実践する意味

色々な知識を人は学びを通じて覚えるけれど、それが頭でっかちになっては本当の意味でその人の生活に活かされたとはとても言い難い。

もともと脳みそは、それ自体が私の定義では楽をしたがる。楽をしたいから、実践しなくても良い方法ばかりを考えて、本質的にやろうとするよりも如何に行動しなくても便利で済むかと考えてばかりいるように思う。

私は理念の中に、分かった気にならずに実践することをよく説くけれどこれは脳みそが嫌がることをどれだけやることができるかによる。

たとえば、日記などもそうだけれど一度はじめるとそれを毎日書くことはとても難しい。

ある人は、酔っぱらって今日はいいやと思っているうちに途端に書けなくなってしまう、挨拶などもそうだし、仕事で言えば、日々の報連相などもついさぼるとそのうちにやらなくなり、気づいた時にはまたやってしまったと後悔ばかりとなる。

つまり、何かを学ぶには一理を学び、必ずその一理を行うという王陽明が言うような「知行合一」のことをいうのだと思う。

知っているだけでは分かった気になる、だからこそ行動してみてその知りえた知識と実践による叡智を組み合わさってはじめて自らの現実生活の一部に組み込まれるというのだと思う。

よくこの教育業界や保育業界は、勉強好きな人が多い。

特に、優等生や優秀な人たちが多いと、自分の目で見たこともなく、自分の耳で聴いたこともないのに、実物本物でもあるように語り、さらにはそれを一度もやってみたこともないことを、さも真理や真実のように他人に語り偉そうなことを言う。

しかし、純真素直にその真理をやってみるととてもどれも難しく、自らの心に至誠と曇りのない真心がなければそれは本当の意味でできることではない。

それなのにあまりに結果を急ぎ過ぎれば、頭が早く便利にやろうとばかりにこだわり脳みそがすぐにパンクする。それをパンクしないで正しく聴けるには、日ごろの鍛錬や気づくことに対する日々の内省、または実践の継続による長期の体質改善がいる。

時折、やってはまた時折はやらないなどということをやっているから脳みそに支配されてしまい「むら」が生まれ、その「むら」によって自分が後悔する。

日々、宙に浮かせたままその緊張感や臨場感、または矛盾を内包するような太極を維持するためにも、よほどの実践を積んでいなければあっという間に俗欲や自らのエゴにもっていかれてしまうのもこの社会の現実であろうと思う。

安岡正篤に下記がある。

「本当の学問や修養というものは
 これは禅でも儒でも同様で、
 人間と人間、
 精神と精神、
 人格と人格が火花を散らす様にやる。
 これを参学道、参ずると言う。

 分かったのか、
 分からぬのか、
 ノートをとって、
 又それを受け売りする、
 などというような学問や学校勉強は、
 これは雑学・俗学というもので、
 所謂、学問・求道の中には入らない。」

つまりは、いくらノートをとって学んだ気になったとしても勇気を持って行動して自分を変化させようともしない人ではとてもそれでは学問求道をしている人とは言い難いということ。

これでは、単にどこかの学校で勉強して見栄えの良い優等生はできてもとても道の実践で世の中に事を為す人にはなりそうもない。そして自分で本質を掴もうともせず、誰かの受け売りでさも自分が偉くなった気になり、本来、あるべき努力を怠れば、人心を惑わす不逞の輩ということにもならないだろうか。

常に、カグヤでは実践躬行が第一の道の入り口。

理屈ではなく、自分がまるで赤ん坊のような嬰児の素直な心で求道の師の言葉に心底耳を傾け、邪念を取り払われた澄んだ心と言葉を吸収し、自立することが何よりも子どもたちの模範となる。

自らの脚で道を歩み、自らの生命力で自分を活かすことでしか世の中で独立自尊し天命を全うすることはできないと私は思う。

本来の学問や求道というものは、このカグヤ道のコンサルタントの中に在るミッションが迸るものでなければならない。

その正しい実践を素直に積んでいけることを祈ってやまない。

成果の本質

保育現場でよく相談にのっていると孤立して必死になって頑張っている人たちがいる。

そしてそれは保育に限らず、経済優先社会の中では特に営業職や技術職でも同じように現場にいつも立っている人たちは、能力優先で集まって何かを遂げることをやるようにと圧力を無理に与えられて来ている人が多い。

それがもっとも楽な教育方法であり、手間がかからないから現場に入れ込むというような手法を使う。しかし、人は手間ひまかけて育てなければ決して良い人にはならないし、良い仕事もできはしないのう人道の理でもある。

しかしそれでも生き残った中堅やベテランは過去に新しいことを遣る際に、誰にも何も教えてもらえなかった環境で孤軍奮闘で遣りぬいて工夫してきたから認められたこともあり、今でもそれを当然と思っている人もいる。

私自身、営業の仕事や技術の仕事を覚えるとき、新入社員から入社したわけではなく社長から引き抜かれ抜擢されて仕事を必死に手探りで自らの実力で生きてくる方を優先していたので当然仕事とは本来そういうものだと思っていた。

特に20代の頃は、いつも周囲の思いやりのある人たちから「あなたは凄くできる人だからできない人の気持ちが分からないのでしょう?」とよく言われた。

私は其の当時は、その都度、「できないのではなくやらないから悪いのだ、そういう人ははじめから逃げているからやれないのだ。」と一点張りに言い返していた。

するとせっかく助言してくれた人も、「それはあなたのようにできる人の理論でしょ」と言い返され話が収拾がつかなくなってしまっていた。当然、そういう人が自分なのだから能力には着いてきて慕われるけれど、そういう価値基準のない人からは嫌われた。そして着いてくるものは、能力の差がなくなると興味を失うので必死に能力を磨き気がつくと私は偉大な職人芸人にもなっていた。

現場は常に自らで考えて自らで判断し、自らで行動することが当然に求められる。だから受け身に誰かが教えてくれるのを待っていたり、失敗することを恐れたり、安全第一で取り組むことは、結果から逃げていることであり、それは決して仕事の成果を出そうとする試みからは大きく外れることになる。

しかし、本来は成果を出すことは大前提だけれど、それをどのようにやるかについては「決して一つのやり方だけでやろうとしてはできることもできなくなってしまう。」ということには関心がなかった。

今では、私は人はそれぞれにその人にしかない大切な持ち味があり、それぞれに身につけているやり方がある。そのやり方を尊重しながら成果を出すには、皆が同じではなく、皆がそれぞれに自由に正しく仕事ができるようにしてあげること、つまりは理解させて良い方へ導き、自らで成果を共有していくという見守りの方を優先することを大事にしている。

それがもっとも成果になるということに気づいたからだ。

能力の世界だけのモノサシで自分だけのやり方がもっとも合っていると思っているとそこには必ず落とし穴がある。

ある人は、仕事は教わった方が良い成果が出せる人もいるし、ある人は自由にさせた方が良い成果が出せる人もある、またある人は順番にひとつひとつやった方が良い人もいて、またある人は同時に一気にやる方が良いという人もいる。人は個性があり、それを受容すればその方法もそれぞれがもっとも得意なやり方をやろうとする。

その成果というものを、自分だったらこう出すからやりなさいというような成果ばかりを追わせれば周囲は正しい仕事ができなくなる。歪められてしまうと、その人らしくなくなり、成果のことよりも結果のことばかりが気になって動けなくなってしまう。

その人らしい形で成果を出したとき、その成果が本質的に理念と目的にあっていたならば良しとすることで本当の意味での良い仕事良い成果となると私は思う。

そのために、たくさんのコミュニケーションが必要になり、そのためにもチームで方針を確かめながら進めていく必要がある。

それぞれが実力主義でやるというのは、ただどんな卑怯なやり方でもどんな理念なき方法でも結果だけはやればいいというのは、どこぞの外国の傭兵ばかりを雇って戦争をし、人間の尊厳を愚弄するやり方と変わらない。時と次第によっては、永遠にお互いが不幸の連鎖の源にもなる。

また逆に与えられた成果のみで良いとすれば、誰しもその指示した人の求める成果しか評価されないのだからいつもその人の顔色を見て、その人の思い通りに動こうと自分をあわせようとする。それでは、いつまでもその人に依存していないと自分は存在価値がなく個性が失われ、しまいには何でもその人抜きでは本来あるべき仕事がまったくできないということにもなる。

巷ではこういう人たちがたくさんいてその指示をもらう技術のみを磨き職人芸を発揮して気にいられることばかりに躍起になっている人たちもたくさんいる。これも今まで学校で一人の先生だけを見て学んだ一斉画一の教育が生み出してしまう受身現象の一つだと私は思う。

本来、一緒に成果を出すためにどのように成果を出すのかを正しく長い時間をかけてオープンに相談して話し合い、自分のやりたいことを皆と共通理解し、またその最大の支援者である経営者へ話を通し「責任と権限」を取りに行き、安心して取り組むこと自体が正しい成果に結びついていくのだと私は思う。

ここでの正しい成果とは、様々な人たちの協働と結びの力により思いやり助け合い認め合うという人間が働くというプロセスがきちんと歩めていることを言うと思う。

そしてこれはそのプロセス自体が素晴らしいことであり、豊かなことであり、そこに平和や尊厳があり、尊敬しあう人たちの中でいつも幸せを実感しながらその形になった具現化されたモノやサービス、ホスピタリティによって証明されるもので協力してはじめて人間の創造性を発揮することができると思えるからだ。

成果の本質は、決して実力主義に偏るのではなく、マニュアル主義に偏るのではなく、個々と全体の自立と共生主義になってともに歩み、そして皆が見守ることを優先するのが本来あるべき社会の仕事であると私は思う。

ただ、孤軍奮闘してきた実力主義で生きた人にはとてもその時に埋められなかった様々な溝があり、そして受け身に教えて与えられた人たちにもその時に埋められなかった様々な溝がある。その解決はこの溝を埋めるのは、お互いが自立することではじめて成り立つのだからお互いに逃げずに、正対し、安心して仕事ができるように今の自分を捨て去る勇気がいる。

そして自立を決めればまずは自分の変化値が鍵を握る、つまりはどれくらい今までの自分を勇気を持って捨てられるかによるのだ。

これからも人生は長いのだから、より自分を大事にするためにも自分を活かせる理念に参画し、その大義を貫くことで本命を知り、そして世の中に貢献するためにも今までの自らの過去の自らで一度清算し、心新たにしてこれからの本当の自分を持ち続けてみんなと一緒に人生を創り上げていくパートナーや仲間を信じて素直に取り組んでいってほしいと願う。

人は一人では生きてはいけないのだから、もっと無理をしないで人を信頼して自分を大切にして生きてほしい。

捨てることはとても勇気がいるけれど、それ以上に手に入る愛がそこに必ずあるのだから人間を信じて思いやる心を優先してともに素晴らしい社会を築き子どもたちへ譲っていきたい。

時の香り

萩の松陰神社に行くと様々なことに出逢える。私は松陰先生を尊敬しているけれど、その弟子高杉晋作との邂逅は毎回感じるたびにとても深い学びを得られる。

自分の生まれてきた意味を素直に感じ尽くすとき、人は仁や義に出逢うのだと思う。そして、その仁義とは、如何に生き、如何に死を全うするかを天地人に問う普遍の道なのだとも私は思う。

生まれながらに自分のあるがままのその性を知ろうとし学問を深め生活をし、その自らに備わる徳を明らかにし、他人をゆるし思いやり、天地宇宙の万物造化の法則に沿って生きていると、次第にその心が清く澄みまるで幼児のような自然な心持になる。

しかし、その姿が姿かたちが大人なのにあまりにも童心そのままであると人はそれをとても恐れる、なぜなら社会の中では在る程度、大きくなるまでに擦れて形作られ、刷り込まれており大人びていないと人間社会の縦横集団の暗黙のルールの範疇では成り立たないとし、その日頃、無理をして覆い隠してきている自分の本心からの率直な感情がその人を自由にはさせない。

たとえば、現在では何かしらの障碍を持っているとレッテルを貼られてしまう人も、あまりにもその心が童心であるがゆえに大人に受け容れられず排除されようとされてしまうのもそういう理由があるのだとも私は思う。

大きいままであまりにも童心であると奇人や変人と言われる。

それを人間の社会で維持していくには、とても実力だけではなく学問もいるし、一般常識を弁えることなどもいるが、皆はそれをとても嫌がる。せっかく楽しく幸せに生きていることを手放すほどの勇気がいるし、我慢がいる。

子どもたちは、偏見もなく自然にそういうものを受容しているけれど周囲の大人はそれを酷く怖がる、自分が馴染んだこの社会の規律を乱すことは自分の信じてしまった個性を偽るものになるからだ。だからこそ、幼いときに社会に適応できるようにと仕込んでいく。

しかし、もしその童心を学問により修身し、自立するとその卓越した知識と実行力から理論を持ち行動や実践で社会に自由に自己表現できる人が現れる。

私の周囲にもそういう人たちがいるが、人はそういう人間を観ると心底感動するものだと思う。

こういう人を私は「偉人」と定義している。

思ったことを思ったように、素直な心を素直な言葉で、自分を偽らず誤魔化さず、他人を欺かず、真心と清く澄んだあるがままの眼差しで語りかけるとその人間に神を見出すことができるのもまた人間の妙なのだとも思う。

子どもの中には、とても不思議な真心がある。

自然に、自分の性を知り、その性をどう今の社会で活かそうかと素直に周囲を受け容れようとする。

それが自然=真心の社会であればあるほど、子どもは安心して自分の命の赴くままに自らで道を定めて歩もうとする。

童心とは、もっとも自分の命を立てるのに必要な要素だと私は信じている。

吉田松陰は確かにそういう人だったのではないかと、特に似ているところがあり私の中の心を奮わせられる芯の部分に確かにその真心は存在してる。ただただ、好奇心旺盛で、感激し、感動し、感謝する、そして時に義憤し、時に穏やかで、時に静かに、自分の命に必死になる。

子どものように毎日、無心で真剣に生きることはとても生きている実感が味わえる、それが幸せであるというふうに感じてしまう。

私が吉田松蔭先生とその弟子高杉晋作の交わした言葉で好きなことがある。

それは、以前、晋作が死生観について松蔭先生に尋ねたとき「人はいつ死ぬ時がもっとも良いのですか」と言うことに対しての答えを松蔭先生が獄中で死の直前に晋作に返信した答えが手紙に書かれたものだ。

『貴問に曰く、「丈夫死すべき所如何に」。僕去る冬已来、死の一字大に発明あり。李氏焚書の功多し。その説甚だ永く候へ共、約して云はば「死は好むべきに非ず、亦にく悪むべきに非ず、道尽き心安き、すなわち是死所」。「世に身は生きて、心は死す者有り、身は亡びて、魂は存する者有り、心死すれば生きるも益なきなり、魂存すれば損なきなり」。又一種大才略ある人、恥を忍びて事をなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むもさまた妨げず。死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措いて唯言うべきを言うなり。』

人は、もっとも死ぬ価値のあるときに死ぬのが良い、もし生きて何か大きなことができるのならば生きながらえることだ。ただ、私はそういうことは生死のことなどを考えないで命を尽くすのが良いというようなことだと思う。

義を立て一期一会で生き切ることに童心のあるがままの性も融和していくこと。

その松陰が共感して学んだ李氏焚書に「童心とは真心のこと。童子は人の初め、童心は心の初めである。長じて道理や見聞が心に入り、童心が失われる」とも書かれてある。

幼児期の子どもたちに与える様々な大人の刷り込みを取り除き、見守り、その子が幸せに自分の人生を歩めるようにより環境づくりのためにその命を尽くしていきたい。

社業を通じて、私が歩む道を弘げていけるように念じていきたい。しかしこの師弟から何を学ぶかと言えば、カグヤのトレードマークの竹を忘れず、常に硬すぎず柔らかすぎず、しなやかなで節のある穏やかな竹のような存在でありたい。

時を待ち、その時が来るまで、自らを修め、その根と節を持ち風に揺られながら仁義をいつも優先してこの道を深めていきたい。

愛の実践

人は生きていると様々な後悔をすることがある。

相手に対して申し訳ないと思う心がそうさせるのは、自分がその時に無理をしたり、お互いが納得していなかったり、勝手に決め付けたり、思いやりが欠けていたからということがある、そして自分の中にある相手への贖罪が一向に消えず常に亡霊のようにそれが心にとり憑き酷くもがき苦しむことがある。

自分と相手との距離を隔てて生きる人は、あまりにも自他の隔てがあるゆえにその距離が埋められず一人孤独に悩んでいることがある。これは以前、何かもっと赦してあげれたはずの相手、つまりは自分自身を許せなかったことに起因する。

しかし、もともとの本質は人間は同じもので人類は皆兄弟姉妹で家族なのだから本来はそこに分け隔てをつくるのではなく、皆で喜びも幸せも分かち合うために生きているのにそうさせないのは人々の中に自分を許せない、許さない心があるからだとも思う。

集団や社会を形成する上で、排除したり排斥したりするという思想は人々に恐怖と不安を押し付けてくる。その不安と恐怖は、本能的なものであり、遺伝子的なものでもあり、それを簡単に人間が自己処理することはできず、人はいつも分かってもらう人を血眼になって探している存在であり一人になっていない状況をなんとか創りだそうとして無理やり誤魔化し様々に繋がりを広げていこうと躍起になっている。さらに、ひきこもることでそこを断てば楽になれるということをしてまで必死に繋がろうとするほど一人になることを心底嫌がる。

しかし、あるがままの実践により心が澄んでくると独りを慎むことができるようになる。そうなると、独り慎みながら本当の深い愛の繋がりを感じることができるようになる。決して一人ではないのだとしそこに不安と恐怖はないと思えるのだろうとも思う。

それを「自立」するとも私は定義している。

そしてそういう独立自尊している状態になるには共感が必要で、その共感するとは自分と相手を同じものとして考えることだと私は思う。つまりは相手は自分であり、自分は相手であると思えるかどうかということ。

相手は別だというのは当たり前のことだけれど、そうではなくもともと相手も自分そのものだったかもしれないと自他を同一視できるかということ。

これは自論だけれど、人は、どこに生まれてくるかわからない。
私だって今は、ここにこの身体でこの精神、この周囲があるけれどそれはどうだったのか。

生まれてきた魂が、その身体に定着し、その人格をその様々な織り成しにより融和調合して誕生し、そのものの徳性をその都度構成すると仮定する。

すると、魂が入る身体と環境により人生が変わってしまうという理になる。

だとすると目の前の相手はひょっとすると自分であったかもしれないとなる。
あの嫌いな人も好きな人もみんな自分だったかもしれないと思える。

そう考えると自分自身が一体どういう徳性があるのかを見極めていくと当然周囲へ対してどれだけ自分の徳を実践し感化するのかがそのものの天命といことになるのではないかと私は思う。

人は、皆誰しも自分自身とする。

だからこそ、相手を恕す心を持って、自分を恕すことが愛の実践となる。

これは今の社会では非常に難しいけれど、子どもたちのために周囲の大人たちを恕せる不動の実践をしていきたい。結局は、子どもを良くしようとすると、周囲の大人が愛が枯渇したり飢えていたらもうそれはどうしようもない。

私が目指してるかんながらの道では避けては通れない場所がこの忠恕の道でもある、周囲の幸せのために大義を貫いて浄化していける自分でありたい。

私の尊敬し心酔する二宮尊徳のような、愛情至大のコンサルティング仕法を信じて、カグヤの社業を通して人々の心田を耕していきたい。

偏り

人は誰でも放っておくと、一人とかく偏っていく、つまりは独善的になる。

自分が良いか悪いかも、自分本位で物事を判断していると自分の見方次第でその評価はどうにでもなる。例えば、そこに正義を振りかざせば、そこに悪が生まれるし、正しいことを行うには思いやりがいるけれどその余裕は心が真に醸成されて中庸でいなければ至善であることは難しい。

まだ私もブレることが多く、中庸であることができないときのためにも身近に尊敬している顧問がいて、色々と公人としての自分がどうなのかを見極めていただき助言をもらうことにしている。

これは常日頃、ややもすると自分が偏った判断をしてしまわないかと心配でありその中でいつもその本質を捉えてくれるパートナーや師の存在があるから、皆にとって総合的に最適であり、優先順位がブレない判断を可能な限りできるような仕組みにしている。自分の影響力や感化することの大小をきちんと把握していけば肩書きに沿って自分を正していくことができるのではないかと私は思っているからだ。

その顧問と先日話しているとこんな話があった。

「私も今までたくさんの会社の顧問をしてきたけれど、オーナー経営者はとかく独善的になる。しかし、もちろんそれでもいいけれど、必ず次第に偏ってくる、だからこそ、自分を自分でいつも疑い、公人として公正な判断ができるようにしようと、いつも自分を正している経営者は、繊細さと大胆さをあわせもっていてやはりそこに直観が冴えるのであり、日々のそのために自律した姿勢がとても尊敬できる」と仰っていた。

私も仕事で園長のパートナーや顧問となって、平和で幸福な共生社会の理想の実現に向かって同じような見守りを行っている。

このカグヤのコンサルタント業の実践の一環で、社内でいつも論語を拝読することにしているのだけれど君子としてどうあるべきが常に本質で道理にかなっているかをその都度学びその味わい深さにとても感心している。

しかしコンサルタントが実践にて経営者を感化するには公正公平な公共な評価と言う本質のモノサシが理解できているということがとても大切なものだと私は思う。

もちろん、人間を人間が評価すること自体がどうかという中で、現実は評価をやらないといけない以上、数字だけでというわけではなく、全体のバランス、誰もが不平等や不公平を感じないということを尽くすには本当に哲学が要るし、自分が仲人として中庸で行えているかという自立にもよる。

よく会社では給与などを業績でみんなを一緒に上げるだの下げるなどをやるけれど、あれは決して平等ではない。本当の平等とは誰もが納得しているということになるのだから、誰が観てもこれは確かに公正だと感じるものでなければならない。それは個々が納得できないと当然難しい。

しかしその評価が偏るとそれはすぐに公正なものではなくなるから、相互に主軸になっているものがなければそこに道理が優先されない。何を優先するかが決まっているから理が適うということだ。

もしも大手企業のように、役割を業務評価という品質や相対評価、絶対評価などで細分化されると分かりやすく可視化されるけれど、それはあまり大きく変わらない微細なものになってしまう。人間が判断する要素を取り除き過ぎればそれはマニュアル的になり、当然大規模にやるならそれもいいけれど、もし私たちの会社のようにこだわりを持って自分にしかできないことをその組織でやろうとするとそうはいかない。

そういうところは常に理念を主軸にしているし当然役割や責任分担もダイナミックにチームで変化し融合し進化し続けるのだから、当然評価の仕方も、大きく異なってくる、そうすると例えばチームで進めるうえでどれだけ如何に個々が信頼できる人格を持って自立できているか、その他、理念に対してどれだけ緊張感を持ち努力できたかなど自立度を総合的に見極める必要がある。

当然、組織や集団はそこに集まる目的や目標があり、それに向かって皆で取り組むことが大前提になる。そういう一人以上の仕事は、決してプライベートではないからこそ公私ともに自分は公共のものになるといことになる。

そう思うと新入社員教育で何より大事なのは、自分の影響力を自覚することからはじめるといいと私は思っている。なぜならそこに、もし自分勝手な決め付けた正しいを持ち込むと誤った行動、つまりは自分勝手になってしまうからだ。

偏るというのは、自分が公共の中にいることを忘れるところから始まる。これは経営者であろうが、一般の社員であろうが、自分の影響力が分からないほど自分のことばかりで一杯に仕事を満たすことでそうなってしまう。

忙しいからと本質を見失えばその先にあるのは、孤独と孤立という他に迷惑を懸けることを優先する生き方になってしまう。それではみんなと力をあわせて人との幸せを感じながら大きなことを実現することはできない。

だからこそ、私たちカグヤのコンサルタントは子どもたちの未来を預かっているのだから子どもたちの声をちゃんと聴き届けられるよう中庸にて偏らないことを理念で取り組み、常に刷り込まれず、本質と道理にこだわって自律した存在でありたいと思う。

子どもたちの未来のためにも、何よりも私たちが守りたいものを優先するために自分の影響力を正し、常に本質からブレない実践に立ち返り不動の精神で見守りと保育の道を確かめて導ける存在になろうと思う。

理念に立ち返ること

先日、保育現場で理念研修を行った。

何か大きなことをしようとすると当然一人で行うことはできない、それに保育という社会を創り人を育てる仕事はほとんど公共である仕事でそこに私見やエゴを入れてはいけないと私は思っている。

私たちのコンサルタントも、子どもの未来に責任を取ろうとする以上、公のものだし自分の感情やエゴなどを入れては末が乱れることになり理念に基づき、自ら律して模範や規範を示していかなければこの仕事はできない。

さらに、人に影響を与えるくらいで良いのならスーパー営業マンにでもなればなんとでもできそうだけれど、人を感化するくらいになろうとするならやはりコンサルタントにならなければそれはできるはずもない。

以前、私も営業のときに様々な研修を行ったけれど今はまったくその疲労感も達成感も異なる。量はさほど変わっていないけれど、質や密度、また其処までに律している日々の生活そのもの習慣などを含めるとまるで変わってしまうほどに内省をして心と体と技術を磨き、思いやりを尽くす実践を行うようになっている。

感化するという言葉で私が尊敬している安岡正篤氏の言葉がある。

「枝葉末節(しようまっせつ)のものほど、
 非常に移り変わりが激しいから
 影響力が大きくみえるが、
 それはまことに影であり響であって空しいものだ。
 直(す)ぐに消えてしまう。

 本質的なるものの影響は影響ではなくって、
 それはもう骨髄に入る。
 ものになる。身になる。身に附く。

 これは影響ではなくって感化と言う。」

感化するには、日々の実践だけが助けになるのだと改めて思う。

さて、研修に戻すと理念研修の中で、よく話すのが初心や初志の話になる。

つい仕事に振り返りをしなくなり、忙しくなると人はその仕事の本質を忘れて動作的になってしまう、特になぜ働くのか、この仕事が将来の一体何なのかなど見通しも立たず、問題がないようにと事無かれ主義や安全主義がもっとも優先され、人を思いやるよりも自分が助かることばかりを考えるようになる。

そうなると周囲とも協調できず、次第に孤立し、孤独になり、追い込まれていく、追い込まれると一番困るのが、子どもたちの未来に多大な影響を与えてしまうということだ。

余裕がなかったでは済まされないのが人を育てると言う仕事、如何に急がしかろうが心を籠めなければ必ずその傷は後に歪んだ因果を連れてくる。清算するには本当に長い時間がかかるし、無意識の問題を発掘するのに苦労したりもする。

常に仕事は初心を持っていなければいけない、これはなぜ働こうとしているのか?この組織で一体自分がどうしたいのか?自分が就職するときに決意した人生の覚悟は何だったのか?などその皆が共有する創始理念に立ち返り振り返ることではじめて余裕ができる。

余裕は、時間的に暇になるから持てるのではなく、そもそも自分の人生をどうするのか、そのために何をするのかなどを考えて心に留めていくからこそいつでも余裕を持つことができる。

余裕とは、袋を一杯にしないもう一つの袋を持つことであると私は思う。それは、一杯にならない袋ともいう、そもそも空気が入っているということだ。そうやって全体で包むようになれるには心胆を磨き、いつでも余裕とゆとりと言う心の静寂を維持しておかないといけない。

子どもの声を聞き届けるには、それくらいの実践があってはじめて穏やかに接することができるのだと私は思う。

最後に、研修ではチームワークのことがメインになった。みんなで如何にオープンに本音で気兼ねなく遠慮なく話ができるようになるか、そのためには他を思いやることを優先し、皆に情報を自らから開示し、誰でも知っている状態にすることだと話をした。

誰かだけ知っているでは、皆でせーのというように力を一斉に組み合わせることはできない、皆が一人のために知っていてはじめて一人が皆ことを知っているということになる。

最初から大きなことをやることが前提で集まっているのは理念で理解できるのだからこそ、自分の私情などを挟まず、当然、皆が守っている決まりやルールは守り、互いを尊重し、自らも組織の中の人たちと同じように大切な価値の優先順位は尊守していくことが協力をする実践となる。

知らなかったとなるのは、今まで協力してこなかったからかもしれないけれど子どもたちの未来を支えるのは大人たちの力をあわせて真心を籠めて関わることで成り立てていきたい。

カグヤは、コンサルタントとして恥じない実践を示していきたい。

デリカシー

社会の中でよく使われる言葉にデリカシーがある。

このデリカシーは、英語になるけれど大辞林には(感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ)のことだと書かれている。つまりは、よく気づく繊細な感性があるということ、よく気づくということでもある。

また逆にデリカシーがないとはどういうことか、それは安岡正篤氏に下記がある。

「粗忽(そこつ)・がさつは最も人格の低劣を表す。高邁(こうまい)な人格はいかに剛健・活発にみえても、その人のどこかに必ずしっとりした落着きや静けさを湛(たた)えているものだ。」

高邁な人とは、志が高く抜きんでている人を言う。つまりはデリカシーがない人は志が低く大衆的だということ。

つまり個性として、気遣いが鈍く大雑把で配慮がないことも状況次第ではそれはとても豊かな独自性と大らかな性格として活躍する場もある。しかし、これは個性であって、志がある集団の中では個性ではなくデリカシーがないと言う。

理念や理想を掲げれば当然、志が立つ必要がある。
つまり立志である。

その立志した人たちへ対する配慮こそデリカシーであり、その志を皆で達成するために高邁な理想を持っている仲間として接することも一つのデリカシーだと私は思う。

しかし、なぜそういうものに気づかずに次第にデリカシーがなくなるのかをのはなぜだろうかと色々と分析してみると共通しているものがある。

そうなっている人は、誰にも迷惑をかけずに自分が一人だけで生きていると思っている場合が多く、周囲への思いやりは別に必要がないと感じやすい孤独の人であることが多く、もし自分が生きている中で本当に色々な助けや援けを得てはじめて生きられていると深く感じていればいつも感謝を維持し続けているためその行動が責任的になるようになりデリカシーを持てるようになる。

デリカシーがないには、基本的には軽い言葉や軽い行動を取っているということも責任と直結している理由だと私は思う。

これは例えば、真摯に本気で生きている人はいつも本質的で真剣に物事や人との関わりを真面目に正対している。そういう人たちの繊細で微細な命の感性に配慮し、そういう生き方もあるのだと受け容れれば自然に周囲を尊重するようになる。

真剣に生きている人は、もっと深いところに面白さと心地よさを感じていてそこには色々なものを味わう心の感受性をオープンにする。そうやって目に観えない世界を観えるコツがある人には、あまりそういう表面上の刹那的な面白さは眼中にはない。

味わい深い人生は、味わい深い喜びを引き出していくからだ。

特に人は本当に好きなことをして自分に正直に生きていると無駄がなくなってくる。
つまりは、合理的になり和の持つシンプルな姿になる。

一つのことで全体を観、全体を一つのもので観るような感覚。
一円融合される状態になっているということだ。

まとめるとデリカシーとは、志を高く持ち大衆に流されず、自分だけの一つの価値観で勝手に決め付けたり、変に偏ったりせず、バランスを持って自分が周囲への思いやりにより自然に調和できるよう配慮を行うことではないかと私は思う。つまりはいつも中庸であるということ。

御縁で生きる私たちは、お客様とも子どもたちとも偏らずにデリカシーを持って日々新たに感動し続けていることが出会いを一期一会にしていくものだと私は思うし、感化の喜びも仕事の遣り甲斐も未来を信じる力もそこに生まれる。

私自身、子どもたちの手本になるようにそういう配慮を気をつけるような調和の存在でありたいといつも願う。色々な人たちがデリカシーのあるないの中で、傷つきあい癒されあう人間関係の中でも一円融合し、静かに微細が分かる動じない心を持ち、穏やかで落ち着いた人格を持てる中庸の実践に努めたい。

私たちはコンサルティング企業、常に真剣な人たちを相手にする以上、軽い言動や行動は特に戒めて相手への最大の敬意と尊敬を持ち仕事を正しく進めていこうと思う。

共通理解

先日、保育現場にて保育と共通理解についての話を行った。

何か人は自分だけではできないような偉大なことを行う際や、科学では実現できないような人間の叡智が必要なことを遣る場合は、必ずチームや集団で実施していくことが必要になる。

そこには必ず方向性とビジョンが在る。

その際、バラバラでは何もできないのはすぐに分かる、大事なのは皆が一つになることだ。

しかし集団になることを忘れた人たちは理解をともにするよりも、まず自分だけで何でも進めようと躍起になる。そうなると次第にバラバラになってしまう。

理解がそれぞれでバラバラだと同じように一つのことに一つの心で考えることができないし、皆がどのようにしていきたいのかを感じることができず皆で力をあわせることもできなくなる。

常に何かを取り組む際に重要なのは、 自分が理解するより、自分だけがわかるよりも、みんなでわかるようにつとめていくことが大事だということになる。

理念も体験もみんなで一緒になって「こういうことじゃないかな」と侃々顎々と遠慮なく議論し、「私はこう思うけれど、あなたはどう思うか」などと気づき合う方を優先して理解を深めていくことがなければ分かり合うことがない。

受け身で動くならそういうことはいらないけれど、自分で考えて行動し、主体的に判断するならまず共通理解がなければできるはずもない。

保育もそうだけれど、子どもたちの発達を皆で共通理解しあうことで先生間での共通認識もできてその子を見守れるようになり自立するし、さらに子どもたちで自由に闊達に議論させて話させみんなでやると社会の中での共生を学び、人生がより楽しくなるし、命の尊さ、繋がり合う世界の有難さも知ることができ、それぞれが個性を存分に発揮して自然に動けることになるようにも思う。

人は、みんなそれぞれに何かしらの世の中に役に立つ豊かな才能を持っている。
それが偏っている人もいれば、それが平均的に優れている人もいる。

そういう人たちが一つになり力を合わせていけば、必ず大きな事は成る。

それを正しく導くのがリーダーの役割だし、理念を明確にするとは皆が自発的に自由に動けるようにして、それぞれの持っている力を存分に引き出し発揮してもらうためにもまずその環境を用意する方法のひとつとなる。

人は、その理念が感化するというのは、その人がイメージするものを皆によく説得し、共感してもらい、現場で皆で動くために共通する理解が持てれば、自然に力と心を合わせることができ協力して皆で幸せに事を進めていくことができると私は思う。

しかし今は、それを一人の責任で遣ろうとする人がとても多い、これは過去の間違った歪んだ個別教育や、少子化の影響があるのかもしれない。例えば、仕事でもそうだけれど自分が困っているからと他の他人の面倒は自分がまずできてからやろうとする。

簡単に考えれば同じ集団の中でその人が困っていると言うことは、必ずその組織や集団全体が同じように困っているということになる。

つまりは、自分が困っているのはみんな困っているということだし、みんなが困っていなければ自分も困るはずはない、だからこそ集団や組織のために自分も困っているけれどあえて勇気をもって他を思いやり自らが自発的に進んで協力する心構えがチームワークの基本として必要になる。

所謂、じり貧になっていつも孤立化して追い込まれる人はあまりにも自分のことばかりを優先し、周りがみえていないからということになる。自分のことで必死になるというのは、どんどん仕事をひきこもりかし、タコつぼ化し、迷惑をかけていることに気づかなくなり、悲惨な末路を呼び込もうとする。

どんなに定期的にそれを外的人為的に取り除いても、そういう人はまた次第に自分からひきこもっていく。周囲に素直に心を開いて、できないと言うことや、分からないということは恥ずかしいことではない。さらに、自分が困っているなら相手を助けたいと思うくらい共感できる力があるのにやらないのは何か責任という言葉を履き違えて刷り込まれているからなのかもしれない。

人は、自分だけができれば誰かの役に立つわけではない。みんなが不十分で不完全な存在だからこそ助け合いの意味が生まれ、助け合いの価値がある。

完全な人間であれば集団もいらないし、人と生きていく必要もない。
しかしそれは生きていく限り不可能なこと。

話を戻せば、リーダーや組織の長もなんとかしようと皆必死になっている、だからといって自分だけが一人で何もかもをやらないといけないというのはおかしいことで、皆が困っているからこそ協力し先に手助けし一緒にやりませんかと声をかけあうのが人としての道であるし、それこそが社会を形成する意味なのだと私は思う。

そしてその社会を形成するためにはそれぞれに役割が要る。役割がなければ一緒にやっていくこともない、そしてその役割は一人で決めることでは決してない。みんなで共通に大きな目標を達成するためにそれぞれの課題を共に通じあうことが必要で、それを理解していくから自然と分かれるのが本来の「役割」と私は思う。

保育者であれば担任としてだけではない、その園にいる集団が目指している理念を皆で感じ合い語り合い、学び合いともに理解することで先生としての本来の役割が生まれる。

みんなで共通理解を取ることは、みんなで仕事をすると腹を決めること。

一人身勝手に孤立化せずに、皆に心を開き手伝ってあげること、助けてあげること、自分のことばかりを優先せず、常に周囲に気を配り、皆が良くなるように自分を使って全力でフォローしていくこと、そこに人と生きるという幸せと自立がある。

これから理念を通じて、人が共生するということを表現して子どもたちの社会を見守れるような仕組みを広げていきたい。そういう助け合い、思いやり、自立した幸せの和の意味を実践を通じて伝えていきたい。