産学連携

先日、株式会社早稲田総研インターナショナルの新川社長が来社され産学連携や地域連携などのことで話をすることができた。

もともとギビングツリーで続けてきた情報交換や交流の方法がとても学びにつながる良いものであると評価していただき関心を持っていただいたことでそういう話ができた。

現在、情報化技術は進歩しインターネットを使って様々なコミュニティが色々なところで起きている。

そして、そのコミュニティもその思想や視点、また定義によって様々な形に日々変化を続けている。情報は変わり続けるものだから、その変わるということへの哲学があることが情報リテラシーを扱うことの大前提になると思う。

どんなコミュニティにも共感や受容があり、そういうものをどれだけ感じてその場の環境を用意していくかでその方向性が決まってくると思う。まずは、インターネットどうこうではなく、どこに共感して受容していくかを決めることを大事にしていけば長い年月がかかっても必ずそこに必要なコミュニティは創造的に生まれると思う。

また、その質問の中でそういえばそうだなと当り前になっていることに気づくことができた。

現在、教育機関やシンクタンクの事務局ということでカグヤは活動している。
その中で様々な教育関係者が、「企業がこんなことをしていて大丈夫か?」などいろいろと疑わしい言葉をかけられることがたまにある。

私は、多様化した社会で業界だどうだと語っていること自体、時間が止まっている人だなといつも感じているのだが変化というのはそういう多様化した中でどれだけ本質が維持できているかをしっかりと認識できていることが重要なのだといつも思っている。

特にこの教育業界というのは、すべてのことを教師や学校だけでやろうなんてことはもう不可能だと私は感じている。人は一人で生きてはいけない様に、業界も多くの企業や民間団体と連携をしていかないと凝り固まってきて応急処置ばかりをするだけの連携になってしまう。

今年の5月にオランダに伺った際にも、産学連携のちゃんとした形を観てくることができた。

オランダでは普通に企業も学校も、またその他のボランティアや個人もしっかりと連携していて子どもを中心に置いて見守る環境を地域で構成している。

昔は、オランダも今の日本と同じように頑なに学校だけでやろうとしたけれど先生の残業が増えてそして保護者との軋轢や教育環境の進化の限界を感じて、今は当たり前に産学連携ができるようになっている。

また民間企業も倫理観のある会社かどうかはすぐに見分けがつくような環境がもうできている。ただ稼ぎたいような会社は、教育業界には向かないと思う。企業原理を持ち込みたいのならばそれ相応の大義や理念を明確に打ち出して、そこからブレずに丁寧にやっていく覚悟でやっていくことが最低限の筋だと思う。

何かわかった気になって、教育業界にないからと謙虚な人たちに対して偉そうに上から企業原理を進めようとする商売人をたまに見かけることがあるけれど、同じ商売道を歩んでいる仲間として本当に悲しいことをするなと感じてしまう。商売は下からや上からなどではなく、フラットに協働していける関係を大事にしていけば必ず子どもを中心にお互いが平等で偏見のないあるがままの助け合いを実感できる幸福な関係が築けると思う。

そして産学する産の使命として、子どもの可能性の保障が世界や経済界にどれだけの大きな発展や豊かさ、また将来みんなで働く人たちの幸せにつながるかをよく考えれば、目先の損得や売り上げではないもっと素晴らしい価値を創っていることを理解して社業に勤め続けるのが教育関係企業の最低条件になっているべきだと思う。

そして、もし最高の産学連携を目指すのならば、如何に子どものためになるのかをしっかりと商品を一つ一つ丁寧に、長い時間子どものことを「先生以上」によく観察し、よく傾聴し、常に根源を子どもに置いて、学校や先生、そして多くの方々とともに語り合い、協力して創意工夫し続けていくことが大事なのではないかと私は思う。

次第に社会全体で窮屈になり、忙しくゆとりがなくなっていく教育環境の中でも、常に子どもたちのことを皆で正しく思い、企業や商売人も先生や学校も、刷り込みを取り除き、同じ子どもを思うプロとしてちゃんと連携が取れ相乗効果を発揮できる企業をカグヤはこれからも貫いていきたいと誓う。

しっかりと日本に根づく産学連携のモデルを示していけるように、より仁の理念を実践して一つでも多くの産学連携を実現していきたいと思う。

猶興の士

先日GTサミットでは色々な気付きがあった。

特に、全国各地の理想を求めて知行合一して歩んでいる人たちの発する言葉や各語には自然に共有できるものがある。

そしてそういう問題意識や危機感、また自分の中にあるものに反り返り内省を続けている方々は、わかった気にならずに理念を軸に自分のブレを修正していくのだと思う。

こういう時代だからこそ、周囲や他人、外のせいにばかりしてエネルギーを放出するのではなく、浩然の気を養い、粛々と静かに道を造り上げていくことは特に今のリーダーには必要な風格だと思う。

リーダーの本質は、調和であり、出来事や人々の中にあり、常に何を自分がやればいいのかが分かっていて、それを自然に決断できて順応して共生の場を創り上げる力をもっていることだと思う。

そしてそれは、自分らしさであり、その場に応じて変化し続ける力でもあるのだと思う。それは常に自分の中から出てくる声に耳を傾けて周囲と調和していくようなものだと私は思う。

「孟子曰く、文王を待ちて而る後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の如きは、文王なしと雖も猶興る」

 孟子は言う、「周の文王のような聖王の指導を待って初めて感奮興起するのは、凡庸な人民である。かの人並みはずれた豪傑の士などは、文王の指導と教化がなくても、自ら独力で興起するものである」

本当の優れた人間は、誰かがいるいないに関わらず、なお興るということ。

すべてのものを受容でき、寛容さで今を大事に今を創り上げて道を起こしていくという人が多く現れることが時を創ることになり、未来そのものになっていくのだと思う。

業界がどうだの、誰が悪いだの、制度がどうなど、そういうことばかりをして本当に自分の思う自分らしい自分のことを蔑にして、そういう自分の寛容さを磨かないでどうやってリーダーシップを発揮していけるのかと思う。

まずは自分の中にあるものをよく鑑みて、自分らしく自分にしかできないことで調和するまで今を大事にしていけばいいのだと思う。

長期的にも短期的にもブレナイことが本質で、外側のいろいろな変化には柔和にあわせていけばそれで子どものためになっていくような気もする。

私自身も未熟で、まだ全然その自分のありようが観えてもいないでいる。あるがままにあるにはわかった気にもならない今があるけれど、その機会に恵まれていることに感謝して自ら反り返って物事に処していきたいと願う。

多くの人たちがそれぞれの道で子どもたちの未来を保障してあげる世界にしていけるように心から祈り実践していくことを誓う。

リーダーの心得

一昨日と昨日で第5回GTサミットを新宿NSビルで開催した。
全国から理念や価値を同じくする60名以上の園長先生方が集まってきていただいた。

毎年、このサミットが楽しみで少しずつ進化して保育環境を創造し理想に近づいている園と園長先生を拝見できるのは私にとっては本当に幸せなこと。

いつもカグヤのクルーから園の状況や園長先生の様子などはしっかりと伺っているけれど直接お会いできると具体的にその様子が洞察でき、勇気と元気をいただけている気がします。

子どもために、まず自分が変わろうとなさるその姿勢に園長としての職責としての素晴らしさを感じます。

全国各地の園を8年で6000か所以上、高い問題意識を投げかけながら見聞きし歩いていると様々なこの業界の姿が観えてくる。現在、保育界では何も起きなくてもこのままでもいいという層が7割くらいはいる。そして保育団体に属していながら色々と活動している層が2割、そして1割は自分のやるべき役割や使命をぶれずに粛々と歩んでいる。

どの国でもそういう流れがあるようで、結局はそういうバランスで業界の流れを創っている。先日伺ったオランダでもそうだった。人は短いスパンや短い距離感で物事を観ているとついそれがすべてのような錯覚を覚えてしまうけれど、それを世界観や歴史観などに照らせば自分の立脚地がどこでどの方向に向かっているなども洞察することができる。

目指している理想が子どもの未来であれば必ずどの山の登山口から登頂しようと結局辿り着く場所は同じところなのだから焦る必要も比較する必要もないのだと思う。

大事なのは、自分自身が以前と比べて成長しているのか、また歩んでいる方向は不動のものかなどを確かめていくことだと私は思う。

いつまでも彷徨っていたり惑わされたりしていたら、進んでいる量は多いのにずっと遠回りをすることがある。将来の自らの意志が盤石になるためにというならばいいけれど、人生は有限だしいつ何起きるのか分からないのだからタイミングや機会などを逃すことがあるので気をつけないといけないと私は思う。

自らの役割を知り、自らの決めた道を正しく歩んでいればたくさんの出会いや邂逅があり、そして多くの仲間に囲まれて素晴らしい旅路を豊かに楽しみながら人生を謳歌することができるし、その実感や喜びを分かち合うことで生きることの価値を噛み締めて幸せになるのだと思う。

そうやって世界の人たちが一人ひとりがそれぞれに一歩一歩自らの足跡を噛み締めながら自分の中にある自分を信じていけると良いなと思う。

セミナーに話は戻る。

藤森先生が講演の中で、「私は別に何もこういうことをしてほしいと誰にしろ皆にお願いしているわけではないのです。ただ私は子どもたちを見守るためにこうしたいこうすべきではと言っているだけなのです。」と仰っていました。

色々と業界で話を進めていくと個人が語っているように錯覚するけれど、カリスマになっていく人は私心がある。しかし、真の大道や仁の精神で歩む人は、天人合一して私心がない。

人間はつい弱い自分があると人間に依存していく、しかし真の答えは自分の中にあるのだからその答えを出すのは天に問いながら自らの実践で掴んでいくものだと思う。

現実は、いろいろな人たちがこの世の中にはいる。多様性を維持しながら質を高めるには両方両立というのは本当に難しいものだと思う。だからこそ藤森先生は、リーダーとは常に調和(バランス)して優先順位を決め、覚悟を持って実行することなんだと仰っていました。

世の中にはいろいろな正義があり色々と言う人がいるのは世間の常だが大事なのは「やり方で」はなく『あり方』が本質であるのだと説いているように思いました。

どうあるのかは深い信念と覚悟が醸成する過程で身についていくもの。
そしてそうしたものが理念になり、周囲を感化していくものだと私は思う。

私も志を子ども第一主義に置くのだから、常にそこを起点に自らを自省自反しながら実践と実行を持って世の中を感化していけるようにこれからも努めていきたい。

皆さんのディスカッションや発表の中でもたくさんの気づきをいただきました。こうやって問題意識を一年に一度でも確認して、自らの使命の本懐を遂げるために切磋琢磨していくことこそが研修の本義だと思いました。

この一期一会の出会いに心から感謝いたします。
皆様にまた来年、さらに成長してお会いできるのを楽しみにしています。

情報リテラシー7

先日、ある園でコミュニケーションについて話をした。

現在の保育所保育指針改定でもコミュニケーション能力はその改定の中では大きなテーマのひとつになっている。園では保護者ともそうだし、そこで働く職員をはじめたくさんの人たちとコミュニケーションをとりながら仕事を進めていくようになっている。

会議もミーティングもその一つだし、長い付き合いの人と短い付き合いの人、役割が異なる人、個性や価値観の差異などみんな多様性を発揮しながらそれぞれの自己実現に向かっていくのが人間なのだからその辺をしっかりと考えて丁寧に進めていかないといけない。

それに表面上のすぐに認識できる比較的浅い内容の打ち合わせや、本質的に真の共通認識を取るお互いの存在を認めあう普遍的なものまでたくさんある。もちろん、両方大事としてそのつど状況に合わせて自らを鑑み使い分けていかなければいけないと思う。

人間はどんな時も一人では生きてはいけないし、みんなで力をあわせていくから大きなことができるし、協力していくことができる。

仕事を心を亡くして忙しくなり、何かの無機質な作業や業務のようにだけなり、命を込めずつい流されてしまうと表面上の認識だけで進めてしまうことも多いと思う。

たくさんのことを考えてやろうとするのを嫌がるのが脳だし、もともとメンドクサイと思わせるようになったのはそういう教育をうけてきたからだとも思う。日々、心を込めて丁寧にやり続けないと物事の初心はぼやけていくのだと思う。

だからこそ経営者やリーダーは常にそこで働く現場の人たちが、平素本質的なコミュニケーションを取れるように環境を創造し、対話の導線や方向性、その継続やテーマの設定、また自らの理念の実践により環境に対して感化していくことを優先していかないといけないと私は思う。

なぜならそういう場を預かる人が創る環境とは、その人の人格や理念を含めて次第に外側に現われて包み込んでいくものだと思っている。

周囲に影響を与えるリーダーや立派な人はそういう場を創る雰囲気がある。
そしてそこには、自然に自分にしかできない自分らしいことができているように見える。

もちろんそういう人のことを真似をすることは素晴らしいことだが、環境というものの定義がその人の外側のモノやカタチだけのものになればそれは本質的な環境になっているのではなく見せ掛けの張りぼての脆弱な環境になってしまうから気をつけないといけない。

自らが実践を通して理念を養っていくから本質的に自の創造する環境ができあがっていくのだと思う。

特に子どもたちにはその環境にあわせて素直に変化していく。直接手を下さなくても環境の情緒が安定しているというのは、トップの心胆が定まっているともいえるからだ。

常に人が創る環境とは、その人の人格の中に根づく不動の覚悟や信念が外側ににじみ出ているものに過ぎないのだと私は思っている。

そしてそれを日々の行動で周囲を感化していくと、みんながその環境が目指すところ、責任の重要さに気づき、惜しみなく協力をはじめるのだと思う。

そこには一種の心地よさが必ずあり、みんなはそれを観ることで遣り甲斐や自分の価値を見出し満足していくのだと思う。

日本社会は、官僚体制サイドから福祉制度をいつも用意するため何かをやるときにすぐにトップダウン周知徹底的なやり方になる。世界では、マネージメントの研究が進んでいて、国から民衆へもみんなでフラットに考えながらプロセスを重視してみんなが理解していくようなやり方になってきている。

人は動物でもなければロボットでもない、人間として見守っていくことが何よりも大前提でないと良い政治はできないと私は思う。

そしてそうなると今度はすぐにやり方ばかりが注目され、それに飛びつき安易に「できている」や「わかった気になる」のが今まで上から押し付けられた刷り込みなのだから、日夜それを取り除きながらそれぞれが理念からの「創意工夫」を続けていかないといけないと私は思う。

未来の子どものために国とともに何かをやるのだから使命ある経営者はつねに「やり方」ではなく「在り方」こそを問いながら自分の答えを探していくことが大事なのだと思う。

あり方の確認の仕方はとても簡単だ。それは自らの周囲への眼差しがどのように相手に運ばれているかで、自らがどれだけ理念を真摯に実践しているのかがよく分かるからだ。

カグヤでは「自分へ矢印を向ける」という言葉があるが、まさにそれで自分自身が相手を責める前に如何に自分の眼差しがどのようになっているのかを反省する方がよほどコミュニケーションの本質になっていると思う。

本質的なコミュニケーションとは、私はやはり「感化」することだと思う。

感化するためにみずからが矢印を自分へ向けて様々なことを語り合い、話し合い、行動実践していく。そしてそれが理解できてはじめて、組織や仲間が同じような方向で一枚岩になっていると定義するのだと私は思う。感化するには、まずは自分自身の心が明確に定まっていないと感化はできない。

私たちカグヤはこれからも子どもたちの未来へ向けて、志の高い人たちとともに推譲の心で輪を広げながら本質的なコミュニケーションを深めて生きたいと願う。