有隣

今年も無事に山口県萩市にある松蔭神社へ参拝することができた。

昔、松蔭先生はここから歩いて日本全国に有志を求めて、そして師を訪ねて徒歩で旅をしていたのだから本当に凄いことだと思う。

本気でなければ覚悟がなければ、きっと一歩も動けないのが人間だと思う。

どんなことも、常に自分がどれだけの思いで行動するかでその先の未来が変わる。ここに来るとなんだか分からないけれどとても安息な心持になる。

毎年、ここに来るのに松蔭先生の遺した新たな言葉をいつも発見できる。
同じものを観ていても自分の成長次第で、受け取れる言葉が変わってくる。

亡くなっても、亡くならない人がいる。
魂が生き続ける人がいるのは、本当に子孫にとっては心強いと思う。

もうここに居ない人でも、こうやって毎年邂逅があるのだから本当に人と人との出会いは素晴らしいことだと思う。

今回、松下村塾に来て遺品などがある資料館を拝観しているうちに気づいたのだがこの塾は今のカグヤのやっていることにとても似ているので驚いた。

少し紹介するとこの松下村塾では、身分は問わず誰でも学ぶことができた。

松蔭先生の理念や方針は、学問とは立身出世のためにするものではなく、時代を知り、国のために役立つ力を養うためにするものとした。

だから単に知識として学ぶのではなく、社会のために「行動する」ことに結びつかなければ意味がないと常に塾生に説いた。

これが松陰先生の教育の基本だったそうだ。

塾生たちはいつも一方的にただ松蔭先生の話を聞くのではなくその問題意識と危機感に対して「あなたはどう思うか?」「あなたならどうするか?」といった質問をなげかけられ一緒に考えた。

塾には決まった時間割りもなく、一日のうちでいつ来てもいいし昼間に仕事のある塾生は夜にやってくることもあったそうだ。遠くから通いでくる塾生もたくさんいた。

教科書は決まったものがなく、「その塾生の希望や適性を考えて、一人一人最も適当だと思われるもの」を与えていた。

そして塾生が広く社会を見聞することを説き、旅先で教えを受けようとする有識者に対しては、丁寧な紹介状をいくつも書いたそうだ。

そんな松蔭が旅先で志高く行動する塾生たちとたくさんの手紙をやり取りしたことが残っている。読んでいるとまるで自分のことのようにとても心に沁みる。

 「久坂くん、身近な人で、あなたにしたがって死んでくれる人は何人いますか。大事なのは議論ではありません。実行です。あなたの手紙には、一つとして実行したことから書かれたものがなく、みな空論。自分とかかわりのないことを論じるのは、誰でもできること」

 「金子くん、学問は、出世や金のためにするものではない。聖賢を学び、聖賢に一歩でも近づき、自分自身を完成させるためのもの。死をまえにした今こそ、損得からはなれた本物の学問ができるのです」

まだまだたくさんの手紙や言葉を塾生に遺したのだろうがそのどれを読んでいても心を打たれる。自分に反省をしながら、まだまだと塾生に自分の不甲斐なさを自分に矢印を向けて語っているものもたくさんある。

本当に学問を実践なさっていたということがよく分かる。
こういう立派な「人物」の周りにはたくさんの良い人財が集まってくるのだろう。

そしてその人物はその縁があった人の持つ個性を見抜き最大限活かしてあげて、その人にしかできない使命に気づかせその人の人生を立派に遂げさせ自立させていくことができるのだろう。

そんな人と一生のうち出会うかどうかでその人の人生がまるで違ってくるとしたら、人と人との出会いというのは奇蹟のような確率なのではないかと改めて思う。

私自身、ここ数年師匠を傍らで観ていてもよく思うことがある。

大衆化した世間の交流やフツウの人が好きな夜遅いお酒の付き合いなども一切せず、キチンと自らの内省の時間を取り一日一日の思いを大切にしながら丁寧に静かに自分を修め過ごしている。

純一高潔な人や謹厳実直な人はとかく近寄りがたく敬遠されがちなこともある。

しかし師匠の周りには、常に素晴らしい人たちに求められ囲まれている。
その人たちにいつも誠心誠意関わり、天命を尽くしている。

これは如何に峻厳、高潔で近寄りがたいと言っても真に「徳」さえあれば必ず人はそれを理解し、その徳を慕い教えを請う道人や支持するよき隣人たちが集まって来るという真理に繋がっているのだと思う。

論語にある

 『徳不孤、必有隣』

本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無い。

私自身も、まだまだしっかりと自己を修めていく努力に向き合い商売の品質が突き抜けるほどのサービスに向き合い、努力精進して子ども達にとっての立派な大人の模範になるような人物になることを誓い粛々と勇気を持って正道を歩んでいこうと思う。