浅さと深さ

物事にはただ起きるということの理とは別に、そのものを感受する本人の深さや浅さがある。

日々、様々な出来事の中で人間のエゴが引き起こす栄枯盛衰や艱難辛苦、喜怒哀楽や利害得失、陰陽矛盾などにより本質的に学びを深めて人間を確立し、修めていき、そのものの使命を成就するために知行合一していくようにこの世界はできている。

それなのに何も分かっていないのに身勝手に分かったとするのは、ひょっとすると人生を本気でない証拠でもあるし、一つのことにも打ち込めないのはその人がそういう真の体験から盲目に逃げている証拠でもある。

浅いというのは、どういうことだろか。
浅いのは、知識ばかりで分かった気になり真の体験をしないということ。

その物事の体験もしていないのに自分勝手に成否善悪を決め付けて、自らの力で真実を掴もうとしないで大事なことはすべて他人任せで「ほらやっぱり」というところですぐに認識する悪癖を持っているようなものだと思う。そしてそれを繰り返しているとさらに次第に浅くなっていく。

また、他人が体験したことを安易に理解してさも自分で体験した気になってしまい、それを偉そうに他人に自分が体験したように論評し語ってしまうとそれを脳が体験したことだと誤解してしまい、さらにその浅さが広がってくる。

そして浅く広いがゆえに、いざひとつのことに深く取り組もうとするとそんことが怖くなり、他人からの対面体裁を取り繕うばかりを覚え、中身のない空虚な理想と現実ばかりの中で、何もしないままに流されていく日々を送ることになる。

つまり浅いというのは、自らの体験を通して学ぼうとせず、学問というものを、単なる知識享受だけのものだと筋違い勘違いしているから浅くなっていくのだと私は思う。浅いと浅いことにも深いことにも気付かず、ただ浅いということになってしまうから気をつけないといけない。

逆に、ここでの深いというのは、どういうことだろうか。
深いとは、そのものの体験が深いということ。

どんな出来事も自分でやってみないと分からないとし、行動活動的に物事に真摯に挑み、たくさんの失敗や成功体験を得て反省し、身につけることで初めて自分で掴んだ真実とし自立してそれを立派に行えるようになる。

そういう人は、安易に脳が身勝手な誤解をせず、心技体、つまりは身体や心、意志、そしてあわせて知識を総動員し、世界と一体になり命と一緒に体験をするから自然にそのものの正しいルールや本質的に仕組みを体得していくのだと思う。

それゆえに、深くなるのだと私は思う。
そしてそういう実践を繰り返し体得してきている人は素直であると思う。

若くてしっかりした人と言われる人は、体験と知識のバランスが良いことを言うしその素地があるのだと思う。孔子の高弟に顔回という人がいるけれど、いつも孔子の話をしっかり聞いては実践し体得していて孔子もとても信頼し尊敬していたとある。学問を志す者は、きっとそうでないといけないのだとも思う。

まだ私自身も体験というものでは、人生の妙味を味わい尽くすまでは至っておらず、全てに未完成であるけれど、きっと本物の学問とは、行動と知識がセットになっているものであり、そこから体験することで本質を学び、またそれを反復反省し自らに問うことで自らに浸透し、沁みこんでいくようなものだとも思う。深くなるのは、結果なるのであって、いつも深く在ることの方がより重要なことだとも思う。

もちろん、そうなってくると日頃とても大事な決断をするときに身を助けてくれる「直観」というものもそういうものがなければでてくるはずもない。

体験というものを何よりも優先しなければ人生の道を歩んでいるとは言い難い。問題意識というものも、深くなければあるはずもなく、深くあるから問題意識も生まれるのだと改めて思う。

そして深くあるということが重要なのは、社会というもの、世界というものの中で自分を如何にして立派に貢献させるかということに繋がっていると私は思う。人生の於いて立志立命するということへ根差すと、自分が実体験することがもっとも崇高なことであり、体験したことでないと本当のことを理解できないから行動し学ぶ必要があるのだと思う。

自然と在るのも、自らの五感や感受性を磨くのも、体験自体を深くするためにも必要になる。体験というのは、総合芸術のように仕上がってこそ本物の体験となるのだとも私は思う。

深いことを求め続けていくというのは、人生というものの至誠だと思う。

最後に、子どもを思うと、私たち大人はただ知っているだけのものや、知識としてこうだよと単に伝えることに一体何の意味があるのだろうかと問う必要があると思う。そしてそれが未来への責任だと思う。

子どもたちの未来は、人生の偉大な醍醐味を味わうということで練りあげられ創りあげられていく。

子どもたちには、人生という体験とそこから学び、それを反省し、より深く深く問い続けられるような強さと素直さを持ってほしいと願う。そして何よりも素直に体験することを優先してほしいと思う。そして体験というものの中で、自分で掴んだ真実を世の中で存分に活かしてほしい。

だからこそ、私たちは変な先入観や刷り込みを与えず、本人が自ら主体的に体験がたくさんできるような自由な環境を用意し、子どもたちの自らが創り上げる新しい真実の未来を信じ続けてあげることが大事なのだと思う。

そんな優しい社会を育てることも企業人である私たちの使命の一つ。

これからの自分自身、私も自分にしかできないことで世界に尽くし、深く味わいのある人生を謳歌し、この生きているということのあるがままの素晴らしさに感動できるような温かい世の中に変えていくように努めていきたい。