道を歩む

道を歩むと言うのは実践をするということ。
歩んでいるときが道で、道は歩んでいるからこそ道になる。

道に対して至善に止まって考えるのは道上であるのでいいけれど、ただ道に入ったり出たりというような歪んだ止まり方では道とはいえず、それはとても歩んでいることにはならない。

人生、仕事に限らずすべての物事はどのように歩んでいるか、その瞬間に「どうあるべきか」という本質こそが大切な要素になる。

吉田松陰の記した講孟箚記にこうある。

『人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである」

つまりは、自分の持って生まれた徳性を活かすために自らの心を澄ませ、道理上の原理原則として現れるすべての出来事は実行するためにあるものだということだと私は解釈する。

例えば、吉田松陰の座右に「至誠」がある。

如何に、自らを欺かず自らを偽らずに誠心誠意自他ともに尽くしていくことで真心に出会う。

その真心を尽くすことは本当に難しく、そこに色々な利害があり、そこに色々な人情の機微などがある。

しかし、道を歩む以上、その道理上やらねばならぬことは当然すべて遣るという覚悟があってこそ道であるのだと思う。

そこから逃げたり、避けたりすることは道にはなっておらず、いわゆるところの学識だけを持った物足りない淋しい生き方になってしまう。何のために学ぶのかといえば、自分にしかできないことでこの世で共生する幸せを実感し性を全うすることにあると私は思う。

常に真理真実は、実践躬行のその最中にあり、その最中の内省により如何に自分が道を深めて歩むかを確かめながら易不易の調和でいることで天を感じ生きていくのが大事なことなのだと私は思う。

さらに吉田松陰は言う、

『末の世において道義を実践したならば、必ずその時の人々から、極端だといわれるであろう。もしまた、世人から極端だといわれるくらいでなければ、決して道義ではないのであって、すなわち世俗に同調し濁った世に迎合したものにすぎない』

その原理原則の実行は、あまりにもこだわり過ぎて偏ってみられるかもしれない、もしくは多くの人々より極端だと変人扱いを受けるかもしれない。しかし、それくらいのことをしなければただ大衆に紛れてだけでその大衆に流されているだけでで道義には適っていないのだとある。

世の中受けすることばかりを商売にして、誰かから嫌われることや非難されることを恐れてはいけない。

自らの勇猛心を駆り立てて、真実と真心の実践を行うことこそ志士としての在るべき姿だと常に思う。

この日本から世界のことを考える若い人たちがいないと、この国は島国だけでしか通用しないような世の中になってしまう。

子どもたちには、今いるところを深く掘り下げ一流を目指し、世界のことを視野に入れた国際人になれるような模範を示していきたい。

私たちの日々の行動は、常に知行合一であることを目指したい。

日々、起きる出来事に正対し、とことん道義や道理に適うような実践で道を歩んで極めて生きたいと誓う。