理想を追う

現在、色々と政治を中心に様々なことが業界内で起きている。

それをよく観察していると、いつも利権と利益のことばかりを言い争い最終的には保身のためにやっているのだろうなと思うことが多い。それぞれが子どものためにも自立しようという議論ではなく、如何にお互いに主権や依存から抜け出さないでいようという議論ばかりになっている。理由がみんなを守るためというのはどこの業界も同じだなと感じる。

たとえば、子どもたちのためにと言っても子どものための保育を実践していればそれは自然にその子どもたちからの立場で話ができるはずなのに、実際は大人の身勝手な子どものために良くないという一方的な言い分に難癖つけて言い放つのが子どもの代弁者である大人の役割になっている。きっと子どもはもっと当たり前のことを望んでいる、それは自分たちが生きることをもっと見守る環境を用意してほしいということだけ。

そして散々今までは、そういう大人都合の身勝手な言い分の中で流れにあわせてきた癖に、誰かが変えてくれるからと大多数の意見に合わせ日和見に従ってきた癖に、何かがあるとまたここでも誰かのせいにして自分がこの機会に変わろうとはしない。

そうやって日々、誰かのせいにして自分の名声や功績だけをかたくなに守ることに何の意味があるだろうかと思う。銅像を造ったり、名誉を得て写真に飾られたりが目的で仕事をするのではないはず、本当は子どもたちが幸せになることを何よりを望んでいるはずなのに実際は大人側の利権に巻き込まれて自分を見失ってしまうことが多いのはとても辛い。

私は人間が好きで、皆が良くなることをいつも願っている。
しかし、それにはたくさんの誤解を解いていくことが求められる。

世間では、一般大衆の大多数の意見にあわせる出る杭にならないことが皆と調和していると定義してくる。みんなと仲良くやることがもっとも正しいとみんなで信じている。しかし、それは誰も何も解決に対して責任を持たないという集団任せの他人任せになっていないだろうか。

本当に子どもを守りたいや、世の中を良くしたいと切に願うならばそんな大多数が皆で良いという意見に委ねることはしないだろう。理想を高く持ち、そこに向かって信念を磨き、自分を貫いていこうとすれば、自分がそちらにいかない理由を語られ逆恨みされたり、嫉妬されることもあり、疑念を抱かれたり、風評を流されたりもする。

その人なりの信念があれば、それをもっと寛容の心と思いやりで認めていく社会がなければ子どもたちだって将来、自分がやりたいこと、世の中に立派で生きて貢献していこうとする気持ちを広げていけないのではないだろうかと本当に心配になる。

時代が過ぎるのだから環境が変わるのだから、子どもたちは常に修正をしていき本質や継承する本当の姿を守るために変わり続けていく必要がある。なのにそれをできなくするのが前の時代の人たちだとなると、子どもたちは自分たちを信じてくれていないと無力感に苛まれたり諦めて絶望したりと思わないだろうか?

そしてもし今の時代を生きる大人が声高々にそういう事を憤って語っても、周囲はあなたも同じ穴のムジナだろうと一蹴されるというのはあまりにも悲しい。なぜならそれは人間が欲を持っているからということになる。

しかし、欲があるやないばかりの議論をしているから分かり合えないのではないか。人間の欲は悪いことでも良いことでもない、それは生きるということに直結しているものだから欲があるからどうからというのはあまりにも短絡的だと私は思う。

故安岡正篤先生が

道徳とは人間の小欲を郤(しりぞ)けて
大欲を全(まっと)うすることだ。
欲を離れて道はない。
ただ大志あって、
コセコセした小欲に拘泥(こうでい)せぬだけだ。

とある。

欲を超える先に大志がある、それは人間が自分を越えたところで何かを為したいという徳や道に根差した人間の本来の知性がそうさせるのだからそれはあるがままだということにならないだろうか。

大欲があるというのは、大志があるということに気づかない人たちがあまりにも多いだけだと思う。

平和な時代、満たされている時代になるとそういう志を磨くほどの危機感と問題意識を持って子どもたちの未来の責任を持とうとする人は少ない。それに今の時代は、狭く限られた人たちの利益を優先するために組みかえられた社会が真理を覆い隠し不安や欺瞞を煽り立てそういう心ある本物の人たちが出にくい世の中になっているようにも感じる。

しかし、誰しも世界は今とても重要な局面を迎えていることは分かるはず。

だからこそ、他人のせいにせずに自分自身がまず変化を恐れずに、子どもたちのために変わっていこうとしなければ何も変わることはないと私は確信を持ってそう思う。

自分が立ちあがらなければ、どうにもならないということを実践することが、何よりもこれからの時代を創る愛する子どもたちが自分で思いやりのある未来を切り開くのだという勇気や行動にも繋がっていくはず。

もっと大人たちは「思いやり」の思いを持って遣り合って欲しい。
未来のために我慢することがより豊かな社会を創ることを思い出して忘れないようにしてほしい。

譲っていくということ。
推譲するということ。

人間らしい尊厳や知性は、愛と平和を願う遠大な理想を追う心にこそ生まれるものだと私は思う。

自分たちの今をたとえ犠牲にしても、その犠牲以上に今までの先人の人たちが私たちに譲ってくれてきたものに何よりも感謝し続け、同じ思いで同じものを実践し生きていく子子孫孫へ一つでも多くの価値を譲っていって欲しい、つまり怨得ではなく、恩徳を優先してほしい。

自分が欲しがらず、「子どもが求めた本当の命」の方を与えていければきっと自然になり、この世は良くなっていくと信じて分かる人たちと一緒に理想を追うのだ。

理想を追う先にこそ、時代を超えた本質の継承があり、俗欲を超えた真心があると私は思う。

まずは自分自身、色々なことを言う人たちへも見守ることで感化できるような損得を超えた理念の実践を重んじ、不動の信念へ歩みを強めて昇華していきたい。

敬愛する吉田松陰先生や二宮尊徳先生のような真理と本質を求道することをより信じ念じ、まずは自分がどうなろうとも偉大な慈愛を優先できるような義の心を鍛錬していきたいと思う。

嗚呼、この今、、、

今、この瞬間に、すべての命を籠めて子どもの未来の自由を世界へ価値得たい。