先世の結縁

仕事を通して色々な方との出会いがある。

その中には、長い時間ともに在る人もいれば、短い時間ともに在る人もいる。そして、すれ違うようなものもあれば、一生のものもある。

ご縁というものは、その短長軽重に関わらず常に私たちの「今」に存在し、その関わりや繋がりを通じて様々なことを深く学び、その意味を感じ尽くすように生きているのだとも思う。

眼に見えないものを通して、耳に観えるようにしていくと、その様相が現れ深いご縁に感謝できるようになる。

仕事には、本当に多様な繋がりがある。
その一つ一つを意味があるものとし、感じ尽くしていきたいと思う。

聖徳太子、「説法明眼論」にこうある、

「或は一國に生れ、或は一郡に住み、或は一県に処り、
 或は一村に処り、一樹の下に宿り、一河の流れを汲み、
 一夜の同宿、一日の夫婦、
 一所の聴聞、暫時の同道、
 半時の戯笑、一言の会釈、
 一坐の飲酒、同杯同酒、一時の同車、同畳同坐、
 同床一臥、軽重異るあるも、
 親疏別有るも、皆是れ先世の結縁なり。」

それだけ、関わる人たちすべてに前世の因縁もあると思えると、他人と自分という小さな境界線に垣根なく、何かこの人とのご縁があるのだろうと思われ、とても自らが知らないことばかりに気づくことがある。

もしも、また出会えないとしてもと思うと悲しい気持ちになる時もある。
しかし、眼前の繋がりや、耳後の繋がりを思うとき、私は強いご縁でその人たちと引き合い、またまなび合い、そして道を歩み続けていると思えると、何とも言えない心休まる気持ちになる。

人は、常に出会いと別れという御縁の繋がりの中で、お互いを歩みあいながら自らの道を求めていく旅路にあるようにも私は思う。

どんな小さな出会いですら、前世の結縁であり因縁があると思うとまだまだ人を大切にして生きていきたいと心から思う。

そして深い縁のある人たちにはより真心を持って関わっていきたい。

たとえ、それが一瞬の出会いであっても、そしてそれがとても重たい出来事とともにあるとしても、その出会い出会いの一期一会を感じ尽くして自らを努めていきたいと思う。

お客様への尊敬と敬意、そして、ともにある者たちへの思いやりと真心、あるがままへの深い感謝など、当り前のものをもっと丁寧に行えるような日々の実践を続けていきたいと思う。

一期一会

幸せの環境

先日、カグヤクルーと一緒にレストランひらまつのシェフ兼社長の「ぶれない経営」の講演を拝聴してきた。

故郷のために料理を創るという原点を持ち、一人でも多くの人たちに敬意を払い、眼前の人たちの幸せを創るといった理念で実践を重視されている現場の方のように感じた。

私はとても料理が好きなので、つい料理人の話などは聴いていてワクワクすることが多い。素材への思いやり、創作への遊び心、おもてなしをする人への尊敬など、どれも一つのご縁への活かし方に思想が感じられて人の温かさなども感じてしまうからかもしれない。

大切な人や、思いを伝えたい人には私は料理をよく創る。

そのものの溢れるほどの思いは、言葉では伝わらないことが多いことを感じるとき、人はそのセンスによって質量や軽重などを実感しているのだと思うとその感じる心は常に繊細透明にしておきたいといつも思う。

個性豊かな素材に巡り合うとき、新しい豊かな創造を発見し、一期一会の邂逅になる。

すべての道理は、それを観る人、聴く人、触る人の感性によるのだと思うと、いつになっても魂が揺さぶられるような奇跡の体験をたくさんして生きていきたいと思う。

本気のスイッチ、本気の人生、在り方一つで世界が変わる。
環境のせいにせず、自分一本で主体的に生きるというのは慎み深い豊かな個の自己表現であると本当に思う。

平松氏の講演で印象に残ったものがある。

平松氏は、よく社員に「君は今、幸せか?」と尋ねるそうだ。

そして幸せかどうかを尋ねた後、「幸せでないのなら辞めなさい、幸せでないのなら意味がない」と話すといい、これを何よりもとても大事にしていると仰っていた。

これはカグヤの「自分にしかできないことをやる」というミッション経営にも通じている。

昔は私はつい自分があり、自分が出ると、相手への後ろ向きな諦めが現れ、何か大事なことなのに相手への押し付けではないのかを悩み、すぐに遠慮してしまい貫くことができなかったことがある。

経営者は、人格が磨かれていないと傲慢に自分勝手なことばかりをやっている人もいて、そういう謙虚ではない知性のない人柄にはつい嫌悪感を覚えてしまうことがある。

しかし、本物に近づけば、自分にしかできないことを自然体でできるようになり、自己表現が時として傲慢に見えることもある。これは傲慢ではなく、自分というハッキリした信念や理念が明確になっている行動があまりにも集団の中で目立つために現われているだけで決して傲慢というわけではない。

これが観える人が周りにいれば、その人のミッションの体現により世界にたった一つユニークな生き方が周囲を活かし、周囲を巻き込んで素晴らしい組織や経営になっていくのだとも私は思う。

そして、「幸せか?」と聴ける境地に入っていく。

まず、これは自分が幸せでなければ相手に本音でそれを聴くことができない。そして、相手に自分と同じように幸せを掴める自由な環境を用意していないとこれも聴くことができない。最後に、本気で相手の幸せを思っていないと本気で辞めろや意味がないと言うこともできない。

自分がどれだけ今、自分の周囲にいる人に感謝し、その人たちを幸せにしていくかと透徹する信念で自分をモデルとして日々を実践していなければその言葉はない。

私は、今までを思い返すと言えなかった自分が確かにあった。

しかし、自分で決めて、自分で選択できて、自分で行動できる自由な環境を用意し、情緒の安定と発達を助長できるような環境にして、見守る実践を行うとき、同じように「幸せでないなら意味がない」と言えるようになってきた。

それは、これだけの環境を用意しても主体的にならず、やる気がない、チャレンジしない、本気にならないのなら、もっと人生をちゃんと考えなさいという気付きの機会を与えているようなものだと思えるからだ。

今回の講演での御縁も有難い機会になった。

時折、一生懸命に歩んでいる中で同じような原理原則でぶれない経営をする人たちに出会い本心での邂逅があると皆も安心することができる。

セミナーもそうだけれど、自分たちカグヤのやっていることの重要さもこういうところからも学んでほしい。

最後に、私はこれからも、日々、自分の生き方を自分にしかできないものへ昇華する精進に努め、押しつけではなく、本人たちが自分の力で刷り込みやしがらみなどを拭いさり、主体的に一度しかない掛け替えのない人生を、使命感溢れる命の躍動とともに歩めるような本気のスイッチが入った幸せに満ち足りた覚悟ある素晴らしい人生であるように願う。

そしてパートナーとともに、一人でも多くの人たちに幸せの意味を実感できる理念を具現化していこうと思う。

私たちが関わるあの子どもたちにも、そういう人生の喜びに満ちた主体的な環境をこれからも見守ることで広げていきたい。

本当に有難うございました。

恩人

先日、東京に来てからご縁があった恩人のコンサルタントの方の通夜に参列した。

初めてその方にお会いしたのは、アットニフティというサイトでベンチャー企業が紹介されていたコラムの取材だった。

元は有名なシンクタンクの所長も務められ、エコノミストでもあり、経営の潮流を予測したり、分析をされたりなど幅広い知識と経験に感動したのを覚えている。

その出会いから意気投合し、カグヤの抱える様々な経営課題について一緒に考えて取り組んでくれていた。それから6年、何かあるといつも元気に連絡をくれて私たちの会社のことを心配をしてくださっていた。

いつも優しく当たりの柔らかい言葉づかいや仕草に、人柄の美しさを感じていた。

今まで一緒に仕事をしたことをひとつひとつ思い出すと、息子くらいの年齢の私が生意気に色々とストレートに語る不躾な口調にもいつも温かな眼差しでフォローしてくれて私のやることを横で少し下がって蔭ながら支えてくれていた。

本当に素晴らしい人で、出会えたこと、関われたこと、その全てに何よりも心からの感謝感動の思い出がたくさんあります。

斎場では、悲しみに大変な中、奥様や子どもたちがいて生前の様子と伝言などのお話をいただきました。

息子さんからはよく生前、父が私たちの会社を誇りに思っていて、いつもご家族にカグヤの自慢してくれていたとのこと。すごい会社なんだよ、成功してほしいと話をすることが多かったとのこと。

そして、奥様からは「カグヤを大きくして成功することが主人の望みでした、それが何よりの供養になりますから、お願いします。」と仰られた。

悲しみと、何より寂しい気持ちが込み上げました。

私たちと会社をいつも見守っていてくださった大切な存在がなくなるということ。
こんな寂しいことがあるのかと複雑な気持ちになった。

人は誰も必ずいつかは死ぬことになる。

それは当然、この世界では生きているものは誰もその業より逃れることができない。

しかし思い出を想い、それを繰り返し切に感じるとき、何よりも共に過ごした掛け替えのない時間やその人との体験で得た偉大な慈愛や深遠な真心に触れると、決してなくなることはない「永遠の価値」に変わっていくのが分かる。

人が人と出会うということの掛け替えのない永遠の価値。
その素晴らしさ、いつも感じていたいと切に願う有難い邂逅にもなった。

様々なことを教えていただいこと、またひとときの旅路に一緒にいれたこと、心の底から感謝しています。またいつか彼の世にてお会いできるのを楽しみにしています。

そして私はこれからも安心して見守っていただけるように恥じない実践と、ブレない自立成長、初志貫徹の信念で日々の歩みを強めていこうと思います。

本当に有難うございました。
どうか安らかに、全てのご冥福を心よりお祈りしています。

生きる力

人間を含むすべての生物は、先天的に生きる力があるものとそうではないものがある。

たとえば、生まれたてのものをよく観察すると何となくそのものの魅力に差がでているのがよく分かる。愛嬌があるや可愛らしいなどもそうだし、明らかに観る人たちが無意識に選んでいる。何が異なるのかは言葉では説明ができないけれど、それは動物的直観なのかもしれないし、もしくは何かしらの遺伝情報から察知しているのかもしれない。

ただし私が今生きていて思うのは人間に好かれるとは、その生まれたてのものが周囲にどれだけ素直に心を開いて信じられる素質があるかないかにもよる気がする。特例もあるけれど、大多数の人は周りを有難いものだと理解し必要だと信じている人を好み、安心する。世界ではそれを素直である、正直であるという美徳にもなっている。

先日、ある子犬を観る機会があった。

まだ生まれて1ヶ月ほどになり目もようやく開いたくらいだったけれど、確実に個性が見て取れる。ある犬は、人好きで愛嬌があり、しっぽを振って人に安心して近寄ってくる。そしてある犬は、おとなしく怖がって上目づかいで震えている。まだ生まれてすぐなのに、こういうものがあるというのはひょっとすると生まれる前の体験が命に宿ってしまったのかもしれないなと思う。

そういえば、以前ツバメが自宅の軒下に巣をつくっていたときもそうだったけれど、やはり生きる力のないツバメの子どもは巣から落とされていた。それは生きる力がなく餌を親からもらえないツバメということになる。愛嬌よく素直に信じて大きな声を出し大きな口をあけて親がそこに餌を入れようと思わないと餌はもらえない。

人はそれを可哀そうだと同情するけれど、そのために他の子どもが生きる力がなくなるのだから優先して大事する方が生きるもの、自立するもの、となるのは当然のことだとも思う。自立とは、どちらも真剣に受け身にならずに生きていこうと本気で関りあうからこそできる行為だと思えるからだ。

もうすでに私たちが今いる世界が自然からズレていることも分からなくなってしまっているのが私たち人間の姿だとも思える。不自然が自然ということになっているから、不自然を補うようなことばかりが満ちて、いよいよ人を惑い迷わせる時代になっている。いつの時代も刷り込みというのは本当に怖いことだと思う。

話を戻す。

そうやって私たちが住む自然界はとても厳しく、まるで自分がまずこの世界を真っ直ぐに受け容れないのならば置いていくよとつっぱねている感じもする。そして自立できないものは、この世界では共生できないよと言っているようにも感じる。

しかし逆を言えば、自分がこの世界のあるがままを受け容れれば、無償の慈愛に見守られ、安心して命を全うし、次世代へのバトンを譲っていけるよと包んでくれている感じもする。自立していくというのは、自分が世界と共生し貢献できその存在価値が認められ幸せな存在になれるよと言っているようにも感じる。

生きる力とは、こういって先天的に持っているものに守られてきたものをよく「運が良い」と言い、先天的に持ってなかったものを「運が悪い」と定義されるようなものだとも思う。

しかし、ここからが人生の面白いところになる。

もしも丸ごと信じていいと思えるような疑いの余地のない素晴らしい邂逅と出会い、その出会いが人生を劇的に変化させることがあるからだ。

生きるというのは厳しいけれど優しさに満ちているのは、信じようとさえはじめれば後天的にそれを修正して調和し自然になっていくことができると思えるからだ。

もしも周囲が信じられないような先天的な思いが満ちていても、もし人がそれでも生きようと自立しようと志し、自らの手と足でちゃんと歩みはじめれば様々な艱難辛苦に向き合うことにもなる。

その中で人の温かみ、自然の優しさ、生き物の思いやりを感じ、感謝することができれば信じるということの尊さを知り、生きるという意味を覚えることになる。

大いなる流れの中で、人は生かされ活かされていくようにできている。

そう考えると、人はいつでも変わることができるということ。
自立の尊さとは、そういう生きるということに真剣になっているということ。

そうやって自分の人生、周りによって生かされている以上、真っ直ぐに周囲を信じて天に任せて自立していくことが何よりも感謝とともに在る「生きる力」の天真発奮となる。

まずは自分自身、仕事を通じて日常を通じて、より周囲に心を開いて信じる力を持って自立できる人たちを見守っていく実践を深めていきたい。

様々に埋められないぽっかりと開いた穴がある人たちもいつの日かそれを皆で補い助け合える社会になることを信じて、真心を持って子どもたちの環境を援助する仕事を一念集中して貫徹していければと願う。

ブレそうになる前に、まずは生きる力を持って生きようとしないものに見守る行動実践を通じて自立を促す環境創りに真摯に努めていきたい。

負の連鎖

先日、ある組織の話し合いなどに参加する機会があった。

そこでは、いろいろな方々があまり話が紛糾しないように主義主張を出し話し合いをしていた。問題はたくさん起きる、それは当然今まで正しいと思われていたことが、時代が変わっていく中で合わなくなってくることがたくさん出るからだ。

ただ、いつもその機会を見て感じるのは、結局は言うだけで最後には大事なところはいつも変えないということ。理由はいくつかあるけれど、大事だと勘違いしているだけで本当にそれは大事なことかなと思ってしまう。

その方々の言う大事なところとは、私が観ていると先人の残した成功のカタチのことを言っている気がする。その人たちは、新しく壊したというように思われることを、先人の苦労を否定してしまい裏切ったことだと定義し勘違いし、頑なに保守に固執するばかりである場合が多い。

もしくは、過去に認めてもらったその人に報いたいとその人の考えをそのまま残そうと周りも見ずに躍起になって反対する人もたくさんいる。

万物流転、時代も変わっているのだから、本当に尊敬する先人の叡智や智慧を残そうとしたらキチンと本質を観て常に時代にあわせて変えていかなければ守れるはずもないのに、カタチダケのものを残せば遺したと勘違いした負の連鎖は広がるばかり。

こうなると、夏に冬服を着てクーラーを入れているようなものだし、冬に夏服を着て暖房の中で引き籠っているようなものだ。自然にあわせていくことをしなければ、如何に無駄が生まれ、そのツケを別の形で解消していかなければいけないという本質からソレタ問題にばかりにエネルギーを割かれることになる。

リーダーが気付かずそうなってしまうひとつは責任があるのだろう、自分がその役を持っているのだから今までの流れは変えてはいけないという目に見えた責任があるのだろう。しかしよく観ると、目に見えるものばかりを変えてはいけないという大多数の考え抜かない無責任な組織の人たちの言いなりになり、なるべく平穏に無難に済ませようとするのはそれで本当に今までの流れを守っているのだろうかといつも疑問に思う。

人は常に変わることで守っていく。

その変わるというのは、本質を守るために、周りの変化にあわせて順応させていくようなもの。その順応には、激しく革新するものもあれば、静かに維新していくものもある。

人はなぜ役割分担があり、代を重ねていく意味があるのか。
それを鑑みるとき、私が静かに思うのは人は成功体験があればあるほどその思い出の美しさに於いて執着が生まれ、それを美化しそこに囚われていくもの。

短い人生において、そういう思い出が人生を素晴らしく味わいあるものにする。

引き際というのはとても難しい。

今を生き切り、全身全霊で生きているときっと臨界点を知るのだと思う。
そしてその臨界が、自分にしかできないことの本質に巡り合えるような気もする。

無心というのは、無の心だけでは生きてはいけないのだろう。
そこに、確かに自分の中にある一つの道での無で有ることの方が優先されるのだろう。

業界を観ていると、生き残りをかけて何があってもカタチが変わらないようにと無理をして守ることばかりに囚われて排他的に新しいものを受容しない負の連鎖は続いているように感じる。壊れるのを待つばかりというのもなんだか受け身なことだと憤慨してしまう。

しかし、私たちの業界は子どものためのもの。

子どものことを本当に思うと果たしてどうだろうか。

子どもたちは、そうやって頑なになった大人から何を学び何に挑戦し新しく創造していけるのだろうか。

子どもを信じるのならば、時代にあわせて変わるのは自分自身だと自分を見つめ、子ども自身が変わっていくことを信じて新しいものを受け容れる思いやりや優しさをもっと大切にしていけばいいと思う。

決して若いものや新しいものは、卑下して遠ざける対象ではなく、そのものにより時代の流れにあわせて自分の本質が練磨できる最高の機会だと思うことがより先人の思いや遺志を継ぎリーダーとしての責任を果たすことに繋がっていると私は思う。

若い人や新しいことをする人は失敗をする。
それは当然失敗をする、子どもと同じで必死で「練習」しているからだ。

もっと新しいものになるために挑戦し練習する若いものたちに優しくいれるようにいつも私は居たい。

私自身は、この若い頃の保守的なものの組織からの軋轢などをよい体験と訓戒に昇華し、子どもの未来により確かな本質を譲れるように自分を本質にあわせていく方に迷わずに不動の心で邁進していきたいと念じる。

負の連鎖を断ち切れるような、新しいモノサシを創っていきたい。