大いなる我慢

地球が自転し続けていく中で、様々なものは進化成長する。

足元の石ですら、何億年何十億年という歳月を経て存在し成長していく。
成長とは、そのものが変化していくことであり、万物流転し循環を繰り返しながら形を変えていくもの。

人の世もまさに等しく、同じように同じことをいくら繰り返しにやったとしてもそれは単なる繰り返しでもなければ、そこに永遠は存在しない。咄嗟に永遠に見えたとしてもそれは「よほどゆるやかに」過ぎているだけで決して止まったわけではない。

つまりは、当たり前だけれどこの世の中すべては変わり続けるということ。

その変わり続ける中で人間は生活している。
人間は集団で生きていくようにできている。

共生し発展するために人間は人間社会を形成していくようになっている。動物や生物はみんなそうやって相互扶助していくことが、世の中と調和し平和にする方法であり思いやり助け合うことで人々はの慈厳に心の安住が得られるようにできている。

この地球上すべての生き物は、たまたま種として分けた人間がいるだけで生きているものはすべて分かれているわけではない。同一同体のものとして存在しているということになる。

だとしたら、一匹狼といえどもそれは観えざる偉大な世界と調和し生きている一つの自立した生命体だということになる。

人間には悪しき癖がある、また文明という名の知識欲がある。

それは言い方を代えれば道具のようなもの。
道具を使うために得たものが知識。

道と具のバランスが取れてはじめて達人となるけれど、具が大きくなり過ぎ道が失われればそこで具が一人歩きする。必ず道のほうが大きい方が長く自然と調和していける。

つねにその道と具をどうするのかが人間の尊厳崇拝すべき自然の心によるものだし、人間は過去に様々な人間優先の社会から失敗から学び、それを忘れないために教育というものにより自己を修養していくことに力を入れることで人々が少しでも長くこの地球上で発展繁栄していくことを望んできた。

しかし、人間が自ら定めた「分度」の一線を越え、自然界の定めた理である戒律を破り、人間の持つ倫理すらも粉々にし具至上主義のような科学知識を神とも崇めるような権力欲に囚われ、世の中の大多数の人たちが閉鎖的に間違った個人主義を信じて通すようになったのが今の世の中だと思う。

なぜか、享楽主義が勘違いされ、自分だけで幸せになることが幸せなのだと浅い生き方を選ぶしかなくなってくるようになってきた。

人間の深い喜びは共生の中にこそあり、孤独の中にはない。
しかしそれでも具が正しいとなると世界丸ごと本末転倒している。
時代時代でそのように道が荒廃し具が高まり、具が荒廃し道が高まる時もあるのかもしれない。

しかし自分の生きる時代をキチンと生き切り、次の世代がキチンとまた自分たちの時代を果たせるようにしていくのが今を生きている私たちの役目ではないか。

なのに子どもたちは、自分たち大人の今の世の中に慣れさせられるように安易な眼前の優しさに依存させられ、意欲をそがれ、先人たちが行っていることを否定させないようにと無意識に隠しているし、もしくは手が付けられなくなったので言い訳をしたくないから無理やり正当化してしまおうとする感じすらもある。

悲しいことに、今を生きる大人が自らを反省せず、自律することをやめ、怠慢怠惰に権力にすがり、ただただ食べるためだけにこういうものなのだと何でも従うといいだし、必要悪だの誰かのせいだの言い訳ばかりで逃れるようになれば、誰がそのツケを清算し、真の独立自尊や真の自立を果たすことができるのだろうか。

歴史には常々改革者が現れる。

改革者とは、封建的な社会ではほとんどが暗殺されたり天誅されたり、色々な罪を押し付けられ失脚させられている。

そのほとんどの人たちがその言動を他に疎まれ、出る杭になり、成り上がりだと嫉妬され、最後にはその時代の大勢が逃避するための好材料として改革の中心的人物に仕立て上げられ悪名がついたり悲惨な最期を迎えていることが多い。

悲しいかな人々は、歴史から学ばず、一通り知った宗教や儒教、哲学など脳で分別できるところばかりを解釈し、その人物が持つ本質や「本物」を見ようとはしない。

私が尊敬崇拝し感動し生き様から学ぶ人たちは、ただ偉いのではなく人間としての「本物」を其処に確かに観ることができるから何よりその清純な魂が揺さぶられているのだ。

しかし、大勢の人たちは単に肩書きや役職、また華々しい成功など、権力などを通して浅く見取り、その人物の本質を見ようとはしない。大切なのは、その人の中にどれだけ自分の中にある「本物」や自然に在る真実と同じところがあるかを見定め、どれだけのことをその人が身をもって実践しやり遂げているのかを観ることではじめてその人のことが分かる。

その人物の凄みともいうべきか、本物が持つ信念を感じることもできる。

そしてその人物の足跡や遺した言葉と実践を鑑みれば、何にその人が興味があり何を為すのかもそこから自然に観得てくるものだと私は思う。

今の時代は、ある意味で長く続いた均衡状態の中で答えを出すことを先送りにし無理に無理を重ねた制度や仕組みが限界に来ている。

こういう変革が必要な時代は、どの時代も人々が皆で「大いなる我慢」をして皆が自立していくことが求められる。これはつまりは自由と自律の本当の意味を実践できていないといけないということだ。

言い方を代えれば、如何に周囲を思いやり人に迷惑をかけないで人間としての尊厳と尊重を維持するか。

そしてそういう時代こそ、真の教育が必要になってくる。そうやって若い人たちが真の教育により、大人になり真の勇気と思いやりを存分に発揮し、一人ひとりみんなで自立して変わろうとできる人達にならないといけない。

そういう人たちを導くために師友がある。柵や刷り込みなども超えた本当の会話がある。その師の背中や姿で感じるけれど、その言動や行動には若い魂や青年の志がとても感化され育っていくのを実感する。

しかしその裏腹にどの時代もそうだけれど、そうではない同世代の人々や年配の人たち、権力者や一部の迷っている若者たちから忌み嫌われ迫害をされてしまうこともある。

改革の時代には、きっと儒教は求められる。
しかし、何度も何度も同じ遣り方をやろうとしているわけではない。

今の時代にあったものをどうこの世の中で実現していくか。
同じなのは、過去の歴史から学びさらにそれを磨き今の時代に調和させていくこと。

それは宗教でもなく、儒教でもなく、科学でもなく、哲学でもなく、無為自然であるということだと私は思う。

「生きる」とはきっとそういうようなことではないかとも感じる。

まずは私自身、此処がどのような時代であっても、自らの天命を信じ、人々の勇気になれるよう、心を広く持ち、奥深く受容していく実践をし、謙虚に自分の誠を磨いていきたいと願う。

真剣に生きた方々がいてくれたこと何よりも感謝しています。
流されず惑わず本懐を遂げたいと念じます。