両義性

今日、滋賀県から園長先生が弊社を尋ねていらっしゃった。
セミナーやホームページなど色々とお取引をいただいている大切な上得意先お客様の御一人です。

前職の経験を通して学んだITの知識やノウハウにとても精通していて、また現在は保育園の経営者としても素晴らしい知性と感性をお持ちの方です。
本日も色々と勉強をさせていただきました。

お話しの中では相対評価や絶対評価などのことを熱っぽく語り合いました。

第三者評価がこれからどのようになっていくのか?
認定こども園は果たして、何を意味しているのか?
バウチャー制度は導入されるのかどうか?
家庭の育児支援にはどのような形で進められるのか?

全体から観た業界やその布置はどこを意図していくのか・・・

等々、語り合いは4時間近くも続いた。

その中でも印象に残ったのは「両義性」の話しだ。

何かの出来事や物事は、片方からだけではなく両方から観て行くという事。
そして両面から見た物事の矛盾をどう捉えて答えを持っていけばいいか・・・

一方から観た出来事と、違う多方面の側面から観得る出来事の大いなる矛盾。

たとえばで言えば、答えがない答えがあることだってそうだろう。
その答えがない答えを求めていけば宗教になるのか哲学になるのか・・・

ただ、両義性の中の矛盾をどう包括していけばいいのか・・・

私なりには大いなる自己矛盾を包括してこうイメージした。

本質はその都度形を変えるということを当たり前に認識できるだろうか・・・
真実は、虚像の中に見出していくものだと理解していけるだろうか・・・
自己矛盾をあわせ持つことが、受容や寛容といった人間的自立を育む事など・・・

どんなことも白だ黒だということはないのだと思う。
高い低いもなく、重い軽いもない。
その両方なのだという絶対矛盾の中に真実を観ようとする力があるかどうか。

その「間」があることを認めることができないのは、ニンゲンには観得ない部分が必ずあるという厳かで深遠な思想を謙虚に受け入れていないからだと私は思う。

事物の連続性や継続性、それに伝統や文化、、、「生命」というもの。

物事を浅い知識から分かったふりをすることは誠に損なことばかり。
分からないからこそ深い思索の中にある有形無形の真理を呼び込むのだと。
やはり実体験の中で気付くことが近道なのだろう・・・

子ども達には、実体験からの学びや遊びを通して気づきある人生を選択して欲しいと願う。

本日のこの出会いと園長先生と一緒に過ごせた有難い時間に非常に感謝の気持ちで今は満たされている。崇高な理念やその志が同じ方向であったり、目指す価値観に深い共感ができる方との邂逅や出会いは人生においては至福の瞬間だと改めて思った。

本当にありがとうございました。
また次回、色々とお話ができるのを心から楽しみにしています。