道場

先日、あることに気づいた。

よく色々な園長と話をしていると、園長の仕事は経営をやることだと言う。

本当にそうだろうか?

園長の仕事を考えてみる。

果たしていったい何をすることが今の時代の園長には求められているのか?

先日、園長未設置園というのをあることを知った。
そこには園長がいない。
そしてその園長未設置園をよく観察して伺ってみると特徴がある。

基本的には園長はいなくても園は運営できる。
正職員にほとんど任せているからだ。
年配の人もいるし、保育自体はその人達に任せていればそれでいい。

全国には同じように園長がほとんど園にいない園は本当に多い。
地域の仕事なども多忙で園にはあまり関われなくなっている場合が多い。

そして園長がいつも園にいるのに同じようになっている園もとても多い。

だからそういうところで話を伺うと「うちの職員はよく遣っている」と皆口を揃えて話すが、よくよく洞察すると「問題が起きないから良い」のであってそれは「理想を一緒に実現している」のではないことが多い。

そして何かをキッカケに一度理想を実現しようと突然園長が思い立ってしまったら職員の猛反発に遭い大量退職や混乱などに繋がる。

それは園長の人間性がどうだこうだもあると思うが、本質的には「今まで何もしてこなかったツケ」を清算しているだけなのだ。

「放ったらかしておいてバッサリマネジメント」ではそれはちょっとどうかなと思ってしまう。

私は理念なき理想なき園は、園長未設置園と同じに見える。

なぜなら、園の職員と個人面談をしてみるとよく分かるからだ。

園長未設置園の職員と、園長がいつも忙しい忙しいと園にあまり出てこず、後は任せたからと何も自らの専門性や見通しをつけようともせず、「分かった気になって」いる場合の園の職員は、ほとんど同じようなことを私に話すからだ。

園長と一緒に理想を実現する仲間が、果たして「ぼんやり見えている」だけで本当に良いのだろうかと私は思う。

トップが観ている、観得ている、観るために努力して身に着ける「見通し」がどれだけ精錬透徹されているかが重要であって、それをどれだけの職員と同化するまで本質的なコミュニケーションを積み重ねているか?

やはりこれは自分自身の実践でも日々感じるのだが諸所の問題の総責任はすべて組織のトップがどうあるべきかを問うだけのことだと私は思う。

園長はよく「私は職員と同じではない、経営をしているんだから」と言う。
しかし、そんなことは誰も聞かなくたって分かる。

では「いったい何をすることで同じなのか?」と聴いてみると答えられない。

園長の遣ることは本当はもっとたくさんあるのに、外では園長会で分かった気になるために同調したり、自分の考えと違うところばかりを探していたり、業者の創った大人目線の商品を最先端だと一緒に共感したりしている。

また内では園に長く居るや環境は用意してやったや研修に出してやっているや先生に決めさせているからと言うがそれも一つであってもまずは本当は何を自分がしていることが園にとって子どもにとって一番良いのだろうか?

まずは自分の仕事の定義を哲学的にも深層的にも正しく固め、不動の軸を創出し、志がキチンと腹に据わっていなければ経営は本末転倒してしまうと私は思う。

経営が上手いとは、資金繰りや流行や人気などの分かった気になったことだけを言うのかと思ってしまう。

経営が上手いとは、そこに在る場が楽しいや遣り甲斐などがありそれぞれがそれぞれの個性や天真を発揮できなら共生し、個々で幸せに感じることができる場を持っていることではないかと私は思う。

何を持って経営と定義するかでもその方向性は変わってくる。

私は、日々、理想の実現に向けて人間学と時務学をバランスよく修養し今、ここに在る場を自らの練磨の道場として質を高め続けることが生きる本懐だと思っている。

そしてそれはまずトップが、一つの道で決めた自分を含めた今在る環境の中での理想の実現という道や志よって場は育ち、邂逅が出来るのだと私は思う。

どんな時も、それが子どもの未来の夢や志にまで影響できるようにまずは私たち自身の仕事を通じての場を、自らが最期まで遣りぬくための道場とし日々怠惰な精神を戒めながらコツコツと明日を切り開いていきたい。

道元禅師の遺訓にある

  「是の処は即ち是れ道場」

問題が山積みであることを前向きに解釈し、だからこそ自分にしかできないことで自分が遣りたいことを思う存分楽しみながら怠らず勤めていきたいと思う。

感謝