分化2

研修の中で、特に印象に残った言葉がある。オランダでは、60年代の変革時に掲げていたスローガンが在るという。

「多様性が維持されながら、その上で質が高いものを提供できること」

というものだ。

これは文章にすれば簡単に書けるが実現となるとそうはいかない。
今の世の中、多様な価値観と多様な文化が混在混沌としている。
それはやもすると、上辺だけの他と自を区別する「割り切り」になりがちだ。

日本での日常的な人間関係などを見ていたら、この割り切りはとても普通に身近で行われている感じがする。私がよく「重たいやマジメすぎる」とか言われるのもきっとその割り切り的な感覚があるからだろう。私は常に本質で相手と深く出会いたいだけなのだ。

そうやって曖昧に割り切れば他を認めるのではなく、自分は違うという身勝手な自分だけがよければいいという傲慢に繋がるからとても危険なことだと思う。昨今で起きる悲しいニュースはどれも自分勝手にモノゴトの尺度を決めつけ、それに直接自分が関係してなければ何をやっても許されるというよりな道徳倫理、また人間の特性に於いて大きく欠如した判断が横行しているのだと思う。

本当の多様性を受け容れる社会とは、正しく「分化」していくものだ。
つまりは、ひとつのものが2つに分かれていくということを受容するということ。

今の私もそしてあなたも、先祖からたくさんの子々孫々へ遺伝子が分化してきた。途切れたことは一度もなく、そうやって命の「バトン」を受け継がれながら今の私とあなたがここに在る。

その分化された人間の持つ遠い先祖からの温かい恩恵である個性や能力を認めて、互いを活かしあうことが分化の本質だと私は思う。

人間の生命は、みんなひとつだったという真理はなくなることはないのだ。

だからこそ、それがまったく別のものだと「区別・割り切る」理由はない。

日本人は元来、すべての異なった生き物の中にも自分と共通する心を見出し畏敬の念を持って祀ってきた「かんながら」の魂を持った民族だった。

それは元来、すべてはひとつであったものから分化したことを無意識下で理解していたからだと私は思う。

今の時代のように、自他をこんなに冷淡に区別するようになるとは・・・本当に理解し難い現状だと義憤に満ちる。

もうひとつ。

「その中でも質が高いものが提供できることが条件」という話。

多様な価値観や環境でも質が高まるとは「共生」の理念に沿って自然の法則にしたがって正しく生きることを示唆しているのだろうと思う。

人間が機械的文明を築く以前、多様性の中で質を高めなかった動物や生物の種だけが全滅してなくなっているのだという。

この地球上で生きる生命は、きっと多様性の中でも「成長し続ける」ことが絶対条件であり、ルールであり、それは質を高める生き方を選択する受け継がれていく普遍的な宇宙からの変化の意志が働いているのだと思う。

だからこそ、今に返ると今こそ、20年先、30年先の日本の行く末を案じ、子どもたちの未来と道を用意するためにもすぐにも私たちは変わっていかないといけないのではないか。

まずは、今の目の前の子どもの保育環境がこれからの時代に本当にあっているかを見つめてほしい。

そしてあわないと少しでも思うのならば、私たちと一緒にとことんすべてを捨てて変わっていってほしいと心から願う。

私たちはそんな人たちと一緒に歩み続けて生きたい。
こんな小さな島国で小さく争っている暇もないし、そんな時ではないのだ。

きっと、まだまだ私が社業への信念の力が弱いのだ・・・想念実現するまでやり続ける。

早く、しかしゆっくり、そしてしっかりと磐石な知識とノウハウ、モデル、適応、ツール、仕組み、そして精神を育て、0歳から6歳までの「人生の方向性を決めていく」この年の子どもたちの未来を創るために世界から学べるものは何でも陶中混じり合わせ消化して質を高め続けていこうと誓う。

分化1

本日、オランダからイエナプランの研究者であるリヒテルズ直子様を招聘しカグヤの社内研修を高輪プリンスホテルにて行った。

私たちも学び続けることが子どもたちのモデルになる大人の責任としてカグヤは自分の目線が下がり過ぎないように世界との対比を持って軸を修正し自らの知識やノウハウの成熟を常に目指している理念がある。

イエナプランは、ドイツで生まれ「画一から個別へ」と時代とともに移り変わる変革期に生まれたものだ。

イエナプランには、20の原則がある。
その第一原則にはこう書き記してある。

「各人はユニークである。つまり、たった一つの存在であり、すべての子どもとすべての大人はそれぞれ、かけがえのない価値を持っている」

他の原則は、下記を参照すると閲覧することができる。(日本イエナプラン教育委員会HP)
http://www.japanjenaplan.org/jnaplan_towa/jena_20/jena_20.htm

イマの時代は、画一から個別へは当たり前に生活をしていたら、当たり前のことだなと思う。

しかし、我が国の保育業界は少し非常識なのでいまだに戦前戦後の勝手に思い込んだ変えてはいけないと定義された昔のしがらみや刷り込みを引きずり続けて保守体制を変えようとはしないし気づいてもいないのが現状だと思う。

変えていいかどうかは捨ててみれば分かると思う。
すべて捨てててみてもなくならないものが変わらないものだと私は思うからだ。
そして、何を持って世界から学ぶのかを島国である日本人はちゃんと定義をしてから学ぶべきだとも思う。

師匠は言う。

「力がある人はみんな、違いを見るのではなくそこに『共通』するものを探す」のだと。

これは同じくハーバードビジネススクールの副学長がMBAの世界で活躍する第一線の人材の持つべき必須の資質であり特性だとも仰っていたのを覚えている。

地域と地域の共通と物を観、世界と我が国の共通のものを正しく観取る。
安易に違いだけをただ研究するだけでは、実践は行えない。
何の差を取るのか、正対する命の差取りとは悟りへとも繋がっているのだと私は思う。

日本人であるリヒテル直子様が自分の生涯をかけて世界へ出て観て、ボーダーの外側から祖国愛ゆえに日本へ再び帰り持ち込まれた自らの信念の姿である「イエナプラン」でどれだけの人がちゃんとした気づきを得るのだろうか・・・大事なのは受け取るこちら側の姿勢なのだ。

私は、リヒテルズ直子様の本当の願いは、「日本が凛として立ち直って新生してくれること」だと思った。

人には必ず天から享受されたそれぞれ役割と役目があるのだと私は思う。

お互いがその揺ぎ無い「思い」に共鳴共有し、それぞれの立場と役割で成すべきことを成して使命や天命を真に尽くすことだと思う。

今回の研修は、安易にイエナプランのノウハウやスキルのみを獲得するための研修ではなかった。歩み続けている至誠が天に通じたのか、この出会いに深い意味が潜んでいるのだと本当にそう思った。

リヒテルズ直子様の人生観と世界観、大局観などに触れ合った一日になった。
カグヤのイマの取り組みや、個々のスタッフの成長の方向性や軸の醸成に於いて無限の布石になったこと、心から感謝しています。

11月12日に、オランダ保育教育コンサルティング企業JASとカグヤの合同研修は本当に心から楽しみにしています。

コンサルタントの本懐

新渡戸稲造の武士道を読んだ、ものすごい気迫を感じた。
宮本武蔵の独行動を読んだ、ものすごい覚悟を感じた。

古に一本通った人たちは、みんな常に自分への研鑽を怠らなかった人たちだ。
カグヤはコンサルタントが居る。
コンサルタントは、ある意味でとても厳しい生活を送っている。
常に自問自答し、より厳しく律した生活を余儀なくされる。
それでも、手に入れたい大事なものがあるから続けることができるのだろう。
ひょっとするとそれが個々の持つ「志」というものなのかもしれない。

以前、動静についてブログで書いたことがあった。
相対する出来事の中で本質が観得て来るというものだ。

私たちが伺う保育園幼稚園では、常に行事や諸事に追われて忙しくしている。
またゆったりしているところもあるけれど、それはそれで暇だったりする。

しかしよく考えてみると、動静というのは相対する中にあるものなので静であれば動を求め、動にあれば静を意識することが成長に於いては大事なことなのだろうと思う。

中国の『菜根譚』にこういうことが書かれてある。

   静中の静は真静にあらず。
      動処に静にし得来たりて、わずかにこれ性天の真境なり。

   楽処の楽は真楽にあらず。
      苦中に楽しみ得来たりて、わずかに心体の真機を見る。

(意訳)

  環境を静かにして、ようやく心の静けさを保つというよではまだまだ。
     活発な活動の中でなお心の静けさを保ってこそ、道を体得した者といえよう。

  楽しい場所で心を楽しませるというのではまだまだ。
     苦労の中に楽しみを見出してこそ、心の不思議な働きを生かした者だといえよう。

つまりは、何かを得たいと思うのならば苦中に楽を得、楽に苦を得ることが動静の真理と繋がっているのだろう。

以前、なぜそこまでして全力投球するのですか、なぜそこまで力を使い切って一日を終えないと気がすまないのですか、と社員に聞かれたことがある。確かに、全力投球して力を使いきろうとしているようにまわりにも見えるし自分でもよくそう思う。

しかし、この意味を少し考えてみるとすぐに答えが出る。

自分の力を使い切らない時の方が夢見も悪く、非常に心身ともに疲れるからだ。

それらはすべて、このギリギリの緊張感の中で自らの能力の限界を広げるために自分へ向けた矢印ゆえにだろうと思う。もし逆に一日を安易に終えたりしhて、一日を振り返るとき自らへ向けたの自己評価が中途半端でしかなければそれが何よりも非常に辛く悲しいことだと心から思えるからだ。

自己採点するにも全力を尽くしたかどうかが前提でなければ点数をつけることすらもできないからだと私は思う。

いつからかあまり他人の評価の方をたいして気にしなくなり、自分自身の評価をまず優先してモノゴトを判断して生きていこうとすると自然に誰が見てようが見ていまいが真面目に全力を尽くして取り組もうとしてしまう。

ここでの真面目というのは、「時間のすごし方や生活の仕方がまじめ」ということではなく、「自分の定めた人生の目的、その結果に対する目標に対してマジメ」なのだということになっているのだろうと思う。

よく遣り通した一日の最後は、心の平安と安らぎ、そして通常の楽では得られない「真の悦び」を得ることができる。内省が楽しみに変わるのも遣り通した日であったからだと思う。

結局は、自分の感情や思考だけが自分を形成しているのだから、やはり自分が好きな自分でいたいし、自分にしかできないからこそ自信がつくのだと思う。

たとえどんなに大きな悩みや考え事があったにしても、日々全力を出し切り目の前の脚下の実践にどこまで真剣で挑み本気で尽くしたかが我々コンサルタントとしての本懐であると思う。

コンサルタントへの道は、まだまだ道半ば、より矢印を自分へ向けて研鑽・練磨を永遠に続けていく気迫と覚悟を持つ。

そうやって子どもたちには、父性を持つ大人のモデルになれるように私たちは私たち自身の評価に基づき納得のいくプロフェッショナルとしての仕事をしていこうと思う。

至純の夢

情熱の出所のことを他人に聞かれたことがある。
情熱の出所なんて分からないけれど至純の夢があるからだろうと私は思う。

なぜそう思うのかも分からないし、なぜ自分がとも分からない。
けれど、なぜか生まれたばかりの子どものことを思うときその純粋な夢を壊すわけにはいかないと思える自分が其処にある。

こんな時は、あの詩を思い出す。

「ドン・キホーテ」

永遠の青春の騎士は
五十にもなってから、胸の中の
やむにやまれぬ気持ちを実行に移した。
七月のある美しい朝、旅に出た
美しいもの、真実のもの、正しいものを、
索めて旅に出た。
彼の前には世界があった
いかがわしくきたならしい巨人たちの棲む世界だ
そして彼の下にはロシナンテがいた
悲しくも雄々しいロシナンテが。
わたしは知っている、
ひとたびこの情熱に捉えられたら
ひとたび心に高貴な重みがかかったら
どうにもならぬのだ、わがドン・キホーテよ、
風車とさえも戦わねばならんのだ。

君のいうとおり、
デュルシネはこの世でいちばんの美女だ、
取るに足らぬ小商人どもに向かってさえ
このことを叫ばねばならんのだ、
すると奴らは君の上に押しかぶさり
袋だたきに合わせるに違いない、
だがしかし、君は渇ける無敵の騎士なのだ
炎のように、君は生き続けるだろう
鉄でできた重い殻に閉じこもり
生きるだろう
そうしてデュルシネは日毎に美しくなるだろう。

 トルコの詩人〜ナジム・ヒクメット(訳服部伸六)

詩には万言の単語を持ってしても伝えられないものを伝えられる。

今の時代は、刹那的で詩をまともに解釈しない傾向があるけれど私は詩こそが本当に伝えることのできるリテラシーの本質なのではと思う。

そして、常に矢印を自分へ向ける理由があるとするならば、情熱の出所があるとするならば私が座右の師である故吉田松陰先生の遺言である「やむにやまれぬ大和魂」なのではないだろうか?

そうやってしか生きられない不器用さも内包しながら、かんながらの道のままに今の時代にあわせて和としての里の仙人足りえるか。

世界への挑戦はまだはじまったばかり。
この大きな矛盾はどう私を変えていくのか。

情熱は、「ままに」、そして至純の夢を水無月の雨に思う。

本命

もうそろそろ3年目に入るが、毎月「ウェブラジオ」を収録しに保育環境研究所ギビングツリーの藤森平司先生を取材しに往っている。

これは、多くの人たちに移り変わる世の中に於いて何を鑑み、そして努力を怠らず危機感と問題意識を持って子どもたちの未来を創造してほしいという気持ちで私がはじめたものだ。

取材では、短い時間でも藤森先生の真玉の言葉というかその人生観からにじみ出る「理念」が保育道になり、そして指針になるようなものが映し出されている。

きっと短い言葉に凝縮された過不足ないシンプルで美しい旋律の余韻の中に、深い思索と思想が自然に出てくるのだなと3年たった今では思えるようになってきた。

人間は、常に世間の多くのものを目だけでみようとする。

しかし、心を研ぎ澄まし、目を閉じて他の五感でモノゴトを深く一点に集中し引き出すように感じれば今まで見えなかったものが現れてくるものだ。

そうやってみると分かるが、「カタチ」なんて心のありようがただ現れただけなのだなと思える。しかしそうやって観る芽を養うしか、人間が成長していくことにはならないのだろうなと私は思う。

どんな一瞬の出来事や出会い、そして短い邂逅においても意味を感じきるや感じつくすのような「ゆっくり」として陶冶される精神の醸成とその向き合う至誠が道を求めるに於いて重要なのだと思う

身近にあるすべての仕事はそう・・・

このウェブラジオも時間をかけて「ゆっくり」と育ったものだ。

「花は一瞬にして咲かない。大木も一瞬にして大きくはならない。一日一夜の積み重ねの上にその栄光を示すのである。」

「念ずれば花開く」の坂村真民さんの言葉だ。

常にどんな思いからくる天真の片鱗も、その自らが優先された使命も、日々新たに同じ目標目的のために己の心願を尽くし人徳を磨く精神があってこそなのだと思う。

昨日は、その収録において、またGT会議においていろいろなことを鑑みた。

自分を高め続けるためにいったい己は今この瞬間もどうあるべきか。

私は何を日々言っているのだろう?
私は何を分かった気に日々なっているのだろう?
私は何を知っていて何を日々覚悟しているのだろう?
そして私は何を省我して日々自らの言葉を放っているのだろう?

本日もまだまだ使命を尽くす私には至らない急ぐこころと余分にある雑念と執着の多さに再び頭にガツンと来た。

そして今、あるがまま、それが心から嬉しい。

自分の軸を直し醸成するためにも常にこのような機会を持ち続けることができるだけで幸運でありこれも有難い感謝の賜物なのだと思えるから。

使命を感じているのならば、唯真剣にそれを尽くすこと。
そうやってしか天命は得られないと師匠は仰った。

師匠はその長い年月で培った子どもへの思いたるや並々ならぬものがあり、それを通して今の時代の子ども像のありようを言葉が理念を通して体現なさっている。

絶対に分かった気にならないぞとの社業の理念を思い出した。

福沢諭吉翁にある。

「世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事を持つことです」
「世の中で一番さびしいことはする仕事がないことです」

どんな仕事も使命を尽くすことで価値を創造することができることを信じること。

そしてその仕事が創造するものであるとすれば絶えず心に危機を感じ尽くさなければ万物のバランスを整えるなどできっこない。

そのためにも「本命を尽くす」ことを日々戒め、そして安易に語るその自分への鏡として自らを高め磨くことを怠らず学徳の練磨にはげむことを誓う。

常に自分が何のためにこんなことをしているのかの初心は懐に居れ、濁流の時代を悠久の流れに変えてみせる。

感化

「教育とは、自然に感化すること」だと故森信三先生は仰った。

それは誰かが誰かに教えるというものではなく、自分がきちんと教育という矢印を自分へ向けて常に自らの姿勢を改善するということを言っているのだろ私は思う。そうやって自らの脚下の実践から相手に気づきの機会を与えていくということだろう。

これはきっと心の底から相手の生きる力、伸びる力、自立の精神などを認めて信じ尽くしているからできる境地なのだろうと思う。

教育は本当に素晴らしいと思う。
教育者は「認めるや信じる」という道を求め続けていくことを目的にできるからだ。

私も常々猛省して認められない自分の謙虚のなさを嘆いているけれど、いつかは自然にそれができるようになりたいと努力している。上に立つ人や影響力を持つ人、過去に成功した人、そして何かを教える人は「自分の方ができるから」という理由で相手をつい下に見てしまう。

私の主観での答えだけど本当の教育とはきっと年齢や経験、実績なども囚われないままに、相手にあわせて一切に上下なく他人と謙虚に対峙できるかどうかなのだと私は思う。

何かを教えて育てるということに於いて相手を認める受容の心は、相手の何を認めるかが常に自分に矢印を向け返されるからだ。

昔から人間は、誰しもそのような認める力が備わっているはずなのにただ起きる現象にだけですべてを「分かった気になる」のがズレていくことに繋がるのだろう・・・

そしてそれが分かった気になってしまってちゃんと分からないから、どこに共感することがモノゴトの本質なのかも理解しないままに虚像の空間に身をおき時や他人に流されていくのだろうと思う。

「群盲撫像」とはよく言ったものだと思う。

きっと人間は、自分の見ている一部分が世界のすべてだと錯覚するようにできているのだ。

だからこそ、常に分かった気にならずに求道する心こそがもっとも教育や保育をして子どもたちを感化するに於いて重要なのだと私は思う。

そういえば、師匠もいつも何も具体的には教えない。
しかし、自らの厳しい実践において相手をそっと見守っている。
たとえ言葉をかけたにしても、自然に伝えられることだけしか伝えていないような感じもする。

見守るということは、違う言い方をすれば自らの実践に於いて自然に感化するということなのだろう。

どうしても世間的に偉いなどや変な刷り込まれた肩書きを持つと、どんどんそれに囚われてしまう。そんな時こそ、きちんと自分の未熟さを三省して平常心に於いて自らを磨き学んでいくことを忘れないようにしていきたいと改めて思う。

認めるということや信じるということ。

子どもの何を認め、何を信じるか。
そして、世界の何を認め何を信じるか。

今の大衆が持つ価値観とは違う物差しでしか世界はきっと変わっていかないのだろうと思う。そのためにも「感化」するということを念頭に常に置いておきたい。

子どもたちにも、私自身の自らの実践を持って世代を越えたあるがままの架け橋になるように先祖代々受け継いだ大事な思いを遺していけるように自らの道を醸成していきたいと思う。

隠れた意味

物事には、どんなことにもそこに何かの隠れた意味が必然的に在るのだと思う。

それは目を強くすると表層上の視覚で見える範囲だけに留まり、まったく物事の在り様はよく映らなくなる。物事に正対するに於いて、いったいどこで観ようとするのかが物事の在り様の本質を知るためには必要なのだろう。

そうでなければもったいない自分の唯ひとつの命を活かすには至らない気がするからだ。

たとえば意味を思う時、その時は果たしてそれが偶然だと思ったことでも後々になればそれが大きな決断の分水嶺だったり人生の方向を決めてしまっていたということは周知のとおり往々にしてよくあること。

特に日ごろから努力し、その意味を紡ぐほどの感覚を研ぎ澄ませていれば自然にその出会いや邂逅を引き寄せていくのだと思うが今の世の中には余計な情報がありすぎてなかなかそうはならない。

何が余計かというと、自分の内面にある雑念の情報のこと、他人にその辺を委ねようとする幼い頃からの刷り込みの連続のこと。

やはりここでも大事なことは、常にその物事に正対する場に於いて確固たる揺ぎ無い軸や理念、また平常心で静寂を維持する魂の強さのようなものなのであろうと思う。

たとえるとそこにある、生や死、また絶対的な無常の境地によって常に「なぜ」を哲に確かめる求道の唯中に在るのだろうと思う。

まだまだ私もその時々の色の濃さに無意識にもっていかれる自分がある。

孔子の『論語』にある

「子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。」

今の時代と彼の時代は実際的な年齢や背景が異なっているとしてもそれでも道を生きていく上でとても指針になる詞のひとつだ。

齢31才、自分にしかできないことを知るために歩みつつも、本当に齢40才頃にして不惑にはなれるのかなとまたまた自問自省ながらひたひたと歩む日々。

でもそんな日々に於いてどんなことにも無意味な些細なことはないと思え、どんな出来事に於いても常に隠れた確かな意味があることをが在ると思えると、とても安息で幸せな気持ちになる。

どんなことがあるかが分かってしまう人生なんてつまらない。
そしてどんなことがなかったとしてもあるものにする人生こそがオモシロイ。

やっぱり旅のように目的地へ向かう途中にある、わくわくどきどき、そして喜怒哀楽、豊かな思い出やその密度の深く濃いものがあるからこそちゃんと「生きた」ということになるのだろうなと私は思う。

今日も、そんな夢のようなシンクロニティを感じた一日になった。

今日、杉並区にある保育園にカグヤが新しく始めた「オルタナティブコンサルティング」の契約を正式にいただいた。

これから2年間、共に同じ目的のために歩みそして邂逅をいただいた人たちとともに子どもを中心に据えて未来を創造しそれぞれの理念を本気で体現していくことになる。

ここの園の創始者でありその創設の理念はとても素晴らしい。

 「人を救い、世を建て直す」

その満貫の思いが、多くの人たちに大きな影響を遺し今でも様々な人たちへ感化し続けている。すべての始まりはすべての未来に繋がっていることをまたここでも実感することができた。

やはり初心やスタートには、偉大なる意味が必ず存在するのだ。

そしてこの方がその思いを世の中に打ち出し一本立てたのは齢31歳のとき。
私の今の年齢とまったく同じだ。

今日を振り返り意味を観ると、まだまだ私はあらゆる隠された意味と正対し真摯に学んでいくのだと誓い直すことができた日になった。

私の満貫の思いをカグヤの創設の理念としてこの新サービス「オルタナティブコンサルティング」を通して世界の子どもたちの輝ける未来へ向かって自然に広がって往く意味を感じ、日々平常心や静寂を保ち得、信念を醸成し襟を正して矢印を常に自分へ自分へと向け続けていくぞと・・・イマここに思う。

まずは自分が変わってみせようと子どもたちに改めて誓う。

遠近

何か大きな問題意識や危機感があれば常に遠くをみようとする。
そして身近な問題に囚われ、どうしても平常心を失ってしまうことが多い。

特に、責任者やリーダーと言われる会社のトップなどは常に遠くを見て今の状況を客観的に判断するのでどうしても話の内容が遠くのことばかりなることが多い。

しかし現場では、そうはいかない。
現場はすぐに起きる出来事で溢れているからだ。

しかし、それはよく考えてみるとずっと遠くにあったものが近づいてきただけでイキナリ身近になったのではない。

よく仕事をするときに、私は交通事故という言葉を使う。

先に物事をよく考察して先読みをしていないのに、過ぎてしまった出来事のときに対応しようとしてもそれはもうどうにもならないことだと定義しているのだ。そんなときは、交通事故と思って、誠心誠意対応することをモットーに指導をしている。

しかしよく全体と経過を見れば、決して交通事故が悪いと定義しているのではなく、それは通過するときのお互いの接し方で大事な出会いや邂逅になるときもあるからだ。それはそれで何があるか分からないから人生はとても面白いのだと思う。

遠くを見ようとするときに大事なのは問題意識と危機感の持続だと思う。

今、この時が勝負なのかそれとも数年後の何かの時が勝負なのかなどもそれはその人の問題意識の大きさや危機感の密度によるのだと思う。

見通そうとしても見えないのは、きっとその問題意識や危機感が足りないのだろう。そしてそれは、どれだけの志とプロとしての責任と自覚といったやはり自分へ向けた矢印の密度によるものだろうと思う。

以前、師匠からアドバイスをもらったことがある。

どうしても近いところばかり見ようとするから、船酔いするのだと。
そしてそんな時は、遠くを見るようにすればいいと。

そしてこれには後日続きがある。

遠くを語ると他人は何を言っているか分からない。
そんな時は、近くを語ってやり方を示せばいい。

この遠近の違いが今は私の最大の課題だ。

距離感というのはどんな人間関係の中でも存在する。
距離が離れるとは、物理的な距離ではなく感情が引き離すキョリだったりする。

だからこそ、多くの人たちと志を同じく子どもたちのために世の中を今よりもずっと良くしていこうと思うのならば私の話す言葉も見直していかないといけない。

もっと子どもの環境について、皆が分かるような話ができるようになりたい。
まだまだ、師匠の背中観て、わが身を振り返る日々新たな一日でいこうと誓う。

情報リテラシー5

現在、ITの世界ではWEB2.0というのが主流になっている。
今までのWEBの定義の枠では収まらないので言葉を変えて改めて定義して2.0としたのだという。

確かに、数年前はWEBというとホームページで情報をただ公開したり、それを使ったりしただけだった。それが最近のように、SNSなどを通して情報が知恵を創発したり、双方向から価値観の融合による新たな文化を創ったり、権力が上から下へ移行したりともうきりがないほどここ数年で大進化している。

もちろん、この後はweb3.0になり、4.0になりとずっとこれは続くのだろう。

「情報」という膨大な目には見え難い「変化」のことをそうやって「区切り」、そして無理やり言葉に定義し「2.0」と表現したのだろう。

人間の脳はきっと、そうやって区切り毎回白黒つけないと理解できないようにできているのだろうと思う。これも言葉の持つやっかいさというか、常に情報はそうやってそのまま受け取りながら時と人と環境とともに物事はズレていくのだろう。

自然のものや目に見えないものを区切りたくなるのは科学の妙だ。しかし、そうやってでも目には見えないものを観ていこうとする姿勢は両義性という観点から見ればとても素晴らしいことだとも思う。

しかし闇雲ではいけない。
まずは、「変化」という「意味」をどのように感じ尽くすか?

変化とは、大が小であり、小が大だと知るようなものだと私は思う。
変化とは、全体が一部であり、一部が全体だと知るようなものだと私は思う。

つまりは、全体の「調和」に於いてそれを観るために他の部分の見方を自らが変えること。
同じものであるのに、見方を変えてまったく違ったものに化けるようなもの。
本質はひとつであるのに、目に映るものが違うということ。

きっと、それを別の表現では「バランス」というのだろうと思う。
バランスが悪いと平常心を維持できず、物事があるがままにならない。

このように「変化」とは、その逆、つまり変わっていることでむしろ安定するという真理が潜んでいるのだろうと思う。

現象や実体、身体や精神、すべては「変化」というもので語ることができると思う。

その変化とは、言い換えれば「調和」のこと。
片方に偏ったものを、もう片方へ偏らせるその「中庸」のようなものなのだろう。

今、世界を見渡せばどれだけの変化という調和があるのだろうか・・・

ニンゲンはどちらかというと、保守的に自分を守ることだけを考え、変わった変わったといいながら何も変えようとしない。

時の惰性に流されるだけで未来を予測し不安だけを思い、自らが未来を創造しようとはあまりしない。

目に見えるものばかりに常に心を囚われ執着し偏っていく。

離れて観るとこの今も、また同じ歴史の教訓のサイクルの中で過去の同じような出来事の中に入っているような気がする。

きっとそういう時は、大衆心理や権力者のトップが一斉に視野が狭くなるのだろう。
これも「情報の変化」がそうさせているような気がする。

たとえ地球がもし善も悪もすべて吸収しているとしても、時代的な魂の成熟を考えるとそれもまたここではちゃんとした情報の「バランス」が問われるのではないだろうか?

われわれは、どちらを選び変化すべきなのか?その決断の時に今もあるのだと思う。もうそろそろ成熟した精神に於いて認知する機ではないのだろうか?この日本にはそれができる土壌も人材も揃っているのにと思ってしまう。

私の尊敬する経済人にソフィアバンクの田坂広志氏が居る。
いつも講演や著書を拝聴し拝読している心の師の一人だ。

その方が下記のようなことをメールマガジンで仰っている。
これも情報リテラシーの要諦だと私は思った。

「子供の喜びと大人の喜びとは、何が違うか」

 との問いを掲げ、
 「成熟した精神」(Mature Mind)は、喜びについての
 「三つのパラドックス」を楽しめるということを語りました。

 すなわち、成熟した精神は、

 (1)「予期せぬ事」(Unexpected Event)を楽しめる
 (2)「人生の矛盾」(Contradiction)を楽しめる
 (3)「一度かぎり」(Once-ness)を楽しめる

 ということ、そして、そうした深みある精神は、

 「縁」(Enishi)、「菩薩」(Bosatsu)、「一期一会」(Ichigo-ichie)
 「感得」(Kantoku)、「働く」(Hata-raku)、「有り難い」(Ari-gatai)、
 「言霊」(Kotodama)

 といった、日本における様々な「智恵の言葉」(Words of Wisdom)
 の中に、象徴的に示されている・・・

私なりに解釈すると衣食住足りた「足るを知る」謙虚な成熟した本来のこの国の持つ和の精神に於いて、予期せぬことを慈しみ、人生の矛盾と正対し、一度限りの命を生き切る。

命の本質ときちんと正対し子どもたちへ明徳に伝える時代なのではと改めて思う。

きっとこれからすぐの未来はあっという間に「情報調和」のステージへ時代が次々と移っていく。

常にそれぞれ一人ひとりが自らの役割と使命を粛々と受け止め、自らへ矢印を向けて静寂を保っていき自分軸という信念と理念をきちんと醸成していく情報本質の時代へ入ったのだろう。

明日は、三重県の津市で青年部合同研修の講演がある。
ここでもいつもと同じように、できることの限りを尽くし誠心誠意を持って自らが掴んできたことすべてをオープンマインドでしっかりとお伝えしていきたい。

この一期一会を、永遠の邂逅としまた素晴らしい出会いに感謝していきたい。

成長

成長の意味を考えてみた。
なぜそもそも人間が成長するとは何なのか?

この数ヶ月間、カグヤスタッフも大きく成長してきたと実感する。
それぞれが成長していくには、その「あるべきよう」にいくつかの可能性があることに気づく。

もちろん、まずは自分がモデルを示すことが大前提だと思うのだが「素材、素養、素質」とはまったく私の主観に基づく定義にて整理するために分けてみた。

素材
精神性というか魂というか、日々繰り返し陽を与えて真心で水を与えれば、その成長は無限に伸びる。伸びるというより素直になって優しくなるといったほうがいいのだろうか。それはそれぞれが自立するまでやらなければ、やめると止まってしまう。これを理念だというのかもしれない。

素養
スキルというのがあり、ある力は人間社会のルールとして平均値までは義務として社会に出す以上、その人間をそこまでは躾る義務が在る。保護者的な義務のこと。動物社会でもそうだが、その種が集団で生きていく上での絶対的なマナーのようなものだ。これは習慣と慣れによりカバーできる。

素質
才能というか宿命というか、その人が何の実をつけるのかは、それぞれの持っている価値観の優先順位による。そのもっとも興味のあるところを見てその思いの強さというか悩みの深さというか、後は素材のようなものなのかもしれない。これは、その持っている問題意識か危機感のビジョンの組み合わせがアートであるかどうかによる。

この3つの中で一番難しいのが、3つ目だと思う。

1、2は、努力精進して修己治人していけばある程度は自己実現というものが得られるのだろうが、3はそうはいかない。

自分の描いているビジョンに、相手の持っているビジョンが組み合わさることでどうなるのかというような「空間認識創造能力」(今は仮)のようなものが必要なのかもしれない。
選ばれた人とはよく言うが、正確には「選ぶ人」が居るということだと思う。
選ばれた人の影に必ず、選んだ人がいるのだとしたら最も人間が成長するということを理解しているのはそういう人ではないかと思う。

私の尊敬する故吉田松陰先生も、選ぶ人であったのだと思う。

ここでの「選ぶ」とは単に世間でいう選ぶではなくどこか偉大な次元から「降りてくる」といった感じのものなのだろうと思う。

しかしこれはまだよく分かっていない。
つまりは、中庸、ファジー、もしくは夢幻というかそのようなゆらゆらとしたものこそが本質である気もする。

ここでは偉大なものを観る感性のままに「かんながら」であることが「選ぶ選ばれる」にはやはり大事な気がする。

そして選ぶ人にならなければ、選ばれる人にもならない。そして、選ぶ人とは自分のビジョンをどのような問題意識の在る人と組み合わせれば達成できるかが分かる人なのかもしれない。

これを考えるとまさに師匠はそういう人だ。
やはり師匠のそういう感覚はとても凄い。

師匠はそれを「直感」だと、そして違う言い方では「天命」と仰った。

説明を聞けば分かりやすくいつもしてくださるのだが、でもそれは私がわかるようにと現象での解釈であり実体ではないのが分かる。

得意不得意だとか安易に表層に惑わされるのではなく、本質はきっとその人がもっている思想の根幹、もしくは思想の源流、もしくはトラウマ、もしくはその人の持って生まれた宿命と才能、その何かが、自分のビジョンと結びついた時、その人を選ぶのだろう。そしてその人たちの御蔭で自分が選ばれるのかもしれない。

カグヤ、そして私は人を育てる仕事であり、さらには子どもを育てることへ間接的にも携わっている以上、決してこれは避けてはとおれないし、いつまでも逃げてはいられない。

いつの日か必ず、自分にしかできないことを見つけ世の中へその能力を還元するためにもまた、人を活かし活かされるという他を生きる本質に自らが自然化するためにも、その人にしかできないことが「選べる人」になりたい。そして決断決意をしたら不退転の強き思いを持ってまた学び続けていきたい。