場の邂逅

先日、ある園で研修を行った。
その時に、大勢の保育職員の方々と4時間にかけて対話を行った。

それぞれ悩みもあるし、問題を抱えている。
それはほとんどが日々の喧騒に流されて、何をもうどうしていいのか自らで考えることができない悩みであることが多い。

そして、マンネリ化的に時間が空いたら予算ができたら色々な団体や今流行の講師の研修会に参加して研鑽を積んでいる気になっている。

考える時間や力が不足しているから知識人や話が上手な人の話を鵜呑みにして自らで答えを探りとろうや自らで答えをひねり出そうなどのことはせず、言われたことをただ淡々と実践現場で機械のようにそれを続けていたりする。

「自分で問題を発見し、自分で考えて、自分で行動し、自分で解決する。」

これが前提になっていない組織は本当に脆い。

こうならないのは、やはり責任というものが現在ピラミッドの天辺、いわゆる園長や社長にだけ負わせて自らの責任を放棄しているから起きるのだろう。これは別に雇用主や雇用者の原因だとかいう単純な問題ではなくまさに日本の教育の学校体質や官僚体質の刷り込み文化の一つなのだろうと私は思う。

世界や外国では、組織のピラミッドは逆三角形になっていて責任は現場が持つ。個人の自己実現なんて当然だと保障の要になっている。そしてその現場で働く人が最大限豊かに仕事に取り組めるように会社の幹部やトップは援助し委任する。トップなんて組織で言えばただその会社の中での決済が大きいだけでだからエライなんてとんでもない思想だと私は思う。

理念さえしっかりしていれば、組織なんてそんなこだわるものではないのだと私は思う。

それなのに日本の組織概念では、そのトップに責任を負わせその人をみんなでヨイショして最期は「俺は知らない」と逃げ切ろうとして卑屈になっていく。その卑屈さに負けないようにトップがもっと卑屈になっていく。

これが刷り込みに持っていかれている悲しき集団心理なのかと思うとゾッとしてしまう。

本当にこの国が変わるためには、それぞれが「自由や平等」の本来の意味をちゃんと幼いときから国民や大人たちがディスカッションをして学びあって助け合って寄り添っていく文化を創造していかないといけないのではと本当にこの今も危機感でいっぱいだ。

私が常に園の研修に於いて、色々なジャッジを自らに省みるときにとにかくも絶対に重要だとしているものがある。

まずは、『「場」を創る』ということ。

そして次は、その場に於いて決して「場が穢れるような判断はしない」と決めていること。

どんな時も、その動機や考え方、思想が正しくなければどんな結果が現れようと最後それは意味のないものになると私には思えるからだ。

場を穢すとは、例えばある仕事に取り組むことに対する自らの姿勢が自分都合の欲や相手を省みない勝手や、妄執に囚われていたりしないということだ。迷っている惑っているなんてならその「場」に対して失礼極まりないと特に戒めている。

常に、場に臨んでは、「皆が幸せになるために」や「子どものために」や「よりこの人が持っているものが引き立つように」や「ご縁がより光り輝き多くを照らすように」などを最も重んじて取り組むべきだと私は思う。

世の中には色々な人がいて、TVでもその情報の断面を切り取って見ていると強烈な才能や個性でさも成功者や幸福者など騒がれる人がいるけれど、どんなに色々なスキルや器用なテクニックがあったって、そういう場に対する心構えや動機が正しくなければ結果は全部台無しになるのだと私は思う。

以前、ソフトを開発したブログでも書いたが「スタートがモノゴトの本源であり、そのスタートが全てのゴールを決める」と言った。

これもまったく私にとっては同じ意味だと思っている。

近くGT後援の北陸ブロック保育環境セミナーを富山県で開催する。
GTの会員縁の皆様が主体的に関わりあい質を高めあう地場でのセミナーだ。

このセミナーでも同じように子ども達のために自分がまず変わろうと勇気を持った人たちが次世代のために未来を創り出せるような場になりそのお手伝いができればと本当に心から願う。

我々は日々生きていれば、様々な出来事に出会うし起きる。

その中で、自分がそれを解決するときにどれだけ無私や無我であり穏やかなままに「最高の質の高いものを生み出せるか」だけの姿勢がモノサシの軸になるのだと思う。

誰がなんと言おうが、私はその人の自らの体験からの確信だけが最も尊い真実だと思える。

だからこれからの子ども達にも、社会のただ知識が多いだけのエライ人やお金持ちの言葉で間違ったシンジツを鵜呑みにしたり刷り込まれないように、自らの脚下の体験から「場への正しい思想」を日々持ってもらえるように自らの目と耳と鼻と舌、五感で語りかけれるように自ら実践を深めて質を追求して生きたいと思う。