情報リテラシー10

情報というものについてはずっと考えてきた。

人間は、直観のようなもののほかに言葉を通じて物事を情報にし伝達をしてきた。
そうやって言葉を創ることによって、様々なことができるように進化してきた。

情報というものは、常に時代によって変化発展して今日のようなインターネットを使って国境も超え時間的制限も超えた媒体を持つことになった。

便利さというのは、便利になったその刹那、必ず反面にある不便を生む。

情報の世界でも様々なものが簡単便利に手に入るようになったけれど、その情報の質や量などより複雑になり人間側が理解することが難しくなってきた。

たとえば、ホームページでもよい情報をたくさん載せればいいかというと判断する側からすれば多すぎても混乱してしまったり、全部良いというのはある意味で全然印象に残らなかったということも多々ある。

人間が情報を選別する際は、良い方と悪い方と比べたり、何をしていて何をしないのかや、もっとも大事にしているものやもっとも嫌っているものなど、何かに挟み込むその「行間」のようなものでその人なりに本質に近いものを掴み取っていくのだと思う。

もちろん、情報を入手しすぎて過剰摂取しだすとその一つ一つの意味も感じなくなりまるでその情報の意味を感じないパブロフの犬のようになってしまうこともある。哲学や思想などを深めず、ただテレビを見続けるように受け身になり作業のように考えなくなるとまったく情報を使いこなすことができなくなるのと同じようなものだ。

自然界でもそうだけれど、人間が便利に都市化されたものに流され続けているとリサイクルや持続可能など当然必要としていることにも無頓着になって無機質に無感性になっていくのと同じ仕組みだ。

しかし、本当の情報を手に入れないと自分が本当に欲しいものとのマッチングは難しくなる。

ミスマッチの連続では、感動するような出会いも少ないし、自分にしかあわないものに出会える可能性も下がってくる。

私が考える情報リテラシーに、「こだわり」がある。

その発信する情報者が生涯をかけて続けていきたいもの、そして決してそこから下がれない一線だったり、もしくはもっとも大事にしていきたいものを絞り込み、その「こだわり」を持続可能にしていくというもの。

たとえば、人は、何でも続けていると身体に纏ってくるものがある。

それは掃除でもいいし、坐禅でもいい、あいさつでもいい、笑顔でもいい、大事にしていることを動作化し続けていけば自然にそれが周囲に可視化されていくし、感化されていく。

そういうものは、情報なんて細々と伝えなくても文字通り「一目で分かる」ものになる。

これだけ情報過多の時代、目でたくさん見てもわからないものばかり、だからこそもう一つの眼ですぐに分かるような情報を出していくことが大事なのだと私は思う。

そして私は今こそ、そういう感性を磨く時代に入ったのではないかと思う。

先日、私が伺った園では「子どもに本物に触れさせたい」という理念があった。
私もまったく同感で、カグヤでもそういう本物とのふれあいを増やしている。

本物に触れることで、心の眼や心の耳等のもう一つの五感を開いた情報入手ができるようになってくる。

そしてそれを上手に使いこなす人こそ、本当に今のITなどを使いこなせる成熟した情報リテラシー力の高い人だと私は定義している。

どの時代も、本物が情報を使いこなしていくのだ。

大衆情報をどんなに権力者が操り扱おうとも、本物の情報は時代を越えて普遍性を帯び長い年月で人間を導いていくのだと思う。

私は情報リテラシーを扱うコンサルタントとして、また子どもたちにより良い環境を世界へ提案し、広めていくためにも常に本質に寄り添い、意味を素通しさせない様な日々の実践こそを大事にしていきたい。

保育環境の情報リテラシー企業として、今の時代のツールを活かし子どもたちへの未来のIT環境を創造していきたい。