バランス

あっちに行けば、こっちが上がる。
こっちへ行けば、あっちが上がる。

今日公園で幼い頃よくやったあの光景を思い出した。
シーソー遊びだ。

常に長さと重さとリズムが求められた。
上がったり下がったり、相手の顔を見ながら飽きるまでずっと続けた。
笑ったり微笑んだりしながら、自分が下がらないと相手が上がらないのを見て、やって、そして楽しんだ。とにかく何度もうまくバランスを取ろうとあっちにいったりこっちにいったり友達とよくやったのを覚えている。

今思うとあの「シーソー遊び」は経済・経営などでの知恵を深く洞察している。
ひょっとするとシーソー遊びから、経済は学べるのではないだろうかとも思う。

とかく子どもの時の遊びは何でもそうだ。
大人になってみると常に実社会で応用でつかえるものばかりだということが分かる。
だから子どものときに遊びを通して発達の基礎を持つことが大事なんだろう。

私は子どもの頃「シーソー遊び」は、結構得意だったが今はどうだろうか?応用で活かせているかどうか?今でもあの頃のようにできるだろうか?何だか大人になってもあたまでっかちにばっかりになってもいけないような気がする。なぜなら、知識が煩雑になり大事なことがよく分からなくなってくるからだ。

大人になると何て当たり前のことを深く悩むのだろう。
でも当たり前にするにはどうも今は理屈や刷り込みが着き過ぎたようだ。

しかし疑似体験として仕事に置き換え身の回りを見渡せばうまく出来すぎてて子どもの頃のシーソー遊びのときのように笑ってしまう。

また行ったり来たり、上がったり下がったりを子どものように自然に楽しめるようになりたいものだ。

開発する悦び

人は誰しも何かの問題が起こったとき、どうすればいいかを考える。
しかし単に「考えること」と「考え抜く」こととはまったく異なるものだ。

自分は何かを創り上げることによく夢中になる。
ひょっとすると経営者よりも開発者かもしれない。
でもそれは人がいるから創りたいわけで、自分だけが満足するからやるわけではない。
自分が大好きな人のために、自分以上に創りたくなるのだ。
やってあげたくなるというか、形にしたいというか、とても不思議な感覚がある。

モノを生み出すという行為は何か自分のやりたいことが趣味を完全に超えていったとき使命になる。お客様や現場の声だけではなく、何かどうしてもやむにやまれぬ問題を自分がどうしても発見してしまうのだ。そして、それを解決することが大好きな人たちに喜んでもらえると思うともう心は止まらない。

そうすると、ずっといつまでも思考は途切れずに考えはじめるようになる。
そうなってしまったら何があろうが長く休みをとろうがそのこと忘れようとしても忘れられないし、もし忘れてもすぐに記憶に呼び戻ってくる。それが「考え抜く」という境地に入っていることが最近分かった。

「考えること」は、通常でいうところの日常的な世間でいう所の単に考えているという状態。 「考え抜く」とは、集中して集中から逃げずに脳が疲れ果てて、もうこれ以上駄目だと考え続ている状態だったり、辛く苦しくこれ以上はどうしようもない気持ちになっているのだけれどそれでも最後の力を振り絞って常に考えるほどになった状態。本当の楽しさとは苦しさの中か後にしかやってこないこともこの開発という行為で学んだ気がする。

あの徹底的に考え抜いた後にやってくる時に訪れる静かな直感と湧き上がる情熱。これ以上無理だと寝ても覚めても考え抜いたときに稲妻のようにやってくる突然の答え・・・開発することは人生最高の悦びだ。

そしてそこまで考え抜いたら後はたった一つの決意に繋げていくだけだ。
「誰が何と言おうと・・」という気持ちだ。
迷いもなく悩みもなく、全身の要らない力が抜けて自然体になる。

子どものときの飽くなき好奇心と諦めない我武者羅な夢と童のような透徹した純粋な心。それが今の私を支えている。

もっと、子どもたちには心から夢中になれるものをもっと見つけて欲しいと願う。

大事なこと

商売をしながら道を目指しているといつもどこかで松下幸之助氏の遺訓に出会う。

私も、松下幸之助氏に関する著書は今までたくさん読ませていただいた。
ビデオや関係者の講演を拝聴したことも数えると結構なご縁だ。
生きている時にご本人にはお会いする機会はとうとう得れなかったが、商売を通しての学びの中で日々邂逅をいただいているのかもしれない。
そう思うと生きている方からよりも、亡くなった方と同じ道を歩む中でその方の軌跡や心の共感に出会うことがあるから本当に面白い。

一般的に人は仕事をジャンルわけしている。

とりわけ自分が分けているのだろうが福祉の仕事とか、商売とか教育とか宗教とか、自分の所属するジャンルで自己を位置づけ自己形成をしている。ふつう、人は、よほどのことがない限り何もない素のままという存在を認めることができず宙に浮いてる自分のありのままを認めることがとにかく嫌なのだろう。確かに自分はどんな人かと説明を求められれば、身の回りの職業と肩書き、家族構成、出身地などが一番説明するのに手っ取り早いしそれが自分だと言い切ったほうが尊敬される。大衆も身の回りの人もそういう基準でニンゲンを見ているから無意識にそれが刷り込まれているのだろう。

だからその職業や肩書きを持ったらデタラメなことは絶対にやらない。
それに、その職業が持つ特性から尊敬したり軽蔑したりする基準があるため分けざるをえなかったのだろう。もしその人が矛盾する行動をとったならば、世間からよほど認められた肩書きがない限り自分勝手でただの自己中心的な人だと大衆からいわれるのだろう。しかし、よく本質を観ている人はそんな肩書きは特に気にしていなかったりするものだ。

では、過去の偉人といわれる人たちの実際はどうだっだろうか?

私が読んだ信念のを持った故人の伝記での実際の行動や考え方はまったく違うことに気付く。それにそれは偉人だけに止まらず今残っている文化や歴史の中でもそれは必ず行われてきた。

先人の人たちは、世の中のために商売だからと福祉を貫いていた。
先人の人たちは、世の中のために福祉だからと宗教を貫いていた。
先人の人たちは、世の中のために教育だからと商売を貫いていた。

そしてあの松下幸之助氏も、商売を通して物心の両面の救済をすると示した。
これは商売を通して宗教を行ったのではないか?

私は、別に商売とか宗教とか教育とか福祉とかそのような基準はどうでも良いと思う。

大事なことは、その人の信念で基準を決めそれを実践実行したかどうかだと思う。

世間一般の刷り込みと価値観で大事なことをやろうとすることを留めては絶対にいけない。世間の人は色々なことを言うかもしれない。でもそれは自分を形成するために境界を踏み外れる人を毛嫌いしているだけだからだと私は思う。

誰が何といおうと、商売も宗教も教育も福祉も関係なくニンゲンとしての本質をどんな時も大切にしていきたい。

ルール

色々な人たちの間で生きているのが我々ニンゲンの生きる社会だ。

ある人が自分勝手に自由を主張すると、誰かが必ず不自由な思いをする。
だからそうならないように「ルール」というものを創った。
全ての対人関係にはこのルールというものがついている。
もし無人島で1人で生活しているのならばこれは必要ないのは分かる。

たとえばそれに触れる機会は、小さい頃からそれは身近にたくさんあった。

おやつなどの例で考えてみる。

物事がある程度分かる子どもが3人いる。
いつものように楽しい平和な午後を過ごし、おやつの時間になった。
いつものおやつの時間に今日は美味しそうな饅頭を誰かが買ってきてくれていた。
いつもなら別に問題はなかったが今回は問題だった。
なぜなら、子どもは3人居るのに饅頭が2つしかなかったのだ。
なぜ3つ買わなかったのかはここでは触れないが、2つしかなかったのだ。
さて、どうするか?
美味しそうな饅頭を食べようとして2つしかないものを3人で考えた。
3人で取り合えばどうなるだろう?
2人が満足したいと思い我先にと食べてしまえば、残った1人は食べれなくなる。そして、その1人は前回悔しい思いをしたので必ず次こそは絶対に早く食べようと仕返しに2つ食べたりすることになる。もしくは、1人を仲間はずれにして別の1人を仲間にして2つを1つずつ食べたりすることもあるだろう。するとまた1人は食べれなくなる・・・
その後どうなったかは自分だったらで考えてみるといい。相手のことが好き嫌い、過去の貸しもあるだろう、、、その2つの饅頭をどうするかの理由なんてキリがないほどある。

そしてどのような答えがあればそれがちゃんとみんなで満足することになるのか。

身体の大きさで分けたのかもしれない。
好き嫌いで分けたのかもしれない。
じゃんけんだったかもしれない。
日ごろの役割分担で決めたのかもしれない。

それがそれぞれの間で話し合って初めて決めた、「ルール」だったのだろう。
こうやって子どもの頃からみんなで話し合って、分かち合うこと、分け合うことを学んだ。

そして、みんなが満足してお互いと生きることを選んだ。
これがニンゲンの生きていく方法なのだ。

友達だって、恋人だって、夫婦だって、親子だってルールは必ずある。

ルールは、決して自分を無理に我慢して押さえ込むためにあるのではない。
人は1人で生きているわけではないから、自分を満たすために、自分を自由にするために「ルール」というものを作ったというのは饅頭で分かったと思う。

この饅頭を通して世界を観てみる。

「俺は前回2つ食べたけど俺が偉いから今回も2つだ。」とか、「誰もみていなければ2つ先にこっそり食べてしまえ、そして隠しとこう」とか、「2人で一緒に1人を追い込めば、2人で分けられるからそうしよう」とか、「1人要らないんじゃないか、では追い出してしまえ」、、何だかとても悲しくなる。

こうやって世界は悲しい戦争や争いが絶えなくなっていく。

饅頭をどうしたら3人みんなが満足するか、それぞれで話し合って分かち合うことを学べばいいだけなのに・・・

今の世の中は、とにかくそれが足りない気がする。

権力で分けることに一体なんの意味があるのか?
一度しかないこの生で自分だけ自分のみ幸せであればそれでいいのか?

もっと、我々大人はその大事なことを子どもたちに伝えていかなければいけないと私は思う。

『本当は、「ルール」は分かち合うためのものなんだよ。』と実践していかないといけないと私は思う。

私たち会社は、お金を軸に動いている。
そして仕事というものを通して人と人の間を生き、そこで利益というお客様からの対価である信頼と信用をいただき感謝で分かち合っているところだ。
だから会社で働くというのはその場で働いているというルールがちゃんとあるのだ。
自分勝手にすれば、お客様に対する自由がなくなってしまう。
だから社会人は、最低でもちゃんと当たり前のルールは守らないといけない。
当たり前のルールが分からなければ本屋に行けば参考書はたくさんある、それに身の回りの優秀なビジネスマン(できる人)を見ても分かるはずだ。挨拶や報告連絡相談、気遣い、気配り、掃除、約束を守る、紙にする、、、「ルール」が誰と分かち合うことなのかを考えもう一度よく見直すことだ。

それが、大切な自分を自由にすることにもなり、大切な相手を自由にすることもになるのだから。社会人になったら、子どもたちに見せれる大人としてしっかりと相手と分かち合うことを示していくことだからだと思う。

これから何年かけても何十年かけてもカグヤはそれを徹底していきたい。

情報リテラシー教育2

我々はWEBという媒体を通して、クライアントへホームページの制作をするという情報付加価値を集約し受発信するという仕事を取り扱っている。

もちろんビジネスでいえば、差別化でもあり、その園の個性や考え方といういわゆる創立者や集団の理念を具現化するものに使っている。創造的に、その園の持つ魅力を引き出しまた今後の進む方針や方向も示唆するようにそっと潜ませるのも技のひとつだ。また情報の持つ個人の価値観の深さだけでは一般の方々へは伝えるのが難しく、それが通常は見えないのでデザインという手法を使ってビジュアル的に表現し価値を浸透するイメージを伝達していくようにする。

通常のインターネットはワールドワイドなのだが、保育園幼稚園は地域限定が多いので主にはローカルワイドになる。このように広さ狭さだけでは先般ブログでお伝えしたデジタル表現だけになるので、そこに深さや浅さを表現するためにアナログ表現でいう経過や時の流れを上手に顕在化させる。

ここで私たちカグヤがプロフェッショナルとして重要にしているキーワードがやはり「情報リテラシー」だ。ブランド構築などは、格好良く聞こえるが自分だけのエゴを満たす場合が得てして多い。本当はもっと広く物事を捉え、そこから表現することが大事なことだと思う。

今、世の中において何かの基準で必要か不必要かを判断することは非常に難しい。

人は得てして共感するところだけしか脳にインプットしないわけだからまったく関心がなければどんな情報も素通りしてしまうからだ。「これは必要だ」とこちらが思っても受け手が「これは不必要だ」と思うと、クライアントの目的を果たせない場合がある。気付きがあればいいのだがそれは個人業なので神業に近い。だから基本に「誰に何を伝えたいのか?そしてそれはなぜなのか?」という深い考察が我々取材をするスタッフには常に求められている。

よく「制作するならどこの業者でも良い、安くて早ければそれ良い。」と仰るクライアントもいらっしゃるが、誠に残念なことに実はこれは本当は大変なことなのだ。そこで生まれる「情報の発信」という情報リテラシーのスタートが定められればゴールはよほどのことがない限りそのまま無計画に立てられたゴールまでいってしまうだろう。

なぜなら情報には連続性があり途切れないわけだから、リセットはきかないからだ。
だからこそホームページは情報を扱う特殊な専門性が求められるということなのだ。

ここでもやはり「情報リテラシー教育」は欠かせないのだ。

ちょっと詳しく弊社スタッフの行っている業務を事例として分解してみる。

ホームページ制作では、デザイン、情報、キャッチ、設計、集約、企画、集約という作業が行われる。これは弊社のコンサルタントスタッフが行うことだ。一見、ただ制作をしているようにみえるが同業他社とは取材をする個人の実績と経験がまったく違う。先日、うちの取材コンサルタントと話しをしていたら「誰に何をどのように伝え、それをどのように表現すればWIN=WINになるのか?」を企画段階で徹底して話し合っていた。何だか自社のことで手前味噌だが、本当に凄いスタッフが多い会社だと思う。もちろん1,2件の制作でこれをやっていれば当たり前だが4年で600クライアント以上そのまま基本に忠実に丁寧に手がけていえるのだからやはり凄いのだと思う。

実はこのような話しが制作の根幹部分で徹底して行われているだけで、情報リテラシーの専門性が出ているのだ。何か特殊なことをやっているのがプロに見えるが基本の徹底こそがプロたる所以なのだと私は思う。このように企業はお客様のために見えない部分に対しても省かず実直に徹底して取り組むという中に本質なる力を身に付けてクライアントに貢献していくことができるのだろう。そうすることで生まれる軸がクライアントのニーズにあわせた今後の判断基準の基になっていき良い仕事にしていけるのだろう。

長くなったが「情報リテラシー」とは、情報を扱う専門性で情報を取捨選択する力のこと。これからは、未来の為にもこのような専門的に情報リテラシーを扱う職業が増え、教育界にも子どものためにもプラスになるような人がどんどんでてくれればと心から願う。

情報リテラシー教育1

昨今、IT化されてきた世の中昔よりもたくさんの情報が行き来している。
「急速な情報化社会」とはよくいったものだ。

目の前には、見聞きする必要のないような不必要な情報もあればこれは聞き落とすとやばかったと思うようなものもたくさんある。
その判断はいったい誰が行うのか?
それはやはり自分自身なんだと思う。
余計な情報を日々取り入れると無意識だが脳が反応して、そっちに囚われていくのだろう。
だからこそ、情報リテラシー教育はこれからは決して避けられない課題だと思う。

昔は、子どもは夜8時には就寝していた。
なぜなら、それからの時間で大人だけでの身近な出来事や社会での話し、またTV番組の都合などもったからだ。私は夜更かしが好きだったので、起きていると「子どもは寝る時間です」とか「あっちにいっていないさい」とか、もしくはTVをこっそり見ていると急にチャンネルを親に変えられたりした。

これは、子どもにとってその情報が果たして必要か不必要かの選択理由が何かしらあってそれを大人が判断してくれていたのだろうと思う。

今はどうだろうか?

インターネットは、誰にも止めることはできない。
人が知りたいという欲求を抑えるのは大変なことだ。

だからこそ情報リテラシー教育は、地域に根ざす幼児教育の中心である園にも間違いなく求められていくようになるのだろう・・・

長くなるので明日に繋ごう。
仕事のカテゴリーなので、仕事でその辺を少し細かく書いてみることにする。

無邪気

ここ数日とても暑い日が続いている。
こんなに蒸し暑いと外に出るのも億劫になってしまう今日この頃だ。

いつも凄いなと思うことがある。
それは保育園幼稚園で遊んでいる子どもたちだ。
こんなに暑いのに園庭を所狭しと走り回る姿には呆気にとられてしまう。
なんて子どもは、暑さなんて気にならないほどの無邪気な好奇心に満ち溢れているのだろう。

以前その子に「暑くないの?」って聞いたら、「暑いよ」と言われたことがある。
見れば分かるのに今思うとまったくの愚問だった。
その子には暑くったって関係ないほどのよほどやりたいことがあったのだろう。

我々は一体いつ頃からだろうか?
そのような無邪気な好奇心も抑え冷めたように動かなくなったのは。
変な縛りを作って、それを守るために無理をする。
他人からは「大人になったからだよ」と言われたが果たして本当にそうだろうか?
我慢することが間違って認識されているのではないか?
本当は、我慢はやりたいことをやるためにあるのだというのに。

何かやりたいことがあれば、思う存分やれるだけそれをさせてあげることだと。

大人になるとそれは決してできないことなのだろうか?
大人になるとそれはやってはいけないことなのだろうか?
そしてそれは果たして一部の人たちの特権なんだろろうか?

決してそうではないはずだ。
自然にやりたいことへ向かい、そして命ある限り好奇心でそれに取り組む。

そんな無邪気な大人になっていくことがきっと、環境に左右されない自分を大事にするという生き方なのだろうと思った。

成功の定義

以前読んだことのある外国の本に「なるほどこれは、自己実現としてのひとつの成功の定義になるな」とパソコンのメモに記録しておいたものがある。

その内容はこのようなものだ。

・・・

「成功した人は、健康に暮らし、よく笑い、よく愛する。真の女性から信頼され、教養のある男性から尊敬され、子どもたちから慕われる。得意な分野で仕事を成し遂げ、当人が生まれたときよりも住みやすい世界をつくりあげてからこの世を去る。地球の美しさを賞賛し、それを表現することを忘れることがなく、常に相手から最高の部分を引き出し、自分の最高のものを与える。その人生は創造的刺激に満ち、その思い出は祝福である。」

・・・

これは身近で成功している人を客観的に描写したものだが心に迫るものがある。

人が起こす文章というのは実によく出来ていると思う。
書き手はどのような本質を伝えたかったかを表現するが、読み手は自分の共感したところにしか記憶にも記録にも残らない。

これが分かった理由に以前、ある本を友人と数人で読んで共感するところに線を引いたことがある。そしてそれを貸し合ったので気付いたのだがそのとき、まったくそれぞれが違った箇所に線を引いていたのだ。
同じ課題で同じタイミングで同じように学ぼうとしていても共感はまったく違うものだった。

つまり人は、どのような人に出会っても、どのような本に巡り会えても、共感している部分はそれぞれでまったく違うということなのだ。
だから、常に人の出会いは「一期一会」なのだというのだろう。

私の尊敬する教育者の中の一人に、森信三さんがいる。

「人は会いたい人には必ず会える、それも一瞬早すぎず一瞬遅すぎずに。」

これはその方の遺したひとつの言葉だ。
とても深い意味と、人生の不可思議が潜んでいるメッセージがある。
これもそういうことを言っているのだろうと思う。

さて話しを戻すと、成功の定義はそれぞれの価値観であるから定義は難しい。
しかし、一般的に言うところの成功者というのはきっとありのままに生き、あるがままに生き、自然体でありながら全てを受け容れ、すべてを手放し、そして誰よりも何よりも満足できる自身の思い出を持って穏やかに死んでいける人のことなのだろうと思う。

ゆっくりとやや急ぎながら、その時々の思い出を大切にし悠久の時間をただ素に往きたいと願い、その成功の定義を立ててみるとする。

環境と夢

東京の高層ビル群の中にいると色々なメリットもある。
やはり人は無意識でも環境に価値観を左右されているのだろう。

同じフロアーにも深夜まで残業しているビジネスマンがたくさんいる。
業種はまったく違うが、20代から30代の方々は本当によく働いているようだ。

日中エレベーターの中などで同世代の方と一緒になることがある。
やはり、「やる人・できる人」というのは独特な緊張感やピリピリ感がある。
一般の同じ世代のサラリーマンとは全く一線を画している。
私もその空気が気に入っていて、話しはしないが深い共感を覚えてしまう。

いったい何がここまで人の意識や差になるのか?

それは、目指すべき目標や夢をその人が持っているかどうかだと思う。
夢があり、着実にその夢を追っている人は徳や風格が備わってくる。
人生を謳歌するために、未来へ向けて進むことしかないのだろう。

だからこそ、今こそ全身全霊で働く機会だと自分自身で気付いて挑戦をしているのだろうと思う。

環境が人と人を変えていく。
そして夢が人と人を育てていく。

そのような人たちがいるビルやフロアーという環境で縁がある人たちとの幸運をみんな感じることはできているのだろうか?

そして、自分たちも同じようにその人たちに影響を与えているのだろうか?

距離はまったく関係しない。

夢を追う、そして夢に向かって常に前進する。
その気持ちを育て、それぞれで夢を叶えていきたい。

園内研修

今日は、群馬で園内研修を行った。
昔からの馴染みの上得意先で、私の成長もずっと見守ってくれている園だ。
こんな形で恩返しができると思うと、嬉しくてしかたなかった。
少しでも何かお土産をおいていこうと、祈りと真心で今日はやれたと思う。
後は、アンケートをいただくのがとても楽しみだ。

現場の先生方との対話は本当に楽しいし、気持ちが通じあうことで深い学びがある。
何とか子どもの為にと一生懸命に頑張る魅力的な先生方には頭が下がる。
今ではそんな先生方のためにできることを精一杯やりたいと思う私の一生懸命な気持ちが互いにシンクロしてどの園でもそれぞれで良い研修にしていくことができている気がする。
方法や理論はたくさんあるけれど、人と人との深い共感からくるコミュニケーションには互いの信条のような真理が常に見え隠れするものだ。
そういった意味では、このような園内研修はとても貴重な機会だ。
常に初心を忘れずに一件一件ずっと初めての気持ちでこれからもやっていきたい。

今日は、保護者対応や子どもたちの発達理解等について話をした。
だいぶ端折ったがそれでもかなりの量を話してしまった。
保育者の誰もが持つ真剣な眼差しに心をまた打たれて感動してしまった。
どうも、私は熱い気持ちに敏感なようだ。

園内研修では師匠からの教えの他に、私が読んだ本から色々な知恵を話すことがある。よく事例で話すアインシュタインもボーアも、亀井勝一郎も吉田松陰もみんな語っている真理は時代が過ぎても何ひとつ変わらないということが改めて話してみると分かるようだ。目前の環境とシチュエーション、人の価値観や立場が少しだけ変わっただけなのだ。
だから、何も新しいことなどはない。
大事なことはやはりその人の心の持ち方唯一つなのだろうと思う。

今日はずっと朝から子どもたちの未来へ向けた話し合いの一日だった。
このブログを書いている今もとても充実しているし、最高の一日だったと思う。

いつか、世界のグローバルスタンダードになりたいと弊社若手のホープ真田海さんと帰りの車中でずっと盛り上がった。
本当に人生は何があるか分からないから面白くてしかたがない。

でも思いだけではなくそこへ近づくためには必ずやることがある。
それは自らによる継続したまことの日々脚下の実践なのだと思う。

だからこそ、これからもどんどん現場の力になれるように努力していきたい。
それは、その先にいる子どもたちのことを心底思うが故だ。

どんな制度問題が起きようとも、どんな障害が発生しようとも、変わらない真理はきっと「子ども主体」でいくことだ。

だからこそ、それを真っ直ぐに考えていけるような子どもたちの立場で、物事を語り抜けるようなグローバルな立派な企業人を目指したいと誓う。