肩書きの定義

先日、保育所園長の資格の取得が厚労省により検討されているのを知った。

改定される新保育所保育指針の第7章にも、園長の責務として「法令等を順守し、保育所を取り巻く社会情勢などを踏まえ、その専門性等の向上に努めること」と明記されることになる。

告示となる指針がこのように責任と役割を明確化することは本当は意味があることだと思う。ここからも時代の背景や現場からの危機感が鑑みれる。早ければ、この4月から実施になる。

ただそれをどう捉えてどうするかはどちらにしても、誰かがやらすや誰からかやらされるでは本質的には実現し難いことは自分の体験を省みてもすぐに分かる。

モノゴトはどんなものでも、自分からどれだけ真剣に正対しそれに取り組むかでその中身はまったく違ったカタチのものに成る。そのカタチとは簡単に言うと自立か依存に分かれる感じになる。キチンとモノゴトに対して自立しなければ実現したとはいえないからやはり常に人間は自立することが求められる。

ここでの自立するというのは、それぞれが受身ではなく自ら主体的にその問題や危機を取りにいくということ。

そのために人間は、色々な体験を通して自立のプロセスを経る。

自立のプロセスを経るとは、まず相手に自立を求めるとき、そして自立を受け容れるとき、その人間観の中にある「信じる」ということが試される。「信じる」ことがもし、ここからは自分のせいではないや、ここからは相手次第などと割り切られるのは本当に「信じている」というわけではないのだ。

相手を信じるというのは、自分を信じることにイコールだし、それは人生そのものをどれだけ肯定的に志高く信じるかに寄るのだから本来の意味での『自立』とは生物の持つこの上ないもっとも崇高な共生の理念だと改めて思う。

国家で影響力のある人は民衆や集団、人間に対し「どれだけ信じるということを心底尽くしたか」でその政策の実現にもかかってくるのだと私は思う。

信じるというのは実行する前、実行する中、実行した後、すべてを念で突き抜けているのだ。

話を戻す。

ただ、現場から洞察して観ると気をつけておくことがあるようにも思う。

幼稚園園長にはすでに資格がある、私は現場でそれもよく観ている。

もし資格というイメージだけが先行すると資格があるからその肩書きどおりの人間なのだと思い込むことがあるということも気をつけないといけない要素だと思う。

安易に、解決方法を提示することは場合によっては大変危険な歪みを生じさせることもある。どれだけ、受け手側に力が備わっているかをちゃんと見極めどれだけの見通しを立てた上での「模範」を用意するかで集団の行く末が変わることもある。

なので現場を鑑みての資格とは、あくまで相手を塊や集団で捉えて最低限「通過」してもらうフィルターのようなものだと定義するとして、ではそれ以前に、責任と役割の本質にある『肩書き』というのはいったいどうなのだろうか?

私自身の体験から、私はその「肩書き」の御蔭で色々と学ぶことができた。

つい肩書きがつけばすぐにそれになろうとする、またはなった気になってしまう。

周囲もそのように私を扱うし、何よりも責任感から必死にそれを演じようとしてしまうものも肩書きの怖さだ。

肩書きから立場を与えられモノゴトに向き合って謙虚の振りしてトップの振りして演技がうまくなってくるともう他人の話をちゃんとその肩書きから降りて聴くことができなくなっていく。

そうなると、どこかで必ず積み重ねの小さなゆがみが大きくなり周囲を信じることができなくなっていく。事があれば、すぐに社員やパートナーの文句を言ったり不信になったり自分が一番努力しているだのという相手に矢印を向けた曲がった自己犠牲精神が生まれだす。

冷静に観ればすぐに理解できるが人はイキナリ偉くなることはないのだ。

たとえば社長は、お客様や社員から学んで社長になっていく。社長になるために本を読んだり他所の社長の話を聴いてそれをとってはそれを真似したって本当の社長になったわけではない。思い切って肩書きを捨て去って、あまり固定概念に縛られずに、真摯にそれを学んで自然体に社長になったほうが良い。

それを修正するのに私は大変苦労した。

私もそういうことから、肩書きが如何に自分自身の等身大ではないものだと気づくことができ、「謙虚」であることの本質の入り口を理解し学ぶ覚悟ができた。

そして「謙虚」とは、人生を架けて学ぶものであるのだということにも気づくことができた。

だからこそ、どんなときもまず安易に肩書きはつけてはいけないと私は思っている。つけたとしても心がそれに囚われてはいけないのだと私は思う。そして肩書きから仕事を覚えてはいけないと常に戒めている。

最も大事なことは『現場から学び上げその肩書きの人になること』と私は思う。

コンサルタントならば、現場から真摯に学び求められコンサルタントになること。

保育士ならば、園児から学んで保育士になっていくこと。
主任なら保育士や園児、園長から学んで主任になること。

まずは変な形だけの組織図や組織、経営陣などという、ツマンナイ固定概念を捨てることが大事なのだと思う。

現場で相手から学びながら求められるようになってきたときがそれ相応になってきたというふうにすれば一つの肩書きの基準だと定義するといい。

子ども達にも、年長だから年少だからなど肩書きからではなく自然に相手からそれ相応の子どもとして学んでいけるような環境の園を広げていきたいと心から思う。

年齢という肩書きの刷り込みで異年齢や一斉などを判断するのではなく、その人間そのものの素晴らしさをちゃんと観て自然に立派な人になってくれるようになるような環境に気づけ変われるように私たちカグヤは安易に「肩書き」という刷り込みが業界に広がらないように自戒しながら歩みを強めていこうと改めて誓う。