一緒に働くことに喜びと幸せを感じます。それはこだわりがある人たちだからであり、本質を愛する人たちだからです。

だからこそ私にとっての「こだわり」とは何かと定義すると、「本質かどうか」にこだわっている人ということです。つまりこだわりが強いという言葉の同定義は「本質的である」ということです。

限りなく本質に近い人、本質そのものが観えて本質のままに仕事を遂行する人はみんなこだわりが強くなっていきます。何にこだわっているのか、それは本質にこだわっているのです。

例えば、何かの物事があったときそもそもの目的から必ず考えます。その上で、何がもっとも目的に適ったものか、そしてどのようにその目的とプロセスを合致させていくかと目的から離れることはありません。

一般的には、すぐに他人の評価や、世間の物差し、業界の常識や過去の経験則、もしくは保身や楽を選ぶことから本質から離れていきこだわりも薄くなっていくものです。しかしそんなことをしていたら目的を見失い、結局は無難なものを選ぶことがもっとも最良という判断を持ってしまうものです。

それでは何のためにやるのかというこだわりを捨てなくてはなりません。私は何のためにやるのかさえ失わなければ、特にこだわっているものはありません。周りがこだわりが強いという反面、私自身はこれだけはというものや優先順位の高いものだけは決して妥協しませんが、それ以外は特にこだわっていることはほとんどありません。

こだわりが強いのは本質や目的だけで、あとはこだわりは薄いのです。

今更ながら、このブログを書きながらも私は目的にしか興味がないことに気づいていますからやっぱりこだわりが強い=本質を愛する人間なのかもしれません。

引き続き子どもたちのために、この日々のブログも精進していきたいと思います。

自然の生き方

昨日は、自然農の田んぼで田植えを行いました。もうこの田んぼでの田植えは、8年目になりますが毎年楽しく豊かな時間を過ごせています。もちろん、昨年はイノシシに収穫前に入られて未収穫という大変な目にも遭いましたが懲りずに続けて8年も経つと経験が血肉になり様々なことを自然に感じ取れるようになっています。

自然というものはとても面白く、自然に近づいていけばいくほどに自然の仕組みが感得できるようになります。いつの時機にどの場所に何があるのか、そして何が組み合わさり、どう混ざれば何が生まれるのか、またその土地や風土の循環の癖や相性、さらには全体のバランスや心の機微にいたるまですべて手に取るように感得できます。

おかしな話ですが、達人の域に入るほどです。それくらい自然と一体になると、先々のことを今見通すかのような感覚になるのです。もちろん、自然ですから思い通りにはなりませんから謙虚さを磨かれます。しかし同時に、絶対的な安心感も同時に得られます。

それは様々な命と共に共生していくなかで、互いに活かし合いつながり合い存在し合うということの安心を感じることができるからです。

草をかけた土の中には大量の菌たちやミミズらが暮らしを営み、その上には虫たちや水生生物たちが暮らします。その循環のなかで稲はすくすくと育ち、光や風を浴びて鳥の声を聴き、山の恵みをうけ、人の見守りと愛情を感じながら立派な稲穂になり実をつけていきます。

この一つの循環の中に自分がいるという安心感は何物にも代えがたいものです。それを大切な仲間や家族と一緒に育んでいくという仕合せ。

私たちがもっとも遺し譲っていきたいものは何か、それはこの自然農の稲作の中にすべて生き方として籠っているのです。自然の生き方とは、自分もそのいのちと一緒に共生し合いながら育っていく生き方です。

如何に全体の一部となって自分を活かすかは、自然が観えているかという境地の会得が必要です。そのためには何度も田に入り、自分の手と目と感覚で自然のありように近づいていくしかありません。

大事にしたい子どもたちへの生き方を示していきたいと思います。

道徳元年

私たちの会社では、7年くらい前から「讃給」という取り組みをしています。これは給与明細とは別に、そのひと月でみんなで一緒に働く中で感謝を言葉にしてみんなで交換するという取り組みです。

なぜこれを始めたのかと思い返せば、単に給与は仕事との対価としてではなく天から頂いたものであるという認識。そしてそれは多くの方々の感謝の循環によって、自分もその一部の恩恵を受けることができているという事実、単にお金の価値では測れないものをもっと理解していこうとするために取り組んだように思います。

もう何年もやっていると、感謝の声をいただくことで自分が何で役にたっているのかがわかったり、みんながどのようなことを喜んでくれたか、そして自分もみんなにどのような感謝を感じているかが確認できます。

感謝が積みあがっていく安心感というものは、大きなもので人はどのようなつながり方をするのかでそのコミュニティの質も変化するように思います。

例えば、同志というコミュニティであったり、家族というコミュニティ、そして同じ趣味というコミュニティ、理念を共有するコミュニティ、その「つなぎ方」は様々にあります。単にお金を中心にしたつながりだけでは、お金の持っている価値のみのつながりになります。それを感謝というコミュニティを形成することで、新たな絆が生まれていくのです。

人は、それぞれに「何でつながるか」というものを持っています。私もスタートアップの時は、友人と起業したこともあり、お金を中心に給与が発生していくことで本来のつながり方とは別のつながり方で感謝がわからなくなって苦しんだことがあります。

損得や費用対効果などの等価交換の価値基準を持つお金が、どうしても全体の価値観に影響を与えてしまいます。私の場合は、理念や初心を決め目的を定めたことでお金は自分たちを助けてくれる一つの道具になりましたがそれが明確でなかった頃は何度もお金に左右されてしまいました。

お互いに喜び会うことや、お互いに幸せになることなど、人は一緒に暮らしていく中で感謝が中心になればなるほどに利他的な自己と出会います。人間の低次欲求で有名なマズローも自己超越欲求というものがあると言及しています。これは自己実現の過程で感じる「至高体験」という自我超越、自己忘却、無我、利害や二分法では測ることができない「利他」(自他一体の歓び」のようなものを感じることができるというのです。これを私は徳を積むという言い方をします。

理念や初心が確かに自分のものになればなるほどに、生き方だけなく働き方も大きく変化していきます。そして生き方が変わり働き方が変わった人は、徳を積むための仕事に取り組み始めます。

それは費用対効果とかでもなく、損得利害などでもなく、子どもたちのために徳を積もうとするのです。自分がそうされてきて今があるように、自分も子どもたちに同じようにつないでいこうとする真心。

まさに、自分を活かしてくださっているものへの感謝への恩返しをはじめるのです。それは単にお金では片づけることはできず、文化伝承や奉仕、恩の循環を通して行われるのです。

私が3年前から開催した恩袋会というものも、溜まった恩の袋から徳をひろげようとする取り組みの一つです。

時代の変わり目に、新しい経済がはじまります。その新しい経済はいいかえれば、新しい道徳のはじまりです。そういう意味で、令和元年は道徳元年でもあります。引き続き、自分の使命を全うしていきたいと思います。

自立の原点

人間には、体と心があります。最近は脳科学が進んだことで、この体と心のつながっている場所のことを脳の変化を見て様々な角度から分析することができるようになりました。例えば、脳内物質の何かが出ているとき、心身にどのような影響があるかということを計測することができるような感じです。

実際には、根拠がないといわれても心と体が休まるとき、居心地がよいとき、私たちは穏やかでしあわせな感覚を得ることができます。それは例えば、美しい自然に触れた時や仲のよい人たちと結ばれている時、楽しい食事や安らかな眠りの時なども私たちはその穏やかでしあわせな感覚を得るのです。

私たちの思う「時」というものの中には、様々な記憶や感覚が同居しています。いい時も悪い時も、大変な時も穏やかな時も、この時の中に混然一体として心も体も深くかかわっています。

どのような時を過ごすのか、そしてその時にどのような意味をつけていくのか。

一度しかない人生の時の中で、居心地がよい人生を歩むためには自分を知る必要があります。どんな時がしあわせなのか、どんな時が楽しいのか、もっと自分に正直に自分を喜ばせることで自分のことをより深く実感できるようになります。

周囲をみては自分を我慢したり、周りの常識に振り回されて自分を歪ませてしまうと、しあわせや楽しいことまでわからなくなっていきます。一度しかない人生の中で、自分を中心に据えて生きていくことが自立の原点のように思います。

しあわせや楽しいを感じられる環境、心も安らぎ、体も寛ぐ、脳も活性化する、このような安心安全な暮らしを体験していくことで自立はさらに豊かに充実していきます。

引き続き、豊かな暮らしを自立の原点として子どもたちに譲っていきたいと思います。

岐路

国連から提案された「SDGs」というものがあります。
このSDGs「SustainableDevelopment Goals(持続可能な開発目標)」の頭文字を取った言葉で、2015年9月の国連総会(連加盟国193国)で採択された具体的行動指針のことです。すでに2001年に策定されたミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)の後継として国連で定められ2016年から2030年までの国際目標として認知されています。具体的な行動指針は、17のグローバル目標と169のターゲットからなり、飢餓、貧困、気候変動の進行、生物多様性の劣化などすぐにでも解決したいと思われる項目が入っています。
日本政府も「SDGs NOW! 17 Goals to Transform Our World」の動画で告知を展開しています。17の項目と169のターゲットは、総務省のサイトからPDFをダウンロードできます。この共通のキーワードの「持続可能」というものが何度も提言されるのは、言い換えれば近い未来に持続不可能な社会が訪れようとしているということです。
持続不可能な社会とは、では何かということです。それは人間がこの地球上で生活することができなくなるということでしょう。その理由は様々にありますがもっとも大きな原因は、自然と人間が乖離している世の中にしているからだと私は思います。
そもそも人間も自然の一部であり、自然物です。その自然物であったはずの人間が、人工物を創り上げ自然から乖離した都市というものを形成しました。そしてその都市というものを、自分たちの中で快適な仮想空間にしそこに消費を通して資金が流通するような仕組みを構築しました。都市の中で行われていることが自然とは別物ですから、その都市に運び込まれる様々なものは自然を搾取したものになります。
大量に生産し、大量に消費する、そこで都市を機能させますから消費されて捨てられていく自然の破壊の量が明らかに自然が創造するスピードを超えたとき持続は不可能になります。
自然の利子で暮らしていた時代から、自然へ借金して暮らす時代へと移ったことが今の持続不可能な社会を実現させてしまいました。しかし人間の欲望は果てしなく、自転車操業のように走り出したら止まれない今の世の中で如何に方向を転換しようかとそれぞれの人たちがそれぞれの場所で向き合っています。
自然と共生していた時代の懐かしさは、今のグローバリゼーションの波の中で消えかけているように感じます。もはや、このまま人類は滅亡に向かっていくのか、それともここで自然に帰るのか。もしくは第3の自然と共生する世の中にするのか。それは現代の世代の一つの大きな使命であることは間違いありません。

だからこそ、私たちは何をもって自然と共生するというのか。そしてどのような暮らしが自然を尊重して自らを立てることになるのか。
人類の自立に向けて、みんなで協力し合ってその答えを生きていくために挑戦を続ける必要があるのです。

子どもたちが100年後も1000年後も安心して、楽しく豊かに生きていくことができる社會を遺してあげたいとみんなそう思うはずです。
手と手を取り合い、子どもたちのために協力していきたいと思います。

花の生き方

花を見て美しいと思う心が人間にはあります。なぜ美しいと感じるのか、そしてなぜ大自然を観て人は心を揺さぶられ感動するのか。心がそう思うのは、そこに確かな宇宙の法則のようなものがあることに気づきます。

この世に生まれてきて、私たちはいのちの価値を知ります。そのいのちの価値は、今を精いっぱいに生きているものによって気づかされます。私が花を見て美しいと感じるのは、今を精いっぱいに生きているからです。

そして百花繚乱の美しさを放つものを観て感動するのが、それがみんなが活き活きと豊かに仕合せに生きている姿を体現しているからです。花が美しいのは、その精いっぱいな姿。

よく私は道端のたんぽぽを観ては足を止めるのですが、それはたんぽぽが太陽に向かって一生懸命その精いっぱいに生きている姿に心を打たれるからです。そしてその精いっぱいな姿はいのちの美しさをそのままに表現しています。

人生は一度きりと知ってはいても、人はあれこれと雑念を持ち、今を生ききることをやめてしまいます。そうやって今を精いっぱい生きていないものは、美しさが翳ってくるものです。どんな境遇にあってもどんな環境であっても、あのたんぽぽのように生きていくことは美しく、私の理想の存在です。

最後に松下幸之助さんはこんな言葉を遺しています。

『今というときは、この瞬間しかない。この一瞬一瞬を精一杯生き切る、その積み重ねが充実した人生をつくり、躍動を生み出すのである』

充実した人生と躍動感、まさに花の生き方です。

花に学び、いのちの花を精いっぱい咲かせていこうと思います。