デリカシー

社会の中でよく使われる言葉にデリカシーがある。

このデリカシーは、英語になるけれど大辞林には(感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ)のことだと書かれている。つまりは、よく気づく繊細な感性があるということ、よく気づくということでもある。

また逆にデリカシーがないとはどういうことか、それは安岡正篤氏に下記がある。

「粗忽(そこつ)・がさつは最も人格の低劣を表す。高邁(こうまい)な人格はいかに剛健・活発にみえても、その人のどこかに必ずしっとりした落着きや静けさを湛(たた)えているものだ。」

高邁な人とは、志が高く抜きんでている人を言う。つまりはデリカシーがない人は志が低く大衆的だということ。

つまり個性として、気遣いが鈍く大雑把で配慮がないことも状況次第ではそれはとても豊かな独自性と大らかな性格として活躍する場もある。しかし、これは個性であって、志がある集団の中では個性ではなくデリカシーがないと言う。

理念や理想を掲げれば当然、志が立つ必要がある。
つまり立志である。

その立志した人たちへ対する配慮こそデリカシーであり、その志を皆で達成するために高邁な理想を持っている仲間として接することも一つのデリカシーだと私は思う。

しかし、なぜそういうものに気づかずに次第にデリカシーがなくなるのかをのはなぜだろうかと色々と分析してみると共通しているものがある。

そうなっている人は、誰にも迷惑をかけずに自分が一人だけで生きていると思っている場合が多く、周囲への思いやりは別に必要がないと感じやすい孤独の人であることが多く、もし自分が生きている中で本当に色々な助けや援けを得てはじめて生きられていると深く感じていればいつも感謝を維持し続けているためその行動が責任的になるようになりデリカシーを持てるようになる。

デリカシーがないには、基本的には軽い言葉や軽い行動を取っているということも責任と直結している理由だと私は思う。

これは例えば、真摯に本気で生きている人はいつも本質的で真剣に物事や人との関わりを真面目に正対している。そういう人たちの繊細で微細な命の感性に配慮し、そういう生き方もあるのだと受け容れれば自然に周囲を尊重するようになる。

真剣に生きている人は、もっと深いところに面白さと心地よさを感じていてそこには色々なものを味わう心の感受性をオープンにする。そうやって目に観えない世界を観えるコツがある人には、あまりそういう表面上の刹那的な面白さは眼中にはない。

味わい深い人生は、味わい深い喜びを引き出していくからだ。

特に人は本当に好きなことをして自分に正直に生きていると無駄がなくなってくる。
つまりは、合理的になり和の持つシンプルな姿になる。

一つのことで全体を観、全体を一つのもので観るような感覚。
一円融合される状態になっているということだ。

まとめるとデリカシーとは、志を高く持ち大衆に流されず、自分だけの一つの価値観で勝手に決め付けたり、変に偏ったりせず、バランスを持って自分が周囲への思いやりにより自然に調和できるよう配慮を行うことではないかと私は思う。つまりはいつも中庸であるということ。

御縁で生きる私たちは、お客様とも子どもたちとも偏らずにデリカシーを持って日々新たに感動し続けていることが出会いを一期一会にしていくものだと私は思うし、感化の喜びも仕事の遣り甲斐も未来を信じる力もそこに生まれる。

私自身、子どもたちの手本になるようにそういう配慮を気をつけるような調和の存在でありたいといつも願う。色々な人たちがデリカシーのあるないの中で、傷つきあい癒されあう人間関係の中でも一円融合し、静かに微細が分かる動じない心を持ち、穏やかで落ち着いた人格を持てる中庸の実践に努めたい。

私たちはコンサルティング企業、常に真剣な人たちを相手にする以上、軽い言動や行動は特に戒めて相手への最大の敬意と尊敬を持ち仕事を正しく進めていこうと思う。