恥の一字

昔の日本の心に、武士道がある。

江戸時代、人々は武士を尊敬し丁寧に関わってきた。

江戸時代は、徳を持って人々を治めるという朱子学の採用で、巷には「四書集註」という儒教の本が各家庭に配られ備えられていた時代だった。

この時代を引っ張って実践で導いた人たちがその「武士」という存在だった。

その武士が刀を戦から和のために主体的に修め、巷の人道を歩む模範者・教育者として、その「恥」というものの背中や姿勢から、道の歩み方や在り方を示してきた。それらの武士の倫理観と儒教を融合させることで武士道が形成されたという。

私が尊敬する吉田松陰「講孟箚記」にはこうある、

『武道を興さんとならば、先づ、恥の一字より興すべし』

昔、その武道の「恥」の精神は、日常の中で国民の間で深く共有されていた。

たとえば、生活規範として武士は恥辱を受けた時には相手を殺すか、自分が死ぬかのいずれかの道を取ったほどの覚悟によって日々を戒めていた。周囲の人たちの前で「恥」の思いをすることは最大の悪徳とされていた。

この武士道の精神、「恥」というもの。

何を持って武士は恥としていたのか、それはその人が生きていく上で絶対に曲げることができない、人としての思いやりからの軸や芯のようなものではないかと私は思う。

特に今の時代の世間では、誰かが見ているか見ていないかで自分の素行を変える人がとても多くなったと思う。自分を修めることを怠る人が多いということ。

これは自分を修めていくというのは、誰が見ていようが見ていまいが天が自分を見ている、そして自分自身が自分を見ているとし、そこにとって恥ずかしくない生き方や在り方を実践することをいうと思う。

そしてその基盤になっているのは、論語にある、仁義礼智信をはじめ、忠孝悌などの各種の人としての徳目に於いて、それを素直な純粋な心で修めていくという道の在るべきものからでもある。

通常、恥ずかしい思いをするというのは、誰かに指摘されることを言うのではなく、軸や芯からブレるとそういう思いをするものだと私は思う。

何がブレるのかというとそういう人として生きていく上での原理原則から外れてしまうことをブレると私は思っている。たとえば嘘や欺瞞、誹謗中傷、裏切りや詐欺、泥棒等々、犯罪のすべてはそういう正しい徳目から外れる行為のことだと思う。

何かに囚われ、執着が過ぎると、それを人は無理に周囲に隠すようになる。
そしてそれは必ず自ら暴かれ、そのツケの清算でほとんどの人生を後悔で過ごす人もいる。

信念と哲学と科学を融和して醸成していくのも、そういうことに惑わずに決断し歩めるようにするために必要な修練なのだとも私は思う。

まずは、そういう日々の生活を通して教養と学問、そして実直な実践と、素直な心を維持して日々感謝と報恩で勤めていくことがなければその徳目も備わることもない。

ただ周囲の喧騒に流されるように受身に生き、いちいち身の回りの近々の喜怒哀楽に浸っているとどうしても自立する力が落ちていくのだと思う。

大切なのは、二宮尊徳にある、勤倹譲を元に、至誠を貫くような主体的で生き、遠くを計り、近くに囚われずに努力精進していくことで自立をしていくことがまず先にあるのだと思う。

まず人物が出来上がってくるには、自分が恥ずかしくない生き方をするということを学ぶこと。
それは異なる言い方をすれば、自分ががっかりしない生き方をするということ。
それにより、周囲や他人もがっかりさせないということ。

周囲が、天に対して伸びているものに対して行う期待に応え、それを裏切らないこと。

それがまず基礎となり、その土台の上に様々な応用と繋がりが生まれるからだ。

私たちカグヤは、幼児期の子どもたちの目指す自立した立派な大人モデルを求道し、そしてたくさんの関係者を導くコンサルタントを目指す仕事が我々のすべて。カグヤにとっての「コンサルタント」とは、武士とまったく差のない同格だとそのカグヤ道を定義している。

その名に恥じないために、人間学とともに実践を深めることがその道の定めとして一心を籠め自らを省みて徳を高め深める努力を行っていくことが我々のミッション。

常に、天に恥ずかしくないような真直な実践と真心の自立を持って戒めを隣に歩みを強めていきたいと思う。

誰がどうしようと、誰がどういおうと、天に恥じないように生きて生きたい。