子どもたちのままで

世界では様々な教育が行われている。

しかし、無理を承知で世界の教育を大きく分けると子どもたちがどのような社会を未来に創るのかを優先して大切にしている国と未来を大人主導の管理を優先して創ろうとすることを優先している国の教育があるようにも思う。

それは子どもたち自身に未来の責任を持たせ考えさせ決めさせるという子どもたちのことを信じる教育と、大人たちが決めたものを教え込み義務を課せ強制するという子どもたちのことを信じない教育だと分けてもいい。

つまり、子ども主体か大人主体か、見守るのかやらせるのか、さらに言いかえれば、子どもが正しいのか、大人が正しいのかということにしてもいい。

もともと子どもが大人になるために、自分自身から子どもであることを否定するというはいったい知識を何のために学び、何のために偉くなりたいのか本当に不思議でならない。

人生や個性は、そのままであることが最も価値があることなのに余計なことをして利口になっていくからこそ何も分からなくなってくる。

自然の叡智や、生きるということの本質、さらに自分というものもそうやって失くしていく。二度とないたったひとつの自らの人生を本気で輝かせて生きている人たちはいったい世界にどれくらいいるのだろうか?

先日、視察した研修でも、教師自身の自らの子ども時代の体験を通して、如何に大人が刷り込まれた知識を捨て去っていけるかをテーマに皆で必死になってワークショップなどを行い刷り込みを取り除いていた。子どものことを分かろうと必死で悩み、迷い、学んでいる。

それを観ていると教師という職業は大変なものだといつもながら感じてしまう。

子どものことは、子どもが何よりも分かっている。
これは当たり前のこと。それは子どものままだから。

しかし大人になればなるほど、子どもの事が分からなくなる。

これほどの愚があるのだろうかと感じてしまう。

人は誰しも、自分の方が上だと思った瞬間から傲慢になっていく。「天は人の上に人をつくらず」とあったけれど、あれはとても本質的な文章だと私は思う。人間は、相手よりも上と思った瞬間から自分の方が相手よりも偉いと勘違いがはじまる。そうなると、相手の中にある自然や人間の素晴らしさが観えなくなり余計に様々な知識で応戦しようとする。つまり迷い惑う。

本当は、自分よりも相手や周囲の方が素晴らしいと尊び敬っている方が人間は原理原則や自然と同化している状態になっている。しかし、それがなくなるから分かった気になる。そして分かった気になるから、次々に周りを巻き込み余計なズレがどんどん広がっていく。

そしてそれが当然だと勘違いして分かった気になった大人がいつまでも子どもに何かを補うことばかりを考えているから、子どものままにして引き出そうとしないから、より教育のズレは深く刻まれ取り返しがつかなくなっていく。

しかし、人間はそうはいっても今は原始時代でもないしこの今もすでにズレている最中なのだから何かをすればするほど矛盾を生んでいくのは必然。もうすでに私たちの21世紀にもなると、情報が凄まじい量を処理されるようになり過去からずっと足されたものとの向き合っても整理が追いつかず一筋縄では元に戻すことは難しい。

だからこそ、子どもたちの教育を良くしていなければ大人たちは世界は調和よりも強硬を選んでいくようになり、長く生存していくことが難しくなるのだろうと私は思う。

今は子どもを何よりも優先しないといけない時代だと私は確信している。

見守ることがより良い社会を創り上げていくと信じている。

だからこそ、まずは日々の実践から子どもたちには子どもたちのままでいられるように私自身が大人の刷り込みにあわないよう学び続けて取り除いていきたい。

最後にヤヌシュ・コルチャックが言う。

「世界を改革するということは、教育を改革するということだ。」

「子どもたちの人生は、子どもたち自身の力で築き上げていくべきだ。」

使命を見つめ、より自身を知行合一するように努め、子どもたちのための本物の環境を創造できるよう師や自然から学び、かんながらの道を遣り抜いていこうと誓う。

一期一会