共育

今日は以前ブログで紹介した熊本の陶芸家、北川八郎先生の講演をカグヤスタッフの皆と一緒に拝聴してきた。

北川先生は以前と変わらず、穏やかな口調と柔らかい雰囲気で自然に歩んでいらっしゃった。

今回は神奈川のあるNPOが主催した講演会だ。
私たちも同じように講演会を主催することがあるのでとても参考になった。

講師は素晴らしい人物の方が多いのでよほど主催者側が自分の利を追求しなければあまりズレル問題がないのだと思うのだがその主催者側が講師、聴衆に対しどのような姿勢、そして配慮をしているかはとても重要だと思う。

なぜなら集まっている聴衆の価値観があまりにも違っていたり問題意識の大きな差があれば、講師との一期一会の邂逅に於いて本気で議論を深めていくことができないからだ。

出会いによる学びの成長とは双方の自らに向けた矢印による変化値であると思っているからだ。

素晴らしい講師は、過去に結果を出しても悟ったとしてもその後が本当に大事なことを知っていてその道を弛まず歩んで居ると私は思う。だから常に語り手である講師も成長をし続けている。それは日本的な教え手側が一方的に何かを教える「教育」ではなく、お互いが「共育」するためにお越しいただいていると思えるからだ。それは決してビジネスなのではない。

巷では講演がマンネリ化して聴衆が参加し聴くだけで終わってしまうモノが増えているが、もともと講演会のハジマリの本質はそうではなかったはずだ。

安易に参加し良い所ばかりと取っていくような姿勢では結局は何もカタチが残らないことは怏々にしてよくあること。

しかし大事なお互いの時を共有することを一瞬たりとも無駄にはできない。

そして何十億人がいるこの世界に於いて我々が邂逅を得るのは一握りのニンゲンに過ぎないのだからそれは主催者側が最も意識すべき大事な配慮だと私は思う。

私も仕事上、立場上、社会にあわせるために講師をする経験があるのだが一人ひとりにあわせた話しができない大勢の講演会にとって、その受け手側の価値意識や問題意識の質の平均が重要な鍵になっていると思う。

なぜなら一人ひとりまったく違う世界であり違う価値観、違う命なのだから本当は一人ひとりと正対し話をしなければその自らの実践や方向性くらいしか話すことはできないと思えるからだ。

そうでなければ、出会いの大きな感謝と講師自らの厳しい実践事例からの気づきとの合間見える矛盾を受け止めることが難しくなるのではないかと私は思う。

知識をただ広める講演会が増えてきたからこそ、「気づき」の講演への人と場の配慮はとても大事なことだと思う。

私たちカグヤもGTの事務局としてセミナーを毎年行っているが「毎回同じようにやる」ということがどれだけ難しいことかを改めて本気で戒めないといけない。

もしそこに油断があるのならば、繰り返しの中のマンネリ化という刷り込みを作り出してしまい本質が次第に変わってしまうことがあるからだ。

常に毎回改善努力は深い信念と理念を持って行い、自体ではなく「微弱」なものに気づく配慮を徹底的に大切にしていたい。

スタートも実践であり、ゴールも実践。
実践の余韻があるからこそ、あえて立ち止まり振り返ることができるのだろう。

今回の講演会はとても参考になった。

北川八郎先生には本当に深い感謝。
大事な時に、いつもお会いできることにご縁を感じる。。

生きていながら、無我にし宇宙の微弱な気を確かめ静寂を保ち在るがままに観るというのは永遠のテーマに日々静寂のままに実践努力をしていこうと改めて誓う。

解釈

昔もあったのだが今の時代、特に大衆の間に増えたのは「ツカレ(疲れ)」だろう。
つまり肉体的なものではなく、精神的なものがそのツカレと定義している。

肉体的な疲れは、ゆったりと休めば休むことができる。
しかし精神的なツカレは、ただ同じように肉体的に休んでも「癒す」ことはできなかったりする。

先日、スタッフと食事をしながら「休み」の取り方について話し合ったことがあった。
ただ休んで一日が終わるという暦以外の休息を取ってはどうかとのことだった。

意図的に皆でスポーツをしたり、自然界と触れ合ったり、ランチをゆったりとったり陶芸やそば打ちに行ったりと・・・関係性やストイックにジブンを見詰ることからくるツカレを癒すために工夫しようとするものだ。

日ごろ本気で生きていると肉体的にも精神的にもツカレは来る。
そして精神的なツカレは、別の癒しによって得ようとする「解釈」だ。

認知療法の提案者であるアーロン・ベック教授がこう提唱している。

   「私たちの感情は外界の現象が直接引き起こすのではなく、
         現象の『解釈』が引き起こすのだ」

同じ現象が起きたにせよ、まったく違った解釈ができれば感情に左右されず静寂とあるがままの自分で在れるということだ。

たとえば、日本人的な身近な話では天候というものがある。

大事な日に雨が降る。

この現象をどう解釈するか。

ある人は、服が汚れるし、ジトジトしてイヤだな・・もう今日は何もしないと思う人。

ある人は、雨だ、今日は以前持ってたレインコートが着れるので嬉しいと思う人。

ある人は、きっと植物も私も地球も大喜びだなと自然に思う人。

このように「解釈」によってしか、精神的な感情が引き起こされないということだ。

人生に於いて、生きていれば色々な出来事が日々起きるし起こる。
その起こることを止める為に必死になるよりも、もっとその「解釈を工夫する」ことがよりよい人生の定石になるのではないかと私は思う。

目の前に、そして足元にすべてのモノがあるのに探し続けることがどうなのだろうかと以前ある本で読んだことがある。

頭の上にメガネをのせているのに、メガネがないないと必死に探しているようなものだ。
メガネを探すのをやめ、メガネがないことをちゃんと良い方へ「解釈」すればきっと「気づいて見つかる」のだろうと私は思う。

しかし、世の中にはそのメガネを曇らせる社会の価値観が無数に点在している。昔よりもテレビに雑誌にメディアに、、、日々振り返りや内省をしてジブンを保っていなければあっという間にアチラの価値観へ持っていかれてしまう。

そしてそこで無意識のうちにメガネが汚れて曇ってしまっているのに、無理してモノゴトを見ようとするとまったく純粋な心でモノゴトがあるがままに視ることができなくなる。
そして今度はそのメガネをつけたままの心で無理にでも強引に心を振り絞って見ようとするときにその『解釈』が間違った方へと感情を導くのだろうと思う。

ここで私が間違うと定義しているのは、前に進むことを止め、一切を已めようとするということだ。

常に大事なことは、まずはその曇ったメガネを外すことを意識することなのだと思う。

以前、ブログで書いた「素直」さというのはそういうことだ。

しかし、もしその判断した現象が良い方へ向かうこともあるのが現象としての事実だとしたら。
その現象として受け止めることは、そこに悲しみではなく寂しさ、絶望ではなく「希望」をしっかりと遺してあげることだろうと思う。

子ども達も色々な環境の下で育っている。
生まれた場所も違うし、親も違う。

世の中に現れている現象をどう解釈してあげることができるのだろうかと思う。
その子のことを思えばどうにもならない現象を大人が已めさせるよりも、現象をオトナとして「解釈」することを伝えてあげたい。

きっと、仏教でいうお「釈」迦様のような「解」を持てるようにと子ども達の未来のためにまずは大人である自分、まずはそのオトナのジブンの襟をしっかりと正して日々粛々と歩んでいこうと再び誓う。

花明かり

桜の花が咲く季節。
ちょうどこの桜花が満開の時期に私は生まれた。

いつもこの桜を観ていると何だか不思議な感覚に包まれる。
先日も故郷にて桜が咲いていると、つい気にとられて足を止めてしまう。
よほどニンゲンが気を取られるほどの怪光を放っているのだろう。
音のない夜に咲き誇り散る桜の様子には、まるでこの世ではないようで・・
なんともいえない美しさの中に完璧な妖艶なオーラがあるようで・・・

師匠のブログでその桜花について書いてあったので話を伺ってみた。
桜の花には、人を狂わせる何かがあるように感じる。
虚空であり、無常であり、孤独のようなものなどがあると。
だから人は桜の下で酔いしれるのだと。

確かに桜の下で宴会をしている様子を視ると、人が狂っているようにもミエル。
人は、桜のあまりにも繚乱で儚い美しさに見蕩れ粋狂してしまうのだろう。
まるで今の資本主義的な混沌とした誤った社会のようだ。

昔の大衆は桜を恐れていたそうだ。
きっと、その美しさの中の魔境に入ることを恐れたのだろう。
最近では、そんな桜の花明かりや花盛りを恐れなくなった人が多い。

そう考えると人間の麻痺は恐ろしいと感じる。
人間は、無意識に麻痺してしまう生き物。
一度麻痺してしまえば、善悪の区別もなくただの肉塊の死人のようになる。

それだけ今の大衆は、人の命の意味を狂わせるような麻疹で満たされているではないか?
ひょっとしたら、人工的に配置されたあまりにも妖艶な美に目が奪われ人の心の外から内へ内へと入り込んで麻痺させられているのではないか?

あまりにも不自然な完璧な美しさは、その魔欲の力によって人間を狂わせオカシクさせるのかもしれない。

ただ素朴にも真っ直ぐに生を粛々と繰り返し歩む生きものにとっては、桜の花はあまりにも香りが強すぎるのだと。

そう考えると、人の目に映る陽炎な攫みどころのない花は畏敬を持って眺めるものなのかもしれないと改めて心から戒める。

時に囚われ、時に奪われ、時に惑い、自らが絶対に魔境に入ってはいけない。
焦りと不安、恐れや悲しみは桜花に自分を惹き付けていく。

しかし、それではイケナイ。
早く咲き早く散ることそのものには何の意味もないと思えるからだ。
その狂おしいほどの麻痺に酔いしれてはイケナイ。

それそのものにして美しいがその美しさが持つ儚さゆえに、人は魅せられる。
しかしその魅せられ方はあくまでも桜花の持つ妖しいものと同じだと畏敬を持って戒めること。

やはりここでも大事なのは随神の道。

いつの日かそんな満開の桜花の下でも静寂を保ち、花明かりを纏えるような静寂と邂逅に離れる自分でありたいと心から思った。

今とイマ

すべての時間や記憶を思うとき、そこに「今」があることに気づく。
「今」を観て「今」に生きるとは全ての癒しであり静寂であると思うときがある。

私は今という概念には二つの次元があるのだと思う。

たとえば、時間的に過ぎ去る「今」のこと。
もうひとつは、そこに確かな気づきがあり変化する「イマ」のこと。

二つは、同じ言葉であってもまったくその意味が違う。

たとえば、生きていると様々な物事や人たちに出会うそして別れる。
それは生死という別れもあれば、道を歩む上での別れがある。

その別れが在るゆえに「今とイマ」が存在しているのだとよく振り返る。

この「今とイマ」という瞬間を切り取るとき一方からでは語れない真理が潜んでいるのだと思う。

ニュースやマスコミ、世間や巷では常にこの先の未来の不安や過去のアヤマチばかりにフォーカスすることばかり。そんな日々に於いて子ども達のこれからの未来や過去に一体何の価値があるのか。

最も優先する大事なことは「今、気づいた」という「真実のイマ」の方だと思う。

子どもが自然であるとして、本来の在るべきようはこの「今」にこそ正対し気づいた「イマ」をこれからどうするかを一緒に考えるべきではないか。

子ども達の「イマ」は現在いったいどうなっているのか。

私は単なる今という概念からもっと別の「イマ」を問題意識や危機感で語り合え改善していくことが大事なのだと思う。

そしてそれをよくも考えず簡単にそれを否定してしまうことは本当の大人がすることなのかと私は思う。そんなことをやっているから世界の調和が乱れ、負のサイクルを繰り返すのだと。

イマをどう感じ、イマをどう受け取り、イマをどう生き切るか。

今は永遠の一瞬であり、悠久の流れの中の無限であるとしたらこの今をどう子ども達のための「イマ」に変えていくことが本懐であり全てではないのかと私は真摯に思う。

こんなにも長く続いた肉体的に傷つける本能的な戦争のない平和の中で、我々の精神の成熟は次のステップに入り、その環境との調和のプロセスは非常に難しい局面にきていると、「イマ」、私は思う。

そのイマをどう受け取りどう否定せずにイマを信じ感謝し在るがままに受け止め受け容れ、信じ抜き信じ切るか。

未来なんてカタチのないものよりも、大事なのはどうにでもなるこの掛け替えのない気づいたこの永遠の一瞬の「イマ」。

「今」との今までの安易な関係を見直し感謝のままに大人が手本を見せていくこと。それだけが子どもに継ぎ譲れる大切な『イマ』になっていくのだと私は思う。

私は未来への不安も過去へのアヤマチもどんなものもそのまま感謝できるようにイマを肯定できるように我々が率先垂範し、だからこそ「イマ」へ生き切るということを優しく伝えていきたい。

その「イマ」が持つ深層の癒しと緑の調和を感じたまま社会の中、そして世界の一員としての個としての人間が真間に自立できるようになることを願いミッションに挑む。