起業のキッカケ

今年の正月は、ゆったりと読書に耽ることができている。

今年の始まりは改めて吉田松陰先生の遺した遺訓や教えなどを読み直すことができた。

元々、松陰先生との最初の出会いは私の中学の頃だろうか、うっすらとだが記憶がある。自ら高い理想を掲げてどのように生きればいいのかを悩んでいた時、「孟子」の解釈の一部を安岡正篤氏の著書の中で吉田松陰の言葉や遺訓を引用してあったことで知ったことがキッカケだったように思う。

それから、何かに突き動かされるように吉田松陰先生のことを知りたくなり、そののち図書館で借りたその生きざまが書いてある伝記や物語、また啓発書などからその教育観や理念に感銘を受け、より深く先生のことを知りたいとずっと興味を持つようになった。

そして高校卒業後、中国へ行く決断をし、留学をした時も、その傍らには吉田松陰先生の本をたくさん持って渡航した思い出がある。

時折、無理に自信過剰に夢に振舞う反面、自分に自信がなく、情けなく、これからどう生きるべきかを思い悩み、不甲斐なさにそして迷い惑い、酷く落胆しているとき、この松陰先生の遺した生き様や言葉がそういう自分の心胆に突き刺さり癒し、再び向上心を発奮し頑張っていたように思う。

今思えば自分が立志する一期一会を頂いたのは、この吉田松陰先生だったのだろうと思う。私自身にとってその御恩、何分遠大にして、今更ながら毎年の松陰神社参拝でも深い感謝と情熱が年々こみ上げてくる。

私にとって此処に以前、こんなに素晴らしい教育者がいたこと、そしてかんながらの道を示してくれたこと、この日本には本当に素晴らしい文化伝統があり、立派な人を創る歴史と風土があったのだと思うと何よりも先祖への深い感謝と世界の中でこれから平和のために貢献し活躍することになる未来の大和魂への自信が湧いてくる。

そして、私には忘れもしない会社起業のキッカケになる思い出がある。私がカグヤを起業するキッカケとなった出会いもまた、この吉田松陰先生から頂いたご縁だったからだ。

ちょうど私が24歳くらいの頃だろうか、仕事で青森県弘前市へ出張した際、同行者とともに養生幼稚園という場所へ伺った。用件を済ませ私が少し時間があったのでその幼稚園の近くにあるあまり目立たない草庵のような場所があったので散歩も兼ねてふらりとそこへ立ち寄ってみた。

その日は平日の夕方で誰ひとりそこにはなく、気配もなく、たそがれた夕暮れに私一人だけが存在し、とても静謐な雰囲気があった。

そして門は開いていたのでその草庵の中に引き寄せられるように入るとすぐに愕然とする出会いがあった。

そこには小さな古い和室が一室あり、そこに吉田松陰先生の書や絵がずらりと飾ってあったのだ。

なぜこんなところにに先生の絵や書が?と中に入り、書いているものを色々と読んでみた。

すると1815年頃、親友の熊本藩士宮部鼎蔵とともに今の山口県から弘前まで明徳立志のための学問の旅をし、そこにいた伊藤梅軒氏の話を聞きにきたとのことが書かれてあった。そこは、松陰先生が東北歴訪で訪れた伊藤梅軒氏の旧宅だった。

そして私が何よりも衝撃を受けたのは、その時、松陰先生がまだ齢23歳の時だったということ、その当時の私よりも若く、学問を実学を通して道を切り開こうとなさっていた軌跡が存分に残っていたこと。

そこで私は激しい感銘を受けて、その当時の松陰先生の気持ちになって感じ入り涙が止まらなくなるほど心に深い感動を受けた。そしてその当時、自分が流されていること、逃げていること、決心していないこと、自分が不甲斐ないこと、何をやっているのだと拳を握り締め自分自身の命に、またその念に檄を打った。

そして、その日感動のままに眠れず、深夜未明に目が覚め、起業をする揺るがない決意をして幼児教育への思い、そして自分の為すべきことのため、今の会社カグヤと私のミッションとの邂逅があった。今なら少し理解できるが、私は私のやることで天地の間でしっかり自立をするんだと改めて誓った瞬間だったのだろうと思う。

こうやって物思いにふけり、過去の起点を思い出すのも松陰先生の生き方を学ぶご縁があったからだと思うと本当に師との廻りあわせというものに人生の有難きを感じる。

松陰先生は、この歴訪のあと、名前を寅次郎から松陰と改名することになる。
私は、松陰先生の本質としてこの歴訪から自らを称し、実学の決意新たに自らの遺した詩でとても意味深く好きなものがある。

 『松下陰深きところ更に人有り。』(安政六年五月頃の詩)

私の勝手な解釈だけれども、この国にはまだまだ素晴らしい逸材や師はまだたくさん発掘できる。そしてその人たちは皆皆、大機を待ち、日々粛々と律しながら脚下の実践を行い、自らを修養していること。そうして、普遍的な道の上を歩み、その悠久の流れの中で故人と対話し、今に生き切るもの。

遠大な志を持つ人は、どんな時も知行合一を目指しているもの。
それは真に知る者はそれを行うものだという何よりも実践を第一義とする本質的に生きようとするものの定めた真理なのだとも私は思う。

もうあれから8年になるが振り返りどれだけ至誠の実践ができたのだろうか。

こうやって省みると、道未だ始まったばかり。

これからもまた大義と本気で生きる人たちとのの一期一会の学問と自らの修養により、ブレない勇気と研鑽により初志貫徹していきたいと心を引き締める。

有難い悠久の時間と、この出会いに改めて感謝。