ルールという豊かさモノサシの定義

私たちの会社には、私たちのルール(約束)が存在する。今の時代ではルールは法律だけで倫理や道徳などのものは特殊なものになっているが、私たちは社会の風潮とは関係なく次世代に繋がる当然のことだけは会社でルールにして守るようにしている。

その中にはたとえば、こんなものがある。

@歩道は点滅信号などでも渡らない、また赤信号を横切らないなど。

当たり前だよとあるのですが、実行してみるとなかなか難しい。都会の朝は通勤などで足早に横断歩道を駆け抜けようとする大人たちにつられて無意識に渡ってしまいそうになる。

周囲を見渡すと子ども達が居る。新一年生や幼稚園に通う子ども達はまだ分からないので周囲の大人たちと一緒に行動しようとするからとても危険なことだと感じる。

昨日も、ボランティアの方が旗を持って立ってくださっていたが反対側では子どもが無理に渡ろうとする大人につられて赤信号を無意識に渡ろうとしていたのですぐに引き止めた。

最近は、なるべく出張がないときは朝その子ども達が気になるので同じ時間に自宅を出てその子ども達がちゃんと横断歩道を渡るのを見守りながら出社するようになってしまった。だいぶ最近は気づいてくれているように思う。気づかないのは相変わらず足早な大人たちと危ない車の運転をする大人たちだ。

他にもルールがある。

食事をするときには、必ず「いただきます」「ごちそうさま」をすること。タバコは吸わないこと、合成洗剤は使わないこと、等々色々とある。

全部、カグヤでは守らないといけないこだわりになっている。

私はこれをこう考える。

ルール(約束)とは、一人で生きているのではないのだから存在する。

自我が生まれて境界線を引いたのが人間なのだから、その代償に自己と他者のためのルールを創った。しかしなんだか今のこの国の自由の定義は、自分勝手だと思っている人が多いと感じる。これも教育や社会、国家の衰退を示すのかもしれない。

自由の定義は、幼い頃から教わっていくことがなければこんな風になるのだろう。個の自立などは、この国の一斉画一思想の中では揉み消されてしまうのだろう。

しかしこんなに身近でもルール(約束)が定義されないのは子ども達には危険だ。

私が思う自由というのは、豊かさのようなものだ。

スローやロハスなども私たちの会社では柱にして講演や研修をしていることが多いのも自由を学ぶためにやっているのだと私は思う。

改めて説明するまでもないがスローやゆったりなどは、何も時間がゆったりや遅いなどの意味ではなく「心が豊かであること」を定義しているのだ。

自由とルールの必要性とは、この自我や他者がある境界に於いて「お互いを思いやる真の豊かさ」のために約束という共通定義を設けたのだと私は思っている。別に競い合うためでもなければ奪い合うためのものではないのだ。それはやはり「思いやり分かち合い寄り添い生きていく」ための無形の財産であり無形の文化であるのだ。

だからこそ「ルール」を正しく認識し、それが制限して縛るものではなく本当は豊かになろうよと皆でそれぞれの生きるものが共生し地球の未来が永続するよう素晴らしい社会を創造しながら夢に向かって自己実現しようとする大事なモノサシにしていければいいと思う。

ルールが世間で厳しいもの、なんとなく権威主義や管理主義に感じるのは学校教育からの刷り込みなのだ。学校では皆と同じという平均が平等だという間違った平等を教え込まれ、個性が落ちこぼれや変なやつ扱いされ無意識に押さえ込まれてきた。変な正義を振りかざすための大人が勝手に作った管理用のルールだったからどうしても嫌な感じがするのだろう。

だいぶ話がそれたがカグヤでは他にもこうやってどんどん自分達の豊かなルールがたくさん生まれている。

その御蔭で豊かさが保たれ、そしてその御蔭で他者を思いやるロハスを実現できることがとても幸せなことだと皆で話し合えている。

これからも私たちの社業を通して本当の意味での自由とルールといううものを保育園、幼稚園の大人たちには理解してもらえるように信念を通していきたい。

私たちの定義するコンサルティングは、常に『自分に矢印』

矢印を自分に向けながらどこまでこのカグヤ自身の実践にそれぞれが真面目に取り組めるかが私たちの生命線なのだと今の習慣と覚悟を日々新たに深めようと思う。