スキルの本質

私達はITを活用し保育・教育界へ提供している。
昨今、インターネットの普及にも伴い携帯電話やATMやカーナビ、多くのIT関連の機器の中で生活するようになってきた。

しかし園に伺っているとまったくITを必要としないところもある。
よくお話をお聞きしていると使わない使えないのは大きく2つあると私は洞察する。

 ①よほどアナログであることにこだわっている方。
 ②あとは問題意識や危機感がない方。

①については、本当にもったいないなと思ってしまう。

アナログであることは当然大事なことだし、私達だって大切な面談やかけがえのない価値のあるものはアナログでしかやらない。
どうしてもアナログにとこだわっている人のほとんどが、操作が分からないや自分が変われないという消極的な姿勢からわざとそのように保守的になって「固まって」いる方がほとんどだ。将来、子どもたちが社会へ自立したときにはITに囲まれている世界へ飛び出していくようになる。子どもが使いこなすことが大事なのではなくて、その方向性を示していくまず大人や先生が「そんなの知らない・分からない・必要ない」と言い切るしそれを意固地に通すというのは本当に困ったものだなと私は思う。

どんな野に咲く草花もどんな動物や昆虫も、世の中に進化順応していくためにすべてを受け容れるか絶滅するかを選択しながら共生しているのに。

そして②については、本当に残念だなと思ってしまう。

保育の世界や教育の世界、そして次世代への思い、今やるべきことは山積みであるのに情報だけを素通りさせて問題意識や危機感を行政や専門家、他人任せにして自分は何もやろうとしない。そんなことでは、立派に自立した子ども像をこれからどう守っていけるのだろうかと私は思う。

私たちが提供しているITなんて、スキルが足りないから使えないのではなくよく統計を取り調査をしてみると単にその人の問題意識や危機感がないから活かせないのがほとんどだ。そして職場において経営者の威光でトップダウンでいくらやりなさいといったって現場にその問題意識や危機感が育っていなければいくら一時的に外部の専門家が使い手のモチベーションをあげたって本質的に使っていることではないのでその後の継続が難しいのは当然だろうなと私は思う。

下記は弊社のスタッフが日々の問題意識の醸成にやり取りしているメールの一部ですがここで紹介する。私達は園内研修などを通してこれらの課題とも日々向き合っていくことが求められている。

きっと参考になると思う。

>  どうしてそうなったのかを考えていくと、どの先生方も答えが無いのが保育であり、
>
>  教育であるとよく言われますが、だとしたらその答えがわりずらいことを検証していく、
>  議論を深めていく仕組みや組織つくりが必要だと思います。
>  見守るほいくソフトでなくても別なものでも専門的な保育記録をノウハウとして過去の実績として、
>  園は勿論、保護者や地域、教育業界で共有していけるものであれば良いと思います。
>
>  医療の世界で「うちの院はうちの院で取り組んでいますから」とは言わないと思います。
>  特に子どもの姿はその時代の大人達の創り上げる思想によって大きく影響されるのでは
>  ないでしょうか。保育園の先生方は保育現場だけの狭い視野や思想だけでは、
>  世の中の変化、地域の変化を感じることができず、子どもの置かれている状況の変化、子どもの
>  姿は見えにくいように思います。園の現場で日頃行われている専門的な保育実践を専門的に
>  記録し保護者や地域にわかりやすく説明し幼児期の発達の大切さに気付いて頂くためにも、
>  ソフトの必要性を改めて実感します。

>株式会社カグヤ オルタナティブコンサルタント田上貴士

私はまず問題意識や危機感とは、まずそれをトップと現場で共有することが何よりも重要なのだと思う。

それには、まず理念に基づく『求心力』と、それを共に働く人たちに信じてもらう『遠心力』が必要なのだと思う。

まずは、問題意識と危機感がなければ何もはじまらないしスキルもそれぞれの能力を活かしあうこともできない。

外圧的に厳しいことをさせたって、本質的にはそれは自立して自律する自己管理ができる人、つまりは自己実現できる人を育てることもできないと思えるからだ。

まずは、自分自身の問題意識や危機感を疑いまずは自分から子ども達のために何をすべきかを私達は自らの姿勢で示してITに取り組んでいこうと思う。

どんなときもまずは自分の至誠と内省を繰り返しながら危機感と問題意識をとにかく醸成していくことを日課にしていく。

情報リテラシー6

以前、どこかで情報は生き物だという話を聴いたことがある。

確かに固定しずらいのが情報であり、それを使う人、場所、時代、用い方、認識レベル、等々を考えるとまるで生きているかのように刻々と変化していくものだと思う。

身近でも情報といえば、正しく伝わっていないなと思えることが多い。

そういえば、現代は子どもの姿であっても分からないところで歪められているものが多い。たとえば、身近で言えばアレルギーやアトピーの問題だってそうだろう。

保育園幼稚園に行くと本当に多くの子どもがアトピーやアレルギーで辛い思いをしている。治療方法といえば、大きく分けて2つ。薬を多く使うか自然に戻すことしかない。

年々次第にかなりの数が増えているにも関わらず大きな問題にはされない。

単に個人の食やストレスだけではないもっと隠れた大きな贖罪が数々の企業群、そして過去の利を優先する人の道理を外れた行いが時を経て無意識化されるように情報が操作されたことだってあると私は思う。

そうやって歪められたものを正しくみようとすると、あまりにも身の回りの多くのモノゴトが全てとんでもないくらい危険に溢れていることを知ると人はそれを受け容れず逃げようとしてしまうのだと思う。

エコ活動をしてみたらすぐに分かることだが、合成洗剤も石油もそして添加物、加工食品に農薬、、森、水、煙、土にとありとあらゆるものがもう不自然の中で当然に塗り固められている。

多くを聞くと戦後の高度成長期に行われたものがほとんどだと聞く。
そしてそれを後続が踏襲しながら、相変わらず利だけを優先しアメリカ型の資本主義の成功の陽炎を絶対だと妄想してそれを「まことの情報」として気づくこともなくなっているのだという。

しかし、田畑と同じように必ず蒔いた種は実をつけるように、悪い種を蒔いて良い実がなることもないように、この種の問題を今、ここで解決せずに先延ばしにしたら未来の愛する子ども達に重く圧し掛かることを我々大人は寸時も決して忘れてはいけない。

この贖罪や、先達の過ちは気づいた子孫が改善していくのが定めだからだ。
それこそが、人の道だ。

そこで話を戻すが、保育園幼稚園でも多くの歪められた情報の環境下であっても「あるがまま」である昔からの普遍的な『子どもの姿』を守っていくことが求められている。

そもそも保育園幼稚園に預けるということ自体が天地自然に照らせばどうかと思うのだがだからといって保守になり頑なになれというのではなく時代と環境に順応するために「創意工夫」して本質からズレないように努めることが理だと私は思っている。矛盾ではなく、それが自然界にある成長の理なのだと思う。

そんな人的作為の中ですぐに必要になるのが情報リテラシー能力だが、その中には歪められた情報を正しくして理解してもらうためのスキルも必要になると思う。

そしてそれを扱う本人がまず本質からずれないようにしていないと、唯でさえ歪められているのだから歪んだ方にあわせていけばあわせていくほど情報のやり取りは混沌としていく。

そしてもしそれが大変だとそこから逃げれば、「事なかれ主義」に入り保護者もどんどんエスカレートして巷でいう「モンスターペアレント」に成長し隔離されるのだろう。

しかし本当はみんな子どもを深く愛するが故にそうなってしまったことも忘れてはいけないと私は思う。そしてその「子どもを深く愛する」とは、自分の子ども時代の過去もひっくるめて愛したいと思っていることももう一方で忘れてはいけない道理だと思う。

天地自然の道理として、地球に在るすべての生物の親は子どもを愛するようにできているからだ。

天の理を弄ぶかのように情報を操作するのは大衆心理の欺瞞でありマスコミの持つ安易な情報提供と現世にある大衆の人物不足による悲しい性なのだと私は思う。

だからこそ、本質や真理真実で根気強く歪められたものを解決していくためにも情報は「天地自然の理」に照らしてから観て話していくものがいいのだと思う。

たとえば、子育てであっても天地自然の多くの理が使える。

・雨が降れば地が固まり、そして多くの栄養が太陽によって恵まれること。
・今のためではなく遠大な先々の準備を自然は循環して行っていること。
・昼と夜のように、活動と休息で自然は安定し成長していくこと。
・全ての生物は、どんな行為も地球と共生しているこということ。

子どもは自然そのもの。

子どもが扱いずらいという人がいるが、それは単に自然から離れている人だと私は思う。

自然は思い通りにはいかないから、寄り添いともに生きることで「人間」になるのだ。それが「人の理」であるのだと私には思えるからだ。

これからの園や、そこで働く職員は外部の歪められたものですら、それをどう受容して正しい気づきを与えていくかは目下の課題だと思う。もちろんそれは園だけの問題ではなく、取り巻く企業や地域とも一緒に進めていく必要がある。

まず私たちカグヤが率先垂範して、まず自分たちが世の中の曲がった歪んだ情報と正対し天地自然の理に沿って大人としてのモデルを示していこうと誓う。

今気づいて変わることで、子ども達に未来を譲っていけると信じて・・・
自分にしかできないことをより見つめていこうと思う。

一円観

「論語」や「大学」を読み進めるうちに二宮金次郎に出会うことになった。

二宮金次郎のことは、幼い頃に通った小学校にその銅像がありいつも目に留まるところにあった。しかし、その頃はなぜ薪を背負って本を読んでいるかなど知りもしなかったし興味を抱くこともなかった。

そして先日、ある方に「あの薪と一緒に読んでいる本が中国の四書「大学」「論語」であるのを知っていましたか?」と聞かれた時に強烈な衝撃と関心が生まれいてもたってもいられず、すぐに参考文献を取り寄せこのお盆中にじっくり時間が取れたのでその二宮金次郎の生き様に触れることになった。

世の常の不思議というか「思い」というか観得ない世界では根本思想は繋がっていて、自然に引き合わせていくのだと思うとどれだけ自分の心が常日頃からしっかりと世界の発展と未来の平和に対して方向性が正しく根付いているかが問われているのだと思うと改めて厳粛に自分を省みることができる。

師匠との出会いからの数々の教えも全ては天地自然に一本木の大樹に貫かれており、そしてそれは自らが人間であるがゆえに出会わなければならない業のようなものに彩られ作為に創られているではないかと私は思う。

師匠はすべて同じことを違う言い方で仰っているだけなのだ。

この方も、日本の未来、如いては世界の平和のために実践を貫かれた方だったことを知り心から尊敬するともに改めて今の自分の不肖に気づくことになった。

よく私は「分かった気になるな」と座右にしてながらどうしても自分の脳が分かった気になろうとする衝動に負けてしまうことが多い。その都度、どうしても片方に思想が偏り決め付けてすべての戒めを忘却させようとしてしまう。

今では昔とは違ってそれではだめだと今では本能や潜在意識や深夜の夢で目覚めさせてくれたり、はっとした気づきを身近な出来事で与えてくれるようになってきたがまだまだその回数は多くすぐに揺らぐ自分に何度も三省するようにして道を繋いでいる。

私は常々ゲームやテレビ、アメリカ型近代化の倫理観がズレた今の時代がイケナイのだと思っていたら、この二宮金次郎の時代であっても同じように人と天の間にある軋轢、キョリや刷り込み封建的なズレなど今の時代とまったく変わらず人間がそこにあるがゆえの宿命が同じように関係していることが分かった。そしてその中で自らの厳しい実践を通して、結果を出していたことに改めて心から感動した。

ここでも気が付くと自分の都合がいいように解釈して悩んでいる振りをして逃げているだけの自分が居ると思うと、二宮金次郎のように不動心に自らを燃えさかるところに身を置き一生を掲げる覚悟をもってやっていたかと思うと情けない自分への思いと今からでも間に合うぞという決意新たな思いにかられる。

私が特に心が震えるほど衝撃を受けたのは、成田山新勝寺での21日間の厳しい断食と参篭による悟りの境地、不動尊からの「一円観」だ。不動尊とは、不動明王の持つ「動かざること尊し」のこと。

   『一円観』

すなわち、善や悪などを世の中のありとあらゆる対立するものを、ひとつの円の中に入れて観るということ。

「打つこころあれば打たるる世の中よ 打たぬこころの打たるるは無し」と詠んだ。

(人には絶対の善人もいないかわりに、絶対の悪人もない。至誠をもって当たれば、復興事業を妨げる人々の心をも動かすことができる)

それから二宮金次郎は、

「神徳(天地自然のめぐみ)、公徳(社会の恩恵)、父母祖先の徳(肉親のおかげ)に報ゆるに、わが徳行(報恩、感謝、積善)をもってする実践の道」と定義した。

そしてこれを論語の以徳報徳(徳を持って徳に報いる)「報徳」とし、その真髄を極めるための道の実践に生涯を捧げた。

さらには、その実践に於いて【至誠】【勤労】【分度】【推譲】(誠実勤勉に働き(至誠、勤労)、収入に応じて支出に限度を設け(分度)、余裕を生み出してその蓄えた余裕を、次世代や地域のために譲っていく(推譲)を自らの理念として実行した。 (「二宮金次郎の一生」三戸岡道夫著 栄光出版社より)

どの言葉も、今の私にはズシンとくるものでこれ以上これ以下のない方向性を示したものとなった。

そしてその凄まじいまでの信念の中に、理想を掲げて妥協をしない生き方を学んだ。理想郷と誰に何と言われようが、好きに言いたければ言え、自分の理想は自分だけが知るという境地だろうか。

世界のために、そして次世代のためにやるべきことを選択して生きていく。

こんな素晴らしい方が日本に居て、今の私が居ることがどれだけ自分を勇気づけてくれるかと思うと感謝で泪がこぼれる。

「道徳を忘れた経済は罪悪である。しかし、経済を忘れた道徳は寝言である。」

まだまだ分かった気になってはいけない。

私は経営者で会社という企業をもって教育界とともに次世代に貢献していくと誓ったのだ。正しい入りと出、利と不利をもって世の中に感化する信条を大事にしていく。

これからも、日々の実践を積小為大の信念を持って向かっていこうと誓う。

いつの日か、子ども達が変わらない大切なものを座右にしながら平和な世界を築けることを願い、この邂逅にも先祖が導いてくれていることを感謝して歩みを深めていきたい。

下座の行

仏教には下座行というものがある。
下座にありながら感謝に気づき感謝を覚えていくというものだったと思う。

どこまでが下座でどこまでが上座かなんて区別はよく分からないが、生きていて日々の仕事をしていたらそれに自分で適当に色をつけ自分なりのいい加減な解釈で小さくまとまっていて満足していたり、無意識に真理などから意識を遠ざけてさも分かった気になって自己充実していたりする。

人は、雑念というかそういうものにすぐに支配される。だからこそ想念が明瞭で信念の柱ができないとすぐに自分流の都合の良いやり方を自分勝手に正当性があるように見せ掛け納得してしまうのだと思う。

身近な仕事を振り返ってみると、多くの人のほとんどがそれで他人と行う仕事の本質を歪められているのだなあと私は思う。

本質で仕事をしようとすれば、それぞれの内観から引き出した人生観というか揺ぎ無い解釈が交じわるから一緒に最期までやり遂げる事ができるのだろう。そこに方向性があっているかどうかさえ分かれば部分はたいして問題にはならないのだと思う。

そんな人間関係を創ることができればほぼ事は成るのだと思う。

そしてその方向性を強く念じ、固い信念さえあれば、必要な人材は次第に身近に集まってくるのだと思う。

私は今思うととても運がよく、幼い頃からお寺や神社が好きだったので手を合わせる機会に恵まれた。これは、今、仕事をしていく上でも本当に助かっているなと思う幸運のひとつだ。

私が出会う素晴らしいご縁や場、また運などを鑑みるとそこに「呼ばれる」ように行動することが多い。そして「呼ばれた」先には必ず素敵なご縁と邂逅と意味が待っている。

これも日々の祈りに満ちた子ども達への思いが引き寄せているとしたら、本当に色々な方々との邂逅と天恵、そして今、先祖代々が引き継いでくれた大切な魂がココに在る奇蹟に深いよろこびを覚える。

すべての生き物は、決して単体では生きてはいないし生きられない。

大勢の方々の慈悲や愛により、自分が地球に往かされているという心の安息観がある。

そしてこの日本という八百万の神々がいる美しい国に生まれたことが本当にうれしい。

最近はよくこんなことを思えるようになった。

そんな中、今の日本に住まう大衆はあまりにも身近すぎてなのか、目に映る派手さに心を奪われてなのか、教育が安直になったせいなのか、日本のことをあまり真摯に省みなくなってきているのではとよく思う。

先日参拝した明治神宮だってほとんどが外国人の観光客、また世界遺産に代表される霊場や聖地もほとんどが外国の若い人達が関心があっても日本の若い人は関心が少ない。

教育というものがもし、操作しても良いというのならば私なら今の自分が活かされてきたこの日本を知ってほしいと切に願う。教育再生というよりは、そもそも人間の過ちを観つめ新生する方がよほ大きな改善になるのではと思う。

どんな出来事もそもそも無常の中にあり、そしてそれはそもそも人間が創り上げた感情の混乱や欲の混沌だったりして固定化され姿形を表して大勢の執着を広げていく。

それもどうせ長くは続かない。
万物は移り変わるという真理はなくならないからだ。

しかし、もしその姿形になる以前の信念が歪められて遺せていないのならば、子孫は隠れた意味までは正しく受け取れないのではないかと危機感を覚える。

だからこそ、何をもって「見る」とするのか、何をもって「やる」とするのかはよく結果から考え直さないといけない。私達カグヤは常に、驕らず下座の行を忘れず、粛々と自分へ矢印を向けて脚下の実践を積み上げ次世代へ譲っていけるようにしていきたい。

この今も、受け継いでいるものの大切な意味を忘れずに天命のままに歩んでいこうと誓う。

プロセス

本日は、横浜にてフォーバル社主催の「子どもと園のための情報セミナー」にて講演と対談をしてきた。第一部のテーマは、「情報という媒体の本当の使い方」について。

カグヤは創業以来、ずっと園のIT環境の創造や支援に尽力してきた。
無形の情報をどのように可視化していくかをテーマに、様々なサイトの製作に関わってきた。その中で、園の良いところをもっと引き出しながら保護者や地域へ正確にきちんと伝えていこうと様々な情報の中から「こだわり」を絞り込みそれを具現化するお手伝いをしてきた。

5000近くも園を訪問し様々な情報を問題意識と危機感を持って周ると同じような園でもまったく違ったものが情報として観得て来る。

師匠も仰っていたが、力がある人とは「異なるものの違いが分かるのではなく、同じもののなかから本質的な違いが看取れること」なのだ言った。私も情報という分野についてはまさにそれが最初に身につけるべきリテラシーのひとつだと思う。

園では子ども達のために日夜努力しながら子どものための環境をそれぞれに整備していて、そこには園長の人生観や保育者の思い、創始からの文化などがよく反映されている。

自分で分かった気にならずオコガマシクも誤解を恐れずに語れば、私が園へ訪問して玄関に入ればすぐに雰囲気というか園がどのような状態なのかが直感で伝わってくる。ほとんどそれはよほどのことがない限りはあまり外れない。

これも怖いことだなと思うのだが、科学的ではないけれど理屈ではこのように分からないものが全体ではオーラのように理念は外側ににじみ出て表出する。

そうやって、本物は集まってくるし、本物は出来上がってくるのだと思う。

しかし昨今、目を喜ばせる刹那的な情報だけを売りに変な業者がどうも子どもを見世物にして安直に保護者のニーズに応えようとする傾向が見られるのも本当に悲しいことだと私は思う。早期教育をはじめ、子どもの衣装や園バスなど、いわゆるすぐに分かりやすいものばかりに飛びついていこうとするのは果たして子どもを愛するという観点からはいったいどうなのだろうかと思ってしまう。

なんだか贋物思考というか、小手先のマニュアル主義的なバブル時期の虚妄のノウハウが見え隠れする。

そういえば話が違うが先日、ある人から各々の会社の昨今の新卒採用状況の話を聴いた。学生というか若者をどうしたいかという観点では園と同じようなものなので参考になった。

現在、団塊世代の一斉定年を迎え新卒学生採用のニーズは高まっている。大手企業が様々な媒体を使って学生を募集する。そして中小企業は、同じようにより個性を出してよい会社だと表面上を売り込み様々なツールで引き込もうとする。さらには、大手は内定を出しても学生が何社も受けるのでとにかく面接では数多くの内定を出し残った人たちからまた採用の絞込みを行うようにしている。

学生は、すぐに内定が出るので自分が如何にもすごい人材だと錯覚しているそうだ。だから学生の態度や姿勢、その志の品質などどんどん下がっているそうだ。

弊社の契約している人事コンサルタントは今までに一万人以上の人材の面接をしてきた方だ。その方は、これはいけないと面接時に思ったらその場でその学生を叱り飛ばし説教をしたりする。

熱い人なのかと思っていたら、日本に立派な若者を育てたいという真摯な信念からなのだろうと今では思う。

今はそこまでしない世の中になったが、逆を言えばこんなことはそれだけ企業側がしっかりと学生というか日本の若者を真剣に育てようという志があれば以前は当たり前にできていたことだと思う。

今は、当たり前のことがなくなり特殊なことばかりが注目され、みんな当たり前のところで滅亡していく。

きっと平和ボケとはこんなものなのだろうなと思う。

この先の日本の大混乱と人材不況と未来の欠乏には心を本当に痛める。
できることならば、そして間に合うことならば、今、思いある人たちと気づいて世の中に未来の素晴らしさを遺して生きたいと本当に思う。

話を戻すが、保護者も子どもも地域も職員も業者も、みんな次世代のために「育てていく」という言葉がとても大事ななのではないかと思う。

「育てていこう」

この言葉には、未来へ引継ぎ高い志と使命感が垣間見える。

私達は、日々の仕事の中で様々なかかわりがある。

安直に目先の「損得勘定」で割り切るのではなく、私の造語だが「尊徳環状」で永遠に次世代へ周していけるようにしていきたいと心底思う。

私がご縁があり経験してきた様々な出来事から本当に園が持つ素晴らしい個性や情報が、ちゃんと世間へ情報として伝わり、保護者、地域を育て、子どもを変な見世物や見せ掛けにし世の中が異様に蹂躙されないように高い志のままに、情報(IT)というものをこの先もずっと質を高めて学び続けて行きたいと思う。