信じる力

新しいものを生み出しそれを世の中へ出すときは、そこに創始の思想の泉がありその出水が源流となって少しずつ道を創り仲間が集まり小川になりその後、大河になって最後は海になるのだと思う。

まずは、その滾々と湧き出る自らの信じる心の泉がどれだけ零れ毀れるほどの想いの醸成がなされているかどうかによるのだと私は思う。

何かをやろうとすれば、まず「信じる」ということがまず自身に問われるだろう。

信じるとは、何を持って信じると定義するか。
それは自分を信じることなのだと私は思う。

何事もまず自分が信じることができなければ、相手を信じることはできないと私は思う。でなければ決して相手から深く信じられることもない。他人は信じるものによってしか選択と判断はしないからだ。

観る目、見抜く目、見分ける目、それらは正しい見識と正しい人間観によって判断するのだろうがまずは信じていなければそれは全て虚像であり虚空であるのがこの世の常だと私は思う。

人間は、欲に負けて信じようとするのと欲に勝って真実を貫こうとするではその本質的な「信じる」はまったく意味が異なると思う。

「自分を信じる」とは、必ず後者の方の意味であるのだと私は思う。
どちらも欲だといえるが、小欲と大欲では全然意味合いが違う。

大欲は大志になるのだ。

常に選択は自分側にあるのだから一度決めたら覚悟を持ってそれをやり遂げるまでそれを信じる勇気が定めた自らの信じる目標達成に対して初心を維持できるか。

できると思い、自分を信じる。できないことはないと自分を信じる。
想念実現だと誰よりも自分が強く念じることなのだ。

以前、今よりもっと若く会社の創始の頃、色々な人たちから色々なことを言われた。そこにはとても悲しい言葉もたくさんあった。今ではそれはその人の言葉ではなくそれは自分の中にあったのだと思えるようになっている。

あの頃は、なぜ私がこんなに信じているのに他人はこんな酷いことを言うのか?なぜ一番身近で支えて信じてほしい仲間が裏切り離れていくのだ?と常に悶々と相手に矢印を向けていたことが多かった。

それが間違っていたと気づくまでは・・・きっと焦りと驕りと不安の日々をすごしていたのだろう。

色々な人に信じてもらうには、まずとことん自分が想念が最明瞭になるまで透徹できないとできるわけがないのだと今では思うようになった。

信じるとは、自分がそれを信じるから信じるのだ。

そして異なっていながら違う言い回しで同じ言い方をすれば、

自分を信じることで、相手を信じる。
相手を信じることで、相手が自分を信じる。
相手も相手を信じることで、自分を信じる。
自分が信じた自分が信じる。

信じるとは、まるで無限の可能性を持った奇蹟の泉なのではないかとさえ思うことがある。

それは単に世間がよく定義する安直にうまくこなし逃げるための信じるではなく、本当に深い信念と哲学、見識と実践から天に身を任せ、人の道を信じるに近い、信じるなのだ。

騙すとか騙されるとかは信念の隙間や心の弱さの表出であって、それは天地自然の理に照らし精神を研ぎ澄ました物の観方を習慣にすればある程度はその理由が具現化されるのでほぼ問題は解決していくのだと私は思う。

・・・

今、私は昔であった人たちに本当に深く心から感謝している。
信じきれていなかったのは、私本人だったと気づかせていただいた方々だからだ。

   観自在菩薩。

どんな時も、自分が信じるものをカタチにするために色々な顔で眼前や眼光、心地に現れ本当に必要なものを私の信念に与えてくれる。

今は、その信じる力を感謝に換えて道なきところに道を創る原始の魂になってこの保育界で挑み続け融合させ続けるカグヤの原動力になって世界と海を目指すことができている。

誰もやらないのならば、自分がやる!

これはまったく変わらない私の中の信実。

もしできるのならばこの保育界のあらゆる問題の中で、大事なものがあるのにそれを御座なりにして目先の狭い料簡の中にある小さな争いには囚われたくない。

もっと皆で力をあわし、たくさんの問題や課題がある中でみんなが自分にしかできないことで協力して本来の子ども像、本質的な「あるべきよう」へ新生させていきたい。

もっと信じる力を強め、カグヤが次世代への未来の森を守ると新たに誓う。