柵と常識

生きていると色々な関係の中から、集団と過去が造ってきた柵と常識に縛られることがある。

ある国ではそれが常識でも、海を越えると非常識になる。
またその常識は過去から当たり前といわれて育てられればそれは柵になる。

とても素晴らしい個性を持つ人格者もこれにやられて朽ちていく人も多い。

なぜニンゲンは、自分への自由な探求の旅へ戻ろうとしないのだろうか?
またそれをやってはいけないと盲目的に自らに言い聞かせるのだろうか?

ふと、観点を別のところへ移すと今ある目に映るものは真実であろうか?
ふと、地点を別のところへ移すと今ある耳に聞こえるものは真実であろうか?

歴史からいったい何を引き継ぐべきなのかは常に今を生きるものに問われている気がする。

人は、過去の失敗から大事なことを色々なツールで過去を引き継いできた。
建造物・公式・条約・生活・文化・思想、、、

しかし、それはツールだけになってしまったら意味のないものになると思う。

では一体何を引き継ぐべきか、それは本質的な「問題意識」ともいうべきものだと私は思う。
それを教訓として忘れないようにするためにツールをそれぞれ創造したはずだからだ。

その創造したものとニンゲンの問題意識は常にセットでなければこれからもその無意味な柵と常識に縛られていくのだろうと思う。

誰かがその柵を外してあげなければいけない。
誰かがその常識を壊してあげなければいけない。

すべては「問題意識」と地球の進化を守るためにも。

ふと、柵と常識というタイトルで子どもたちをもう一度見つめてみた。

生まれたばかりの子どもとは普遍であるとともに自然の姿だと私は思う。

であれば、常に刷り込みと現実、柵と常識をここで外してあげるほうがこれかの大人のやるべきことだと改めて私は思った。

問題意識を持って、身の回りにある刷り込みを疑う観点を持てるようになるためにも、子どもたちへは大人のいい加減な柵や常識をうけさせないようにしていければいいなと思う。