職業観

青森県の八戸で東北ブロック保育研究セミナーがあった。
勇気を持ってまず大人が子どもたちのための「モデル」を見せる。
主体的で自発的な活動を促す本当に素晴らしい取り組みだと改めて思った。

それぞれの園で創意工夫した保育実践をお互いにストレートに公開しあって学びあう。
今の時代、先に自分から情報をオープンにした方が得るものがとても多いような気がする。
きっと今はそんな時代なのだろう。

初日は保育実践園の見学とその内容についての発表とQ&A。
そして二日目は、東北地区の実践園の発表と藤森平司先生の講演を行った。

今回もたくさんの保育士が参加し、それぞれの問題を語り合っていた。
その中で職業観のことについて少し考えることがあった。

一般的に保育士、幼稚園教諭になりたいという人は子どもが好きな人が多い。
よく観察して話しを聞いて見ると、「この人は子どもが好きなのかその仕事が好きなのかが分からないな?」と思うことがよくある。
話しをした後にふと不思議に思うのだが単に子どもが好きなだけだったら、別にボランティアなどで子どもたちと関わる方がよほど楽しいのではと思ってしまう。
そっちの方が責任もないし、純粋に好きであり続けることができるからだ。
よくそれだけ好きだと言っていた先生がたった勤めて2〜3年で「疲れた」と言って退職するのには本当にびっくりしてしまう。

先日、ある園の主任先生からこんな相談を受けたことがある。

そこでは、園全体で子どもの連続する発達を見ていこうと園長が方針を決めた。
しかしそこで働くある保育士が何度言ってもそれを理解しようともしないし、やろうともしないのだ。しかも、主任先生の親切丁寧な説明に対して「子どもが好きでやってて何が悪いんですか?」と感情的になって涙をポロポロと流していたそうだ。

まあフツウに考えると子どもが好きなことはよく理解できるし、それだけの思いがあるのはよく分かる。しかし保育士というプロの仕事をしているのに、発達を見ていこうという当たり前のことよりも自分だけの感情を優先するのなら早く他の仕事についた方が絶対に良いのにと思ってしまう。でないと、その仕事をそのまま続けていることはその人にとっても本当に不幸だなと思えるからだ。

合わない仕事を続けることの方がよほどその人にとって可哀想だと思うからだ。

以前、外国の小学校では低学年から留年の制度がある話を聞いたことがある。
日本では、まだ幼いのに留年させるのが可哀想だと言われる。
しかし、外国では学力が着いていけないのにそのまま学ばせる方が可哀想だという考え方だ。私は外国の考え方がフツウな気がするが、日本では授業でもある時期にならないとこれを学ばせないという、またついていけない子どもは無理やり付いていかせる方が正しいという・・・そっちの方がよほど残酷な気がするのだが・・・
いじめが一向になくならないのもすぐに納得できる。
きっと一斉の中で「個人差」を理解しないからお互いを認め合えないのだろう。
人は能力が違うわけだし生まれながらに個人差があるから、皆で一緒に活かしあうのだ。
みんな同じ姿であることがどれだけの意味があるのだろうかと真剣に思う。

園児で言えば、生まれた時から与えられている天性の個人差があり発達の偏りがそれぞれにあるというのにみんな同じ状態でないといけないという大人の刷り込みやその保育のやり方は一体どうだろうか?
その子だけの発達の速度があり、その子だけの学びの量があるのだろうに。
もし人生の密度まで他人と同じであればなんてこの生はつまらない人生だなと子どもも感じてしまうかもしれない。

仕事(働く)もまったくこれと同じだことだろう。
合わない人がそのままそこに無理に居ること、またそれに強硬についていかせるほどその人を苦しめることはないだろうしその人の人生にとってもこんな不幸なことはないと私は思う。

その人の大事な自分のたった一度の人生の機会損失を防ぐためにも、早くその職場を離れた方がいいと私は心底思う。

働くというのは、個人差はあってもそこに必要な普遍的な職業観があるからそこで自分の能力を正しく活かすことができるからだ。

これは私もよく体験することだが、会社で自分の好きなことだけをやりたいのならば逆に給料を会社からもらわずに授業料を支払って勉強させてもらうように会社に頼んだ方がよほど自分と周りの人のためになると思うことが多い。
であれば、親切な会社ならきっとその支払った分は会社が教育してくれると思う。
タダで教育してもらって、その上好き嫌いなんていうのは職業観としてはありえない考え方だからすぐにでも止めた方がいい。

この日本という国は、「なぜ働くのか?」という自覚を社会人になる前に子どもたちにしっかりと考えさせ、その理解を正しく持たせた方がいいのではと私は新卒採用や中途面接の時に思うことが多い。

人生というのは、社会という現実の世界においては一人では生きていないのだからキチンと社会で働くことで得られる「自己実現」という意味をまず理解すべきだと思う。
よく自己実現は、「自分だけ」の理想の実現などと間違って勘違いされるがそうではなくて自分の持って生まれた能力・センスを何かの目標や夢の実現のために活かし活かされながら誰かとともに実現することだと思う。

以前TVで見たマラソンのQちゃんと小出監督も一緒に自己実現していたし、野球でもバレーでも選手、監督、コーチ、スポンサーみんな自己実現しているではないか?

たとえば、金メダルをとった選手だけが自己実現したなどと定義でもすればその選手以外の関係者はみんな自己実現しなかったことになるのか?
そうではないだろう、子どもだってその子のためにみんなで自己実現するために努めるのが保育園であり、幼稚園であると思う。
自分のクラスのためとか、自分の園のためとか、表層に惑わされないようにしないと大事な職業観を手に入れることはできないし自己実現をそこで得ることができないのではと僭越ながら私は思う。

まず子どもの立場で考えることは、職業観として最低限のことだと私は思う。
そうでなければ一緒に自己実現していくことはできないはずだからだ。

特に社会福祉の仕事は、最初から自分勝手の自己実現が目的で働こうとする人が多い傾向があるような気がする。社会福祉とは、現在の社会全体にとってその福祉がなぜ必要で一体何のためにあ
るのかをよく考えた上で、自分の持つ能力を世の中にどう活かしていこうかと考えることがまずは常道であると私は思う。

だから、どの仕事においても職業観は必要だと思う。

職業とは、一人ひとりが生き生かされるというニンゲンとしての営みであり共に生きるものとしての役割なんだと思う。

だからこそ人が一生の中で、「好き」なことに出会うことは難しいことなんだと思う。

本当に好きなことというのは、単純に狭い視覚的な「好き」ではなくて何か相手のために自分の命を使いたいという広い理念的な「好き」であることだと思えるからだ。

だからこそ、日々の仕事はマンネリ化せずに常に自問自答して高めていきたいと思う。

今の幼い子どもが働くことになろう20年後の時代には、どうなっているのだろう?
今の子どもたちが正しい職業観を身に纏い、未来には全世界で活躍してくれているだろうか?

そのためにはやはりこの「今」をなんとかしないといけない。

脚下の実践としてはどんな仕事も給料をもらう以上、まずはプロとして自覚し、自分だけのどんな得意不得意があるのだと知ること、そしてその唯一与えられた能力をその仕事でどう活かしていくかを学び実践していくことだと思う。

まずは自分たちからそのモデルとして率先垂範して示していきたい。