有名な人と立派な人

ITの業界にいて、情報に携わっているとその方面から様々な人の素行を観ていながら、一日一日を大切に我が身を三省していると背筋がゾッとすることがある。

他人は我が鏡であるとは、その通りだと思う。
そういう時こそ、常に自らに気づくことに感謝していきたい。

俗に有名な人が世の中を動かしている、常に時代の流行とはそういう有名である人が世間を騒がし、そしてその有名な人が大衆心理や世間の潮流を作っているような感じになっている。

では、そういう有名かどうかなどのモノサシと比較対象にもならないほど世界に個性が揺るがなく立っている不動の一流人とは一体どういうものだろうか?

世間では、よくよく人間を観察すると世間一般大衆が求める欲の潮流の中でも常に自分のあるべきようを失わず、あわせるべきものはあわせながらも「人間としての本来のあるべき姿」を信念を持って貫き、多くの人に気づきを与え、自立させ幸せにしている人がいる。

そういう人は、現象として考えるときっと有名になりたいのではなく、世間がそういう人を美しいと思い、徳に導かれ慕ってついていくから次第にその名が四海へ広がり有名になるのだろうと師匠の歩み方を傍で観ていてもよく分かる。

私は幸運にも至誠を重んじる歩み方を身近で見聞きすることができる本当に良い師匠に恵まれたことで、その人生の本質的な達人から多くを学べることがこんなに有難いことなのかとつくづく最近は感謝とともにそれを感じることが多い。

論語にこういう一節がある。

【子張問ふ、士如何なればこれを達と謂うべき。子曰く、何ぞや、汝がいはゆる達とは、子張対へて曰く、国にありても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。子曰く、これは聞なり、達にあらざるなり。それ達なるものは、質直にして、義を好み、言を察して色を観、慮って以て人に下る。国にありても必ず達し、家に在りても必ず達す。】

『弟子の子帳が孔子に尋ねた、「士人とはどのようであれば、これを達人と言えるのですか」と。孔子言う、「一体どういう意味であるか、あなたが言うところの達というのは」。「はい、国家の職においても必ず有名になり、王室や大名家の家老職におっても必ず有名になる、これが達人というものではないでしょうか。」「それは聞(聞人)、有名になるということであって達人ではない。そもそも達人というのは、性質が真っ直ぐで、名や利を好むのではなくて、人間が如何にあるべきか、又為すべきか、という義を好み、人の言うこと、主張することをただ言葉どおりに聞くのではなくて、よくその言葉の奥を察して真実を見極め、万事心得た上で謙遜に人に下るのである。だから国家の職におろうが、王室や大名の家老職におろうが、どこにおろうが必ず達する、立派に用いられる。』

そしてさらに孔子は言う、

【それを聞なるものは、色に仁をとりて行ひは違い、これに居りて疑はず。国にありても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。】

『これに対して、聞、聞人というのは、世によく言う名士などというものは、如何にも表面では仁をとるがごとく見え、世のため、人のためにというようなもっともらしく仁らしいうまいことを言うが、実際の行いはまるで仁とは違う。然も自分では一向に良心の呵責もなく平然とその地位におって、うまく人心に投じ、時に乗じて、要領よく世渡りをしてゆくから、国家の職においても、王室や大名に仕えていても、どこでも有名になる。』

立派な人と有名な人は、まったくもってその意味が違うなとつくづく思う。

早く有名な人になりたいというのは、また有名でいるというのと一流人であるというのは意味が違うのだと思う。

しっかりと自らの目的にあわせた自らの命を活かす人物になりたいというのが、動機が素直なのであり、きっと利他利己の境地であり本質的な人間の素であり、共生のあるべきようなのだと思う。

こんなに大衆欲や我欲の情報が氾濫する時代だからこそ、正しく時世や人間を観る目を育て、本来の自分が目指している生き方からズレたりブレたりしないように、安易に認知され見聞きする様々な日々を素通りせず、信念を持って子どもたちの未来へ向けて自らの足跡を頼りにこれからも至誠を貫いていきたいと思う。

達仁を目指していきたい。

標準化

何か大きな理念をカタチにしようとしたら、それを誰にでも理解できるように標準化する必要がある。

概念的なものを人へ伝えようとするのは、特殊な力を持っている人ならもちろんだが、ほとんどの大多数の人がそれを理解できるほど明確になるにはよほどのコミュニケーションや日々の生活を共にしていかないと難しい。

本当に一部の少ない人数で理解すればいいのなら良いが、大人数となるとそうはいかない。

だからこそ、その概念的なものから表出される高い問題意識の人だけが持つ「こだわり」を共に同じ目的で働くそれぞれに分かるようにしていく必要がある。

いったい何のために標準化するのかといえば、その本質は皆が同じ目的をやっていることを日々自らで理解できることで共通理解を持ち、ともに幸せになることだとも思う。

誰かだけの概念を優先して、それをやれとなるとやはり物事はすべてトップダウンの画一的なものになってしまう。現場が中心で、現場がみんなで協力してボトムアップしていこうとしたら最低限、最高のことが分かるようにしていくのは本来理念を掲げる経営者の最初の責務であもあるのだろうと私は思う。

カグヤで実施している様々な取り組みはもちろん、パートナー園とともに築いている理念の構築はそういう「こだわり」を整理することが大切な要素になっているということだ。

様々な仕事はどんなものでも、新しく生まれるものと、生まれたものをどう育てて、そしてその新旧の起点の中心軸を捉え、その創造物をどうメビウスの螺旋のように進化させていくを常にを考えていないといけないと思う。

それができていなければ、どこかに無理がきて効果が下がり、本当にやりたいことができなくなってしまったりするからだ。

このブログのどこかでまた詳しく描くが、形のないものをカタチにしていく仕事というのは目に見えないものをどれだけ人に分かるようにするかにかかってくる。

私の創業以来ずっと追っている情報ITのミッションは、すべてそこに注力されているし、私たちカグヤの保育界における大きな役割もすべてはそこにあるのだとも思う。

まずは、自分が明確に実践して園のモデルになろうと思う。
また、日々変化し、その変化とともにこだわりをキチンと標準化していこうと思う。

一期一会の出会いに再び感謝。

理念の実践

世の中の大切なものには、目に見えるものと見えないものがある。

職人の世界などは顕著なのだろうが、目に見えているところばかりに囚われていてはその微細な五感で掴んでいくようなことができなくなるので、目に頼らずに何かを行うとういうことなどは当然の定義になっていると思う。

しかしこれは単に職人の世界だけの話ではないと私は思う。

先日からコンサルティングをしているある園で弊社のオリジナルで開発している理念ブックを制作し研修をしている。

経営者というのは得てして外側への理念の伝達というものについては目に見えやすいのですぐに形ばかりに力を入るし、それはある程度はよくできていると思う。

そのためか変に自分はできていると安心して肝心な足もとに力を入れようとしないことがある。さらには「きっとできているし、そのはずだ」と必死で盲目に信じようとしていることすらもある。

たとえば、身近な人や右腕、また身内や職員には本当に伝わっているかというと言葉にして明らかに一人ひとりに説明してもらうように質問してみると本人が思っている以上に正しく理解されていないことがとても多い。

何となくは伝わっているのだけれども空気で読んでなんとかしているだけだったり、経験から当たらずともきっとこの辺だろうとなんとなく帳尻をあわせているだけだったりして、実際は本質的に明確に理解しているというのはとても少ないように思う。

家族や夫婦などでもそうだなのだろうが、本当に大事なことをどれだけ日々大切に評価し、丁寧に慎重に共通理解をとっているかというとそれができている人は本当に少ないと私は思う。

理念や方針などというものは身近な人は分かっていて当然と思っているのだろうが、本来のあるべきようは真逆で身近で距離が遠くないからこそより丁寧に接し、そして正確に分かるように繰り返し評価し理解してもらう必要があるのではないかと思う。

理念というのはただ可視化すればいいのではなく、プロセスの中にあるその意味の本質の共通理解こそが重要なのだ。

人はつい見ている目ばかりを頼りに物事を行おうとすると無意識に「わかった気」になってしまうものだ。

眼には見えない物、そして宙に浮かんだその朧げなビジョンをより進化させ明瞭にしていくためにも日々理念に向き合い、日々内省を積み、実践し、自分の中にある自分のやりたいことをしっかりと放さない様に掴んで「観続けている」ことが自らの人生のミッションにおいてとても大切なのだと思う。

園では、子どもたちにも同じように目に見えるものばかりで判断したり、その目に見える知識だけで物事の成否や推測をするのではなく、目に見えないもっと大切なことを自分がなくさないようにモデルを示し、日々理念に帰り、理念を実践していけるように援助をしていきたいと思う。

私たちカグヤの進む道は、朝霧の中にあっても揺らがないかんながらの道であるように私も思いを強めて理念の実践でのみ語っていこうと改めて思う。

商売や豊かさとは

日本の大多数の企業では職業的豊かさの質が利益一辺倒、売上主義になってしまっていることが多い。

会社が存続するためには利益が必要なのは当然、そんなことは誰でもわかる。しかし、そのために会社があるかというとそんなわけではないことも誰でもわかる。

しかし、なぜその誰でもわかる当り前のことがなぜ人間には当り前にできないのだろうか?

動物界や自然界では、自分の分度を越えずに取りすぎることもなく、自分の役割をしっかりと理解していて勤勉に働く。そして先祖からいただいたように自分たちの子孫を遺すことに勤め、天地自然のルールの中で自分の命を精いっぱいに使って逝く。

人間は、いつから自然界からの流れを忘れ人間至上主義的な視点だけを持つようになってしまったのだろうか?都会的というか、欲望を羨ましがり、人間にとって大事なものを教えずに、唯物人間感覚主義の狭い了見で、頑なに競争に偏れば、倫理がない変な人も増えるのは当然であろうと思う。

会社もそういった視点から見ると、あまり偏った自分の定義がすべて正しいとは決めつけずに、自然界にあるように「あるがまま」に豊かさの一隅を担う役割を果たしていることの方がよほど本質的だと思う。

私はどこまでいっても商売の本質は、総合的に相互扶助に基づいた社会に、それぞれが自立した仁の精神で、古道の示す正しい見通しを持った共存共栄なのではないかと思う。

その中で個々が、また全体の社会が、如何に共に関わりあいを創り上げることによって幸せになり、より豊かになっていくのかを考えるのが経営者や創業者のミッションなのだとも思う。

渋沢栄一にある。

「一個人がいかに富んでも、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。その事業が個人を利するだけではなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。」

これもそういうことを指しているのではないかと私は解釈する。

最近では、人間の持つ娯楽さや快楽にばかりで儲けようとする商売人が増えているように思う。それにもっともらしい正義をいくら掲げても本質からズレればただのエコノミックアニマルのように刹那的にそれだけに執着してしまう。

どこまでいっても唯物論というのは、人間感覚や感官にだけが正しいと定義し、人間社会のみですべての社会を構成してしまおうとするズレている世界での右往左往なのだから、どこまでいってもモノ的豊かさでは最終的には欲の渦に巻き込まれて消滅してしまうと思う。

人間はやはり、もともとそうであったように如何に人間以外の存在をしっかりと受容し認め、その存在をも活かす万物の霊長たる自分たちに誇りを持てるかで本質を得ていくのだろうと思う。

私たちカグヤはいちいち身の回りの現象に左右されずに、世界の地球のそして宇宙の本質の一本道の上を自分が生まれおちたこの場所で、粛々と実践していくことこそを大事にしていくミッションで挑んでいきたい。

子どもたちには、大自然の中で如何に人間だけが生きているわけではなく、そして人間のためだけに世界があるのではないということに、早くに気づけるような体験をたくさんしていってほしいと願う。

多様化した生物たちがいつまでも大切に持つ豊かさと幸せを感じれる霊妙な偉大な魂の力をそのままに、きちんとこの生に於いてそのままに譲っていけるように変化を受け容れ改善しながら、豊かな環境の創造を意識して大事にしていこうと誓う。

ルーティンの意味

世間一般の大まかな職業というはある程度の仕組みを構築すると、同じような業務を繰り返していくようにできている。

カグヤでも、同じように日々の同じような仕事に打ち込んでいる。

その中でも、つい世間で言うONOFFを使い分けて気を抜くとあっという間に何も考えないような「単なる作業の繰り返し」になってしまい自分が初心で定めた本懐を忘れて流されてしまうことがある。

繰り返しの中に、日々、本当に「内省」して「感謝」までできているかということまで自然に問えるほどの習慣になるにはやはり信念や理念がちゃんと育って立ってないとできないのだなとつくづく思う。

自立できて自らで律して命を使えるようになるという定義は、きっとそういうことも普段からできているから独り立ちできるのだと改めて思う。

孟子にあります。

「孟子曰く、之を行うて著らかならず、習うて察らかならず、終身之に由っても其の道をしらざるは衆なり」

孟子は言う、「実行しながら自覚しない。習慣となっている行為の意味を考察しない。一生涯これによって生活しながら、その道理を知らないのがふつうの大衆である」 (孟子 安岡正篤 著 PHP文庫より)

本来、人生も仕事も日々のルーティンワークになっていることこそ派手な結果を求めるよりも丁寧に、そして大事にしないといけないと私は思う。

内省とは、何を大事にしていたかを絶対に忘れないと心に誓い、日々そのために自分を変えようとする強い意志がなければそれは意味を持たないし、本来の道の上にある成果もでないことになるのだと思う。

成果というのは、結果をどうこうで日々自分を慰めたり言い訳するためにやるのではなく、本当に一期一会に自分のやれることを全部遣り通した一日だったかと本気で自分へ矢印を向け感謝することから始まるものだと私は思うのです。

それは一歩一歩を深く噛み締め味わいながら、「自分が今日は何が新しく変われたのか?」を自分へ問うのだと思います。

研修や講演などで自分を高めることも、新しい大きなことを学ぶことも大事だけれど、それよりも私はやはり理念を基盤に如何に日々のルーティンの実践で自分の本当にやりたいこと遣るべきことが自分で評価できたかということなのだと思う。

教育や保育に直接職業的に携わっていたり、世界の子どもの未来に深く関わる大人はやはりどこか英国の騎士道のようなノブリスオブリージェが必要なのだと感じる。

やはり自問自答するとまず最初に自分の生き方の襟を正すことだと思うのです。

だからこそ、その刷り込みにさらわれない様に初心や理念に立ち返り、自分が本当にやっていた設計図のミッションが何か?そしてそれはみんなで本当は何を目指したのか?その本質的な志で仕事をしたか?と日々本気で「内省」し、自分を振り返り、よし明日もまたやるぞ!とエネルギーを充填していくのです。

子どもたちのこれからの未来を考えると、世間が無機質にアミューズメント的にただ面白ければいいや脳が求める浅い欲ばかりに大衆の目を向けさせる現代社会において、それぞれに揺るがない自分の使命を感じ、不動の心を持って本当に自分たちがそこで大事にしたものが何かを常に考えられる人になってほしいと願う。

世界はこれから激しく、古きもの、新しいものが再び大衝突するときが来る。

その時に、新旧の中から自分にしかできない古道が示す先人の求めた正しい道を歩んで学び、人類の本当に遣るべきことを使命感を持って守っていけるような平和で豊かな社会を創造してほしいと思う。

まずそのためにも、今の自分たちが何世代も越えても伝わってきた今の目下の仕事を深い意味を味わい噛み締め、変化を重んじ、奢らず謙虚に丁寧に実践推譲していこうと誓う。