商売や豊かさとは

日本の大多数の企業では職業的豊かさの質が利益一辺倒、売上主義になってしまっていることが多い。

会社が存続するためには利益が必要なのは当然、そんなことは誰でもわかる。しかし、そのために会社があるかというとそんなわけではないことも誰でもわかる。

しかし、なぜその誰でもわかる当り前のことがなぜ人間には当り前にできないのだろうか?

動物界や自然界では、自分の分度を越えずに取りすぎることもなく、自分の役割をしっかりと理解していて勤勉に働く。そして先祖からいただいたように自分たちの子孫を遺すことに勤め、天地自然のルールの中で自分の命を精いっぱいに使って逝く。

人間は、いつから自然界からの流れを忘れ人間至上主義的な視点だけを持つようになってしまったのだろうか?都会的というか、欲望を羨ましがり、人間にとって大事なものを教えずに、唯物人間感覚主義の狭い了見で、頑なに競争に偏れば、倫理がない変な人も増えるのは当然であろうと思う。

会社もそういった視点から見ると、あまり偏った自分の定義がすべて正しいとは決めつけずに、自然界にあるように「あるがまま」に豊かさの一隅を担う役割を果たしていることの方がよほど本質的だと思う。

私はどこまでいっても商売の本質は、総合的に相互扶助に基づいた社会に、それぞれが自立した仁の精神で、古道の示す正しい見通しを持った共存共栄なのではないかと思う。

その中で個々が、また全体の社会が、如何に共に関わりあいを創り上げることによって幸せになり、より豊かになっていくのかを考えるのが経営者や創業者のミッションなのだとも思う。

渋沢栄一にある。

「一個人がいかに富んでも、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。その事業が個人を利するだけではなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。」

これもそういうことを指しているのではないかと私は解釈する。

最近では、人間の持つ娯楽さや快楽にばかりで儲けようとする商売人が増えているように思う。それにもっともらしい正義をいくら掲げても本質からズレればただのエコノミックアニマルのように刹那的にそれだけに執着してしまう。

どこまでいっても唯物論というのは、人間感覚や感官にだけが正しいと定義し、人間社会のみですべての社会を構成してしまおうとするズレている世界での右往左往なのだから、どこまでいってもモノ的豊かさでは最終的には欲の渦に巻き込まれて消滅してしまうと思う。

人間はやはり、もともとそうであったように如何に人間以外の存在をしっかりと受容し認め、その存在をも活かす万物の霊長たる自分たちに誇りを持てるかで本質を得ていくのだろうと思う。

私たちカグヤはいちいち身の回りの現象に左右されずに、世界の地球のそして宇宙の本質の一本道の上を自分が生まれおちたこの場所で、粛々と実践していくことこそを大事にしていくミッションで挑んでいきたい。

子どもたちには、大自然の中で如何に人間だけが生きているわけではなく、そして人間のためだけに世界があるのではないということに、早くに気づけるような体験をたくさんしていってほしいと願う。

多様化した生物たちがいつまでも大切に持つ豊かさと幸せを感じれる霊妙な偉大な魂の力をそのままに、きちんとこの生に於いてそのままに譲っていけるように変化を受け容れ改善しながら、豊かな環境の創造を意識して大事にしていこうと誓う。