感化

「教育とは、自然に感化すること」だと故森信三先生は仰った。

それは誰かが誰かに教えるというものではなく、自分がきちんと教育という矢印を自分へ向けて常に自らの姿勢を改善するということを言っているのだろ私は思う。そうやって自らの脚下の実践から相手に気づきの機会を与えていくということだろう。

これはきっと心の底から相手の生きる力、伸びる力、自立の精神などを認めて信じ尽くしているからできる境地なのだろうと思う。

教育は本当に素晴らしいと思う。
教育者は「認めるや信じる」という道を求め続けていくことを目的にできるからだ。

私も常々猛省して認められない自分の謙虚のなさを嘆いているけれど、いつかは自然にそれができるようになりたいと努力している。上に立つ人や影響力を持つ人、過去に成功した人、そして何かを教える人は「自分の方ができるから」という理由で相手をつい下に見てしまう。

私の主観での答えだけど本当の教育とはきっと年齢や経験、実績なども囚われないままに、相手にあわせて一切に上下なく他人と謙虚に対峙できるかどうかなのだと私は思う。

何かを教えて育てるということに於いて相手を認める受容の心は、相手の何を認めるかが常に自分に矢印を向け返されるからだ。

昔から人間は、誰しもそのような認める力が備わっているはずなのにただ起きる現象にだけですべてを「分かった気になる」のがズレていくことに繋がるのだろう・・・

そしてそれが分かった気になってしまってちゃんと分からないから、どこに共感することがモノゴトの本質なのかも理解しないままに虚像の空間に身をおき時や他人に流されていくのだろうと思う。

「群盲撫像」とはよく言ったものだと思う。

きっと人間は、自分の見ている一部分が世界のすべてだと錯覚するようにできているのだ。

だからこそ、常に分かった気にならずに求道する心こそがもっとも教育や保育をして子どもたちを感化するに於いて重要なのだと私は思う。

そういえば、師匠もいつも何も具体的には教えない。
しかし、自らの厳しい実践において相手をそっと見守っている。
たとえ言葉をかけたにしても、自然に伝えられることだけしか伝えていないような感じもする。

見守るということは、違う言い方をすれば自らの実践に於いて自然に感化するということなのだろう。

どうしても世間的に偉いなどや変な刷り込まれた肩書きを持つと、どんどんそれに囚われてしまう。そんな時こそ、きちんと自分の未熟さを三省して平常心に於いて自らを磨き学んでいくことを忘れないようにしていきたいと改めて思う。

認めるということや信じるということ。

子どもの何を認め、何を信じるか。
そして、世界の何を認め何を信じるか。

今の大衆が持つ価値観とは違う物差しでしか世界はきっと変わっていかないのだろうと思う。そのためにも「感化」するということを念頭に常に置いておきたい。

子どもたちにも、私自身の自らの実践を持って世代を越えたあるがままの架け橋になるように先祖代々受け継いだ大事な思いを遺していけるように自らの道を醸成していきたいと思う。