時と節

子どもを育てている保育や教育現場を見ていると社会や未来の様子が観得て来る。

そこに社会がミニチュアに凝縮して今の子ども達にまで影響を与えているからだ。
保護者の要求が、その時々の対処を求めるものばかりで長い目線ではないことも当然今の世の中を反映しているひとつだと思う。

今の社会は、長い目線でモノゴトを対応し難い世の中だと感じることがある。
マスコミが面白がって煽り立てている情報に対して大勢の国民がそれを正しく取捨選択する力もなく、有名人や芸能人の意見をそのまま考えずに鵜呑みにしてそれによって言い知れない不安ばかりを募らせて誰か一部の人たちにそのストレスや怒りを吐き出す。

ニュースを見ているとそんなにすぐに解決しないと気がすまないのかとも思ってしまう。
もちろん倫理道徳として集団社会のルールは絶対に守るべきは守る。当然だ!
理解していないで失敗したのならば、理解してそれを改善していけばいい。

それが育つということだ。
失敗があるから人は育つ、反省するから人はより立派に大きくなっていく。

未来のためにも「本物を育てる」という気をもっていくのが本当の社会のあるべきようではないかと思う。

なんだかガチガチにして失敗を許さない社会にして偽られ苦しんでいるのは自分たち自身も原因ではないのかと思うと本当に人間というのは学び方一つでどうにでもなってしまう生き物なのだなと私は思う。

そして私が伺っている幼児教育やまだほんの小さな子どものいる現場でもそういうことが日々の悩みの根幹になっているのだから、だからこそこの時代は私を含め、先生や園長が率先してその方面の情報リテラシー能力を新しく学び続けないと大変だなと改めて思う。

一方的に一斉に教えるという時代の考え方とは正反対なので、私たちの現場研修やコンサルティングの中でもこれから特に力を入れていきたいなと思っている項目の一つだ。

先日、ある園の経営会議に参加した中での話しだが、今、保育士や教諭が託児やサービスをする人のように定義されて保護者からの信頼が希薄になってしまっていてそれを何とかしていこうと相談された。

もちろん、そのためには新しい先生像を自園が定義するのが先決なのだがそれをやることと同時に職場環境も改善していかないとそれができるはずがない。

事実、現在保育に携わる人たちの職場環境は決して良いといえない。

社会で幅広いことを学ぶ機会も少なく、自分で体験して気づいたことで話し合ったり見通すために反省したりというゆったりとした時間も取れず、学校で教わったことがスキル方面の入り口だけ学んでプロとしての責任感だけを頼りに何とか狭い世界で今を忙しく乗り切っている日々を送っているようにも見える。また、積もり積もった仕事の量の整理、勤務時間や役割分担、職場体制の問題等々一つひとつ全てクリアにしていかないといけない。

それなのに今までの制度や過去の仕組みなどの刷り込みの方を今まで通りに優先していたらこの先もっと大変なことになるのではと本当に心配している。

また、定義といえば、保育の中での様々な定義も見直す必要性も感じる。

たとえば、ベテランという定義も長いからや行事やスキルが高いというだけになっているところも多く、今どうなのかというすぐに対処することには正しいという答えを持っている人はたくさんいるけれど数十年後の社会のことを鑑みて今、この子にいったいどうするのが適切なのかという答えを持っている人はほとんど居ないというのはどうしたものかと思う。

ベテランとはどうあるのがもっともその子その園によって一番良いのかをよく考え直さないといけない。

そして問題の解決についても同じように考えないといけない。

たとえば、園での出来事の中であるベテランのジャッジで先生や大人がその場をうまく解決したってそれに一体何の意味があるのかということもだ。

私はその時大人が先に早く解決することが、本当にその子にとってそれが本質的な解決というものに繋がらないと思っている。

問題とは、早く解決することよりも、その中に大切なことがたくさん篭っていることを知り、早く到達するよりもその中に大切なことがたくさん籠もっているのということを重視している。

それは見守る保育で学んだ発達との向き合い方とまったく同じことだ。

私は、カグヤのクルーにも同じように失敗に意味を持たせている。
自分らしく失敗したのならば、それでいいと思っているからだ。

私が思う本質的な解決とは「問題をその人がどう自分らしく乗り越えたか」ということに定義することにしている。つまり問題を自ら発見し、自ら自分らしく解決する意味の中にこそ人間としての本当の価値があるのではないかと感じているからだ。

その場しのぎで外圧が怖いからと安易に乗り切れば、必ずそのツケは後々大きくなってその人自身にも周囲にも巡り廻って来る。

だからこそ今、やらないといけないのだ。

定義もだが、まず本当に子ども達のことを思えばこれからは専門性として「時節の見通し」は何よりもこれからは重要な要素ではないかと話をした。

なぜなら子たちの生きる場所は、これからの未来の世界であり、常に変わり続ける社会の中にある。そしてそれは、どの時期、どの時点をその子にとっての本当の成功と大人や先生がみなすかで今の環境と教育や保育の処し方が変わってくることも鑑みれるからだ。

これからの先生の育成は子どもと同じで、たくさんのことを学び、社会の多くのことに正しい興味を持ち、刷り込みを取り除き、幅広い人間の器を広げた中で「あらゆる時節を見通す力」を身に着けることができれば良いのではと私は思う。

だからこそ、今の時代は環境を工夫するためにトップが最前線の現場に於いて立場の上下の刷り込みをおごらず謙虚に捨て去り、園長本人が正しい代表者(代わってその本質を表す者)として真摯に学び、現場と一緒になって自分が変わり続け正しくモノゴトを見通していくことが必要なのだと私は思う。

どの時点を成功とみなすというのは、代表者自身がどう考えているかで先生の現場での研修の時間や数、ゆとりの持ち方、休みの取り方、子ども達、保護者とのかかわり方、施設整備のタイミング、園長としての真心を持った現場の援助の仕方等々、そのすべてに大きな影響を与えてしまう。

だからこそ、常に代表者は『昔どうであったかをよく反省し、今が本当にこれで良かったのかと内省し、将来のために今自分が果たしてどうあるべきかを猛省する。』こと。

どんな仕事であれ、これが代表者、責任者というものの必須の心得ではないかと自分にも戒めにしている。

本気で思えば、人間は何でもできないことは決してない。
それが「想念実現」の理。
そして、人間社会に教育が在る本質ではないかと思う。

私は今まで生きてきてよく感じるのだが「生きる」というは、厳しいルールばかりでなかなかどうにもならないようなようで、その実、自分の在り方次第にどうにでもなるようなものだということを様々な体験で気づくことができた。

私がよく研修で使う「想念実現」とは私心を捨て去り善を以て絶対的に自分の信じる道を信じつくすという、他人はどうあれ自分へ向けた矢印がどこまで本物かどうかが常に試されるという意味になっている。

そして一度それを思い続ける決心をしたらその通りに如何に創意工夫を怠らず、真心と愛情を持って自らの行動と実践によって継続していくかが大事なのだと思う。

最後に、

どの時点を成功とみなすか?

そしてその子にとっての時節をどう見通すのか?

ここに普遍性があるから、人々はその人の理念に着いて行くのだと思う。

私自身、もっと世界観や死生観、歴史観や共生観、そして人間観に自然観など学び尽くすことをこれ以上これ以下なく持ち続けながら子ども達を導けるような仕事をしていきたいと思う。

そして自分自身が至誠を以てそれを多くのクルーや園長、先生や保護者と一緒に学び続ける実践し続けると心から誓う。