見学の本義

今日は、富山県滑川市の同朋幼稚園内で公開保育と協同的な学びの研修を行った。

一般に私たちは多くの園を訪問しているけれど、園のことを外側から観る姿と、内側から観る姿はまったく異なる。

差を看取るというのは、何か一定の定義されたモノサシがないと公平公正に情報を看取ることはできないと私は思う。

よく園見学というと、すぐに他の園と自園を比較して違いを探す人が多いが、もともとそんなところを探ったってそんなの違っていて当たり前なのだからそういうものを観るよりはそのものの本質をちゃんと見学したほうがいいのだと思う。

またないものを探すよりも、どこが同じで何が異なるのかをちゃんと看取る方がその後の実践にとってより有意義に情報を活かすことができるのだろうと思う。

見学というのは、何を「見て」何を「学ぶ」のかがちゃんと定義されていなければほとんど本質は観ずに素通りしていしまうものだからだと私には思えるからだ。

私の思う見学とは読んで字の如く「覚る」ことであり、まず「見」は「外差と内差を覚り見る」ことであり、「学」とは「深く掘り下げ掴み覚り取る」と定義している。

一つの道で、思いを定めたら文字通り「一生涯かけて学ぶ」という覚悟と軸がなければ探究心や感受性は決して育っていかないと私は思うからだ。

何でもそうだが、「続けることができる」というのはちゃんと信念が腹に据わっているからそれができるのだと私は思う。

腹が据わらないことをいくら学んだってそれは本当に学問なのかと思ってしまう、それはあくまでただの上辺の誰かが語った知識であってそれは単に知っているだけで、ちゃんと認識して理解して覚り実践できているのとはまったく意味が違うと思えるからだ。

それだけ「継続する」というのは、この世の現実世界では嘘がつけない真実のものなのだと私は思う。

話は戻す。

今日、公開保育の研修の最後に「自由」の話を師匠がした。

本当の自由とは、誰かから指示されたから動くというような他律ではなく、自分で正しくそのものの意味を理解し主体的に自律することができるのを「本当の自由」なのだと言っていました。

これは師匠がある時、ある子どもが夢に出てきたという話の一部です。

私なりの解釈で話し言葉を正確に抜き出し書き言葉にしたわけではないので少し本話と表現が違っているかもしれませんが書いてみます。

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こども 「先生、ここは何でも自由にさせてくれる保育園なんだよね」

先生 「そうだよ」

こども 「自分でやりたいことを思う存分自由にできるんだよね」

先生 「そうだよ」

こども 「でもね、先生、、、」

先生 「なんだい?」

こども 「実は僕ね、、自分でやるよりも言われてやらされる方が楽なんだよ」

先生 「そうだよね、やらされる方が楽だよね。でもね、いつまでもずっと先生があなたの傍に居て指示してあげることはできないんだよ。」

こども 「うん。分かった、、そうだよね、、僕、自分でやりたい!」

先生 「そうだね、辛いけれどこれからは先生から言われるからやるのではなく自分でやりたいことを理解して自分で自律することが「自由」ということなんだということに気づいていけると良いね」

・・・

(※ 話中の解釈はすべて私の主観で書いています)

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自由保育は放任ではない、もちろんちゃんとそれをやる先生や子どもが自らの理念や使命を理解しそれぞれに自分で自分を律することができないならば先生は絶対に子どもに自由は与えない。

それではただの「放任=ほったらかし」になってしまうからです。

そして自立する子どもの側も、いつまでも依存した他律のままでは本質的な自由が得られることがない。自らの主体性に於いて、自分の天真天爛を見出しやりたいことをやるために自分をコントロールし他と共生して幸せに生きることが人間のあるべきようなのだと子どもを観ていると深く感じました。

だからこそゾーンであり、だからこそ保育環境の設定であり、だからこそ見守ることが必須のなのだと・・・

またこれからも一生涯のこの道で分かった気にならずに学びを深めていければ良いなと今回も貴重な見学をさせていただきました。

そしてその話に続けて本当の「自由」とは、とても「辛く厳しいことなんだ」ということを師匠は話していました。

だからこそ、「自由にさせるのは自分も辛いんですよ」と皆に優しく静かに穏やかに語りかけていました。

でも私にはそこに子どもに対する深い相手への尊敬と信頼、自立という目的へ向けた保育や教育の哲学の一本道があることを背中で語っているように感じました。

教育や保育とは本来凍てつく荒野の中にある孤独な荊の道のようにも感じ、美しい丘上にある百花繚乱の幸福の花道のようなものにも私は感じる。

常にモノサシを定める矢印の中心軸は自分の志の如何によるものだなと改めて感じました。

私達は、子どもにとっての立派な自立した大人のモデルとして今、何を学び、今、何を差取り、何を実践すべきか?

一つのことで気づいたことを学び続けて子どもの未来に確かなものを遺せるようにカグヤは常に分かった気にならずに環境を創造していこうと思う。