変わると変わらないがある。

これは時間と人間との相対的なもので捉える視点がある。

たとえば、時代と人間とで例えると時代が変わっていく中で自分がその環境で変われなければ時代遅れとなる。そして、時代があまり変わらない中で突然自分が変われば化けたとなる。

不思議なことに、変化の速度というものがあり、時代にあわせて自分を変えていく人は昔からまったく変わらない人だと言われ、変われない人をカタブツだと言い、自分にあわせて時代を変えていく人を偉人やカリスマだとも言い、自分にあわせて時代にあわない人を奇人変人だとも言う。

それはそれぞれの速度の具合にもよるものなのに、真理真実は大勢多数の大衆によって決められる。

さらに、大衆人は面白いもので、自分がその人の変化を見ていない間に昔知っていたその人の行為があまりにも以前の自分の認識範囲でのジャンルを越えてしまうとその人に「裏切られた」とも思ってしまう。

もし時代や環境も関係なくただ行為だけがある日突然変わると心変わりしたや裏切ったになるのだろうけれど、それは最初からそうだっただけで変わったわけではない。もし時代にあわせて自らで掴んだ真理から理念を持ち、自分を常に変えていく人ならば時代にあわせて行動や活動もあわせて変えるのは当然のこと。

それは、本質的な自分らしさが変わらないために必死に精進努力し自分を維持しながら時代にもあうように勉めていくのだとも思う。

つまりは、ここでの定義、「変わらないもの」というのは本当の自分のこと。

たとえば、私は子ども第一主義の理念を持ち社業を通じて実践をしている。
私たちが大義名分の「子どものために」は、本当に子どもからの視点であるかどうかがとても大切な基準になってくる。

しかし、世間では子どものため、世界のためとも言いながらすべては大人たちの自らの保身やエゴ、周囲の偏見や調整のためである場合が多い。知識を得れば、認識が増えれば人は不自然に自分勝手に物事を判断していくもの。わざわざ知らなければいいものを考え切らずに中途半端にわかった気になるから次第に自分から進んでズレていく。

学ばないために学べるというのはよほどの哲学と信念が要るけれど、そこまでして分かる必要もないから分かった気になるところでいつも終わるのだろう。

そして、ここに矛盾と感情からの苦しみもある。

私はもともと私のことを思い大事に育てていただいた業界の重役や先人の方々、今でも敬愛する御縁あった人たちの教えやアドバイス、その真心を大切にするために、自分が時代にあわせて変わっていこうとすることで、その温かな思いのままを受け取った自分であろうと、変わらないでいようと思うようにしている。

つまりは以前のまま変わらないために、変わろうとしている。

しかし、その変化が情報化社会の中で速すぎたり、あまりにも問題意識が高く純粋過ぎると「裏切られた」と誤解されることがある。つまりは、「あいつは変わった」と言われてしまうことがある。

確かに自分の答えも変わらないために変わってきた、つまりは自分自身の芯は変わっていないけれど、相手からだと中身が変わったとなる。それに噂が拍車をかけてその人が変わったということを真実にしていこうとする。不安というものは、目にみえないからこそ広がっていく。

そして人は、その時、せっかく目にかけてあげたのにや、期待してあげたのにというふうに悪い方へと解釈してしまうこともある。本当は、当人は相手への自分の思いは以前と比べてまったく変わっていないのに、それに本人を良く知らない周囲の嫉妬や妬みなども重なり、その言葉に耳を傾けるようになり、人が変わってしまったと言われ逆恨みされることすらもある。

人間というものは、自分に都合の良い相手とそうでない相手とで善悪を決める傾向があるもの。本当は、人生とは道なのだからその人の芯と方向性だけを知っていれば何も疑うこともないのに、切り分けられたその瞬間の起点や部分の行為だけに囚われ相手を判断して割り切ってしまうのはどうなのかと思ってしまう。

しかし、時間と人間を考えるとやはり少し時代の先に自分をあわせていくことがもっとも往きやすいということになるのだろうと思う。若さと情熱があるからこそ、貫きたいと思うもの。

本当に大事なものが同じだと以前に御互いで確かめたのなら、何も疑うこともなくその人の往くように行けばいい。それが純粋で若いということでもあるし、素直に成長しているということではないかと私は思う。しかし事はそう簡単でもない。ずっと一緒に過ごしているわけでもないし、価値観も人に揉まれて変わっていくもの。

同志になるというのは、本物の信念の邂逅が要るのだと思う。

話は少し変わるけれど以前、壁の話を聴いたことがある。

以前は、時代の壁を壊そうと言っていた仲間も時代にあわせて自分を成長させ変化させることを倦み怠けると、加齢し自分が時代の壁になってしまうという話だ。

この壁とは、自らの変化の壁。
自らが変化できないという壁に当たっているのではないか。

以前の成功体験や、いつまでも変わってしまいたくない自分に固執して時代をみなくなっているのではないか、それが心の壁になり、いつまでも自分にあわせておきたいと周囲を巻き込んでしまうのではないか、まだ私の人生経験でもそれは確実にあるのではないかと私はそう思う。

次世代のために壁を壊すとは、日々、昨日に後悔せず、過ぎた日々に素直に正直に反省し、自分を新たにしていくことが壁を壊すということではないかと私は思う。

日々新たな実践とは、日々、ものすごい勢いで変化する時代に対して、自分を正しくあわせていく努力のことではないかと思う。

人間はそんなに強くない、しかし大事なものを守るためなら人は強くもなれる。

私は、子どもたちの未来を守りたい。

だから、自分を変えていくことを恐れたくないし、誰かの眼を気にして、大事なものをおざなりにするような生き方もしたくはない。

恩人に報いるのが、ひょっとすると自らの死後かもしれない。
しかし、私は恩人に恥じない後ろ指を差されない生き方という本質的な在り方を優先したい。

真剣に本気で生きるとは、自分を貫き壁を壊すこと。

この今も、子どもたちの未来へ向けて時代の大きな流れは流れ続けている。日々、私以上のこの大事なもののために、変化を躊躇わず彼らの成長と素直な光が当たるように保育に向き合っていきたい。

自らへ矢印を向け独立自尊し、静動の中に本物の輪と和を見出だし、子どもたちとともにすべての壁を貫く大きな樹をたくさん育てていきたい。

壁とは、心の壁、変化の壁。
立ちふさがる壁に、人生の醍醐味を感じ、一輪の見事な花を咲かせてみたい。

無償の愛と実践

私たちカグヤは保育環境研究所ギビングツリーのお手伝いをさせていただいている。

ギビングツリーとは、シルバスタインの書いた絵本のタイトル「大きな木」がその名前の由来になる。ストーリーは全部は書けないので内容の解釈を私がすると、親が子どもを愛し、子どもが求めたことに対しての可能な限りすべてを在るがままに応え、いつまでも見守り自分を子どもへ与え続けられることに幸せを感じているという内容になっている。

親という字は、もともと木の上に立って見ると書く。

これは、言いかえればこの大きな木のような心で観護るということで、親としての真の喜びを感じて、子どもの自立を見守ることへの豊かな姿勢を学ぶこともできる。

私が最初に、藤森平司先生が語る「見守る」に出会ったとき、そこに自分の中にも確かに在る「無償の愛」ということの偉大さ、その仏心、そして今まで繋がってきた先人たちからいただいた温かい真心を見出だし、さらに身近な祖父母や両親の有難さを心底痛感し、今の時代と社会にとって必要不可欠な大切な「あるべきよう」だと気づく邂逅があった。

そして、そこから保育という道の本質的な尊さを知り、21世紀には何よりも優先させなくてはならない視点・思想だという衝撃と感動に出会った。

あの感動と感激が今でも私の初心になり、仕事におけるすべての決断行動の原点になっている。

テレビのニュースでは、今の日本の子どもたちは愛に飢えているという話を聴く。
そして、どこか満たされない日々をずっと送っているという。

そういう話を聴くと、何だかとても心が苦しく辛くなる。

本当は、自然である子どもたちがより自然に活き活きとし、大人が言うようなことよりも自分の感じることの方が大事だということを知ることは、この人間世界の現実の中で自立し生きるための命の糧になり、それを生きるための力にして素直に立派に成長していくのだ私は思う。

しかし、今は、誰かが決めた正解を押しつけられ、目に見える世界を何よりも重視され、芸を早く満たすことを優先され、道にあるような愛や敬などの徳育などが特に衰えてきているように思える。そして周囲との調和も無理やりに偽装され、思いやりも伝わりにくくなり、個の自立ではなく、単に孤立している人がたくさんいる。そして助けてくださいとは言えず、一人で何かに取り付かれたようになっていて共倒れしている人ばかりが目立つ。

そしてそれは、人間力が落ちてきているということを意味する。
人間力とは、人間が人間にしかできないことを発揮していくということ。
それは自然の中で、叡智を持って心を磨いていく道でもある。
今では、情報化により測度が増しその環境が著しく悪化してきているようにも思う。
人は人間力を身につけることにより、より自然に近付き、共存共栄していくのだと私は思う。

古人の言によれば教育とは、本来引き出す事を言うと定義されている。
つまりはもともと「人間らしいもの」をどれだけ引き出していくのかを言うと私は思っている。

たとえば先日、あるインドの有名なヨガの先生の講演を拝聴してきた。

開口一番「世界人類は皆家族だ」と、楽しく明るくおおらかにユニークを交えながら笑顔で仰っていた。それをヨガを通して人間力を引き出し、その輪を広げている。

余談だけれど、この方はヨガの全てのポーズはほぼ満3歳までに子どもたちがすべて行うポーズだと仰っていた。何も私が考えたことではなく、子どもは自然にそれをやっていると言う。だからこそ、それをやることが癒しになり、歪みをなおすことになるということだとのことだ。

つまりはなるべく幼児期に何もしないで自然にやっていたことを思い出しながら元始体験を通じて本当の自分を取り戻すという作用に力を入れるということ。

しかし、今のように不自然なことを自然だと思いこまされ、当たり前の真実も捻じ曲げられ、誰かに無理に刷り込まれた人たちの人間力を引き出し、自然に戻すというのは本当に難しいことだといつも仕事を通して実感する。

人間らしいものが分からないから、引き出されず、付け足そうととばかりするから人間がますます機械っぽくなっていくのだとも思う。

長くなるので話を戻せば、無償の愛とは人間らしさから自然に現れる見返りを求めず相手を真心で思いやる気持ちがいつも維持できているということを言う。そしてそれにより、御互いが自立共生し感謝し、満たされていく、学んでいく、生きていくという仕組みになっている。

自らの日常を内省をすると、色々な刷り込まれた現実もあり、なかなかその無償の愛を人間らしく実践することができていない。周囲があまりにも歪んでいることもあるけれど、真眼を開き続けているような実践がなければそれも雲がかって見え難くなっていく。とにかく、実践を行うこと、学び続けることで塵が積もらないようにいつも清浄にしていかないとと肝に銘じている。

つねに忍び待つにも、愛が要るし、心を澄ますにも確かな実践が要る。
それが見守る道の端々に現れるから、より深い内省が何よりも日々新たに必要になる。

私は、このギビングツリーの役員の一員として、より自らを省みて実践を深め、質を高めて道を深めてこの会が目指す理念を体現していきたい。

子どもたちの行く末のいたるところにある大きな木になり、子どもたちへ無償の愛を与える存在を増やし続けてかんながらにあるような八百万の杜を創っていければと願う。

和の心

人間にはそれぞれ価値観がある。

それは今まで生きてきた中で、様々な体験や経験を通じて学んだものがある。
そして、時にはそれが先生であったり親であったり、上司であったりと、それぞれの価値観で正しいと思ったことを信じて人は歩んでいく。

自分が、どこに価値を置いて生きていくのかを知っている人は、自分を知っているということになる。また、逆に、自分の価値観が分からない人は、自分のことをよく分かっていないということになる。

人は人と出逢い、その人との価値観の相違や同異により自分とマッチングするものを探していく。そして、生き方もそこで変わってくる。育ち方があるとするならば、今までどのような機縁に出逢い生きてきたのかというのは自分の今を観透かすにはとても役に立つ。

人は、時代の変化、環境の変化で自分を変えていくことが求められる。時代が前へと進まなければいいけれど、世界も時も流転するし循環している。国際メンターシップ大学の吉川先生も仰っていたけれど、変化とはメビウスの輪のように変化するときには加速度的に交差し反転し繰り返しながら進化する。

そして、その時に重要なのが価値観に対して柔軟かどうか。

つまり素直かどうかが鍵を握る。
以前、このブログでも書いたけれど、素直なのは、価値観に対して柔軟だということ。

そして逆に、自分の価値観が正しいと決め付け相手や周囲に反発し自分を変えない人は、価値観に対して頑固という。そしてそれをやり続けるために、性根も一緒に曲がり、判断も湾曲屈折し、何をやってもうまくいかない。なので、ひねくれたり、意地っ張りだったりを貫き通し、そしていつまでも同じ環境を求めて、同じ場所を探し続けて転がり続けることにもなる。

もちろん、それが良い悪いではなく、本人の価値観なのだから自分がそれを深く理解し、それにあったものが幸せだと気づくのであればその道を探し求めていけば最後には自分の価値観に合うところに出逢い、幸福をつかむのだとも思う。

しかし、人間は社会の中で様々な環境や時代の変化に対して自分を進化成長させていかなければ大きく変化する世の中でみんなと一緒に支え合い共生していくことはかなり難しい。

昔、私自身、上司に、とんがってもいい、とんがってぶつかっても最後には丸くなるのだから大きくとんがれと育てていただいたことがある。

今でも、その言葉の御蔭で、会社を経営し、大きくとんがって社会のお役に立てるように大きく価値観を進化させて新しいものを生み出そうと努力している最中だけど、だからといって頑固になれということではないし、ひねくれろと教えてくれたわけでもない。

もっと大らかに素直になれ、そして純粋なまま歩み続けろという意味だと今では感じている。

変わるというのは、私の定義では価値観の優先順位が変わるということでもある。

もちろん価値観を定めて優先順位を変えないからこそ、人ともぶつかるし、敵もできる。しかしその先に、信念が醸成され、怒りを社会を浄化していくための情熱に転換していくこともできる。

そして、その自分を超えた大きな「思いや願い」のような価値観が一人ひとりの心に伝播し、世の中を地球の意志である在るがままに易える原動力にもなるのだと思う。

そして、価値観に対して素直にするような実践が昇華されていけば、自然に和の心が持てるようになる。自分が在りながらも相手を受け容れることができるという敬愛の精神、和の心。

この国には、聖徳太子以前より天孫降臨、八百万の神々の示す理念として和の心がある。
だからこそ日本には、様々な融合宗教があり、様々な融合芸術、つまりは「和」があるのだと私は思う。

和の心を自然に持つあの子どもたちには、これからのずっと素直に活き活きと自分らしく生きてほしいと願う。だからこそ、見守る私たち大人はいつも和の心と素直な心でまず自分たちが実践を通して未来を切り開いていきたい。

自分こそが、子どもたちの未来になり、今こそが、変えることのできる瞬間なのだと肝に命じて一期一会に日々を使っていきたい。

これからも常に変化というものを恐れず、真理を追究していくかんながらの道を歩むことを誓います。

決断断行

人は、色々なことに気づいてもそれを自分のものにできる人とそうでない人がいる。

ある人は、同じ言葉や発言を聴いてすぐに動く、つまりは実践する。
ある人は、何べん聴いても一向にそれをやろうとはしない、つまり何もしない。

実行しない人は失敗もしない、ただ追いつめられるだけになる。
実行する人は失敗もする、しかしそこから様々なものを学び本物になっていく。

人は本気になるとき、必ず何か「決めた」ことが増える。

増えていないのに本気になったというのは、間違いでそれはできる限り頑張りましたのでという言いわけとセットになっているから決めることがない。

決めてしまうには覚悟がいる、覚悟とは、最後は自分を頼みにするという他人を頼らずに自分で立つという、自分への約束が要る。

しかし、みんなそれをしない人が多い、自分に自信がないのもあるのだろうけれど、独りで生きていくということを恐れ、誰かに依っておきたいとする依存心がそうさせるのだろうとも思う。

これは言い方を換えれば、「素直」ではないということ。

何事へも信じる姿勢が足りず、屈折して捻くれていると、物事を素直に感じ切ることができない。
そうすると、まずすぐには動けないし、どう動いても素直に伸び伸びと取り組めず、すぐに諦めどこかであっという間に折れてしまうこともある。それをよく人は弱さだというけれど、心が素直でないだけであって弱さではない。

素直さというのは、強さであり優しさでもあり、とても重要な成長や自立の要素で、それがあるから天地自然の恩恵や、人間共生の慈愛を受け取ることができるのだとも思う。

いわゆる、業界にはトップと呼ばれる人たちがいる。
何をしても、一流になり、何でもそれをやり遂げて形にしていく人がいる。

そのトップは、孤高の強さがある。
もちろん、素直である。

そして何かを行うとき、必ず決断し断行して「自律」することができる。

つまりは、何が何でもそれを為すためにも本気で何か行動することを「決める」そして「行う」のだとも思う。

この強さが、もともとゼロからイチを創りだす原動力になる。

私が好きな言葉の中で、二宮尊徳の遺したものがある。

「夫れ開闢の昔、葦原に一人天降りしと覚悟する時、流水に禊身せし如く、潔き事限りなし。何事をなすにも此の覚悟を極れば、依頼心なく、卑法卑劣の心なく、何を見ても、羨ましき事なく、心中清浄なるが故に、願ひとして成就せずと云ふ事なきの場に至るなり。この覚悟、事を成す大本なり。我が悟道の極意なり。此の覚悟定まれば、衰村起こすも、廃家を興すもいと易し。只此の覚悟一つのみ。」(二宮翁夜話一三四)

何をするにも覚悟がいる。
そして、本気でなければ何も成すことはできない。

覚悟も決めず、本気にもならなければ卑怯や卑屈、卑劣なことばかりに心を奪われ、他人を頼り、羨むばかりでただただ酔生夢死に流され生きてしまうのが人間だとも思う。

自律するとは、自分で決めることにより律すること。
勘違いがあるけれど、決めないことを律しているのは逃げているだけでもある。

できることができるのは当たり前で、できないからこそできるように律するのが本当の「自律」ということに気づかない人は過去にそういう本気を出したことがない人なのだとも思う。

また、そこまでしても決めるのは、覚悟するのは、最後の最期には自分を助けてくれる自分が合って、それを信じているから決断断行ということに迷いがなくなるのだとも思う。

本気の人生とは、決めるということ。

そして、決めることは、自律できるということ。
自律できるということは、自立、つまりは独り立ちすることができるということ。

理屈ではなく、本気、本物で生きられるようにそういう機会や環境を大切にしていきたい。

子どもたちにも、何かを成すということの覚悟を決めさせることが自然にできるような人生の喜びや感動をたくさん味わえるような社会を創り上げていきたい。今の大人たちが感じる閉塞感が、未来だと思わせるよりも、自分で生きていくことの本当の素晴らしさに出会えるような大人のモデルを示せるように自らの覚悟を常に問いただしていきていきたい。