心力

日常的に人は肉眼に頼って判断する。
当然、目の前に入るものはすべて変わらないものと定義されそれを認識することで物事を決めている。

しかし本当のことはほとんど肉眼だけでは分かるはずがない。そこに確かな心の力が育っていないと真実を見ようとせずにすぐに決めつけたくなるものだ。

早く決めつけたいというのは、脳が心を遠ざけ現実から逃げて楽になりたいやもう考えたくないという習慣がそうさせるのかもしれない。

特に不安、あせり、葛藤、不信などあればもうその人の心は曇っている。

天気もそうだが、曇ったり、晴れたり、日々は変わって見える。

しかし、その本質は変わることはない。

循環の理もそうだし、地球というものの存在自体であることに変わりはない。
満ち欠けする月も月としては変わらないし太陽も変わらない。

そこを変わるという人間があるだけなのだとも思う。

そして人間はあまりそういうものは普段から観ようとはしない。
当たり前というものだからだ。

そしてそれが当たり前と決めた他人の仮初や評価を考えたくないから信じたいからだとも思う。そして主体がなければ、そういう止観することもやろうともしない。

またそうなると長期的出来事や短期的出来事を洞察する力が濁り、学びや命というようなそこに意味があることをも感じなくなるものだ。

そして幸運も不運もその時の気分次第となってくる。
仕舞には、刹那的に欲望のままに己を使おうとさえしてくるのだと思う。

道徳や倫理というものは、主体的に自立して考えて周囲との人間関係や環境との相互作用で学ぶからそういうものが自然に体現されていくのだろうとも思う。

話が戻るがそういう心に正しい思想や深い哲学、実践学問からの心力が備わると、そういう刷り込みが次第に取り除かれ、上善は水の如くなってきて透きとおった穏やかで調和する自然になっていくのだと思う。

日々、曇ったり汚れたり、積もったりする刷り込みや穢れをどう取り除き人間力を育むかはその人のあるべきよう、あるがままを助けるためには必要不可欠な生きる要素だと思う。

そしてこんな時代だからこそ、そういうものにさらわれない様に大事にしていかないといけないと私は思う。

人間力と心力はきっと、これからのこの世と自分の本質を知り、自然に使命や天命を全うするための生きる力となるのではないかと私は思う。

子どもたちには、自分自身の誠を貫く脚下の実践と背中の感化を通してそういう目に見えないものを譲っていけるように常に心の力を磨いていきたいと思う。

行じる

先日、ソフィアバンクの田坂広志先生の講演をカグヤのクルーと一緒に拝聴した。

田坂先生とのご縁は、もう数年前になる田坂塾での邂逅になる。

あの頃からまっすぐに動じずに変わらずに、ご自分の本懐を遂げるための実践をなさっているのが今回の講演でもひしひし伝わってきて感動した。

講演の中で印象に残る言葉はすべてに及んだけれどその中でも印象深かったのは

「最も正しいメッセージはすでに過去の思想家や哲学者などによりほとんどすべてが語り尽くされている。しかし今の時代の大衆はそれを忘れているだけである。そしてそれを行じるというのはなかなかできないから難しいのである。」

という言葉。

語っているご本人が学び、それを実践してみて語るからこそ心に響くメッセージに感じた。

私自身、自問自答したりもそうだし師匠や名著、メンターとの出会いで得られる言葉も行じるとなるとそれは別物だと本当に実感する。

よく学者の方々が明快に答えられるのを拝見しても、実際にやろうとするとそれはその通りにはまったくいかない。

やはり孔子や二宮尊徳のように実践したものが遺した軌跡を辿ることが行じようとするものには真の助けになるのだろうと思う。

私たちも園では、様々な取り組みについての参考例を話すことがある。

私たちは会社の理念に「やったことしか語らない」というものがある。
会社では、様々な実践のルールがある。

そしてそれが次第に増えていく。

その増えていくのは、それが現場に必要だと感じたものは定義をつけて意味を見出し、それを実践することで真理を掴み取っていくためにもやっている。

そしてそこで学んだことを、園の先生方へお伝えして一緒に行じることを認めあい実践を増やしていくようにしている。

いろいろな評論や分析系の方がいらっしゃるが、高度なコミュニケーションは言葉を使わないと私は信じている。

コミュニケーションが高度になってくると、人は実践だけで伝えていくのだと思う。それを別の言い方では感化というのかもしれない。

しかしそういうものがなければ人は決意や覚悟、本気という人生に響くような大いなる感動も邂逅も得られないし伝わることはないと自らの体験からも私は信じている。

子どものモデルになるような大人とは、自らが理想と建前と使い分けるのではなく実践することで得た、矛盾も内包しても揺るがない信念、一円融合した叡智や智慧を語ることなく心胆を以て伝えることがもっとも相手のためにもなるのだろうと思う。

言葉で喋ることや物を書くことがどうこうではなく、その人に裏付けされた自分を律する厳しく豊かな実践がどれだけ練りあがっているのかを見てもらうような道徳的な社会に未来がなっていければといいなと思う。

子どもたちが安心して成長していけるような良い大人の背中を見せていくためにも、社業の実践を通して学びを深め行じることを優先して丁寧に歩んでいこうと思う。

一期一会に再び感謝。

一を以て貫く円

教育界だけとはいわず世の中にはたくさんの偏見がある。

たとえば、先生と呼ばれる人たちは先生であるがゆえに周囲よりも自分が高く見てしまうことがある。医師などもそうだが、次第に目線が高くなってくる。

周囲がそう思わせていくこともあるのだと思う。

そしてそれが肩書きの量などで余計に増えていく。
それを偏見というのかもしれない。

本当に不思議だなと思うことがある。

たとえば、利益を出す会社員は世間では「業者」と呼ばれる。出入り業者という言葉もある。そして出入り業者という言葉があるから出入り禁止という言葉がある。それは、何か出入りを禁止するという絶対拒絶と脅しのようなものを意味するのだろうと思う。

きっと片方の立場が強いからその言葉を使う。
もしも平等ならば、お互いに話あってしかるべきものなのだと思う。
そうなると「お互いにあわないから仕方がなかったね」となるのだと思う。

そうやって得てして出入り禁止などと伝える側を洞察してみると、民間ではなく官僚の方がよく使っている言葉であることは見ていると分かる。

常に何を背にして話をするかで話し方というのは変わってくるものかもしれない。

たとえば、官僚や先生は研究者を重宝する。具体的な研究をしているからその知識を教授いただくためにいろいろと媚び諂うことがある。これも私の偏見といわれるかも知れないがたとえばこの教育業界は「研究者」という肩書にとても弱い。

最近ある現場で実感したけれど、単なる社長という肩書よりも研究者とした方が評判が良くなるもの確かだ。

そう思うとき、如何に人は話をきちんと自分で咀嚼し、その人の風格や人格を確かめず、その人のそのままの存在を認めるのではなく、肩書きのみを判断して物事を評し喋ってしまっているかがよく分かる。

昔、二宮尊徳が農民の立場でたくさんの人たちの心田を一人で耕した。
肩書きもなく、実践のみで世の中のたくさんの人たちを救った。

宋代の碩学・張横渠にある。

天地のために心を立つ
生民のために道を立つ
去聖のために絶学を継ぐ
万世のために太平を開く

という言葉がある。

真に、いろいろな人間がいても自分を鼓舞し大志を貫徹する人は、評されることには微塵も動ぜず、常に偉大な思想と自らに捉われない泰然としたものが備わっているのだろうと私は思う。

今も昔も、人間のそういうものの見方、偏見はあっただろうにと思うと不動の覚悟が備わっていた二宮尊徳を心から仰ぐ。

成田山での断食直後、二宮尊徳の詠んだ詩にこういうものがある。

「打つこころ あれば打たれる 世の中よ 打たぬこころの 打たるるは無し」

私は、まだ自分が揺れ動き乱されることがある。きっと無意識にもどうしてもどこかで人を打つ心を持っているのかもしれないと猛省させられる。

立派な人は多くの人たちに触れていく中で、物事を正しく観て取る人は人間を評するようなことはしない。そして人間はいろいろあるのだから、それをそのまま受け容れていくような寛大な器がそこにある。

古人の聖賢は皆、そういうものが周囲にあったはずだし、その中でも道を志して道に恥じない生き方をなさっていたはずだ。

どんな時代でどんな生き方があったとしても、偏見を持たず、人としての思いやりを貫けるようなものを持つことは何よりも大事なことなのだと思う。

最後に、そうやって私のように揺れ動いてしまう偏見の世の中にあってもとても勇気が戴けることがある。

それは、同じような志を持った同志や朋が誰が何と言おうと自分にしかできないことを貫き、この国や子どもの将来のことを憂い、ともに歩んでいると実感する至上の邂逅の時間だ。

論語にある。

子曰わく、学びて時に之を習う、亦よころばしからずや。
朋遠方より来る有り、亦楽しからずや。
人知らずしてうらみず、亦君子ならずや。

(孔子が言われた、聖賢の道を学んで時に応じてこれを実践し、その真意を自ら会得することができるのは、なんと喜ばしいことではないか。共に道を学ぼうとして、思いがけなく遠方より同志がやってくるのは、なんと楽しいことではないか。だが、人が自分の存在を認めてくれなくても、怨むこともなく、自ら為すべきことを努めてやまない人は、なんと立派な人物ではないか。)

私は、まだまだ未熟で人々が偏見を持たれるほどに自分の行いが至誠に通っていないのだろう。特に、肩書きを持っている人たちや教師、先生といわれる人たちから立場や肩書で人間を評されてしまうと尊敬したいという自分の感情を優先してつい腹を立ててしまうことがある。

しかし、子どものためを本気で思い、子どもの声を命を以て聴き届けるならそういうものもすべてまるごと受け容れてそれよりも先にある貢献のために自分を使っていくことを第一にすることが何よりも自分には必要なのだと真摯に思う。

これからも子どもたちがそういう偏見で物事を評するのではなく、いろいろな物事、出会う人々の中でも、一円観を持てるような人たちになれるように私の実践を以て社業を邁進していきたい。

感謝。

情報リテラシー9

最近、ニュースやテレビで何か有名な人が犯罪をおかしたりするケースが増えていてそれを面白がってマスコミが番組を制作しているのをよく見かける。

大衆にあわせてそういう有名人や偉人だと言われている人たちが失墜していくのを面白おかしくやるのは国家を維持する上でそれも人間には必要なのかもしれない。

しかし、悲しいことにどれだけ良いことをしても一つでも悪いことがあれば今までの功績やその人の真剣な人生を馬鹿にするというのはどういうものかと私は思う。

人間は何かが分からなくなってしまって失敗することもある、能力差や個人差、完全な人間などいないのだから組み合わせや運命のめぐりあわせもあるだろう。

だからこそ日々、自分を磨き、自らを修養し、良い師、良い朋と交わりながら天との対話、地での実践、人との約束を守ることはそういう運命のめぐりあわせのなかでも自分を正しく仁の生き方を貫くためには必要なのだろう。

社会は、何かの悪い出来事があっても良い方を観るのか、悪い方を観るのかではその後の社会全体のありようが変わってくる。

良い方を見ていけば、寛容な社会で穏やかで優しいものになる。
そして悪い方を見ていけば、世知辛い社会で堅苦しい厳しいものになる。

以前、私が訪問したオランダでは前者を大事にしていて常に物事の良い方を見ていくようにマスコミもそして大衆も意識して社会を創造する努力をしているように感じた。

社会を構成する大人の姿勢が問われる時代に入っているのだと真摯に思う。

子どもを思うとき、子どもたちはこの今の日本の社会をどのように思うだろうか?

大人は子どもに、「失敗してもいいんだよ」や「またやり直せばいいから」や、「悪いこともやったけど良いことの方が光っているよ」など、言えるだろうか。

そして子どもたちもその大人の言葉に本気に大丈夫だと安心していられる社会であるのだろうか。

それを思うとき、私自身はもちろん失敗すれば何かに巻き込まれればひょっとすると叩かれるかも知れない。すでに営利企業というだけで、あまり良い印象を持ってもらえない方々もいる。

特にこの日本の教育業界というところは、失敗者にとても厳しいように感じる。脱落者のレッテルを一度貼られると、もう二度と立ち上がれないように完膚なきまでに叩きつぶすし嫌な村社会での掟のような暗黙の了解でのいじめのような眼差しさえある。

社会を窮屈で頑なにしているのがもしも私の尊敬している教育界からだとしたら本当に悲しいことだと心から思う。

もちろんがっかりさせるようなことは誰もみんなやりたくはない。
教育に関わる企業にだって子どもの成長を見守る大きな社会的責任がある。

私自身、もっと自分には厳しく相手には寛容になるように人間を陶冶する努力を続け、短期的にではなく、長期的に見守る社会づくりに貢献できるようにもっと情報リテラシー力を磨き世の中を良くする方へ努めていきたい。

子どもたちが、安心して学び反省し、そして優しく温かい世の中で愛し合い認めあって生きれるような豊かな社会を残してあげられるようより社業に専念していきたいと思う。